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『 花びらの積もる道 』

 

第十一章 知ったまま

 

 三人で別れたあと、順子と千穂は遅い昼食を取った。

 

 二人とも多くは話さなかった。

 

 千穂は料理を半分ほど食べたところで箸を止め、順子に促されて、残りを少しずつ口へ運んだ。

 

 店を出たところで、千穂が言った。

 

「少し歩きたいの」

 

 順子は津山へ戻る列車まで一緒にいると言ったが、千穂は断った。

 

 母は何か言いたそうにしていたが、引き止めなかった。

 

 千穂は振り返らずに歩いた。

 

 亨が母に頭を下げたことも、母が許さないと言ったことも、三人だけの話にすると自分で決めたことも、まだ身体の中へ収まっていない。

 

 それでも、洋子へ知らせなければならないという思いは消えていた。

 

 消えたというより、置く場所が変わったのかもしれない。

 

 以前の千穂は、知らされなかった自分のために怒っていた。いまは、知らされたあとの洋子を考えている。

 

 どちらが正しいのかは分からない。

 

 ただ、自分の痛みを理由に、別の女性を同じ場所へ立たせることだけはしたくなかった。

 

 千穂と別れたあと、順子は表町へ向かった。

 

 津山へ戻る列車には、まだ時間がある。

 

 洋子の働く花屋の前まで来ると、店先には白い花と淡い桃色の花が並んでいた。

 

 順子は少し離れた場所で足を止めた。

 

 先ほど、自分は洋子に何も知らせないと決めた。

 

 その決心を確かめるために来たのだと言えば、聞こえはよい。

 

 本当は、洋子の顔を見たかった。

 

 何も知らない人の前で、それまでと変わらずにいられるのか。自分を試そうとしている。

 

 順子は店へ入った。

 

「いらっしゃいませ」

 

 洋子は花を包んでいた手を止め、顔を上げた。

 

「あら、順子さん」

 

 その笑顔は、鶴山公園で別れたときと変わらなかった。

 

「岡山へ来てたんですか」

 

「少し用事があって」

 

「寄ってくださったのね」

 

 洋子はうれしそうに言った。

 

 その声を聞き、順子は自分が試す相手を間違えていたと思った。

 

 洋子を見て黙っていられるかどうかではない。最初から、この人を試してよい理由などなかった。

 

「何か、お探しですか」

 

「部屋に置く花を」

 

「どんな色がいいでしょう」

 

「明るい色がいいわ」

 

「では、こちらはどうですか」

 

 洋子が選んだのは、黄色の花だった。

 

「順子さんのお部屋、日当たりはいいですか」

 

「午前中は入ります」

 

「なら、窓辺でも大丈夫です。お水はあげすぎないようにしてくださいね」

 

 洋子は花を包みながら、鶴山公園の話をした。

 

「この前は、順子さんに案内してもろうたでしょう。今年の桜は、もう終わりました?」

 

「いまは葉桜よ」

 

「やっぱり、花の時期は短いね」

 

「短いから、人が見に行くのかもしれないわ」

 

「来年も行ってええですか」

 

「もちろん」

 

「今度は、千穂さんも誘いましょう」

 

「千穂を?」

 

「展示でお世話になったのに、仕事の話しかしたことがありませんから」

 

「そうね。あの子も、たまには花を見る方がいいわ」

 

「仕事ばかりなんですか」

 

「自分では、そう思っていないみたいだけど」

 

 洋子は笑った。

 

「親から見たら、子どもはいつまでも働きすぎるんでしょうね」

 

「洋子さんには、お子さんは?」

 

「ええ。息子が一人。神戸の会社で働いています」

 

「もう、こちらにはいないのね」

 

「ときどき帰ってきます。帰ってきても、ほとんど寝てますけど」

 

「男の子は、そんなものかもしれないわね」

 

「順子さんのところは、娘さんでしょう。話し相手になってくれてええですね」

 

「話し相手というより、注意する相手だと思っているみたい」

 

「親から見たら、子どもはいくつになっても心配ですから」

 

 洋子が息子のことを話す目は、千穂のことを話すときの自分と同じ、母親の目だった。

 

 順子はあらためて思った。

 

 千穂に知られてしまった亨との過去を、この人にまで背負わせてはならない。

 

 それは洋子を何も知らない場所へ置いておくためだけではなかった。

 

 洋子が母親として生きてきた時間も、亨と築いてきた暮らしも、順子たち三人の過去とは別のところにある。

 

 その時間へ、自分から踏み込んではならないと思った。

 

 洋子は花の包みを順子へ渡した。

 

「また来てくださいね」

 

「ええ」

 

「今度は、何か買う用事がなくても」

 

「花屋へ来て、何も買わないの?」

 

「話をして帰るお客さんもいます」

 

「商売にならないわね」

 

「毎日やったら困りますけど、順子さんなら、ときどきは」

 

 順子は黄色い花を受け取った。

 

「では、ときどきにするわ」

 

