【前篇】より続く。
吊り橋を渡った先には、
高く積まれた、立派な石垣がそびえていた。一見して古いものとわかる。この雰囲気は…?
…の前に、
吊り橋を振り返り。先ほどとまったく同じで、追記すべきことはない。
それよりも、やはりこの先のこと。
一枚目写真の石垣に突き当たった道は、
鋭角に左手前へ折れ、このような立派な石段が組まれている。
登りきって、今度は右へとターン。見おろした感じがこれだが、
実にいい道。
この立派な普請を見ると、もしや重要な道だった?
帰ってからの調べでわかったのだが、実は県道から吊り橋を渡ってすぐのこの地には、かつて「中平(なかのだいら)」という集落があったらしい。『周辺には農地跡と屋敷跡・寺院跡を確認。寺院跡には廃屋と石仏群が見られた。』(「村影弥太郎の集落紀行」様のレポートより引用)とのことで、雰囲気を感じていたにもかかわらずじっくり周辺を探索しなかったオノレを叱りつけたい気分だ(笑)。
そして、上記のレポートに登場する「北ノ川」集落。これがこの後(文字情報として)登場する。
上の写真撮影位置からもうちょい進むと…
なにやら立ってますぞ?
これは、道標だった。
「左 北ノ川、色川を経て勝浦に至る」。続いて側面には「樫原迄約十キロ米」。
ここでもう一度地図を貼るのでご覧いただきたい。ヒョロヒョロと南へ延びてゆく細道表記がこの道標に記された道であり、先のリンク先レポートに書かれた「北ノ川」集落は、地図読みだとこの道を1.5km弱ほど?辿って行った先にあったらしい。そこからさらに進んで山を越えると、現・那智勝浦町の樫原地区に至るが、そこまで約10kmと。
そして、ここで【前篇】で張った伏線を回収。
吊り橋にあったこの標示で、
何が重要だったか、おわかりになっただろうか?
それは最下部。そう、「和歌山県」。
県の名前で標示が出されているってことは、県が管理しているってこと。
つまり、にわかには信じ難いが、この吊り橋と前後の道は
和歌山県道なのだった。マジっすよ。
ここで、地理院地図を確認してみる。ほれ、ごらんなさいな?
紛れもなくこの細道…つまり例の道標で「左 北ノ川、色川を経て勝浦に至る」「樫原迄約十キロ米」と書かれていた点線道は、都道府県道を示す黄色に色づけされている。これが記事タイトルの「ワケあり」たる所以である。
この点線道県道の名は、和歌山県道45号那智勝浦本宮線。今回の点線道区間は、ふたつ(たぶん)ある分断区間(自動車交通不能区間)のひとつにあたる。
もういっちょ、これを。
赤●が吊り橋、青線方向が道標に書かれた自動車交通不能区間。注目すべきは那智勝浦町との境界付近で点線表記も途切れていることだ。道標通りならば道はつながってるはずだが…。ちなみに、町境を越えた先、「地理院地図」の文字があるあたりが樫原地区になる。
ちなみに、県道229号とのしばしの重複区間を経ての緑線方向への分岐。これがもうひとつの自動車交通不能区間(高瀬峠越え)であり、普通の車道として復活するのは、ほぼほぼ終点間際である。
ちなみに、道標には続きがある。
「右 小原.奥平方面行山道」。
地理院地図には載っていない道。しかし先に紹介した「村影弥太郎の集落紀行」様のレポート内で、「奥平」集落跡の写真も見ることができる。
最後の面には、
「昭和四十七年十月」と。
ここ中平やその他の集落がとっくの昔に無住となった時期になって、この道標が立てられた目的はなんだったんだろうか…。
まあ、この記事は後付けの知識中心に構成したが(笑)、
それらを知らずとも、ここの雰囲気の良さは特筆ものだった。
最後に、動画を。
現地の雰囲気を感じていただければ幸いかと。ヘッドホンでボリューム上げてご視聴くだされ。
以上、完結。