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『 花びらの積もる道 』
第十章 三人
順子から電話があったのは、千穂が二日目の休暇を終えようとしていた夕方だった。
千穂は起きたまま、寝床に座っていた。
窓の外では、向かいの建物の明かりが一つずつつき始めている。
「明日、岡山へ行きます」
挨拶のあと、順子はすぐに言った。
「どうして?」
「亨と話しました」
千穂は携帯電話を耳から少し離した。
母が亨を名前で呼んだ。
「会ったの?」
「昨日、京橋の近くで」
「私には何も言わずに?」
「先に二人で話す必要があったから」
「何を話したの」
「あなたのことよ」
「私のことなのに、私はあとなんだ」
「あなたの前で、四十数年前の喧嘩を始めたくなかったの」
「喧嘩したの?」
「少し」
「少しで済んだんだ」
「千穂」
順子は声を強くしなかった。
「明日の午後、三人で会いませんか」
「どうして私が」
「あなたが、仕事を休むことになったから」
「二人で話して、もう終わったんでしょう」
「終わってないわ」
「だったら、私を入れないで」
「来るかどうかは、あなたが決めればいい」
順子はそこで言葉を切った。
「でも、私と亨は、あなたに話さなければならないと思っています」
「何を?」
「私たちのことを、あなたが代わりに引き受けなくていいということを」
「言われたら、忘れられるの?」
「忘れなくていい」
「では、何のために会うの」
「知らなかった頃には戻れないでしょう。戻れないなら、知ったまま、どこへ置くかを考えるしかないから」
「二人で置き場所を決めたの?」
「決めてないわ」
「また、私に決めさせるんだ」
「そう聞こえたなら、ごめんなさい」
千穂は枕元に置いた腕時計を見た。止まっているように見えたが、秒針は動いていた。
「明日の二時に、京橋の近くにいます」
「行かなかったら?」
「帰ります」
「澤口さんも?」
「ええ」
「二人で待つの?」
「そうなるわね」
千穂は、母と亨が並んで自分を待つ姿を思い浮かべた。
四十数年会わなかった二人が、自分を待つために同じ場所へ立つ。
「分かった」
千穂は言った。
「行く」
翌日の午後、千穂は約束より十分ほど遅れて京橋へ着いた。
遅れようとしたわけではない。
自宅を出る前、何度も鞄の中を確かめた。携帯電話を持ったか。鍵を掛けたか。火を使っていないか。
建物を出たあと、もう一度戻って鍵を確かめた。
掛かっていた。
順子と亨は、旭川沿いのベンチから少し離れた場所に立っていた。
二人の間には、人が一人入れるほどの距離がある。
近くもなく、遠くもなかった。
「遅くなってごめん」
「来てくれただけでいいわ」
順子が答えた。
亨は頭を下げた。
「休んではるところ、すみません」
「今日まで休みなんです」
千穂の声が硬くなった。
「誰のせいとは言いませんけど」
亨は言い返さなかった。
三人は川沿いのベンチへ移った。
順子が端に座った。
千穂は母との間を一人分空けて座り、亨は反対の端へ腰を下ろした。
三人の間には、それぞれ一人分ずつの空きがあった。
旭川には、午後の光が細かく揺れている。
「何を話すの」
千穂が尋ねた。
順子と亨は一度、互いを見た。
「私から話すわ」
順子が言った。
「あなたが箱の中を見つけたとき、あなたには関係のないことだと言いました」
「うん」
「あれは違った」
千穂は母を見た。
「あなたは私の娘だから、まったく関係がないとは言えない」
「では、関係があるんでしょう」
「あるわ」
「昨日は、ないと言った」
「間違えたのよ」
「お母さんも間違えるんだ」
「よく間違えるわ。あなたに言わないだけで」
千穂は少しだけ口元を動かした。
「でも」
順子は続けた。
「あなたに関係があることと、あなたが何かをしなければならないことは、同じではない」
