【1】より続く。
旧道下北山側の限界点を確認して、最初に登ってきた地点へと取って返した。
左手の谷積み擁壁。
その擁壁が途切れる場所。そここそが…
「アレ」こと初代隧道が待つ場所。
ここで、この場所へと登ってきての発見時の写真を。
…見えますかね?エライことになっているのが。
位置関係とか、わかりにくいか?まあゆっくりと紹介していこう。
それにしても、こんなにも真っ正面に登りつくとは思ってなかったので、いささかたじろいだ。ちなみに写真右下の方に転がっているのは、擁壁または隧道に関連すると思しき、整形された石材。こういうのがいくつか散乱していた。
まずは坑口に正対して、少し左へ振った景。
谷積み擁壁は、前回書いたように、後年の補修だと思われる。
ここまで寄っても、一般人なら坑口がどれなのかわからないかも?坑口前には相当な量の土砂や倒木がうずたかく堆積していた。…ってか、寄せ集められてる?
今度は、坑口に正対した少し右へ振った景。
ここで注目すべきは、やはり擁壁。
こちらの擁壁は、
野面積み。
こちらの方が、より古い時代のものだろう。この道が開かれた当時のものという可能性もある。
さて…いよいよ。
坑口へと。
こうして見るとすっかり埋まってしまってるように見える…。
もう少し登ってみると…うおぅ。
貫通してる!そしてアレは…!
わたくしもよととさんのレポを見てからも相当経っていたので、単純に素掘りの古洞であるとしか記憶していなかったのだが…まさかの、石。
じらして申し訳ないが(笑)、ここで振り返り。
イイねぇ~(笑)。
これでようやく周囲の感じを掴んでいただけたのでは?
(地形的に当然ながら)現道と同じく隧道を抜けた道は、急カーブで右へと曲がり、北山川に沿った断崖の上をゆく。これが前回辿った旧道ということになる。
この隧道のことを業界的に最初に世に出したのは、やはり「廃道をゆく」の共著者であるNagajis氏(永冨謙氏)だと思うのだが、氏によればこの道はかつての大和街道であるとのこと。こんなにも高い位置を通過していたのですなあ…。
そして…先ほどチラ見せしたこの隧道、やはり氏によれば
明治隧道だということなのだが、
石で巻かれている!
これが、初代土場隧道、下北山側坑口。
とはいえ、現道の隧道名からそう呼んでいるだけで、実際にこの古洞がそのような名称で呼ばれていたのかは不明だ。
ただ、現隧道の名称である「土場」(どば)とは、伐り出した木材の集積地を意味する林業用語ということで、昭和30年代にダムができて道路が付け替えられる遥か以前から、北山川と大又川の出会うこのあたりは、筏流しの中継や集積で重要な場所だったのだろうと思われる。
なので、通称「土場の隧道」みたいな感じで呼びならわされていたのかもな~…とか、いろいろ妄想すると、もう楽しすぎる(笑)。
さて、すっかり埋まってしまってるかに見えた坑口だが、
てっぺんまで登ってみると、
行ける行ける!ヨユーだ。もちろん入るさ(笑)。
しかしこの感じは…坑口上部がガッツリと崩落したって感じですなあ。そこに、山仕事の方が倒木なんかも寄せ集めた、って感じか。要石みたいな位置に、めっちゃ凶悪な感じの岩が突出してるのが怖い(笑)。
慎重に降りながらも、石で巻かれたアーチを鑑賞。
破断面を見る限り、モルタルが使われていたようだ。
側壁も含めて非常に精緻に組まれていたようではあるが、さすがに上部からの崩落とあっては損傷やむなし。とはいえ、見たところ石巻のアーチはこれより外には続いていなかったように見える。一番外側の一部が欠損した感じか。
が、反対側を観察すると、
アーチはここで終わりでも、側壁部はまだもう少し外まで設けられていたようだ。
ただ、目地が揃ってるので、あるいは後年の付け足しなのかも。
無事に洞内へ着地、そして振り返り。
ぐはぁ、イイ~(悶)。
【3】に続く。