【1】より続く。
第一隧道・宇治田原側坑口をようやく発見確認。続いて奥山田側坑口を探るべく、現道の大福隧道を抜けてきた。
先ほどの反対側では、大福隧道に向かってすぐ左隣りに開口していた第一隧道。そしてカーブしている様子がなかったことを考えれば、
こちら側ではすぐ右隣りに開口していることが予測されたが…
おぇ(吐笑)
これは振り返っての撮影。大福隧道右側は、おぞましい藪に呑まれている。しかもこれ、掘割状の地形なので、激藪ってよりも、もはや密林(笑)。
現実逃避するわけじゃないけど(笑)、
先にこの大福隧道でちょっとご紹介しておきたいものが。
それは、この扁額。
「皇服嘉賞門」。
大福隧道の建造は昭和42年なので(すなわち、それまでは第一隧道が現役だったわけだ)、扁額も右書きではなく普通に読むはず。
当時はどういう意味なのか「??」だったが、京都検定を受検したことである知識を得た(笑)ので、ちょっと長い余談だがお付き合いを。興味ない方は飛ばしてチョーダイな。
まず「皇服」。「こうふく」だとばかり思っていたが、これで「おうぶく」なのだそう。というのは、京都検定の勉強中に「皇服茶」なるものがあると知り、その解説を読んで「ほっほぅ」と合点がいった次第。
ここ宇治田原にある老舗茶舗「矢野園」さんHPから引用させていただくと…
“大福茶の由来は平安時代にさかのぼります。天暦5年(951)、京都・六波羅蜜寺の空也上人が、都に蔓延する悪疫退散を願い、自ら刻んだ十一面観音像を車に安置して市中を引き歩きました。その際、仏前に献じた小梅干と結び昆布を入れた薬茶を病人に授けながら、念仏を唱えたところ、ついに悪疫は退散。これにあやかろうと、時の村上天皇が元旦に服されるようになり、皇服茶(王服茶)の名がつきました。庶民にとっては幸福をもたらすことから、「大福」の文字が当てられ、縁起の良いお茶として、お正月に飲まれるようになったのです”
…ということで、天皇(王)が服んだから「おうぶく」で、それが「大福」の文字があてられて庶民にも広まった、と。
そしてもうひとつ重要なのが、矢野園さんも業を営むここ宇治田原という地。宇治田原町は「日本緑茶発祥の地」を高らかに謳う、いわゆる「宇治茶」の一大産地なのであります。そんな場所にある大福隧道に「皇服茶」にちなんだ字をあてたくなる気持ちはよくわかる。
そして、「嘉賞」は「褒め称えること」という意味、「門」は隧道を指す時によく使われる単語。以上を続けて解読すると…
「(お茶の里である)宇治田原町奥山田小字大福(おおぶく)の、素晴らしいトンネル」
という意味ではないかな~と。以上、長い割にどうってことない気がしてきた余談でした(笑)。
さて、本題。
第一隧道が眠っているであろう掘割をうかがうのだが…
気が進まなすぎる!
まあ…なんだかんだ言っても行くわけだけども…(笑)。
プチ苦労して降り立った掘割は、激藪と不法投棄にまみれた、おぞましい湿地帯となっていた。思えばこの趣味で初めてだったかもしれない、ハード系の(笑)廃隧道。
藪をかき分け、ゴミだらけの泥濘を攻略し、そして…
捉えた!奥山田第一隧道・奥山田側坑口。
残念ながらこちらもコンクリ改修されているようではあるものの、キャリア初期(謎)のわたくしとしては、その到達の困難さから、けっこうな達成感があった。
のはいいけど、
あの超手作り感あふれるヤツ(笑)は、進入禁止の柵?なのか?
当然ながら接近…するのだが、
ここへ来て古タイヤも仲間入り。
なかなかでしょう?キャリア初期としては(笑)。ここもまた、長靴なしでの攻略は考えられない。
しかし、こうして見ると…
かえすがえすも、コンクリ改修が惜しまれる。
どんな不具合が発生したのはわからないが、中央が素掘りだったことを考えれば、どちらかの煉瓦ポータルもしくは煉瓦巻き区間になんらかの変状が生じたのだろうか?
のぞきこんだ洞内。
うーん、生理的嫌悪感を覚えるな(笑)。
誰が棄てたか、あるいは置いたか知らないが、右手側壁にそってタイヤが並んでる…ってことは、あの上を歩けば奥へ進めなくもない…
が、そんなことをする気は全然起こらなかった。
そもそもここまで改修されている以上、わざわざこのおぞましい水没隧道に入る理由がない。何度か書いてるがわたくし、何がなんでも完抜けしたい人ではないのでね…。
ということで、色んな意味で極めて残念な状態となっている奥山田第一隧道の両坑口を確認できた。続いては、もちろん「第二隧道」を目指す!
【3】に続く。