「言葉を変えただけに聞こえる」
「そうかもしれない。でも、聞いて」
順子は膝の上で両手を重ねた。
「私が妊娠したこと。産まないと決めたこと。一人で病院へ行ったこと。亨を許していないこと。それは、私と亨の間にあることです」
「でも、お母さんは一人だった」
「一人だったわ」
「澤口さんは来なかった」
「来なかった」
「だったら」
「あなたが、私の代わりにこの人を憎む必要はないの」
千穂は亨を見た。
「私が憎んでるように見える?」
「見えるわ」
「お母さんの代わりじゃない。私が腹を立ててるの」
「それなら、腹を立てていい」
「どっちなの?」
「私のために腹を立てているなら、やめてほしい。でも、あなたが自分で腹を立てているなら、私にはやめさせられない」
「ずるいね」
「そうね」
順子は否定しなかった。
「私も、どう渡せばいいのか分からないのよ」
「お母さんが渡したんじゃないでしょう。私が見つけた」
「そうね」
順子は同じ言葉を繰り返した。
「それも、間違えた。私が話す前に、あなたに見つけさせた」
「わざとじゃないでしょう」
「わざとでなければ、間違いにならないの?」
千穂は答えなかった。
川から来た風が、三人の足元を通った。
順子のスカートの裾が揺れた。
「澤口さんは?」
千穂が尋ねた。
亨は膝の上で組んだ手をほどいた。
「僕は、あなたのお母さんが一人で決めるしかない場所から、逃げました」
「母は、来なくていいと言ったんでしょう」
「言われました」
「だったら」
「ほんまに行くつもりやったら、病院の近くまで行けたと思います。順子に会うなと言われたら、外で待つこともできた」
「どうして行かなかったんですか」
「怖かったからです」
「何が?」
「順子の顔を見ることも、その日に失うものを見ることも、自分が責任を持つことも」
「それで、あとから半分のお金を送った」
「はい」
「半分で済むと思ったんですか」
「金を払わなあかんとしか、考えられませんでした」
「母は使わなかった」
亨は順子を見なかった。
「昨日、聞きました」
「ずっと持ってたんです」
「はい」
「どう思いました?」
亨は膝の上の手を見た。
「捨てられへんものを、僕が送ったんやと思いました」
「お金を?」
「お金も、その手紙も」
「後悔した?」
「しました」
「四十数年?」
「毎日やありません」
千穂は顔を上げた。
亨は続けた。
「忘れてた日もあります。仕事をして、洋子と暮らして、別のことを考えてた日もようけあります」
「よく、そんなことを言えますね」
「ずっと苦しんでたと言うたら、嘘になるからです」
千穂は亨を見た。
長く苦しんできたと言って泣かれたら、もっと腹が立ったかもしれない。
だからといって、忘れていたと言われて楽になるわけでもなかった。
「謝ったんですか」
「昨日、謝りました」
「それで?」
「聞きました」
順子が答えた。
「許したの?」
「許してないわ」
「では、何が変わったの」
順子は川を見た。
「この人が、来なかった人であることは変わらない」
亨が静かにうなずいた。
「でも、この人が、あの日だけでできているわけではないことも分かった」
「許してないのに?」
「許さないまま、そう思ったの」
千穂は二人を交互に見た。
「よく分からない」
「私も昨日、初めてそう思ったばかりだから、うまく説明できないわ」
「お母さんが説明できないのに、私に分かるわけないでしょう」
「そうね」
順子は少し笑った。
「では、いまは分からないままでいいんじゃない?」
千穂は笑わなかった。
ただ、鞄の中を確かめたくなる気持ちが、少しだけ遠のいた。
「私は、順子がそのあと幸せだったのか、知りたいと思ってました」
亨が言った。
「どうして?」
千穂が尋ねた。
「幸せやったら、自分が少し安心できると思うてたからです」
「それの何が悪いんですか」
「さあ」
