2023年7月30日、大分出張中の休みに敢行した「駅から探索」でのナンバーワン物件を、二回に分けてご紹介。折から体調が悪かったのが回復して探索に踏み切ったものの、結果的にこの探索のせいでまた悪化したっけ。
大分から久大本線で30分少々の天神山駅で下車、橋を一つ訪ねたあと、次なるターゲットが今回ご紹介する隧道だった。
ダイジェストでも書いたが、この日は曇り予報だったはずなのに、フタを開ければカンカン照り。直射日光にヤラれながら見えてきたのが、
まだきれいな近代トンネル。その手前の旧道に分け入る。現在地はこちら。
旧道っぽく見えないほどにオーラがない。現道ができたときに擦り付けのために削られたものと思われる急坂とコンクリ擁壁のせいだ。
その急坂をすぎれば、
「安心してください、旧道ですよ!」感。
ほどなくして、
あー、あった~。
カンカン照りが作り出す濃い影の中にわだかまる、
雰囲気ある旧隧道。いいね。「全面通行止」の立て看板と共に簡易封鎖されている。
いいねといいながら、実は現場では「やっと日差しをかわせる~」という安堵感が大きく、喜び勇んで隧道前へ…接近しながらもすぐにそれを肉眼で捉えた。
うおおお、
なんぞこれ!?
坑口手前の岩盤がくり抜かれ、
その中に石碑が収められている。その足元にはお地蔵様も。これは隧道記念碑か?
隧道記念碑自体は珍しいものではないが、概して隧道から数十m程度離れたところに建立されていることが多い。こんな坑口脇に、しかも岩盤をくり抜いて設置されているなんて、わたくしの経験値ではたぶん初めて?
残念ながら、写真は鮮明ではない。
現場では最上段の「隧道発起人」が読み取れたので、隧道記念碑ではなく発起人の顕彰碑なのかと理解した。左側の「昭和十一年三月」が竣功のタイミングか?
記事を書くにあたり、最下部の碑文を拡大してよくよく見てみた結果、おおむね内容が判明した。まずは拡大写真。
わかりやすい位置で改行して書き下すとこのような内容である。
本道路ハ匡救(きょうきゅう)事業第二期線ニシテ
切取工事ノ豫(予)定急●ナル爲(為)メ
甲斐金吾氏ハ多額ノ私財ヲ提供シテ隧道ニ●●シ
昭和十年三月着工十一年三月竣工セリ
茲(ここ)ニ刻シテ後世ニ傳(伝)フ
なるほどなるほど。前半はいまいち背景がわからないが、ニュアンスはわかる。これにより、非常に達筆で判読しがたかったメインの碑文が判明した。ほぼ間違いなく「甲斐金吾之碑」だろう。右側に書かれている文は「工費内金●●●●●提供」と読めることから、具体的に甲斐金吾という人物が投じた私財の金額が刻まれているものと思われる。
「匡救(≒救済)事業」とあるのが気になる。時期的に昭和恐慌への対策事業だろうか。
あちこちの隧道(たまに橋でも)でこうした「地元の篤志家」への感謝を刻んだ碑文を見てきたが、ここの隧道もまたそうした中のひとつだったわけだ。
それぞれの
「物語」があったんだろうなあ…。
さて、隧道内部。
昭和11年という完成年にもかかわらず、ガチ素掘り。普通車同士ならなんとか離合できるだけの幅員が確保された、立派な隧道だ。そしてけっこう長い。
坑口入ってすぐのところに朽ち果てた照明。
二枚上の写真でもわかるとおり、現在も洞内側壁には電線が這わされている。
簡易な封鎖だったので、乗り越えることは可能だった(立入禁止とも書かれてなかった)けど、仕事用スラックスとシャツだったので、それはやめた。
とにかくこの場所、隧道を吹き抜ける風が気持ち良すぎて、
こういう局面では初めての自撮り~。しばしクールダウンした。
今思えば、暑さ対策的にも歩いて抜けても良かったな…。
ここにデッキチェアでもあれば、
爆睡できた自信ある(笑)。
まあそんなんあるわけもなく、
再始動。反対側に回りますか~。
最後に一枚。
この画角に萌えたのよね~。
戻り際、
先ほどは気づかなかったもの発見。
小屋の脇の看板がそれなんだが。
「ライトの消し忘れに注意」。これも旧隧道の忘れ形見と言える。
さて、反対側はどんなんかな~?
【後篇】に続く。