【2】より続く。
この旧道のクライマックス、それを早速お見せしよう。
路盤にのしかかる絶壁。その名も「法善壁」。
「近世以前の土木・産業遺産」によると、美濃街道(に「3本あるうちの1つ」)の片洞門で、その建造は「江戸期」となっている(近代の可能性もある、との注釈もついているが)。わかりやすい片洞門ではないけど。
荒々しい、という表現では控えめすぎる、
圧倒的威圧感で聳え立つ岩壁。
見たところ、落石防止的な措置は全く取られていないように見えた。ここが旧道落ちした理由は、おそらくこの法善壁の危険性と無関係ではないだろう。この立地では隧道の拡幅もままならないだろうし…。
険悪すぎる岩の壁とは裏腹に、
コンクリ護岸の苔はこんなにも美しく。
ここを、
国鉄バスが走っていたのだそうだ。
法善壁を調べていてこのPDFリンク(「大野市報」昭和31年11月1日発行 第29号)を見つけた。これの4面に「郷土いろはかるた」というコーナーがあり、この号は「ぬ」で、そこには素朴なタッチで描かれた、法善壁とボンネットバスの挿絵(まさに二枚上の写真と同アングル)と、「ぬけるトンネル 法善壁」というかるた文が載っている。「ぬ」ってけっこう限られてるから、苦し紛れ感はあるけど(笑)。
そして、添えられた文章があまりによく往時の姿を表しているように思ったので、ここに引用掲載する。
“京福大野駅から約二十キロ、国鉄バスで九頭竜川に沿つて上がると「法善壁」がある。岩壁が頭上にせまり、九頭竜の流れが足下を洗う。湯上トンネルを通りぬけると、左方から、霧降の滝が夏なお涼しい滝しぶきをあびせかける。”
どうだろう、まるで映像として目に浮かぶようだ。そしてあの「ウォーターシェッド」上から落ちているのは、「霧降の滝」というれっきとした滝だったんですな。
そしてこれもネット上で見つけたのだが、「九頭竜川 法善壁附近ノ佳景」という古い絵葉書。
ここには載せられないのが残念過ぎるが、これを見るとなんと湯上トンネルのこっち側、
なんと石造ポータルだった。この現状とはどうにも符合しないが、まぎれもない事実だ。
湯上隧道の建造年や諸元は全然判明してないのだが、石ポータルということは…大正以前の古洞である可能性が高い。コンクリポータルは後年の改修によるものなのか?
いや~しかし、
すんごい圧迫感だ。
レンズにデカい水滴がついてしまった。というのも、この法善壁の下は壁面から滴る雫が降り注いでいて、まるでここだけ雨が降ってるかのような。
見上げてみれば、
このオーバーハング!
片洞門といわれてもわかりにくかったが、確かに片洞門だ、これ。エグイわ~。
法善壁と、湯上隧道。
こうしてみると、巨大な岩盤をガッツリと削って道をつけたのがわかる。本当に江戸期のものなら(いや、そうでなくても)凄いな、この土工は。
感嘆しながらバシバシ写真を撮ってたら、
誰か来たし。
山神隊長が「クイックさんの知り合い?」とか聞いてきたけど、それほど目がよくないんでよくわからない。けど、いやいやまさか。
だって集合場所も時間も、ましてや行き先もブログには書かなかったし、誰も知り合いが来るわけもない。と思ってたのだが…
知り合いだった(爆)。
その名は福井県在住のペッカーさん。聞けば、ケンミンならではの嗅覚と拙ブログでのわずかな情報から、場所と時間をピンポイントに割り出されたのだった。あんた敏腕刑事か(爆)。
って、ここらは当時のダイジェストにも書いたものの丸写しだが、今思い出しても愉快な気分(笑)。しばし自己紹介&談笑タイムとなった。
では、続きを。
やはりちゃんと紹介しておきたい、
このウォーターシェッド(クイック命名)。霧降の滝を流しているシェッドである。
こんな場所にひっそりと
正体不明の石碑が。
「●●上人●●」と刻まれているように見えたので、道路関係のものではないような気がするが、来歴はなんだろう。
そしてこれが現代の
「霧降の滝」の姿。
この先の発電所は、
ちょこっとお邪魔した。
この間を抜けて、
発電所の表側まで行ったが、写真はまあ控えとこうかな。
さて、【4】は…戻るだけでヤンス(笑)。