【旧道後篇】より続く。
徒歩進軍開始からおよそ12分、
目指す隧道が現われた。
年季の入ったコンクリートポータルが厳めしい雰囲気。
あいにく(かつ予想通り)フェンスで封鎖されている。
お名前はもちろん、
小積(こづみ)隧道。
左端には「昭和三年三月 牛塚虎太郎」と刻まれている。ウィキ先生に聞いてみたところ、これは当時の宮城県知事の氏名だった。
この隧道の完成をもって、それまで陸の孤島であった牡鹿半島を鮎川まで貫く陸路が通じたのだという。まさに地域交通の夜明けをもたらした隧道だったようである。確かに、県知事が揮毫するにふさわしい歴史的隧道だったわけだ。
まあそんなのは後から知ったこと。
現場ではシンプルに、思いがけず出合えた古洞にコーフンしきりだった。
アーチ環の切石は本物のようだ。のっぺりとしたパラペット、当初からこのような仕上げなのか後年の改修なのかは不明。
ポータル向って右に、
「小積隧道工事概要」という銘板があった。
「隧道延長六拾間幅員二間五分高二間五分」ってことで、およそ延長110mの隧道ってことになる。
これを、
「工事着手 昭和二年十二月五日 導坑貫通 昭和三年二月四日 工事竣功 昭和三年三月三十一日」っていうわずか四ヶ月足らずで完成させた、ってことなのだが、これマジか?めっちゃ速くない?隧道を見る限り、突貫工事にありがちな綻びなどは見当たらないようだが…。凄いな。
左半分には、当時の宮城県土木課長以下工事に携わった中心人物たちの氏名が刻まれているのだが、こういうところに名前が残るって憧れるなあ。
覗き込んだ洞内は
いかにも手狭だ。
金崋山観光の大型バスも通ったであろうこの道、時代とともにアンダースペックとなってしまったことは、容易に想像できる。
いや、堪能した。車へ戻ろう。
戻り際には、
来るときに気づいてたけどスルーしたアレを…。
「石巻市」のカントリーサイン。
2005年4月の大合併までは、この隧道から先の半島は牡鹿郡牡鹿町だった名残である。
ところで、あのコンクリート枡はなんだろう?
帰路の所要時間は
およそ13分。
心配していた作業員の方は、まだお休み中だった(笑)。足を忍ばせてトラック脇を通過、ミッション・コンプリート(笑)。
レンタカーに戻ってきた。
このすぐ先でトラックが塞いでるんだからわたくしが寄せててもおんなじなんだが、それでも、ねえ(笑)。
…てな感じで満足しちゃって、なんと隧道の南側(牡鹿側)をチェックしに行くのを忘れてしまった。なんたる失態。
まあそれもコミ、いろんな意味で楽しい、そしてお手軽な歴史的隧道探索だった。
以上。