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『 花びらの積もる道 』

 

第十四章 名前のない店

 

 木曜日の朝、順子は店を開けると、灰色のカーディガンをミシンのそばへ置いた。

 

 穴の開いていた肘には、深い赤の糸で小さな葉を三枚刺してある。反対側にも同じものを入れた。

 

 揃えすぎると既製品のようになるので、葉の向きだけを少し変えた。

 

 十一時前、履物店の妻が来た。

 

「できました?」

 

「着てみてください」

 

 妻はカーディガンへ袖を通し、鏡の前で両腕を交互に見た。

 

「思うたより、派手じゃないですね」

 

「派手な方がよかった?」

 

「いえ、これくらいがええです」

 

 腕を曲げ、もう一度伸ばした。

 

「穴が開いたから、前よりええ服になったみたい」

 

「それなら、直した甲斐があります」

 

 妻は代金を払い、カーディガンを着たまま店を出た。

 

 昼過ぎ、その妻が一人の女性を連れて戻ってきた。

 

「この人、スカートの丈を見てもらいたいそうです」

 

「見てもらうだけでもええですか」

 

 女性は紙袋を抱えていた。

 

「もちろん。直さない方がよければ、そう言います」

 

 試着してもらうと、スカートの裾は足首まであった。

 

「短うした方がええでしょうか」

 

 順子は鏡の中の女性を見た。

 

「普段は、どんな靴を履きます?」

 

「低い靴ばかりです」

 

「では、三センチだけ上げましょう。それ以上短くすると、この布の落ち方が変わります」

 

「三センチで変わりますか」

 

「歩いたときに、少し軽くなります」

 

 女性は鏡の前で裾を持ち上げた。

 

「お願いします」

 

 順子はまち針を打った。

 

 店を始めてから、客が一人も来ない日はあった。

 

 二人来る日も、三人来る日もある。

 

 買ったものの着方が分からないブラウス。娘から贈られたが、自分には若すぎると思っている上着。夫が亡くなったあと、捨てることも着ることもできずにいたコート。

 

 順子は、すぐには直さなかった。

 

 何と合わせて着るのか、どこへ着ていきたいのかを聞いた。持ち主が話しているうちに、直す場所が変わることもある。

 

 何もせず持ち帰る人もいた。

 

「聞いてもろうただけで、決まりました」

 

 そう言われた日は、売上の帳面には何も書けなかった。

 

 順子は代わりに、相談一件、と小さく記した。

 

 店の名前は、まだなかった。

 

 履物店の店主は「直し屋さん」と呼び、妻は「順子さんの店」と呼んだ。

 

 そのどちらでも、いまは困らなかった。

 

 千穂とは、二日に一度ほど電話で話した。

 

 以前の千穂は、仕事のことを尋ねても「普通」としか答えなかった。

 

 最近は、窓口へ来た人が書類を家へ忘れてきた話や、上司が眼鏡をかけたまま眼鏡を探していた話をする。

 

「誰も教えなかったの?」

 

「教えたわよ。笑うのを我慢してから」

 

「先に教えてあげればいいでしょう」

 

「お母さんだって笑うでしょう」

 

「私は笑わないわ」

 

「いま笑ってるじゃない」

 

 順子は、自分の声が電話へ漏れていたことに気づいた。

 

「あなたも、よく笑うようになったわね」

 

「前から笑ってるわよ」

 

「そうだったかしら」

 

「そうよ」

 

 千穂は少しむきになって答えた。

 

 だが、その声にも笑いが残っている。

 

 順子は、それ以上言わなかった。

 

 仕事がうまくいっているのかもしれない。

 

 周囲と話せるようになっただけかもしれない。

 

 何か別の理由があるのかもしれない。

 

 いずれにしても、以前より声が明るくなった。

 

 それだけ分かれば、いまは十分だった。

 

 洋子から電話がかかってきたのは、店を始めて一か月ほど過ぎたころだった。

 

「お店を始めたそうですね」

 

「誰に聞いたの?」

 

「順子さんが送ってくれた花の写真、窓辺じゃなかったでしょう」

 

 店を開けて間もないころ、順子は黄色い花の写真を洋子へ送っていた。

 

 洋子は、花の後ろに映った布と糸の棚を見ていた。

 

「気づいていたのね」

 

「花屋ですから、花の後ろも見ます」

 

「それは花屋の仕事ではないでしょう」

 

