【前篇】より続く。
嗚呼…
素晴らしい~!!
うまく西陽が射し、やさしく隧道を照らした。先人が穿ったこの隧道を通って、かつて多くの人たちが往来したのに違いない。
隧道の上に見えているのが、祠のある切通し。ホントに直上、確かにこういう感じ、房総ちっくかも。
この隧道のことを初めて知ったのはなんでやったか…。とりあえず、ネット上で出てくるのは「日本の廃道」に掲載された永富謙氏(a.k.a nagajis氏)による記事…の索引用ページ?だけ。なので、自分の予備知識もそれだけだった。
この旧隧道、建造年は不詳ながらも、明治年間のうちに建造され、かつ廃された…というのが、実はちゃんと文献に残っている。昭和4年、工学会(現・日本工学会)が刊行した「明治工業史・土木編」。その第四章「明治年間に於ける道路・橋梁事業」の第十節「特殊工事」のさらに第二、「道路隧道」の項の最後に…
「明治年間に開通したる隧道にして、同年代中に廢止したるものは奈良縣の國栖隧道、福島縣の大桁隧道、青森縣の鶴ヶ坂隧道及び鍵懸隧道の四隧道なりとす。」
と書かれている。
…というのも、永冨氏による解説で知ったこと(笑)。
すぐに気になったのが、
この四角く切り取られた一角。
明らかに何かがここにあったのだろうが、何があったのだろう?
思いつくのは、先に見てきた嶺越えの切通し、つまりは隧道の直上にある祠の、あの仏様たちだ。あくまで仮説やけど、元々あの祠の場所にいらした仏様たちが、その真下に明治の隧道が開鑿された際に、隧道脇のこのスペースへと移された。で、もっと下に大正2年の隧道が掘られて明治隧道が廃された時に、もとの場所へ戻られた、と。
…まあ考えてみれば、新しく掘られた大正2年隧道の近くへ移しそうなもんやけどね…。
ところで…
隧道前にこんなものが落ちていたけど…
コレなんやったっけ??
なんか見たことあるような、ないような…。
さて…
いよいよ、入洞。しばし画像のみでお送りします。
出会い方は房総ちっくだったが、そこはやはり紀伊半島の素掘り。その風合いは全く違う。かなりざっくりと掘られているが、これは少しずつ崩落してきた結果でもあるのだろう。
そのせいかどうかわからないが、
北側は、坑口からガくんと下がっていて、ちょっと離れるとこんなにも仰角になる。実際にすぐ坂でもあるのだが、土砂の堆積も多そうだ。
この撮影位置のすぐ右には
このような石積みが。
ほぼ崩れているが、このあたりだけかろうじて原型をとどめている。いつごろに築かれた石積みなのだろう…。
少しでも高い撮影位置を求めて、その上の斜面から…
道が左下方向へ急激に下っている感じ、なんとなく伝わるだろうか?
そのまま50度ほど左下へ転回した眺めがコレ。
写真右下から下っていくのが道で、奥に見えているのが左方向から登ってきた最初のアプローチ。【前篇】で隧道の存在に気づいたのが、ちょうどあのあたり。
今回ようやく訪ねてみて、以前記事にした下北山村のコレを思い出した。こちらは東熊野街道という格式ある道の一部だったのに対し、小井のものはあくまで里道だったという違いはあるものの、同じ奈良県内、明治期の素掘り隧道が人知れず現存している、という意味では共通している。
アプローチは圧倒的に今回の方が容易だが、その分人家も至近だったりする。ある意味、集落としての「プライベート・ゾーン」とでも言うべき立地なので、それなりの節度を持って訪るがよろしかろう。誰か人がいれば、ひと声かけておくといいかも。
かくして、古の道と隧道を、ゆっくりと味あわせていただいた。
最後にひとつだけ。
地味に疑問なのが、高橋まさんからのコメントにもあった、現トンネルの名称。
このように、間違いなく「国栖トンネル」とある。
しかし、トンネルリスト(平成16年度道路施設現況調査)においては、「ミナミクズ」という名称で掲載されているのだ。
まぁこのリスト、けっこう「?」な間違いもあったりするんで、これだけでどうこうってこともないんやけど、「隧道データベース」でも「南国栖隧道」となっているし、実際のところ、住所的にも「吉野町南国栖」。
さらには、
現地のバス停も「南国栖隧道口」だった!
たぶんやけど…「南国栖トンネル」が正式名称なんではないかと…(笑)。
以上、完結。