【6】より続く。
現道の玉川トンネルを抜けて、南側へと回ってきた。
もちろん、旧道をこちら側から攻めるつもりで来たのだが…
あら~?
なんだこの状態は!?
旧道の分岐は見当たらず、あるべきその場所には真新しい鳥居。掲げられた扁額には、「玉川観音」と。
あー!洞窟観音様はここに遷座されてたのか!
なるほど、ここならお参りしやすくていいよな、などと能天気なことを考えた。…わざわざ旧道敷きに新しく造ったように見えるのに違和感を感じながらも。
石段を登って進むと
右方向に新しい鳥居。あちらが順路のよう。
視線を左へ移すと、
なんと、トンネル…っぽいモノが見える!洞窟観音だけに、わざわざ穴を掘ったってことか!?
凄いな!と感じる一方で…、
意識は最初からもっと先を捉えていて…
当日には「あの事実」は知らないままだったが、それでも一目瞭然だった。旧道が歩ける状態じゃないと。そしてすぐさま悟った。
この道が放棄された理由を。なぜ「旧道」ではなく「廃道」となったのかを。
上の写真で左端に見えている小さな祠と鳥居には、見覚えがあった。先ほど、北側からの撤退地点でも見えていたものだ。
このように。
つまり、2枚上の写真が、わたくしが足を踏み入れなかった…いや、踏み入れられなかったエリアのほぼすべて、ということになる。
帰ってから調べて、そして知った悲劇。
1989年7月16日。この場所で、高さ40 m、重量およそ1,500 tに及ぶ大規模な岩盤崩落が発生し、直下のロックシェッドを一瞬で壊滅させた。そして運悪く現場を走行中だったマイクロバスが巻き込まれ、バスに乗っていた15人全員が亡くなられた。しかも、バスの後方を走っていた乗用車によって、偶然事故の瞬間がビデオ撮影されていて、その恐ろしい瞬間が記録されていた、という。
これを知った時、思った。あの時あっさりと撤退する気になったのは、何かを感じたのかもしれないな…と。オカルト的な話じゃなく、なんとなく不可侵というか、近づきがたいというか…上手く表現できないけど。
ちなみに、他にも気になる話。
「(前略)この崩落の12年前の1977年(昭和52年)5月にも現場付近で崩落が発生した。その措置として福井県はトンネル案と海上道路案を提示したが、トンネル案は玉川観音が素通りになり、海上案も水産資源への影響による反対があり、中間となる「現道にロックシェードを設置する案」で決着した。
崩落事故の後に迂回路として現場の海側を通る仮設道路が建設された。1992年に玉川トンネルが開通して、崩落現場を含めた約1 kmの区間は立入禁止になった。
事故現場には1993年(平成5年)に慰霊碑が設置された。玉川観音も立入禁止区間に重なったことから、玉川トンネル南越前町側坑口の近くに人工洞穴を建設し、移設した。現在でも旧道や仮設道路の橋脚は一部を除いて残っている。」(ウィキペディア「国道305号線」より抜粋)
この悲劇の12年前にも起こっていた崩落事故。その現場は記事内で第2幕の開幕とした、あのロックシェッドの場所だったという。この時に、トンネル案もしくは海上道路案が採られていれば…なんていうのは簡単だが、それはもう結果論でしかない。
この時に建設されたのであろう、あの「海の回廊」を含むロックシェッド群。記事内でも書いたように、あそこまでやっても、この道を守ることができなかったのは、いろんな人たちにとって痛恨の極みだったことだろう…。
そして、玉川洞窟観音の遷座についても言及されている。やはり想像した通りの事情だった。訪問時点で遷座後18年ほど経っていたようなのだが、すごく新しく見えた。
せっかくなので、
遷座後の玉川観音も何枚かの写真でご紹介しておこう。
洞窟観音と謳われる観音様をお祭りするには、やはり現代の洞窟であるトンネルを掘らなきゃ、ってことだったのだろう…。この姿に賛否あるかもしれないが、個人的にはいいと思った。
悲劇の現場となったその入り口に、観音様をお祭りする。この洞窟観音が、あえて旧道上に遷座されたのは、(そうは書いてないものの)やはり鎮魂の想いもあるのだと思う。
向こうに見えるコンクリ壁は、
悲劇の3年後に生まれた玉川トンネル南側ポータル側面。悲劇の5年後に遷座された玉川洞窟観音から望む。
あまりに美しく、あまりに静謐だったこの道。
無念にもこの地で亡くなられた方々が、いまは安息されているような、そんな感じがした。そうだといい。
以上、完結。