「今度、行ってもええですか」

 

「もちろん」

 

 洋子は、次の土曜日に一人で来た。

 

 ガラス戸を開けると、店の中をゆっくり見回した。

 

「ほんまにお店ですね」

 

「何だと思っていたの?」

 

「窓辺に花を置くための部屋かと」

 

「家賃を払ってまで、花だけ置かないわ」

 

 洋子は笑い、黄色い花へ近づいた。

 

「まだ枯らしていませんね」

 

「水をやりすぎないようにしているから」

 

「上手に育ててます」

 

 洋子は鉢の向きを少し変えた。

 

「こっちの方が、日がよう当たります」

 

「ありがとう」

 

「この店、名前はないんですか」

 

「まだ決めていないの」

 

「名前がなくても、お客さんは来るんですね」

 

「順子さんの店で通じるらしいわ」

 

「では、それが名前でええんじゃないですか」

 

「自分の名前を看板に出すのは、少し恥ずかしいわ」

 

「順子さんでも、恥ずかしいことがあるんですね」

 

「失礼ね」

 

 洋子は棚の糸やボタンを一つずつ見た。

 

「ええ店ですね」

 

「何も売っていないけれど」

 

「順子さんがしてくれることは、よう分かります」

 

 昼近くになると、洋子は時計を見た。

 

「長居をしたら、お仕事の邪魔ですね」

 

「あなたは、お客さんではないでしょう」

 

 順子が言うと、洋子は少し驚いた顔をした。

 

 そのあと、うれしそうに笑った。

 

「では、また来てもええんですね」

 

「もちろん」

 

「今度は、直してもらう服を持ってきます」

 

「直すところがあればね」

 

 店を出るとき、洋子は商店街の先を見た。

 

「来年の桜も、見に来てええですか」

 

「ええ」

 

「今度は千穂さんも誘いましょう」

 

「そうね」

 

 洋子は少しためらってから言った。

 

「主人も一緒で、ええですか」

 

 順子はすぐには答えなかった。

 

 亨が自分から来たがるとは思えない。

 

 洋子が誘えば、断りきれずに来るのかもしれない。

 

「もちろん」

 

 順子は言った。

 

「では、四人ですね」

 

 洋子は簡単に決めた。

 

 順子は店の前に立ち、洋子の背中を見送った。

 

 何も決まったわけではない。

 

 来年の桜がいつ咲くのかも、その日に四人が揃うのかも分からない。

 

 それでも、洋子の言った四人という言葉だけが、しばらく耳に残った。

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『 花びらの積もる道 』

 

第十三章 最初の客

 

 月曜日、千穂はいつもより早く市役所へ着いた。

 

 休んでいる間の仕事は、後輩が整理してくれていた。

 

 処理の済んだものには日付が入り、途中のものには、誰へ何を確認するかが書いてある。

 

「おはようございます」

 

「おはよう。これ、分かりやすかった。ありがとう」

 

「僕が忘れないために書いただけです」

 

 後輩はそれ以上何も言わず、自分の席へ向かった。

 

 午前中、千穂は会議の日程を入力した。

 

 手帳と照らし合わせ、保存してから、もう一度画面を開く。

 

「来週の水曜日で合ってるよね」

 

 横を通った後輩へ尋ねると、画面を見てくれた。

 

「合ってます。午後二時からです」

 

「ありがとう」

 

 以前なら、人に確かめることを恥ずかしいと思ったかもしれない。

 

 いまは、確かめたことで間違わずに済んだのなら、それでよいと思えた。

 

 一週間後の日曜日、千穂は津山へ来た。

 

 順子と二人で商店街へ向かい、空いた店の中で契約書を広げた。

 

 隣の履物店の店主は、折り畳み椅子を三脚運んできた。

 

「市役所の人に見られると、緊張しますな」

 

「今日は娘として来ただけです」

 

 千穂はそう言いながら、契約書を一枚ずつめくった。

 

 家賃、電気代、水道代、契約を終える場合の申し出の期限。順子が聞いていた内容と違うところはない。

 

「この棚は、使ってもいいんですか」

 

 千穂が壁際を指した。

 

「ええ。前の店が置いていったもんです」

 

「不要になった場合は?」

 

「こちらで片づけます」

 

「では、それを書き加えてもらえますか」

 

 店主は順子を見た。

 

「しっかりした娘さんですね」

 

「こういうことになると、細かいのよ」

 