 何も話さなかった。

 

 それでも、嘘をついたとは思わなかった。

 

 話さないことと、なかったことにするのは違う。

 

 その違いを、自分の中で守らなければならない。

 

 順子が津山の部屋へ戻ったのは、夜になってからだった。

 

 黄色い花を窓辺へ置く。

 

 寝室には、五つの段ボール箱が積まれたままになっている。

 

 順子は一番上の箱を床へ下ろし、蓋を開けた。

 

 ブティックの帳簿や、店で使っていた布が入っている。手に取ったものを、残すものと手放すものに分けていった。

 

 一箱目を終えると、二箱目を開けた。

 

 夫の服が入っている。

 

 順子は一枚ずつ広げた。

 

 亡くなった人の服を手放すことは、その人を忘れることではない。

 

 そう思えるまでに、八年かかった。

 

 残すものを選び、ほかは畳み直した。

 

 三箱目には、大学時代の手帳と亨の古い封筒が入っている。

 

 順子は封筒を取り出し、しばらく見た。

 

 京橋で受け取った新しい手紙は、まだ鞄の中にある。

 

 古い封筒を、新しい手紙のそばへ置く気にはなれなかった。

 

 順子は大学時代の手帳と病院の領収書、古い紙幣を小さな箱へ移した。

 

 捨てるためでも、誰かに見せるためでもない。

 

 今度は、自分がどこへ置いたのかを知っておくためだった。

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第十章 三人

 

 順子から電話があったのは、千穂が二日目の休暇を終えようとしていた夕方だった。

 

 千穂は起きたまま、寝床に座っていた。

 

 窓の外では、向かいの建物の明かりが一つずつつき始めている。

 

「明日、岡山へ行きます」

 

 挨拶のあと、順子はすぐに言った。

 

「どうして?」

 

「亨と話しました」

 

 千穂は携帯電話を耳から少し離した。

 

 母が亨を名前で呼んだ。

 

「会ったの?」

 

「昨日、京橋の近くで」

 

「私には何も言わずに?」

 

「先に二人で話す必要があったから」

 

「何を話したの」

 

「あなたのことよ」

 

「私のことなのに、私はあとなんだ」

 

「あなたの前で、四十数年前の喧嘩を始めたくなかったの」

 

「喧嘩したの?」

 

「少し」

 

「少しで済んだんだ」

 

「千穂」

 

 順子は声を強くしなかった。

 

「明日の午後、三人で会いませんか」

 

「どうして私が」

 

「あなたが、仕事を休むことになったから」

 

「二人で話して、もう終わったんでしょう」

 

「終わってないわ」

 

「だったら、私を入れないで」

 

「来るかどうかは、あなたが決めればいい」

 

 順子はそこで言葉を切った。

 

「でも、私と亨は、あなたに話さなければならないと思っています」

 

「何を?」

 

「私たちのことを、あなたが代わりに引き受けなくていいということを」

 

「言われたら、忘れられるの?」

 

「忘れなくていい」

 

「では、何のために会うの」

 

「知らなかった頃には戻れないでしょう。戻れないなら、知ったまま、どこへ置くかを考えるしかないから」

 

「二人で置き場所を決めたの?」

 

「決めてないわ」

 

「また、私に決めさせるんだ」

 

「そう聞こえたなら、ごめんなさい」

 

 千穂は枕元に置いた腕時計を見た。止まっているように見えたが、秒針は動いていた。

 

「明日の二時に、京橋の近くにいます」

 

「行かなかったら?」

 

「帰ります」

 

「澤口さんも?」

 

「ええ」

 

「二人で待つの?」

 

「そうなるわね」

 

 千穂は、母と亨が並んで自分を待つ姿を思い浮かべた。

 

 四十数年会わなかった二人が、自分を待つために同じ場所へ立つ。

 

「分かった」

 

 千穂は言った。

 

「行く」

 

 翌日の午後、千穂は約束より十分ほど遅れて京橋へ着いた。

 

 遅れようとしたわけではない。

 

 自宅を出る前、何度も鞄の中を確かめた。携帯電話を持ったか。鍵を掛けたか。火を使っていないか。

 

 建物を出たあと、もう一度戻って鍵を確かめた。

 

 掛かっていた。

 

 順子と亨は、旭川沿いのベンチから少し離れた場所に立っていた。

 

 二人の間には、人が一人入れるほどの距離がある。

 

 近くもなく、遠くもなかった。

 

「遅くなってごめん」

 

「来てくれただけでいいわ」

 

 順子が答えた。

 

 亨は頭を下げた。

 

「休んではるところ、すみません」

 

「今日まで休みなんです」

 

 千穂の声が硬くなった。

 

「誰のせいとは言いませんけど」

 

 亨は言い返さなかった。

 

 三人は川沿いのベンチへ移った。

 

 順子が端に座った。

 

 千穂は母との間を一人分空けて座り、亨は反対の端へ腰を下ろした。

 

