【前篇】より続く。
では、これより
圧巻の総煉瓦河川隧道、洞内を遡って参る。
まずは、内壁確認。
側壁はイギリス積み、アーチ部分は長手積み。まあ基本フォーマットですな。
振り返り。
うーん、やっぱノンフラッシュがいいわ。
上流側に向かって左側が
少し高くなっていて、そこを歩いている。
恐らくは、保守のために人が歩く想定で、そうなっているんだろうと推測。
水の流れは、
けっこう速い。
水かさは写真の見た目ほどはなかったが、確か長靴の半分程度だったかと。これ以上になるとさすがに危険だったと思う。
思いついての、振り返りローアングル。
で、上流側も。
これまた、イイじゃないの~(自画自賛
しかし、そういや先日の再訪問の時はエライ水が少なかったなあ。
さて、ほどなく
呑口(上流側)近くまで遡上してきた。
ここでちょっと危ない変化が。
これまで歩いてきた、左端の盛りコンクリ部分が突如消失。一気に深くなっていた。
これは危ない。足元見てないと、つんのめって派手にダイヴするヤツですやん。
なので、
あとは流れの中を歩くしかない。
抜けまして~。
呑口のポータル。
やや窮屈なアングルだが、これ以上下がれなかったので。
なぜなら、
こういう感じになっておりましてね。無理すれば水没必至だったので。
いや~、堪能した。
吐口側の、鉄板の構図。
こうして見ると、なかなか斬新な絵ヅラですな(笑)。
そして当然ながら、
戻りもまた、怖いのであった(爆)。
この志津川の隧道、煉瓦製であることから、大正以前の建造である可能性が濃厚だが、すぐそばにある宇治発電所の導水路(明治41年~大正2年にかけて建造)と無関係ではあり得ないと思う。
ちょうどセロ尾さんがイイ感じの記事を上げてくださったので乗っからせていただくが(笑)、元々の志津川の流路が、導水路のルートに干渉したんだと思う。
地形的に見て、おそらくは元々、
おおむねこんな感じで流れていたんではないだろうか?
それを、導水路建設の際に流路変更、隧道でバイパスして直線で山を抜くルートに付け替えたのではないか。
…まあ、誰でも考えつく推論をもっともらしく書いただけなんだが(爆)。
最後に、先人ことMt.tellさんの記事を勝手にご紹介。
「志津川の水路隧道」
「同2」
「同3」
「水害の後の志津川水路隧道」
記事日付を見るに、我々より少し(数ヶ月?)早くに探索されているっぽい。普通にコレを見つけたその眼力は凄いし、突破力も凄い(笑)。あと特に最後の記事、水害直後の生々しい様子が貴重な記録であります。ぜひご覧ください。
以上、完結。