「お母さんが細かくなさすぎるの」

 

「まだ何も始めていないのに、棚を捨てる話をする人も珍しいわ」

 

「始める前だから確認するの」

 

 店主は笑いながら、契約書へ一行を書き加えた。

 

 千穂がもう一度読み、順子へ渡した。

 

「大丈夫だと思う」

 

「思う、なのね」

 

「絶対とは言わないことにしたの」

 

 順子は署名し、印を押した。

 

 店主が契約書を受け取り、鍵を一つ差し出した。

 

「これで、今日から借り主です」

 

 順子は鍵を手のひらへ載せた。

 

 東京の店の鍵より、小さくて軽かった。

 

「それで、何をするの?」

 

 千穂が尋ねた。

 

「服の相談と、少しのお直し」

 

「服を売るんじゃなくて?」

 

「新しいものを仕入れて並べるつもりはないわ。手持ちの服を見て、何と合わせるか考えたり、丈を直したり」

 

「それで商売になるの?」

 

「ならないかもしれないわね」

 

「ならないかもしれないのに借りたの?」

 

「だから、週に三日だけ」

 

 千穂は店の中を見回した。

 

「お母さんが決めたなら、やってみたら」

 

「止めないの?」

 

「もう契約したでしょう」

 

「あなたが確認したあとにね」

 

 店主は二人の顔を交互に見た。

 

「ええ相棒がおって、よろしいな」

 

「相棒ではありません」

 

 千穂がすぐに言った。

 

「では、監査役ですか」

 

「それなら近いです」

 

 順子は笑った。

 

 それから二週間、順子は店を整えた。

 

 東京から持ち帰った小さなミシンを窓際へ置いた。壁には布を掛け、棚には糸や針、ボタンを並べた。

 

 入口には、自分で書いた紙を貼った。

 

〈服の相談とお直し

 火・木・土 十時から四時まで〉

 

 店の名前は、まだつけなかった。

 

 名前を決めてから始めるより、始めたあとで似合う名前を探してもよいと思った。

 

 洋子の店で買った黄色い花は、部屋の窓辺から店へ移した。

 

 朝の日が入る場所を選び、土が乾いていることを確かめてから水をやった。

 

 開店の日、順子は九時半に店へ入った。

 

 床を掃き、ミシンの糸を確かめ、入口の紙を真っすぐに貼り直す。

 

 十時になっても、誰も来なかった。

 

 十時半、隣の店主が顔を出した。

 

「どうです?」

 

「見れば分かるでしょう」

 

「最初の日は、そんなもんです」

 

「慰めに来たの?」

 

「様子を見に来ただけです」

 

 店主は棚と壁を見回した。

 

「ええ店になりましたな」

 

「何も売っていないけれど」

 

「何をしてくれる店かは分かります」

 

 店主が戻ると、また静かになった。

 

 順子は椅子へ座り、ほどきかけの布を手に取った。

 

 十一時を少し過ぎたころ、ガラス戸が開いた。

 

「入ってもええですか」

 

 履物店の店主の妻だった。

 

「もちろん」

 

「主人に行ってこいと言われたんじゃありませんよ」

 

「まだ何も聞いていません」

 

「それなら、ええんです」

 

 妻は紙袋から、灰色のカーディガンを出した。

 

「ここが薄うなってしもうて」

 

 片方の肘に、小さな穴が開いている。

 

「直せますか」

 

 順子は布を光へ透かした。

 

「同じ色で目立たなくすることもできますし、別の色を使うこともできます」

 

「別の色?」

 

「たとえば、深い赤で両方の肘へ小さく刺しておけば、直した跡には見えません」

 

「穴がない方も?」

 

「片方だけより、最初からそういう服に見えます」

 

 妻はカーディガンを広げた。

 

「赤は派手じゃありませんか」

 

「袖口から少し見えるだけです。お嫌なら、灰色で直します」

 

 妻はしばらく考えた。

 

「赤にしてください」

 

「分かりました」

 

「いつできます?」

 

「木曜日には」

 

「おいくら?」

 

 順子が金額を告げると、妻は財布を出した。

 

「受け取るときで結構です」

 

「最初のお客なのに、逃げると思うたんですか」

 

「逃げると思わないから、あとでいいんです」

 

 妻は笑った。

 

「では、お願いします」

 

 順子はカーディガンを預かり、名前と電話番号を書いてもらった。

 

