2021年9月26日、初めての長州遠征2日目。この日のネタで記事にしているのは、午後の徳佐川橋梁。本日ご紹介するのは、朝のうちに訪ねた逸品。
今回変則的に、まずはこれ。
「おおたな」と書かれた、駅名標…を模した看板。
さよう、今から訪問するブツは、鉄道廃線物件。かつて宇部と吉部を結んでいた船木鉄道の、現存する(たぶん)最大の遺構である。
ちなみに、これが立っている場所が正確に大棚駅跡なのかは不明。
上の写真撮影位置から、そのまま左へ90度。
これがまさに廃線跡そのもの。
なんとなく線路のイメージっぽく、二列に埋め込まれているのは…枕木?きれいに刈り払われていて、しっかりと管理されていることがうかがえる。
歩くことわずか2分弱、
現れたのは、石造ポータルと煉瓦アーチの隧道!
船木鉄道のほぼ末端に当たるこの区間が開業したのは、1926(大正15)年。時代的にはコンクリートの時代に入っているはずだが、なぜ煉瓦隧道を造ったのか気になる。煉瓦のほうが、コスト的に有利だったのか?でもここ、切り通しでも対応可能に見えるレベルなんだが…。
ほぼ無装飾の、シンプルなポータルには、
ほぼ綻びが見られない。
ポータルと側壁をなす布積み切石も、
極めて精緻。堅牢そのものって感じだ。
が、一点気になるところを見つけてしまった。
見上げれば、アーチを一周する煉瓦の隙間が生じている。
ピラスターを持たないポータル、徐々に変状が進んでいるのかも?ちょっと心配ですな。
固く締まった洞床には
もちろんバラストも枕木も残ってはいない。これだけ見ると、鉄道がここを走っていたとはちょっと想像しにくいような現状だ。
アーチ部は、
このとおりきれい。
船木鉄道には蒸気機関所は入線していなかったようなので、このきれいさは納得。
抜けて、
終点・吉部側より正対。
陽当たりの関係か、こっちのほうが植生がワッサー!となっているが、仕様は同じ。そして綻びのなさも同様。
1944(昭和19)年3月、(この隧道を含む)万倉~吉部間8.0kmは戦時下での不要不急路線と判断され、レール(鉄)供出のため廃されてしまった。
わずか18年弱しか使われなかった、
悲運の隧道…。
堪能したので、戻るとする。
あえて地図は載っけなかったが
遠くの青看を見ていただいて(笑)。
あの青看付近に
こんなのが立ってる。これがヒント。
つうか、ネットで調べればアプローチは簡単に知ることができるんだが、まあなんとなく…(笑)。
以上。