 三人の間には、それぞれ一人分ずつの空きがあった。

 

 旭川には、午後の光が細かく揺れている。

 

「何を話すの」

 

 千穂が尋ねた。

 

 順子と亨は一度、互いを見た。

 

「私から話すわ」

 

 順子が言った。

 

「あなたが箱の中を見つけたとき、あなたには関係のないことだと言いました」

 

「うん」

 

「あれは違った」

 

 千穂は母を見た。

 

「あなたは私の娘だから、まったく関係がないとは言えない」

 

「では、関係があるんでしょう」

 

「あるわ」

 

「昨日は、ないと言った」

 

「間違えたのよ」

 

「お母さんも間違えるんだ」

 

「よく間違えるわ。あなたに言わないだけで」

 

 千穂は少しだけ口元を動かした。

 

「でも」

 

 順子は続けた。

 

「あなたに関係があることと、あなたが何かをしなければならないことは、同じではない」

 

「言葉を変えただけに聞こえる」

 

「そうかもしれない。でも、聞いて」

 

 順子は膝の上で両手を重ねた。

 

「私が妊娠したこと。産まないと決めたこと。一人で病院へ行ったこと。亨を許していないこと。それは、私と亨の間にあることです」

 

「でも、お母さんは一人だった」

 

「一人だったわ」

 

「澤口さんは来なかった」

 

「来なかった」

 

「だったら」

 

「あなたが、私の代わりにこの人を憎む必要はないの」

 

 千穂は亨を見た。

 

「私が憎んでるように見える?」

 

「見えるわ」

 

「お母さんの代わりじゃない。私が腹を立ててるの」

 

「それなら、腹を立てていい」

 

「どっちなの?」

 

「私のために腹を立てているなら、やめてほしい。でも、あなたが自分で腹を立てているなら、私にはやめさせられない」

 

「ずるいね」

 

「そうね」

 

 順子は否定しなかった。

 

「私も、どう渡せばいいのか分からないのよ」

 

「お母さんが渡したんじゃないでしょう。私が見つけた」

 

「そうね」

 

 順子は同じ言葉を繰り返した。

 

「それも、間違えた。私が話す前に、あなたに見つけさせた」

 

「わざとじゃないでしょう」

 

「わざとでなければ、間違いにならないの?」

 

 千穂は答えなかった。

 

 川から来た風が、三人の足元を通った。

 

 順子のスカートの裾が揺れた。

 

「澤口さんは?」

 

 千穂が尋ねた。

 

 亨は膝の上で組んだ手をほどいた。

 

「僕は、あなたのお母さんが一人で決めるしかない場所から、逃げました」

 

「母は、来なくていいと言ったんでしょう」

 

「言われました」

 

「だったら」

 

「ほんまに行くつもりやったら、病院の近くまで行けたと思います。順子に会うなと言われたら、外で待つこともできた」

 

「どうして行かなかったんですか」

 

「怖かったからです」

 

「何が?」

 

「順子の顔を見ることも、その日に失うものを見ることも、自分が責任を持つことも」

 

「それで、あとから半分のお金を送った」

 

「はい」

 

「半分で済むと思ったんですか」

 

「金を払わなあかんとしか、考えられませんでした」

 

「母は使わなかった」

 

 亨は順子を見なかった。

 

「昨日、聞きました」

 

「ずっと持ってたんです」

 

「はい」

 

「どう思いました?」

 

 亨は膝の上の手を見た。

 

「捨てられへんものを、僕が送ったんやと思いました」

 

「お金を?」

 

「お金も、その手紙も」

 

「後悔した?」

 

「しました」

 

「四十数年?」

 

「毎日やありません」

 

 千穂は顔を上げた。

 

 亨は続けた。

 

「忘れてた日もあります。仕事をして、洋子と暮らして、別のことを考えてた日もようけあります」

 

「よく、そんなことを言えますね」

 

「ずっと苦しんでたと言うたら、嘘になるからです」

 

 千穂は亨を見た。

 

 長く苦しんできたと言って泣かれたら、もっと腹が立ったかもしれない。

 

 だからといって、忘れていたと言われて楽になるわけでもなかった。

 

「謝ったんですか」

 

「昨日、謝りました」

 

「それで?」

 

「聞きました」

 

 順子が答えた。

 

「許したの?」

 

「許してないわ」

 

「では、何が変わったの」

 

 順子は川を見た。

 

「この人が、来なかった人であることは変わらない」

 

 亨が静かにうなずいた。

 

「でも、この人が、あの日だけでできているわけではないことも分かった」

 

「許してないのに?」

 

「許さないまま、そう思ったの」

 

 千穂は二人を交互に見た。

 

「よく分からない」

 

「私も昨日、初めてそう思ったばかりだから、うまく説明できないわ」

 

「お母さんが説明できないのに、私に分かるわけないでしょう」

 

「そうね」

 

 順子は少し笑った。

 

「では、いまは分からないままでいいんじゃない?」

 