 ガラス戸が閉まる。

 

 店の中は、また静かになった。

 

 それでも、先ほどまでの静けさとは違っていた。

 

 灰色のカーディガンが、ミシンのそばに置かれている。

 

 順子は赤い糸を何色か並べた。

 

 店を閉めてから、千穂へ電話をかけた。

 

「今日、最初のお客さんが来たわ」

 

「ほんとに?」

 

「どういう意味よ」

 

「誰も来なくても、来たことにするかと思って」

 

「そんな嘘はつきません」

 

「何を頼まれたの?」

 

「カーディガンの肘を直すの」

 

「お母さんらしい仕事ね」

 

「私らしい?」

 

「穴を隠すだけじゃなくて、何か足すんでしょう」

 

 順子は赤い糸を見た。

 

「どうして分かったの」

 

「お母さんだから」

 

 千穂の声が笑っていた。

 

「今日は機嫌がいいのね」

 

「普通よ」

 

「そう?」

 

「お母さんの最初のお客さんが来たんだから、少しくらい喜んでもいいでしょう」

 

 以前の千穂なら、自分の声が明るいことまで打ち消したかもしれない。

 

 順子は、それ以上尋ねなかった。

 

「木曜日までに仕上げるの?」

 

「ええ」

 

「明日は店を休むんでしょう」

 

「休むわよ」

 

「なら、ゆっくりしたら」

 

「そうするわ」

 

 電話を切ったあとも、順子はすぐには帰らなかった。

 

 灰色のカーディガンをもう一度広げ、肘へ赤い糸を置いてみる。

 

 店は明日、開けない。

 

 それでも、次に何をするかは決まっていた。

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『 花びらの積もる道 』

 

第十二章 空いた店

 

 翌朝、順子が目を覚ますと、窓辺に置いた黄色い花へ日が当たっていた。

 

 洋子は、水をあげすぎないようにと言った。

 

 順子は土へ指を触れ、まだ湿っていることを確かめた。

 

 何もしないでおくことにも、加減がいる。

 

 寝室には、口を開けた段ボール箱が三つ並んでいた。

 

 残すもの、手放すもの、まだ決められないもの。

 

 昨夜は三つに分けた。以前なら、三つ目の箱ばかりがいっぱいになっただろう。

 

 順子は亨から受け取った手紙を鞄から出した。

 

 封を切ったのは、京橋から戻った夜だった。ひととおり読んだだけで、折り目を元に戻している。

 

 読み返すつもりはなかった。

 

 それでも捨てなかったのだから、いつか読むつもりだったのだろう。

 

 順子は手紙を食卓へ置き、湯を沸かした。

 

 千穂から電話がかかってきたのは、コーヒーを淹れた直後だった。

 

「昨日、ちゃんと帰った?」

 

「帰ったわよ」

 

「箱は開けた?」

 

「三つ」

 

「急に働くわね」

 

「あなたに言われたくないわ」

 

 千穂が少し笑った。

 

 以前と同じようで、以前とは違う笑い方だった。

 

「今日から、仕事に戻るのね」

 

「うん」

 

「大丈夫?」

 

「大丈夫かどうかは、戻ってみんと分からん」

 

「昨日も、同じことを言っていたわね」

 

「だから、間違えたら直す」

 

「それで疲れない?」

 

「前より確認は増えると思う」

 

「悪いことではないでしょう」

 

「お母さんまで上司みたいなことを言わないで」

 

 順子はコーヒーへ口をつけた。

 

「千穂、昨日のことなんだけど」

 

「何?」

 

「あのあと、洋子さんの店へ寄ったの」

 

 電話の向こうが静かになった。

 

「どうして?」

 

「顔を見ておきたかったのよ」

 

「何か話した?」

 

「私たちのことは、何も」

 

「そう」

 

「花を買ったわ」

 

「どんな花?」

 

「黄色い花」

 

 千穂は、それ以上すぐには尋ねなかった。

 

「黙っていられた?」

 

「ええ」

 

「苦しくなかった?」

 

 順子は窓辺の花を見た。

 

「苦しかったわ」

 

「それでも、話さなかったんだ」

 

「話さないと決めたから」

 

 自分で口にしてみると、立派な決意のように聞こえた。

 

 実際には、洋子の前で何度も言葉を飲み込んだ。少し油断すれば、亨という名前が口から出そうな気がした。

 

