廃村・狂小屋とその奥探索記【10】(岐阜県揖斐郡揖斐川町櫨原) | 穴と橋とあれやらこれやら

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初めまして。ヤフーブログ出身、隧道や橋といった土木構造物などを訪ねた記録を、時系列無視で記事にしています。古い情報にご注意を。その他、雑多なネタを展開中。

【9】より続く。

 

 

 

 

カラカン谷の対岸(右岸側)平場に向かって渡渉しながらの、

上流側。実に気持ちのいい景だ。

 

 

 

 

 

 

 

そしてこちら、下流側。

というよりは、もうすぐそこで扇谷に流入している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

左手に見えるのは、

橋を渡って作六ツシへと向かう道。

 

カラカン谷の護岸石積みが、そのまま道の土留めにもなっているのがわかる。

 

 

 

 

 

 

 

前回に、古地図では狂小屋の橋の位置が違うと書いたのだが、

先の写真の様子を見ると、道の整備と河川改修を同時に行った結果、道や橋の位置、川の流入地点などが現在のような形になったのだと思われる。

 

…けっこう、大がかりなことだぞこれ。

 

 

 

 

 

 

 

あとは、対岸で見たものを羅列。

 

 

 

 

 

 

 

こちらには、小屋の基礎とおぼしき遺構や、その間の道跡らしき掘割状平場など、より生活感が感じ取れた。この現地の状況を見るに、さっきまでいた南側じゃなく、ここカラカン谷・扇谷出合の北東の緩斜面、こっちこそが狂小屋のメインパートなのじゃないだろうか。

 


 

 

 

 

そうそう、誰もが気になるであろう、キチガイゴヤというその名の由来について。

 

なんかいろいろと調べすぎて、結局どこで見た情報だったかわからなくなってしまったのだが、

「かつて土地の調査の役人がこの地を訪れた際に、気の触れた女性が小屋にいるのを見つけた(閉じ込められてた?住んでた?この辺のニュアンスが不明)ことで、メモ書き程度に「狂小屋」と書き込んでおいたところ、それが地図に載ってしまった」と、ざっくり言えばそんなことだった。

 

役人とは、参謀本部陸地測量部とかの時代なんだろうか。とりあえず、これが真実なのかは不明だが、そうだとしたらやはりなかなかの話。櫨原あたりの狂女が、隔離されるような形でここに住まわされていたのだろうか?あるいは姥捨て的な?

 

いろんな意味で、現代では考えられない逸話だ。

 

 

 

 

 

 

 

揖斐川源流域の山奥とは思えない、恵まれた土地と水。

そのなんともおどろおどろしい響きとは裏腹に、狂小屋は別天地のように穏やかな土地だった。規模から考えても、ここがかつて実際に集落として機能していた時代があったと言われたとしても、驚かない。

 

 

あまりの心地良さに、この平場で大休止しようかとも思ったが、踏みとどまった。わたくしここが最終目的地ではない。大休止は目的をすべて遂げてからとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なにしろ、今回は「キビキビと」がテーマであるので、

そろそろ、あちらへ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【11】に続く。