 千穂は笑わなかった。

 

 ただ、鞄の中を確かめたくなる気持ちが、少しだけ遠のいた。

 

「私は、順子がそのあと幸せだったのか、知りたいと思ってました」

 

 亨が言った。

 

「どうして?」

 

 千穂が尋ねた。

 

「幸せやったら、自分が少し安心できると思うてたからです」

 

「それの何が悪いんですか」

 

「さあ」

 

 亨は川へ目を向けた。

 

「悪いと言い切れるかどうかは、僕にも分かりません。ただ、順子が幸せやったら、自分のしたことが少し軽うなると思うてました」

 

「軽くなったんですか」

 

 今度は順子が尋ねた。

 

「いいえ」

 

「私は幸せでした」

 

 順子は言った。

 

 亨を見ず、千穂を見た。

 

「お父さんと暮らしたことも、あなたを産んだことも、店をしていたことも」

 

「でも、私が生まれたとき、思い出したんでしょう」

 

「思い出したわ」

 

 順子は同じ答えを返した。

 

「それでも、あなたを代わりだと思ったことはない」

 

「どうして、二つに分けられるの」

 

「分けてないのよ」

 

「では、同じなの?」

 

「同じでもない」

 

「また言葉の話?」

 

 千穂は苛立った。

 

 順子は膝の上の手をほどいた。

 

「あなたが生まれた日のことを、話してもいい?」

 

「前にも聞いた」

 

「全部は話してないわ」

 

 千穂は答えなかった。

 

「あなたは髪の多い赤ちゃんだった。看護婦さんが、こんなに髪がある子は珍しいと言ったの」

 

「それは聞いた」

 

「指を一本ずつ数えた。右手を数えて、左手も数えた。それから、もう一度右手を数えた」

 

「どうして?」

 

「十本あると分かっても、また数えたくなったのよ」

 

 千穂は自分の右手を見た。

 

「お父さんは?」

 

「あなたの足を数えてた」

 

「二本でしょう」

 

「指よ。靴下を脱がせようとして、看護婦さんに怒られた」

 

 千穂の口元が少し動いた。

 

「それで、あの子のことを思い出したの?」

 

「あなたの指を数えたときに」

 

「やっぱり」

 

「でも、数えていたのは、あなたの指よ」

 

 順子は千穂の手を見た。

 

「十本あったから、うれしかった。あの子を思い出したから、うれしくなかったわけではないの」

 

 千穂は手を握った。

 

 すぐに納得できたわけではない。

 

 ただ、母が数えたという指は、いまも自分の手についている。

 

「澤口さん」

 

 千穂が言った。

 

「はい」

 

「奥さんは、何も知らないんですよね」

 

 亨の表情が止まった。

 

「知りません」

 

「このまま、話さないんですか」

 

「いまは、そのつもりです」

 

「どうして?」

 

 亨は答える前に、順子を見た。

 

「私を見ないでください」

 

 順子が言った。

 

「洋子さんに話すかどうかは、あなたが決めることでしょう」

 

 千穂は母を見た。

 

「洋子さんって、鶴山公園を一緒に歩いた人?」

 

「そうよ」

 

「知ってたの?」

 

「昨日、亨から聞いたの」

 

「それで、何も言わなかったの?」

 

「いま言ったでしょう」

 

「そういう意味じゃない。澤口さんの奥さんだと知って、どうしたの」

 

「腹を立てたわ」

 

「それだけ?」

 

「帰ろうともした」

 

「帰らなかったんだ」

 

「あなたの話が残ってたから」

 

 千穂は亨へ顔を向けた。

 

「澤口さんは、母と奥さんが会ってることを知ってたんですか」

 

「知ってました」

 

「それなのに黙ってた」

 

「はい」

 

「なぜ?」

 

「言えば、二人の間にできたものを、僕と順子の過去に変えてしまうと思うたからです」

 

「それは、きれいな方の理由でしょう」

 

 順子が言った。

 

 亨はうなずいた。

 

「洋子に知られるのが怖かった。順子と洋子が会えへんようになるのも、自分が責められるのも怖かった」

 

「また怖かったんですね」

 

 千穂が言った。

 

「はい」

 

「怖いと言えば、何でも済むんですか」

 

「済みません」

 

「では、奥さんに話すんですか」

 

「いまは話しません」

 

「どうして?」

 

「話したら、自分が楽になる気がするからです」

 

「奥さんが知りたいかもしれないでしょう」

 

「そうかもしれません」

 

「知らないままにするのも、澤口さんが決めるんですね」

 

「そうです」

 

「矛盾してる」

 

「はい」

 

 千穂は眉を寄せた。

 

「そこで、はいと言われると腹が立つ」

 

「すみません」

 

「謝られても腹が立つ」

 

「亨」

 

 順子が言った。

 

「何も言わない方がいいわよ」

 

「黙られても腹が立つ」

 

 千穂が言った。

 

 三人は黙った。

 

 しばらくして、順子が笑った。

 

