【2】より続く。
いよいよ問題の場所にやって参りました…。
玉垣がそのまま続いてるけど、突端のやつはやはり親柱に見える。
と、ここで核心に触れる前に、河中になにやらあるのを発見。あれは…
何かはわからない。けど、コンクリの塊であることは間違いなさそう。この橋遺構と関係があるのだろうか?
さて…
あの「擬定親柱」、ホントに親柱か?
なにか重要な記述など期待しちゃっても!?
…。オウ!
ズバリ正解!「還來橋」!
気持ちイイー(笑)。
やはり間違いなく橋の痕跡、そしてその名もやはり「還來橋」、だった!
ただねぇ…やはり釈然としないのだ。
コレをご覧あれ。画像左上が、「還來橋」と刻まれた親柱。
通常であれば、そこから道を挟んだ反対側に対となる親柱が存在するのだが、それがない。代わりに、再び玉垣が数m続き、そして…右下に…もう一本。
あるね。
「もどろぎはし」。ココにあったか!
ひとつ前の画像を再度ご覧いただきたい。
実に釈然としない配置じゃないですか?
釈然としないといえば、この遺構そのものがまったくもって釈然としない。その架橋位置。その架橋年代(親柱にはご紹介した以外の記述は発見できなかった)。そして、その用途。
まさか現橋のある道筋は近世の新道だというのか?かつてはこの位置が道だったとか?けど、こと神社の神域が絡みそうな立地で、そんなこと有り得るだろうか?
そして親柱に竣功年が刻まれてなかったことが個人的に最大の痛恨事だったのだが。
対岸から見た時点で、橋台とおぼしき部分にコンクリ補修らしき痕跡が見えていた。先ほど河中に転がっていたコンクリ塊が、橋脚なり桁なり失われた橋にまつわるものならば、ここに在った橋は遡っても大正年間、それより古いものではなかっただろう。
…ということで、皆様もう想像つかれてるでしょうが、真相はまったく分かっておりません(爆)。
調べた限りではこの橋の痕跡や、現在と違う位置に橋が架かっていたことなどはまったくどこにも触れられていない。この神社の宮司さんは常駐されていないようだが、お話を伺ってみたいな~。あとはこの近辺の古老の方とか。
戻る際に、玉垣にこんな記述を発見した。
「石工 滋賀郡木戸 中村茂吉」。
木戸は現在のJR湖西線・志賀駅付近の地名。 もちろん玉垣に刻まれたもので橋には関係ないのだが、「石工」という言葉が当たり前に刻まれる年代のものでした、ということだけ。
まあとにかく、お手洗いに立ち寄っただけの(罰あたり・汗)神社で、まさかこんな予期せぬ発見が待っていたとは、これだからこの趣味はやめられませんわ~。
というまとめでイイでしょうか(爆)。
以上、完結。
あ、忘れてた(笑)
これにて、滋賀物件4ケタ突入記念「夏の滋賀フェスタ」、幕とさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。