【4】より続く。
2本の隧道と、その旧道と。これ以上何か取り上げるネタがあるのか?
あるんです(笑)。
でも実はそこ、隧道からはちょいと離れておりまして。
そこまでの道のり、動画でご案内しましょう。
車では突っ込めないので、目的地少し先の日枝(ひえ)橋まで通り過ぎた。
せっかくなんで、橋も紹介してあげないとな。
親柱には「昭和拾参年参月竣功」とある。
ちなみにこの写真のみ2010年7月24日撮影。てか、日枝橋の写真を探していて気づいたのだが、この日にも谷出山隧道を訪ねていたようだった(笑)。てことは、通算4回行ってんのか。
なかなか味のある橋。けど、目的地は手前の
ここ、日枝(ひえ)神社。念のため、場所はコチラ。
村社であるこの神社、
隧道と何の関係が?
と訝しむ方もおられると思うけど…「ある」んです。
能舞台と、何やら格式ありそうな拝殿。静謐な空間がそこにはあった。
が…わたくしの目指すものはこっちではなく、写真右奥方向…。
奥の目立たない一角に、
隠れるようにひっそりと何かが、在る。
あれこそが、目指すもの。
それは、
「耕地整理碑」。
そう、それはまさに南比都佐村の「耕地整理」完成を記念した石碑なのであった。そこには、様々な情報が…と言いたいところだが…
写真がヘボくって(泣)
現場が好天時の木陰で、しかも逆光ぎみという悪条件にヘボいカメラと拙い撮り手も相まって、刻まれている情報がいまいち判読できない!特に、下のほうがかなりキツイ…。
一応、全文が見えるのがコレ。
斜めってるのは、正面からだと光の加減でさらに読みにくいんである。これで精一杯…(汗)。デカめの写真で貼ってるので、解読してみてくだされ。
断片的に読み取れる情報の中では、井上重太郎という人物の名が序盤で登場。どうやら、耕地整理事業において重要な役割を果たした人物らしく、その苦労や功績がいろいろ書かれている。
で、目的である隧道に関する記述は、おそらく後半に登場する「昭和三年八月谷出山隧道貫通」という一文だけのように思う。
注目すべきは、貫通からポータルに刻まれていた竣工年「昭和五年三月」まで、1年半以上かかっていること。コンクリブロックであの延長を巻き立てるのは確かに大仕事だが、そこまでかかるものだろうか。そのあたりには、特に碑文では触れられていないようだ。
そしてさらに注目すべきは、もう一本のあの「名称不明隧道」が、一切登場しないことだ。少しくらいは登場するはずだし、こうして石碑まで遺すくらいの事業だから、隧道の名前もちゃんとつけるはず。
…同時期に掘ったのならば。
この碑文に末尾に刻まれている年号は、昭和二十年四月。よくもまあ大戦末期近い大変な時期にこんな石碑を建てたものだ。もしかしたらこうした先人を称える碑を建てることで、国威発揚の機運を高める狙いがあった…のかどうかはさておき。
「昭和二十年四月に建立された石碑に登場しないということは、きっとそれより後に掘られたはず。」
シンプル極まりないこの理論が、【3】でわたくしがあの名無し隧道を同時期建造でないとした根拠である。
最終的には、いつものように強引な終わり方になってしまったが、日野の現役農道隧道たちには、ロマンがあった、というお話。
石碑は再チェックが必要やな…。
以上、完結。
今回の記事、あてはまる書庫設定がないんで、とりあえず「遺構その他」で(笑)。