「正しかったと思う?」

 

「分からない」

 

「お母さんでも、分からないんだ」

 

「分からないことくらいあるわよ」

 

「前は、あまりそう言わなかったね」

 

 順子は返事をしなかった。

 

 千穂も答えを求めなかった。

 

「花の名前は?」

 

「聞くのを忘れたわ」

 

「花を買って、名前を聞かなかったの?」

 

「育て方は聞いたから大丈夫よ」

 

「写真を送って。調べるから」

 

「枯らす前に?」

 

「水をやりすぎなければ大丈夫」

 

「どうして、あなたまで同じことを言うの」

 

「花は大抵、水のやりすぎで駄目になるから」

 

 順子は、そう、と答えた。

 

 同じ言葉でも、誰が言ったかによって残り方が違う。

 

「お母さん」

 

「何?」

 

「洋子さんに会ったことを、話してくれてありがとう」

 

「隠すことではないでしょう」

 

「うん」

 

 千穂は短く答えた。

 

 順子には、その一言で十分だった。

 

 電話を切ったあと、食卓の手紙を開いた。

 

 亨の字は、大学時代より小さくなっている。線も細い。だが、ところどころ右上がりになる癖は変わらなかった。

 

〈あのとき、僕は自分の怖さを、あなたのためだと言い換えました〉

 

〈決めることをあなたに押しつけながら、決まったあとは、二人で決めたことのように振る舞いました〉

 

 順子はそこで手を止めた。

 

 亨は、言い訳を書いていなかった。

 

 若かったことも、怖かったことも、それだけなら言い訳になったはずだ。それを自分の卑怯さとして書いている。

 

 だからといって、順子の記憶が軽くなるわけではない。

 

 書かれた言葉が正しければ、起きたことまで正しくなるわけでもなかった。

 

 順子は手紙の先を読んだ。

 

〈あなたが許さないと言ったことを、そのまま受け取ります〉

 

〈許されないまま覚えておくことが、僕に残されたことだと思っています〉

 

 京橋で、順子は許さないと言った。

 

 いまも、その言葉を取り消すつもりはない。

 

 許さないという言葉は、亨を縛るためだけに口にしたのではなかった。許したふりをして自分を急がせないためでもある。

 

〈あなたの人生が、あの日より先へ続いていたことを、いまの僕は知っています〉

 

 手紙は、その一文で終わっていた。

 

 順子の人生は続いていた。

 

 東京へ行き、結婚し、千穂を産み、店を持った。夫を亡くしたあとも七年働き、店を閉じて津山へ戻った。

 

 あの日だけを抱えて生きてきたわけではない。

 

 だが、あの日を置いてきたわけでもなかった。

 

 続いてきた時間のなかに、どちらもある。

 

 亨の人生も、同じように続いてきたのだろう。

 

 洋子と暮らし、息子を育て、その息子はいま神戸で働いている。

 

 順子の知らない年月が、亨にもあった。

 

 順子は、その年月まで自分の記憶の中へ引き寄せたくはなかった。

 

 手紙を元の封筒へ戻し、大学時代のものとは別の小箱へ入れた。

 

 蓋はしなかった。

 

 午後、順子は商店街へ出た。

 

 買うものがあったわけではない。

 

 ただ、部屋にいると、洋子が花を包む姿ばかり思い出された。

 

 洋子は花の色を選び、日当たりを尋ね、水のやり方を教えた。話をしながらも、薄い紙を重ね、包み紙の端をきちんと折っていた。

 

 あれは、ただ手順を覚えている人の手つきではなかった。

 

 花が順子の部屋へ運ばれたあとまで考えている。

 

 順子は、洋子の働く姿をきれいだと思った。

 

 花が似合うからではない。

 

 目の前にいる人のために手を動かしている。そのことが、きれいだった。

 

 東京で店をしていたころの自分を思い出した。

 

 客の顔を見て、似合う服を選ぶ。迷っている人には別の色を出し、買わずに帰る人にも、またどうぞと言う。

 

 夫が亡くなったあとも、順子は七年間、店を開けた。

 

 あのころは、暮らすために続けていると思っていた。閉めてみて初めて、店に立つことで暮らしていたのだと分かった。

 

 洋子は、店を始めろとは言わなかった。

 

 何かを勧めたわけでもない。

 

 ただ、花屋で働いていた。

 

