2023年4月14日、TKY~初の山梨進出の中盤で訪ねた物件をご紹介。お昼を回り、ようやく山梨県に入っての一発目物件だった。
個人的にファーストコンタクトがけっこう印象的で、
この幅の広~い高さ制限バーの奥に…
ギュッとすぼまっての隧道登場!
隧道は面白くなさそうだが、手前にはこうして「たぶんアレですよね」な石碑も。イイ感じ。現在地こちら。
石碑は二枚あって、
背の高い右側のものはやはり「隧道紀念碑」だった。
こういうのが好きな向きのため、
以下も含め石碑関係は画像データサイズ大きめで貼ったので、各自お読みいただきたい。
特筆すべきはこの隧道、明治三十四年三月から四十三年十月まで、時の秋山村長・原田善左衛門氏主導のもと、9年半かけて開鑿された明治隧道だったということ。山梨の隧道についての知識がからっきしなのでアレだが、県内屈指の古洞ってことになるのでは。
左側の石碑は、
後年に設置されたとおぼしき、隧道紀念碑碑文の釈文だった。
なので、こちらを読めば碑文内容がわかりやすく書かれているっていう親切設計。こういうの珍しいような。
裏面にはこの石碑の趣意書きが。
現地ではめっちゃこちらサイド暗かったので、見にくくなってる。
要するに、改めてこの隧道開鑿を主導実行した原田善左衛門翁の「ともすれば埋れようとする」偉業を思い起こすため、「もとの漢文を読み易い文章に改めて」、翁の精神が永く後代の人たちに伝わることを祈念して昭和60年10月に設置されたものだということだ。
発起者としてこの当時の秋山村長であった原田清守氏の名が刻まれており、その姓から善左衛門翁の後胤に当たる人物なのかもしれない。
ちなみに秋山村は、2005年2月に上野原町と合併して上野原市となり、発展的消滅したということだ。
さて、で隧道だ。
明治隧道とは思えないビジュアルに、がっつり改修されてしまってるな~。
相変わらずレンズが汚いのはご容赦いただいたとしても、まあ現状についてはお世辞にも面白い隧道とは言えない。
目立たない扁額。
「天神隧道」。
現代でこそ、そこまで険しいところにも見えないが、
隧道が開鑿される前は「阪路険峻にして行歩甚だ艱なり」な難所だったと。
日本中いたるところでこうした新道開鑿/道路改修が行われてきたのだ、というよく知ってるつもりの事実を、改めて感じだ。
では、抜けて南側へ。
洞内は素掘りのモルタル吹き付け。オリジナルの姿が気になるな~。
抜けて正対。
こちらも塩対応なご面相…。
扁額は、
一般的な左書き。さっきは右書きだったけどな。字体も古かったし。
こっちでも印象に残ったのは、
二連の片持ち高さ制限バー。こういうの珍しい。
なんとも行儀の悪いとこに停車しててお恥ずかしいが、実はこの天神隧道、すでに新トンネルが開通していて旧道化している。そのため交通量は少なく、この日も誰も通りかからなかった。
後年設置された石碑の趣意もむなしく、またしても忘却されようとしているように思われる先人の偉業。こうしたことも我々のような趣味人が微力ながらも記録して行けたらな~と感じた。
以上。