【1】より続く。
キターーーー!!
…と、心の中で叫んだ(笑)。
そこには先生の記事で見た通りのお姿で、確かに隧道が開口していた。
こちらが、先生が撮影された、2004年11月時点での状態。
【撮影:学生服のヤマダ氏】
今回は真夏に訪ねているのにも関わらず、先生の訪問時のほうが植生がエグイのはなぜだろう。完全廃隧道にもかかわらず、時折どなたかが刈り払いされているのだろうか?
なんであれ、15年後の現在も、ほぼ変わらぬ程度にしっかりと開口してくれていた。ありがたや~。
その開口部分、どの程度の大きさかというと、
このくらい。
想像つかれると思うが、かな~り坑口前に土砂が堆積してしまっている。
ところで、上の写真で坑口(の残骸)右寄りに見えている金属棒だが、
古レールだった。
ただし、林鉄用レールではなさそうな。そして、いかなる用途でここにぶっ刺さっているのかはわからなかった。もしかして…かつてのつっかえ棒がわりだった?
さあ…いよいよ洞内を見てみよう。
先ほどのよととさんポジションから…
おおっ!視界良好…なれど、現世の明かり、無し!
実は、ヤマダ先生の訪問時には、
【撮影:学生服のヤマダ氏】
かすかにかすか~に、見えていたのだ、現世の明かりが。しかし15年経った現在、もはや完全閉塞してしまっていた。
まあ、実はすでにこのことはわかっていたのだったが…そのへんまた改めて。
隧道の存在を確認された後、ヤマダ先生は賢明にも洞内には進入されなかった。なので、ここの洞内写真は、もしかしたらネット初なのかもしれない。いや、ホントに、入らないほうが賢明だった。
つうわけで、洞内。
内部も、ヤマダ先生の写真からほとんど変化がなさそう。これは嬉しい驚きだった。
幅員は目測で1.6mほど?「車道隧道だった」というご婦人の証言は得られているわけだったが、これは軽自動車でギリ。普通車だとけっこうチャレンジングだろう。
側壁は切石積み、アーチは場所打ちコンクリート?に見えるけど、思い出していただきたいのはこの隧道、明治四十年測図の地図に、すでに描かれていたこと。これは推測に過ぎないが、オリジナルはシンプルに素掘り隧道だったか、あるいは側壁が物語るような総石造隧道だったか、いずれかだと思う。
この日ここに来るまで、そしてこの後も、明治期に建造された魚梁瀬森林鉄道の総石造隧道を何本も見た。つまりこの地域には、総石造隧道を建造する技術が普通に存在していた、という事実を考え合わせれば、後者の説を採りたい。アーチ部分は後年の補修で、この姿になったのではないだろうか?
ただ…それら魚梁瀬林鉄の隧道群は、明治44年以降に建造されている(はず)。つうことは、こちらのほうが数年先んじている、ということになる。
本当にこの三子生隧道(仮)が総石造隧道だったとしたら、あるいはそれら後発の隧道群建造の礎となるべく、実地試験として総石造とされたのだったりして?
全てが妄想に過ぎないが、こうした妄想は無性に楽しい(笑)。事実は闇の中。
さて、入洞して振り返り。
この埋没具合で見る鉄板の構図もまた、いとをかし。
閉塞隧道なんて入らないほうがイイに決まっている。
特に心配なのは一酸化炭素中毒だが、
ひとつの目安として、こうもりさんがお住まい&飛翔している範囲においては、大丈夫と見ていいのではないかと。
先へ進むにつれ湿度が上がってきて、
フラッシュを焚くと心霊現象が現れるようになってきた(笑)。
…とか書いててふと思ったのだが、一部心霊かぶれのDQN野郎とか、まさかこういうのを心霊現象とか思ってないよな?いたら面と向かって、アンタ馬鹿だよって言ってやりたい(笑)。
ふざけている場合ではない。
閉塞地点の前まで来たが、伝わるだろうか?このヤバさ。まだ伝わらないか…?
フラッシュ・オン。
やはり上までびっしりと、土砂で埋め尽くされている。湿度もさらに上昇。
ここまでくればヤバさが伝わるだろうか?
このように剥落しかかっているだけでもオオゴトなのに。
水平方向に走る亀裂と、歪なアーチ。
アーチの圧壊が始まっている。
上の写真左側の側壁部分など、至近で見ると、こう。
孕んでいる、完全に駄目だ。
変状が認められたから放棄されたのか、放棄されたがゆえに変状が生じたのかは定かではない。いずれにせよ、現実はひとつ。
この隧道は、残念ながら
名実共に死んでいる。
【3】に続く。