【8】より続く。
境谷橋東詰から草藪をかき分け、
近づいてきた旧橋。
遠目の印象どおり、赤色の鋼桁によるガーダー橋のようだ。ちなみに、「旧橋」と読んではいるが、状況的にそうであろうと思われるだけで、確証があるわけではない。
さらに接近。
橋上は激藪で覆われ、親柱や欄干といった高欄は見当たらないようだ。
赤い桁をよく見ると、
文字が書かれていた…が、痛恨の手ブレ。
これは正直凹んだ。あんなとこまで行って(死にかけて)、メインターゲットの肝心な文字情報を手ブレするとは。バカバカ、僕のバカ。
多分に脳内補完も含んではいるが、元データを超拡大して穴のあくほどに見つめた結果、
上段は「富士製鐡H型鋼●架」
下段は「東海鋼●工業株式会社」
…と書かれているのではないかと。「鐡」なんて判読できたわけではないが、もしこの会社であれば社名がその漢字なので、それに準じた。
ウィキ先生によると、富士製鐡は1950(昭和25)年~1970(昭和45)年のわずか20年しか存在しなかった会社ではあるが、財閥解体による誕生から合併によって新日鉄の礎のひとつとなりその名を消すまで、なかなか興味深い歴史を持つ会社だった。詳しくはコチラ。
まぁ、この会社が正解かどうか、知らんけど(爆)。マジで再訪せなアカンかなぁ戸入。
旧橋を渡らず、そのまま境谷右岸を進んでいくと、
(目視はできていたが)堰堤があり、滝となって落ちていた。
その場所で振り返ると、
新旧の境谷橋…って、わかりにく!
よーく見れば、わかると思う・・・。なおこの状況では、谷へ降りることは考えられなかった。
さて、この写真だが、
旧橋上の写真である(笑)。
渡った先(戸入方向)を見ているのだが、何が何やら。写真右寄りの茂みあたりが下流側の端になるのだが、わかるかなあ。
渡った先、陽光に照らされたその先は、
ぐわ~なんじゃこりゃ~。
真正のグリーン・ヘルに覆われており、何があったか、あるいは何もなかったか、全くわからない。これはもう、進めない。
ちなみに旧橋をよく見てみたが、やはり親柱、欄干、地覆いなどいかなる痕跡もなかった。現役時代からそうだったのだろうか。
さて、ここらでいよいよ、本日の「隠れメインターゲット」について触れなくてはならない。
山神さんの記事のどれかに、そらまめさんがコメントで触れておられた、「ダム工事に伴う付け替え道が未成道として残っている」という情報。ごくさらっと書かれていて、かつお二方ともご興味がなさそうだったのだが(笑)、わたくし興味が大アリ(笑)。
これをよく見ていただきたいのだが、
写真下にある境谷橋がおわかりいただけると思うが、その上流側にかすかに見える旧橋を渡ったところ、すなわち黄色の★印が今わたくしのいるところ。
現在位置の左には今から目指す例の小屋廃墟も写っているが、注目していただきたいのはその小屋廃墟から始まり、ダム工事道の少し上を並行しながら数百mにわたって延びている平場。
これこそ例の未成道の路盤、まさにそれではないか?
この未成道についての下調べは一切していない。単に航空写真でそれらしいところがないかを見ていくと、たちどころにこの場所に目がとまった次第。
ひとつの事実として、(前回冒頭で触れたように)かつての町道はすでに少し前から公式に「ダム工事用道路」とその名前を変えている。つまり、付け替え道の未成道があって然るべきエリアである。
また(次々回かその次くらいで紹介するが)、ここより戸入方面、この未成道と思われる路盤が消える場所のすぐ先で新旧道が分かれており、上の航空写真でも視認できる)、一連の流れで作られた道の一部が供用されずに残ったのだろうと思われた。
その未成道路盤跡の端点にある(ように見える)のが、
あの廃墟。気になりすぎる。
すなわち、いかにウンザリするようなグリーン・ヘルであっても、行かない選択肢はなかった。
【10】に続く。
おお、久々の10回超え。