亨は川へ目を向けた。
「悪いと言い切れるかどうかは、僕にも分かりません。ただ、順子が幸せやったら、自分のしたことが少し軽うなると思うてました」
「軽くなったんですか」
今度は順子が尋ねた。
「いいえ」
「私は幸せでした」
順子は言った。
亨を見ず、千穂を見た。
「お父さんと暮らしたことも、あなたを産んだことも、店をしていたことも」
「でも、私が生まれたとき、思い出したんでしょう」
「思い出したわ」
順子は同じ答えを返した。
「それでも、あなたを代わりだと思ったことはない」
「どうして、二つに分けられるの」
「分けてないのよ」
「では、同じなの?」
「同じでもない」
「また言葉の話?」
千穂は苛立った。
順子は膝の上の手をほどいた。
「あなたが生まれた日のことを、話してもいい?」
「前にも聞いた」
「全部は話してないわ」
千穂は答えなかった。
「あなたは髪の多い赤ちゃんだった。看護婦さんが、こんなに髪がある子は珍しいと言ったの」
「それは聞いた」
「指を一本ずつ数えた。右手を数えて、左手も数えた。それから、もう一度右手を数えた」
「どうして?」
「十本あると分かっても、また数えたくなったのよ」
千穂は自分の右手を見た。
「お父さんは?」
「あなたの足を数えてた」
「二本でしょう」
「指よ。靴下を脱がせようとして、看護婦さんに怒られた」
千穂の口元が少し動いた。
「それで、あの子のことを思い出したの?」
「あなたの指を数えたときに」
「やっぱり」
「でも、数えていたのは、あなたの指よ」
順子は千穂の手を見た。
「十本あったから、うれしかった。あの子を思い出したから、うれしくなかったわけではないの」
千穂は手を握った。
すぐに納得できたわけではない。
ただ、母が数えたという指は、いまも自分の手についている。
「澤口さん」
千穂が言った。
「はい」
「奥さんは、何も知らないんですよね」
亨の表情が止まった。
「知りません」
「このまま、話さないんですか」
「いまは、そのつもりです」
「どうして?」
亨は答える前に、順子を見た。
「私を見ないでください」
順子が言った。
「洋子さんに話すかどうかは、あなたが決めることでしょう」
千穂は母を見た。
「洋子さんって、鶴山公園を一緒に歩いた人?」
「そうよ」
「知ってたの?」
「昨日、亨から聞いたの」
「それで、何も言わなかったの?」
「いま言ったでしょう」
「そういう意味じゃない。澤口さんの奥さんだと知って、どうしたの」
「腹を立てたわ」
「それだけ?」
「帰ろうともした」
「帰らなかったんだ」
「あなたの話が残ってたから」
千穂は亨へ顔を向けた。
「澤口さんは、母と奥さんが会ってることを知ってたんですか」
「知ってました」
「それなのに黙ってた」
「はい」
「なぜ?」
「言えば、二人の間にできたものを、僕と順子の過去に変えてしまうと思うたからです」
「それは、きれいな方の理由でしょう」
順子が言った。
亨はうなずいた。
「洋子に知られるのが怖かった。順子と洋子が会えへんようになるのも、自分が責められるのも怖かった」
「また怖かったんですね」
千穂が言った。
「はい」
「怖いと言えば、何でも済むんですか」
「済みません」
「では、奥さんに話すんですか」
「いまは話しません」
「どうして?」
「話したら、自分が楽になる気がするからです」
「奥さんが知りたいかもしれないでしょう」
「そうかもしれません」
「知らないままにするのも、澤口さんが決めるんですね」
「そうです」
「矛盾してる」
「はい」
千穂は眉を寄せた。
「そこで、はいと言われると腹が立つ」
「すみません」
「謝られても腹が立つ」
「亨」
順子が言った。
「何も言わない方がいいわよ」
「黙られても腹が立つ」
千穂が言った。
三人は黙った。
しばらくして、順子が笑った。
声を立てたわけではない。
