【前篇】より続く。
それでは、いよいよ、
下から鑑賞して参る。
…の前に、もういっちょ冬ヴァージョンを。
ほぼほぼ同アングル。どちらも甲乙つけがたいな~。あなたはどちらがお好み?
あと…おろろんさんを探せ(笑)。
はい、おろろんさんのいるところからのアングルがコレですが…
いや~、冬ヴァージョンはちょっと凄惨な感じになるなぁ。
探索日当日に戻りまして、
上路アーチ版、鉄板の構図(笑)。
そして、実は最初から気になっていたのが、
この、謎のテラス的な部分。
コレも橋台っていうのかどうか?要は桁の長さに対して、アーチスパンが寸足らず、って感じなのだが…。
オウチに帰ってこの橋のプロフィールが判明した時に、この「テラス」に関してはある仮説が浮かんだのだが、それは後ほど。
つうわけで、
「テラス」に登ってみましたん。
橋上で見た欄干と同じく、桁の下面でも鉄筋の露出が見られる。老朽化が進んでるなあやっぱり。
まあそんなん言いながらも…
落ちつくなぁここ~(爆)。
陽射しも雨露もしのげるし、2~3人での歓談に最適ですやん(笑)。まあ国道から丸見えやねんけど。
「テラス」のキワまで進んで、もう一枚。
思わずもっと進みそうになったけど、自重した(笑)。
で、実はココが特徴的なんだけども、
柱がハの字に開いてる。

言うなれば鳥居型?的な。コレって強度的にどうなんだろうか。他では見た記憶がないな…ってか、気づいたことなかった。
下流側より。

逆光も甚だしい上流側からの写真に比べて、キレイに見られる。
下からの鑑賞を終えて、最後に隣接した新橋より眺めよう。
ここで、期待していた情報をゲット!
「うるしぜはし」。ついにお名前が判明した!
明らかにあの橋に対する新橋。九割九分同じお名前で間違いないだろう。ということで、あの橋は旧・漆瀬橋だ(漢字は帰宅後確定)。
帰ってから、この名称で検索してみて判明した、驚きの架橋年。
なんと、大正7年架橋だと!
かなり初期のコンクリートアーチ橋、ってことになるな。
これを知っての、先ほどの「テラス」部分についての仮設は「苦肉の策」。つまり…
架橋当時の技術では、あれ以上長いスパンのアーチを架けられなかった。かといって、マルチスパンにして河中に橋脚を建てたくない。うーん、どうする…?
そうだ!橋台の下部を延長して、「アーチを迎えに」行けばいいんじゃないの!?
…的なことじゃないかと…(笑)。
また、今回記事を書くにあたって改めてこの橋のことを調べていて、大変興味深い事実を知った。
この漆瀬橋の架橋後に学術紙に発表された資料、「漆瀬橋架橋工事設計」の後書きに書かれているもので、その内容は…
「当時はセメントが高価で簡単に手に入るものではなかった。しかし当箇所のように険しい谷川では橋の架け替えの適地を得ることが難しく、何とか永久橋にするために苦肉の策として橋のアーチ環はRCで造り、当面桁と高欄は木造とした」
(馬場俊介氏による土木史研究第12号1992年6月自由投稿論文、「黄柳(つげ)橋の保存・再生へ向けての事前調査」より引用)
…という、けっこう衝撃的なもの。わたくしの仮説に関連することは不明だが、まさかこんな変則スタイルでの「苦肉の策」とは…。
現・漆瀬橋から望む、
旧・漆瀬橋。
先ほどの内容だと、桁と高欄は後年(時期不明)に更新されたということになるが、こうして見ると全然チグハグさを感じない。いや~、凄いなあ…。
そんな大正橋梁になり代わって地域交通を支えてきたこの現橋も、すでに国道ではない、という世のはかなさよ…。諸行無常ですなあ。
最後に…。前篇冒頭で書いた、この橋のことを採り上げた「あるきっかけ」。それは、「うさ★ネコサンド」さんで、「この橋が通行止めになっている」との記事(コチラ)を見たから。
通行止め(歩行者すら!)になってからけっこう経っているようで、橋上には雑草が生えているという惨状。コレは…残念ながらヤバいかも。
実はこの橋、土木学会選近代土木遺産Bランクの物件なのだが、悲しいことにこういうの、効力がないんよねえ…。いともあっさりと撤去されることも十分にありうる。もし気になる方は、早めの訪問を。
以上、完結。