【1】より続く。
はい、やってまいりました長浜側に。
これは再び初訪問時、2009年5月21日の写真。
この時は、ポータル一面をツタが覆って、せっかくの下見板張り風意匠がほとんど見えなかった。が、今となれば、これはこれで雰囲気あるね~。
これは2012年12月8日。
まきき氏とdoodoongoo氏をお招きした時の1枚。
手前によとと氏、奥にdoodoongoo氏と、扁額を撮るおろろん氏。あら?まきき氏は?
そしてここからは、一線を退くことを聞きつけ、地獄進行の中無理くり休みをひねり出して訪れた2016年3月23日の写真。
相変わらず端正なポータル…なのだけど、邪魔な鉄板は変わらず置かれている。もしかして、とりあえずコレで封鎖すんのか?
こちら側の扁額は、
「観音坂隧道」。
隧道名なのに起点側でないのはなんでかな?
そして、この隧道を愛でる最後の機会。
やっぱこの角度でしょ~(笑)。
本当に昭和8年にできた隧道か?と思わせられる、このデザイン。従来の石や煉瓦といった組構造から解放された、コンクリートという新しい素材を得た「隧道アーティスト」・村田鶴が提示した、新しい時代の隧道の姿こそが、まさにこの観音坂隧道に他ならない。
これは、同じ村田設計による
我が最愛の隧道である、横山隧道。
位置的にも極めて近接した場所にあるこの隧道は大正12年の竣工。上品かつ端正な意匠に彩られた、まさに究極の正統派煉瓦隧道だが、そのわずか10年後、新しい素材を得て、かくも異なる魅力を持った隧道を設計するとは…まさに天才。
いろいろな意味で、米原・長浜市境を貫くこの2本の隧道は、深い関係性があるのでございます…。
再び戻りまして、観音坂隧道。
アーチ部を見てみれば、コンクリブロックが確認できた。
さて、これで観音坂隧道の全てを語った
わけではないのだ。
隧道を長浜側に抜けてすぐの右コーナー立ち上がり。極めて大事なものが、ほれ、あそこに。
【3】に続く。