2019年4月29日、平成最後の遊撃@紀伊半島の最終日、朝。
いくつかの物件を経由してひっさびさにやってきたのは、
和歌山険道151号新和歌浦線上のとある場所。地図はコチラ。
ここには、8年前に来たことがある。2011年4月23~24日の紀伊半島一周OFFの最終目的地がこのあたりで、ここで日没を迎えたっけ。
だがわたくし前夜に思い出したのだった。ここに一件、重大なシバキ残しがあったはず、ってことを。その回収が第一目的だったが、せっかく再訪したので、訪問済の物件も改めて記録しておくこととした。
拙ブログのお客様ならば即座にノートさんの背後に何かを感じると思うんだが(笑)、まずは
そこに見えてるヤツから。
お名前は
「新和歌浦隧道」。
なかなか味のある銘板。
1971年6月ということは、もうすぐ50年を迎えることになる。けっこうな古さだ。
さて、ではこの隧道の旧に当たる物件をば。もちろんノートさんの背後にあるのがそれだ。
ここも8年前に記録済みではあるが。
お名前は後ほど。
写真を見返してみると、これでもだいぶ前回よりは見栄えがマシ。前回はもっと植生旺盛で、ろくに見えやしなかったポータルが、一応下半分は見えてるからな~。
とはいえ、ポータル上部が隠されてて見えないのがもったいない!なぜなら、
いろいろとあるんよね、装飾が。
煉瓦アーチの巻厚は三層で、小ぶりながらも要石を備えている。帯石と笠石の間には大きな石板による扁額があり、笠石下には(見えにくいが)鋸歯状のデンティル。そして笠石上のトップには、三角の小破風。
少しズームしてみる。
扁額には…なんて刻まれているのか判然としない。「新和歌浦」か?そして三角の小破風には、黒タイルを用いて丸に十字の紋が象られている。
この隧道は、「新和歌浦第一隧道」として、土木学会選近代土木遺産Bランクに選定されている。その説明に曰く、「明治44年完成」、「森田庄兵衛の新和歌浦遊園地開発に伴う周遊道路→県道」、またポータルについては、「笠石上に小破風(丸に十字の紋=森田家の家紋),笠石下に雁木,黒タイルや巨大な楔石など極めて装飾的だが統一感に欠ける」
との解説。
森田庄兵衛とは、1917年に新和歌浦の海岸線を買い占めて一帯のリゾート開発に尽力した実業家であり、彼が開通させた新道に穿たれたのがこの隧道であった、ということ。で、この第一隧道の和歌浦側、つまり新和歌浦の表玄関となるポータル上部に、自らの家紋を掲げた、ということになる。
解説では「極めて装飾的だが統一感に欠ける」と斬られてしまってるのがイタイが(笑)、わたくし的には嫌いじゃない。これ余計な木を伐採して、ちゃんと見栄え良くすれば、それなりに近年のヘリテージツーリズム層にも訴えると思うんやけどなあ。
下部に目を移すと、
迫受部分には意匠を凝らした石材が使われている。この迫受部は、控えめなピラスター(付け柱)も受ける構造になっているのが面白い。まああくまで装飾としてのピラスターだが。
洞内側壁は切石積み。
馬鹿者による落書きが嘆かわしいが、よく往時の姿を残している。
で、数mの煉瓦巻パートが終わると、
中央部の素掘りパート!
ご覧のように、以前から洞内は倉庫的な使われ方をしている。
ここの管理者は今どうなってるのか、いまいち判然としないのだが、
まああまり長居は無用な雰囲気ではある。
で、反対側へとやってくると、
コンクリ巻に。
そして最後はやっぱり、
和歌浦側と同じく、煉瓦アーチ+切石側壁に。
抜けた先は旅館の玄関横スペースで、これまた居心地はよくない。まだ早朝(6時すぎ)とはいえ、これまたあまり長居したくはない感じ。
雑賀崎側坑口に正対。
こちらはガッツリとコンクリ改修されていて、見る影もない。
ちなみに、引きで見た新旧の位置関係はこんな感じ。
この写真のみ、前回訪問時(2011年4月24日)撮影。
さて…先述の通り、この隧道は8年前にすでに記録済み。今回は以前シバキ残した物件・・・そう、第一隧道とともに土木遺産指定されている「新和歌浦第二隧道」の探索こそが本題だった。つまり、こっからが本番。
ただ、ひとつ問題があった。それはシンプルに場所がわからないこと(笑)。
まずは以前来た時と同じように、海岸に降りてみよう。
【次回】に続く。