 声を立てたわけではない。

 

 だが、千穂には分かった。

 

「何がおかしいの」

 

「何をしても腹が立つんでしょう」

 

「いまはね」

 

「それなら、仕方ないわ」

 

 順子の口元には、まだ笑みが残っていた。

 

 亨も、わずかに俯いた。

 

「お母さんは、洋子さんに話さないの?」

 

「私からは話さない」

 

「どうして?」

 

 順子は川向こうを見た。

 

「洋子さんと私が鶴山公園で話したことまで、亨との昔のことにしたくないから」

 

「でも、洋子さんだけが何も知らない」

 

「そうね」

 

「不公平じゃない?」

 

「そうかもしれない」

 

「お母さんまで、それで済ませるの?」

 

「済ませてはいないわ」

 

 順子は鞄からハンカチを出した。風で目に埃が入ったらしく、目尻を押さえた。

 

「洋子さんは、夫婦でも知らないことはあると言ってた」

 

「だから、話さなくていいの?」

 

「そうではないわ」

 

「では、何?」

 

「分からないのよ」

 

 順子はハンカチを畳んだ。

 

「私に分かるのは、あの日、洋子さんが私を支えてくれたことだけ。花びらで滑ったとき、腕をつかんでくれた。それは、あの人が亨の妻だからしたことではないでしょう」

 

「そうだね」

 

「だから、その日のことは、そのままにしておきたい」

 

 千穂は川面を見た。

 

 風に揺れる光は、どれが昨日のものか分からない。

 

「私は、どうしたらいいの」

 

 千穂が尋ねた。

 

 順子も亨も、すぐには答えなかった。

 

「何も言わないんだ」

 

「あなたに黙っていてとは頼めないわ」

 

 順子が言った。

 

「でも、話してとも言えない」

 

「私が話したら?」

 

「そのときは、私が洋子に説明します」

 

 亨が答えた。

 

「私を責めない?」

 

「責めません」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

「私が洋子さんを傷つけても?」

 

 亨は口を閉じた。

 

「責めへんと言うたら、また、千穂さんが何をしてもええと僕が決めることになる」

 

「では、どうするんですか」

 

「説明します。千穂さんが話したことも、僕が黙ってたことも」

 

 千穂は二人を見た。

 

 誰も、正しい答えを持っていなかった。

 

 大人になれば分かることが増えると思っていた。母も亨も自分より長く生きているのに、分からないと言う。

 

 それが少し腹立たしく、少しだけ安心でもあった。

 

 川沿いを、自転車に乗った少年が通り過ぎた。

 

 三人の前でベルを鳴らし、振り返らず走っていった。

 

「明日から、仕事に戻ります」

 

 千穂が言った。

 

「大丈夫?」

 

 順子が尋ねた。

 

「大丈夫かどうかは、戻ってみんと分からん」

 

「無理はしないで」

 

「間違えたら、直す」

 

 千穂は亨を見た。

 

「澤口さんの絵の返却は、もう終わりましたから」

 

「お世話になりました」

 

「次に市役所から連絡があっても、母の話はしないでください」

 

「分かりました」

 

「仕事として会ってください」

 

「そうします」

 

 千穂は立ち上がった。

 

 順子も立ち、少し遅れて亨が立った。

 

「お昼、食べた?」

 

 順子が千穂へ尋ねた。

 

「まだ」

 

「もう三時近いでしょう」

 

「食べる気がしなかったから」

 

「何か食べましょう」

 

「いらない」

 

「休みの日まで、何も食べないつもり?」

 

「お母さんは、すぐ食べさせようとするね」

 

「それしか、できないからよ」

 

 順子は亨を見た。

 

「あなたは?」

 

「私は」

 

「誘っているわけではありません」

 

「分かってます」

 

「では、そこで迷わないでください」

 

 亨は少し笑った。

 

「帰ります」

 

「そうしてください」

 

 亨は二人へ頭を下げ、歩き始めた。

 

 途中で一度、振り返った。

 

 順子は千穂の鞄の中をのぞいていた。

 

「財布、持ってるの?」

 

「持ってるよ」

 

「さっきから鞄を何度も見てるから」

 

「もう確認しなくていい」

 

「何を食べる?」

 

「何でもいい」

 

「それが、いちばん困るのよ」

 

 母娘の声が、風に乗って届いた。

 

 亨は前を向いた。

 

 順子と千穂は、亨と反対の方角へ歩き始めた。

 

 誰も過去から飛び去ったわけではない。

 

 京橋のそばには、三人が座っていた空のベンチが残った。

 

 人一人分ずつ空けて座った跡は、もう見えなかった。

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第九章 京橋

 

 約束の日、順子は昼前の列車で岡山へ向かった。

 

 車内は空いていた。

 

 向かいの座席には、買い物袋を膝へ置いた女性が座っている。眠りかけては首を上げ、そのたびに窓の外を確かめた。

 

 順子は眠れなかった。

 