だが、千穂には分かった。
「何がおかしいの」
「何をしても腹が立つんでしょう」
「いまはね」
「それなら、仕方ないわ」
順子の口元には、まだ笑みが残っていた。
亨も、わずかに俯いた。
「お母さんは、洋子さんに話さないの?」
「私からは話さない」
「どうして?」
順子は川向こうを見た。
「洋子さんと私が鶴山公園で話したことまで、亨との昔のことにしたくないから」
「でも、洋子さんだけが何も知らない」
「そうね」
「不公平じゃない?」
「そうかもしれない」
「お母さんまで、それで済ませるの?」
「済ませてはいないわ」
順子は鞄からハンカチを出した。風で目に埃が入ったらしく、目尻を押さえた。
「洋子さんは、夫婦でも知らないことはあると言ってた」
「だから、話さなくていいの?」
「そうではないわ」
「では、何?」
「分からないのよ」
順子はハンカチを畳んだ。
「私に分かるのは、あの日、洋子さんが私を支えてくれたことだけ。花びらで滑ったとき、腕をつかんでくれた。それは、あの人が亨の妻だからしたことではないでしょう」
「そうだね」
「だから、その日のことは、そのままにしておきたい」
千穂は川面を見た。
風に揺れる光は、どれが昨日のものか分からない。
「私は、どうしたらいいの」
千穂が尋ねた。
順子も亨も、すぐには答えなかった。
「何も言わないんだ」
「あなたに黙っていてとは頼めないわ」
順子が言った。
「でも、話してとも言えない」
「私が話したら?」
「そのときは、私が洋子に説明します」
亨が答えた。
「私を責めない?」
「責めません」
「本当に?」
「はい」
「私が洋子さんを傷つけても?」
亨は口を閉じた。
「責めへんと言うたら、また、千穂さんが何をしてもええと僕が決めることになる」
「では、どうするんですか」
「説明します。千穂さんが話したことも、僕が黙ってたことも」
千穂は二人を見た。
誰も、正しい答えを持っていなかった。
大人になれば分かることが増えると思っていた。母も亨も自分より長く生きているのに、分からないと言う。
それが少し腹立たしく、少しだけ安心でもあった。
川沿いを、自転車に乗った少年が通り過ぎた。
三人の前でベルを鳴らし、振り返らず走っていった。
「明日から、仕事に戻ります」
千穂が言った。
「大丈夫?」
順子が尋ねた。
「大丈夫かどうかは、戻ってみんと分からん」
「無理はしないで」
「間違えたら、直す」
千穂は亨を見た。
「澤口さんの絵の返却は、もう終わりましたから」
「お世話になりました」
「次に市役所から連絡があっても、母の話はしないでください」
「分かりました」
「仕事として会ってください」
「そうします」
千穂は立ち上がった。
順子も立ち、少し遅れて亨が立った。
「お昼、食べた?」
順子が千穂へ尋ねた。
「まだ」
「もう三時近いでしょう」
「食べる気がしなかったから」
「何か食べましょう」
「いらない」
「休みの日まで、何も食べないつもり?」
「お母さんは、すぐ食べさせようとするね」
「それしか、できないからよ」
順子は亨を見た。
「あなたは?」
「私は」
「誘っているわけではありません」
「分かってます」
「では、そこで迷わないでください」
亨は少し笑った。
「帰ります」
「そうしてください」
亨は二人へ頭を下げ、歩き始めた。
途中で一度、振り返った。
順子は千穂の鞄の中をのぞいていた。
「財布、持ってるの?」
「持ってるよ」
「さっきから鞄を何度も見てるから」
「もう確認しなくていい」
「何を食べる?」
「何でもいい」
「それが、いちばん困るのよ」
母娘の声が、風に乗って届いた。
亨は前を向いた。
順子と千穂は、亨と反対の方角へ歩き始めた。
誰も過去から飛び去ったわけではない。
京橋のそばには、三人が座っていた空のベンチが残った。
人一人分ずつ空けて座った跡は、もう見えなかった。