【4】より続く。
サクサク歩いて、
スタート地点へ。
忘れてはいない。
ちゃんと参拝しないとね。
久しく(数ヶ月以上は)人の手が入っていないような感じ。辺鄙なところにあるお宮でもしっかり手入れされているケースも多いだけに、ちょっと寂しかった。
倒木が寄っかかった石段を登り、
ささやか~な祠へ。
連載最初には村社的な、とか書いたが、とてもそんな規模じゃないな。祭神の名前もなく、鳥居に扁額もなく、当然由緒書や案内看板もない。なんとも寂しいのう…。
とりあえずいつものようにわずかな賽銭をお供えし、遊ばせていただいた御礼と無事の帰還をお祈りした。
ここからの見おろしが、
探索のシメとして素敵だった。
この後、神様への御礼オプション(笑)として、石段に寄っかかった倒木を撤去して差し上げた。
この階段を上ると、
現世へ復帰するわけだが。
ここに違和感を感じる。上の林道はずっと近代になって付けられた道であり、それと無理くり接続するためのこの段差だろう。
改めて見る七宗・大柿林道との取り付きは、
こんな感じ。
逆からだと
こうね。
これやっぱり、元の道はもっと河岸の下の方にあったはずだ。
【1】で書いた、往路で道が一段下っていたところ、
あのレベルでずっとこっちまでつながっていたのだと思う。
ここで、唯一の資料らしき資料、明治44年測図・昭和8年要部修正測図の古地図と、再度地理院地図を並べてみる。いずれも★印が現在地。
まず確認として、いずれにも隧道の存在は表記されていない。
古地図の方でも、この地域の幹線である国道41号の前身・白川街道は今と同じく左岸に。そして気になるこの点線道も、すでに描かれている。しかも現在よりも先、上麻生ダムのあたりまでは少なくとも延びている。
ちなみに、高山本線のこの区間(上麻生~白川口)が開通したのは1926(大正15)年3月。そして上麻生ダムが完成したのが同年11月。
ホントはこれらができる前の古地図を見たいところだが、わたくしの拙い机上調査ではこれが限界だった。ちなみにここ、今昔マップではカバーされてないエリアである。
さてここからは、この右岸歩道がどういう道だったのか、我が仮説…いや、単なる妄想を開陳。
改めて書く。相当必死でいろいろ検索してみたけど、同業者に限らずマジでこの道と隧道の情報が皆無だ。なので現時点では仮説と妄想しかないったらない(笑)。
古地図の方、この時代の地図にすでに描かれているということで、やはりここは(前回書いたとおり)白川街道の旧道…だと思いたい。もちろん、鉄道敷設前から歩かれていた、という意味で。
証拠も何もない、単なる願望(笑)。もしそうだとすれば、あの二本の隧道も明治以前の近世に穿たれたものっていう可能性が出てくる。
他に考えついた仮説その壱、鉄道の敷設においての作業道説。
柿ヶ野トンネルの掘削において両側から掘り進めるために、かつトンネルから白川口までの区間も先行して工事を進められるように、極力平坦な河岸沿いに作業道をつけた、と。でもわざわざ二本も隧道を掘って、というのは考えにくいか?
仮説その弐、上麻生ダム建設に伴う作業道。
…と書きながら、これはちょっと考えづらいかな~とも。前述のように、上麻生ダムの建設と鉄道敷設工事はほぼ同時期に行われていたので、もしこれがダム建設作業道なら大渋滞必至だろうと(笑)。おそらくこの時期には、すでに対岸(左岸)に白川街道があったと思うので、ダム建設においてもそちらが利用されるだろうと思われる。
仮説その参、筏流しに関連した道。
飛騨川においても、山中で伐採した材木を運搬する手段としての筏流し(川狩りと呼ばれる)が盛んに行われていて、ここ七宗にはそれら流れてきた材木の一大集積地である「下麻生綱場」が存在した。
だからってこの隧道の中を材木を流してたなんてことではもちろんなく、川狩りの行われる川沿いには、筏師たちの使う「筏道」と呼ばれる道が存在する…こともあるようで(笑)。だからってこれまた「こうだったら面白いな」と思っただけの話。
ああ、もう限界だ(爆)。
この道のことは、これまでになく本気で調べてみたいと思ってる。なので、これまで試したことないことをしてみようかと。何らかの成果があれば、改めて補足記事を書くことにする。まあ期待せず(マジで期待してほしくない・笑)お待ちを。
これで〆るとキレイすぎるので(笑)、蛇足。
探索が終わって車に戻り、意気揚々と長靴を脱いだら…
コイツが食いついてやがりました。小さい写真にしたのはわたくしの良心だと思ってたもれ(笑)。
幸い吸われる前だったんで、事なきを得ましたが。昔は全然山ビルにやられなかったのに、ある時期からやられまくり…。
ひとまず、完結。