 四十数年ぶりに亨と会う。

 

 その言葉を頭へ浮かべると、二十二歳の亨が出てくる。白いシャツを着て、鉛筆を耳に挟んでいる。

 

 今日会うのは、六十八歳の亨である。

 

 順子は鞄から小さな鏡を出した。

 

 口紅は薄く塗ってきた。

 

 鏡を閉じたあと、どうして塗ったのだろうと思った。

 

 岡山駅へ着くと、路面電車に乗った。表町を過ぎた辺りで降り、旭川の方へ歩いた。

 

 京橋へ近づくにつれ、川からの風が強くなった。

 

 約束の時刻まで、まだ十分ほどある。

 

 橋の西詰に立ち、旭川を眺めた。広い川面に午後の光が散り、風が吹くたび細かな波が立っている。

 

 少し離れた場所に、亨がいた。

 

 現在の写真を見たわけではない。

 

 それでも、すぐに分かった。

 

 身体が細くなり、髪には白いものが増えている。背中も、わずかに丸くなっていた。

 

 ベージュ色の上着は、少し大きく見えた。

 

 亨も順子に気づいた。

 

 二人は動かなかった。

 

 信号が変わり、何人かが二人の間を横切った。

 

 先に歩き出したのは亨だった。

 

「久しぶりです」

 

 言ってから、目を伏せた。

 

「ええ」

 

 順子も、それだけ答えた。

 

 亨は順子の顔を見た。

 

「お元気そうで」

 

「その話をするために来たんじゃありません」

 

「分かってます」

 

 二人は川沿いの道へ移った。

 

 ベンチがあった。

 

 どちらも座らなかった。

 

「千穂は、明日まで仕事を休んでいます」

 

「会場の人から聞きました」

 

「小さな間違いが続いたそうです。日付を間違えたり、手紙を入れ忘れたり」

 

「電話で話したとき、いつもの千穂さんと違うと思いました」

 

「いつものあの子を、どれだけ知ってるんですか」

 

 順子の声が強くなった。

 

「すみません」

 

「謝らないでください」

 

 亨は口を閉じた。

 

 順子は川へ顔を向けた。

 

 会ってまだ数分だった。

 

 それなのに、昔と同じだった。亨が何か言えば腹が立ち、黙れば、なお腹が立つ。

 

「千穂は、私たちが付き合っていたと知ってから、何があったのか考え続けていました」

 

「僕が何も話さへんかったから」

 

「私も話しませんでした」

 

「でも、順子には話さへん理由があった」

 

「あなたにもあったでしょう」

 

 亨は答えなかった。

 

「また黙るんですね」

 

「何を言うても、言い訳になると思うて」

 

「黙れば、言い訳にならないんですか」

 

「そうやありません」

 

「あなたは昔からそうです。違うと言うだけで、何も決めない」

 

 亨は顔を上げた。

 

「そうやったと思います」

 

 順子は次の言葉を失った。

 

 言い返されると思っていた。

 

 若かった、怖かった、順子にも責任があったと言われるかもしれない。そう思い、言い返す言葉まで用意してきた。

 

 亨は順子から目をそらさなかった。

 

「あのときも、少し考えさせてほしいと言いました」

 

「覚えています」

 

「順子の身体には、時間がなかったのに」

 

「いまさら説明しなくても、分かっています」

 

「説明やありません」

 

 亨は肩に掛けた鞄へ手を入れ、白い封筒を出した。

 

「何ですか」

 

「手紙です」

 

 封筒には、

 

〈松山順子様〉

 

と書かれている。

 

「小坂と書かなかったんですね」

 

「いまの順子に書いたつもりです」

 

「渡せば、読んでもらえると思ってるんですか」

 

「分かりません」

 

 亨は封筒を両手で持ったまま、差し出さなかった。

 

「受け取るかどうか、順子が決めてください」

 

「いらないと言ったら?」

 

「持って帰ります」

 

「二度と渡さない?」

 

「順子が欲しいと言わへんかぎりは」

 

「私から欲しいと言うと思いますか」

 

「思いません」

 

「それでも、持ってきたのね」

 

「はい」

 

 順子は封筒を見た。

 

 受け取れば、亨の言葉を聞くことになる。

 

 受け取らなければ、何が書いてあったのかを考えるかもしれない。

 

 そのどちらも、気に入らなかった。

 

「受け取ります」

 

 順子は手を出した。

 

「でも、読むかどうかは私が決めます」

 

「はい」

 

「返事もしないかもしれません」

 

「それも、順子が決めることです」

 

 封筒を受け取り、鞄へ入れた。

 

 亨の手が、わずかに震えていた。

 

「手紙に書いたことを、ここでも言うつもりですか」

 

「言わなあかんと思ってます」

 

「私は、聞きたいとは言ってません」

 

「分かってます」

 

「分かってるなら、なぜ言うんですか」

 

 亨は旭川へ顔を向けた。

 

