杉本隧道【2012年・冬篇】(滋賀県長浜市木之本町杉本~余呉町上丹生) | 穴と橋とあれやらこれやら

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初めまして。ヤフーブログ出身、隧道や橋といった土木構造物などを訪ねた記録を、時系列無視で記事にしています。古い情報にご注意を。その他、雑多なネタを展開中。

 

【2012年・春篇】より続く。

 

三度目の訪問は、2012年12月8日。

 

この日は関東からまききさん、doodoongooさんというお世話になった先輩方をお迎えし、よととさん、おろろんさんと5名での湖北方面隧道群歴訪接待ツアー(笑)の一環として訪れた。この日のネタ単独では記事にしてないけど、楽しかったなあ…。

 

 

 

 

さて、杉本隧道。

 

 

今回もまた、旧余呉町側からやってきた。今回は過去二回にはその存在に気づいてなかったものからスタート。

 

それは…旧余呉町側坑口ほど近くにある

隧道記念碑。

 

植生によっては全然見えなくなることもあるんじゃないだろうか。あるいは、単に過去二回は我が目がフシアナだっただけかも(笑)。

 

 

この記念碑には、極めて重要な情報が二つ刻まれていた。順番に見ていこう。

 

 

 

 

まず、ある意味最重要なのがコチラ。

「工費寄附」とあり、その下に刻まれていたのは…

 

土倉鐄山経営者 

田中平八 殿

田中銀之助 殿

 

出自を物語る重要情報。この隧道の工費を負担したのは、行政でも地元の人たちでもなく、木之本町の奥地、金居原にかつて存在した、土倉鉱山だった。

 

ヤマで産出した鉱石は敦賀港への積み出し駅として国鉄木ノ本駅まで搬出されていたが、より距離の短い中之郷駅(路線付け替え~廃止を経て現存せず)への搬出路を、ということで、この隧道が開削されたという。なんなら、隧道だけでなくこの隧道擁する県道284号全線が、土倉鉱山の負担で作られたものらしい。

 

 

 

 

 

その裏面には、もうひとつ重要な情報。

「大正七年六月竣工」。 

 

初回に紹介した銘板では「昭和二十六年三月三十日竣功」となっていたが、あれはおそらく現在の姿に改修された際の銘板ということになるのだろう。

 

 

横山隧道、佐和山隧道に先んじること五年。この大正七年という竣工年、それ以前には大沙川隧道、由良谷川隧道などの天井川隧道は建造されていたが、滋賀県のいわゆる山岳隧道(山を抜く隧道)の中では、実は最古となる。これもまた、知る人ぞ知る「最古」である。

 

 

 

 

 

 

最後の面には、

「發起者」として、直近の杉野、丹生、余呉の三村それぞれの村長、土倉鉱山長などの氏名が刻まれていた。

 

お上が道を造ってくれるわけではなかったこの時代、やらしい言い方だが、自分たちの負担なしに新しい道と隧道まで造ってくれる、というのは、願ったり叶ったりのオイシイ話だったに違いない。

 

 

 

 

 

 

 

つうことで、実は大正隧道だった杉本隧道。もうひとつトピックを。

この旧余呉町側ポータル、全く目立たないが、実は扁額があるのだ。

 

ポータル中央上部にあるその非常にわかりにくい扁額には、「丹生隧道」と刻まれている…らしい。らしい、というのは、実は自分でも確認できていないからだ。(「ある」のは視認したが、文字は判読できなかった)

 

「丹生」というのは、この旧余呉町側坑口とここから下った先にある集落を含んだ、先ほどの記念碑でもその名が出ていた丹生村のこと。

つまりこの隧道には「杉本」「丹生」という二つの名前がある…ということになるのだが、道路台帳など公式データでは杉本隧道となっているようなので、記事タイトルでもそれを採用した。

 

 

 

 

 

で、この日は初めて徒歩で隧道を抜けた。

まずは、前回紹介したギーガー管(謎)を確認。

 

 

 

 

 

 

そして、

いざ、洞内ショートトリップへ。

 

洞内滞在時間はおよそ10分。まずは写真連打、元は煉瓦隧道であったという前提でご覧いただき、向こうに抜けてからちょっと補足コメントでも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

洞内の激しい変化が伝わっただろうか。

 

煉瓦の巻き立てが残っているのは、旧木之本町側のわずかな区間のみで、全面的にモルタル改修、セントル補強がなされている。

 

特筆すべきは、煉瓦巻き立て撤去の雑さ(笑)。ギザギザに残った煉瓦の上からそのままモルタルで塗りつぶしてしまっていて、えも言われぬ奇っ怪なテイストを醸し出している。

 

 

 

 

 

この塗り壁ポータルとドデカ扁額ともあいまって、

「湖国屈指のクセつよ隧道」の名をほしいままにしている(弊社調べ)

 

その神髄、三度目の訪問にしてようやく、しっかりと堪能できた。

 

 

 

 

 

 

向こうからコッチへ、愛車を回送してきたよととさん。

ちょうどイイ比較対象、きっちり撮影するdoodoongooさん。

 

 

 

 

 

 

 

この日は、初訪問以来久々に、

ポータル上にも登ってみた。

 

 

 

 

 

 

この角度で水平位置から見る扁額も

うーん、いとをかし(笑)。

 

 

 

 

 

 

よーく見ると、左端にはちゃんと

「大正七年六月竣工」と刻まれておるではないか。これまで全然気づいてなかったフシアナっぷりが残念(笑)。

 

 

 

 

 

さて、ポータル裏をちゃんと撮った写真がなぜかないのだが、

 

この写真で大まかな様子はわかるだろう。

塗り込められたモルタルの奥からところどころ煉瓦がのぞく状態で、ここでも特筆すべきはその雑さ(苦笑)。

 

 

 

 

 

この端部足下とか、

どうなってんの、これ。ヒドイ酷い非道い(笑)。

 

 

 

 

 

 

こんな感じで、

抜け落ちた煉瓦が落ちてる始末。めちゃくちゃですやん。

 

 

 

 

 

 

 

最後に(もう十分だろうが・笑)、改めて旧木之本町側ポータル。

こうして見ると、オリジナルの姿では、帯石と笠石の間というセオリー通りの位置に扁額があったのだとわかる。

 

ピラスターはなさそうなので、冠木門タイプではない比較的シンプルなポータルだったようだ。滋賀県初の山岳隧道としてはいささか地味なようにも思えるが、土倉鉱山の鉱石搬出のため、というその出自を思えば、まあこんなもんなんだろうか。

 

この惨状(笑)であるため、当然ながら?土木学会の土木遺産選定からは漏れている。

ええ、でしょうね(笑)。

 

 

 

 

 

これ以降も何度か通り抜けたりしてるが、写真は撮ってない。今回記事を書いてみて、「丹生隧道」の扁額とか宿題がまだ残ってるのも思い出したし、季節を見てまた撮り直しにいこうかな。

 

 

 

以上。