 その姿を見たあとでは、段ボール箱を片づけるだけで、自分のこれまでが片づくとは思えなくなっていた。

 

 以前ブティックだった店の前で、順子は足を止めた。

 

 閉店してから長く、ガラス戸には内側から紙が貼られていた。数日前、その紙が外され、中が見えるようになっている。

 

 空いた店内には、壁際の棚が二つ残っていた。床には、什器を置いていた跡が薄く四角くついている。

 

 順子が見ていると、隣の履物店から店主が出てきた。

 

「借り手を探しとるんですよ」

 

「ここ、空いたんですか」

 

「先月でな。若い人が何かしてくれたらええんじゃけど」

 

「若くない人では駄目なの?」

 

 店主は順子の顔を見た。

 

「何かするんですか」

 

「まだ、何も」

 

「何もせん人は、そんな顔で中を見ませんよ」

 

「どんな顔をしていたのかしら」

 

「家賃を聞こうかどうしようか、考えとる顔です」

 

 順子は笑った。

 

「おいくら?」

 

「ほら、聞いた」

 

 店主は履物店へ戻り、帳面を持ってきた。

 

 家賃は、東京で借りていた店の五分の一にも満たなかった。広さは三分の一ほどである。

 

「何を置くんです?」

 

「まだ決めていないの」

 

「服ですか」

 

「もう、仕入れて売る店はしないわ」

 

 言ってから、順子は自分がすでに一つ決めていたことに気づいた。

 

 以前と同じ店にはしない。

 

 それだけは決まっている。

 

「中、見ますか」

 

 店主が鍵を取りに戻った。

 

 順子はガラス越しに空いた店を見た。

 

 店を持てば、昔の自分へ戻れるわけではない。

 

 戻りたいとも思わなかった。

 

 それでも、誰かの前に立ち、手を動かし、その人のために何かを選ぶ時間を、もう一度持ってみたいと思った。

 

 店主が鍵を持って戻り、ガラス戸を開けた。

 

 閉め切っていた匂いが外へ流れた。

 

「電気は来とります。水道は奥。便所は共同です」

 

 順子は中へ入った。

 

 表から見るより狭い。

 

 それでも、奥まで歩くと、壁一面に布を掛けられることが分かった。棚には小物を置ける。窓辺なら、鉢植えも一つ置けそうだった。

 

「すぐには決めませんよ」

 

「もちろん」

 

「娘にも相談します」

 

「そうしてください」

 

 店主は急がせなかった。

 

 順子は店の中央に立った。

 

 東京の店を再現するつもりはない。

 

 昔の自分へ戻るつもりもなかった。

 

 戻らずにできることがあるかもしれない。

 

「一週間、待ってもらえますか」

 

「その間に若い人が来たら、そちらを優先してもええですか」

 

「ええ」

 

「冗談ですよ。ずっと空いとりますから」

 

「商売が上手なのか、下手なのか分からないわね」

 

「貸す方も、相手を見ますから」

 

 順子はもう一度、店の中を見回した。

 

 何を置くかは決まっていない。

 

 誰を呼ぶかも、まだ分からない。

 

 ただ、何もない場所には、何かを置く余地がある。

 

 それは、空っぽであることとは少し違った。

 

 帰り道、千穂へ電話をかけた。

 

「いま、話せる?」

 

「大丈夫。どうしたの」

 

「商店街に空いている店があるの」

 

「店?」

 

「小さいけれど」

 

「借りるの?」

 

「まだ決めていないわ」

 

「何をするの?」

 

「それも、まだ」

 

 電話の向こうで、千穂が黙った。

 

「止めないの?」

 

 順子が尋ねると、千穂は息をついた。

 

「止めてほしいの?」

 

「そういうわけではないけど」

 

「なら、自分で決めたら」

 

 少し前までの千穂なら、家賃や契約期間や採算を先に尋ねただろう。

 

「ただし、契約書は私にも見せて」

 

「やっぱり、そこは確認するのね」

 

「確認して困ることはないでしょう」

 

「それはそうね」

 

「決める前に見せて」

 

「分かったわ」

 

「お母さん」

 

「何?」

 

「何をするか決まったら、一番に教えて」

 

「決まればね」

 

 電話を切り、順子は家へ戻った。

 

 窓辺の黄色い花は、朝と同じ場所にある。

 

 土はまだ湿っていた。

 

 順子は水をやらなかった。

 

 何もしないまま、しばらく花を見ていた。