 橋の下を、小さな船が通っていく。船尾から白い波が広がり、しばらくして消えた。

 

「来なくてええと言われたから行かへんかったと、長いこと自分に言うてました」

 

 順子の胸の奥が固くなった。

 

「それは本当でしょう。私は来なくていいと言いました」

 

「でも、行かへんかった理由は、それだけやありません」

 

 亨は一度、口を閉じた。

 

 順子は待った。

 

「怖かったんです」

 

 亨が言った。

 

「順子の顔を見るのも、その日に何がなくなるのかを見るのも。順子の言葉に従うたんやなくて、その言葉を、自分が逃げる理由にしました」

 

 川の上を、一羽の鳥が低く飛んだ。

 

 順子は、その影が水面を渡るのを見ていた。

 

「その言葉を、あのとき聞きたかった」

 

「はい」

 

「四十数年後に聞くために、私は待っていたんじゃありません」

 

「分かってます」

 

「分かってると言わないで」

 

 亨は黙った。

 

「あなたには分からない」

 

「そうやと思います」

 

「そこは、否定しないんですね」

 

「分かると言うたらあかんと思って」

 

 順子は亨の横顔を見た。

 

 若い頃の亨も、よく黙った。

 

 あの頃の沈黙は、答えを先へ延ばすためのものだった。

 

 いまの沈黙が何のためなのか、順子にはまだ分からなかった。

 

「謝って、何を変えたいんですか」

 

「変えられるとは思ってません」

 

「では、自分が楽になりたい?」

 

「そういう気持ちがないとは言えません」

 

 順子は亨を見た。

 

「正直に言えば、許されると思ってるんですか」

 

「いいえ」

 

「ずいぶん、用意してきた答えね」

 

「何度も考えましたから」

 

「私は、考える時間をもらえなかったのよ」

 

「はい」

 

「また、はいと言う」

 

「ほかに、何と言うたらええか分かりません」

 

「昔と同じね」

 

「そうですね」

 

 亨は頭を下げた。

 

「一人で行かせて、すみませんでした」

 

 順子は亨の白くなった髪を見た。

 

 許すという言葉は浮かばなかった。

 

 長く待っていた謝罪を、ようやく聞いたとも思わなかった。

 

 ただ、四十数年前には言わなかった言葉を、亨がいま口にした。

 

「謝っても、戻りません」

 

「はい」

 

「私は許しません」

 

「分かってます」

 

「でも、聞きました」

 

 亨が顔を上げた。

 

「それで十分です」

 

「十分かどうかを、あなたが決めないでください」

 

「すみません」

 

 順子は息を吐いた。

 

「すぐに謝るのも、昔と変わってませんね」

 

「謝らん方がええですか」

 

「そういうことではありません」

 

 亨の口元が、わずかに動いた。

 

 順子も、鞄の持ち手を握る力を緩めた。

 

 許したわけではなかった。

 

 ただ、立ち続けていることに少し疲れた。

 

「座りませんか」

 

 順子が言った。

 

「はい」

 

 二人は、少し間を空けてベンチへ座った。

 

近くの欄干に、鳥人幸吉について書かれた案内があった。

 

 順子が目を向けると、亨も気づいた。

 

「ここから空を飛んだ人がいるそうですね」

 

「洋子さんから聞きました」

 

 名前を口にしてから、順子は亨の顔を見た。

 

「知っているんですか」

 

「花屋の洋子でしょう」

 

「ええ」

 

「鶴山公園で話したと言うてました」

 

 亨の言い方には、説明が一つ足りなかった。

 

「洋子さんと、お知り合いなんですか」

 

 亨は答えるまでに、少し間を置いた。

 

「妻です」

 

 順子は亨を見た。

 

「何ですって?」

 

「洋子は、僕の妻です」

 

 旭川から風が吹いた。

 

 順子は膝の上の鞄を押さえた。

 

「どうして、いままで言わなかったんですか」

 

「言う機会が」

 

「ありました。いま、ありました」

 

「順子が知ってるとは思わへんかったから」

 

「私が洋子さんの名前を出さなければ、言わなかったんですね」

 

 亨は返事をしなかった。

 

「また黙るんですか」

 

「すみません」

 

「洋子さんは知ってるんですか」

 

「何を?」

 

「私が誰なのか」

 

「知りません」

 

「鶴山公園へ行くと聞いても?」

 

「名字を聞いたかとは尋ねました」

 

「どうして、そのとき止めなかったんですか」

 

「止めようとはしました」

 

「何と言って?」

 

「石段が多いとか、人が多いとか」

 

 順子は亨を見た。

 

「そんなことで止まる人ですか、洋子さんが」

 

「止まりませんでした」

 

「でしょうね」

 

 順子は立ち上がった。

 

「帰ります」

 

「待ってください」

 

「千穂の話をするために来たのに、あなたはまた肝心なことを黙っていた」

 

「洋子のことと、千穂さんのことは」

 

「別だと言うんですか」

 

 順子は亨を見下ろした。

 

「私が洋子さんと花屋で話して、鶴山公園を歩いたことを、あなたは知っていたんでしょう」

 

「はい」

 

「洋子さんは、何も知らずに私へご主人の話をした。私は、その人があなただと知らずに聞いていた」

 

「申し訳ないと思ってます」

 

「思っていただけ?」

 

 亨は立ち上がった。

 

「言えば、洋子と順子が知り合うたことまで、壊してしまうと思いました」

 

「壊れるかどうかを、あなたが決めたんですね」

 

 亨は口を閉じた。

 

「四十数年前と同じです」

 

 順子は鞄を持ち直した。

 

「人のために黙ったような顔をして、決めるのはいつも自分なのね」

 

「そうです」

 

 亨が言った。

 

 順子は足を止めた。

 

「そうです、で済ませるんですか」

 

「済むとは思ってません。でも、そのとおりです」

 

「洋子さんに話すつもりは?」

 

「分かりません」

 

「まだ考えるんですね」

 

「私一人のことやありませんから」

 

「今度は、洋子さんのため?」

 

 亨は答えなかった。

 

 順子はベンチへ戻らず、欄干の前へ立った。

 

 鳥人幸吉の案内には、飛び立った場所と、空を飛ぼうとしたことが記されている。

 

 降りたあとのことは、わずかしか書かれていない。

 

「飛ぶところは、たくさんの人が見たんでしょうね」

 

 順子が言った。

 

「騒ぎになったそうですから」

 

「降りたあとのことは?」

 

「詳しくは分かりません」

 

「人は、飛び立つところは見ても、そのあとどこへ歩いていったかまでは見ないんですね」

 

 亨は何も言わなかった。

 

 順子は川を見た。

 

 風に押された水が、橋脚のところで二つに分かれている。

 

「千穂の話へ戻ります」

 

「はい」

 

「あの子は、私たちのことを知って、自分が生まれたときのことまで疑っています」

 

「自分が、ですか」

 

「失った子どもの代わりではなかったのかと」

 

 亨の顔がこわばった。

 

「違うんでしょう」

 

「違います」

 

 順子は、はっきり答えた。

 

「千穂は、夫との間に生まれた私の娘です。あの子が生まれたとき、あの子としてうれしかった」

 

「それを、千穂さんに言うたんですか」

 

「言いました。でも、あの子のことを思い出したこともあると言ったから、信じられなくなっている」

 

「嘘をつかへんかったんですね」

 

「嘘をつけばよかったと言うんですか」

 

「いいえ」

 

 亨は首を振った。

 

「僕からも話します」

 

「何を?」

 

「あのとき、順子が一人で決めるしかない場所から、僕が逃げたことを」

 

「それを聞けば、千穂が元に戻ると思うんですか」

 

「分かりません」

 

「では、なぜ話すの?」

 

「千穂さんが、順子の代わりに僕を責める必要はないから」

 

「責められるのが嫌なんですか」

 

「責められても仕方ありません」

 

 亨は川へ目を向けた。

 

「でも、それで千穂さんが仕事まで失うたら、また誰かに僕のしたことを持たせることになります」

 

 順子は亨の横顔を見た。

 

 若い頃の亨には、言えなかった言葉だろう。

 

 いまの亨だから言えるのだとしても、遅すぎることに変わりはない。

 

「三人で話しましょう」

 

 順子が言った。

 

「千穂さんが嫌がったら?」

 

「嫌かどうかは、あの子に聞きます」

 

 亨はうなずいた。

 

「僕らが決めることやありませんね」

 

「そういうことです」

 

「場所は?」

 

「千穂に聞きます」

 

「分かりました」

 

 二人は、再びベンチへ座った。

 

 先ほどより、間が少し広くなっていた。

 

「洋子さんには」

 

 順子が言った。

 

 亨の肩が動いた。

 

「私からは話しません」

 

「ありがとうございます」

 

「お礼を言われることではありません」

 

「はい」

 

「でも、洋子さんに嘘をつくつもりもありません。聞かれたら、私は答えます」

 

「分かりました」

 

「あなたから話せとも、話すなとも言いません」

 

「はい」

 

「自分で決めてください」

 

 亨は苦い顔をした。

 

「それが、いちばん難しいですね」

 

「四十数年、考えたんでしょう」

 

「考えてただけでした」

 

「今度は、決めてください」

 

 順子は立ち上がった。

 

 亨も立った。

 

「駅まで送ります」

 

「結構です」

 

「路面電車の停留所まで」

 

「一人で行けます」

 

 昔なら、亨がついてくるか確かめるために、少しゆっくり歩いたかもしれない。

 

 順子は振り返らず、京橋を離れた。

 

 しばらく歩いてから、鞄の中の封筒へ手を触れた。

 

 受け取ったのは自分だった。

 

 読むかどうかは、まだ決めていない。

 

 その封筒のそばには、口紅と小さな鏡が入っていた。

 

 順子は鏡を出さなかった。