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『 花びらの積もる道 』

 

第八章 短い電話

 

 休暇の一日目、千穂は目覚まし時計を止めたあとも、布団の中にいた。

 

 眠っていたわけではない。

 

 仕事へ行く時間が過ぎ、いつもなら西川沿いを歩いている頃になっても、身体を起こせなかった。

 

 枕元の携帯電話には、職場からの連絡は入っていない。

 

 二日間は仕事のメールも見ないようにと、上司から言われていた。

 

 見てはいけないと思うと、見たいものだった。

 

 千穂は携帯電話を取り、職場のメールを開こうとした。暗証番号を入れるところで閉じた。

 

 展示会場で何か起きていないだろうか。

 

 亨の絵は無事に返されるだろうか。

 

 礼状は正しい宛先へ届くだろうか。

 

 引き継ぎに書き忘れたことはなかったか。

 

 仕事のことをやめようとすると、今度は母の部屋で見た封筒が浮かんだ。

 

〈費用の半分です〉

 

 半分とは、何の半分だったのだろう。

 

 金額を二つに分ければ、責任も二つに分かれるのか。

 

 母はその金を使わなかった。返しもせず、捨てもせず、千穂が生まれたあとまで持っていた。

 

 千穂は寝返りを打った。

 

 自分が生まれたとき、母は失った子どもを思い出した。

 

 そう聞いた瞬間から、昔の記憶まで違って見えた。

 

 熱を出した夜、母が朝までそばにいたこと。

 

 小学校の入学式で、父より先に泣いたこと。

 

 店へ連れていかれ、何枚も服を着替えさせられたこと。

 

「その色は、千穂には暗いわ」

 

 母はそう言って、次の服を出した。

 

 千穂は着替えるのが嫌で泣いた。

 

 あのとき母が見ていたのは、自分だったのだろうか。

 

 午前十時を過ぎた頃、順子から電話がかかってきた。

 

 千穂は画面を見たまま、すぐには出なかった。

 

 呼出音が切れた。

 

 しばらくして、もう一度鳴った。

 

「もしもし」

 

「今日は仕事でしょう」

 

 順子は挨拶より先に言った。

 

「休み」

 

「平日に?」

 

「休暇を取ったの」

 

「自分で?」

 

 千穂は答えなかった。

 

「仕事で何かあったのね」

 

「少し間違いが続いただけ」

 

「どんな間違い?」

 

「日付を一日間違えたり、礼状を入れ忘れたり」

 

「それで休まされたの?」

 

「休むように言われただけ。三日後には戻る」

 

 順子は黙った。

 

「私と亨のことを知ってから?」

 

「お母さんのせいだとは言ってない」

 

「でも、前にはなかったことでしょう」

 

「分からない」

 

「千穂」

 

「ほんまに分からんの。仕事をしてても、急に考えるから。お母さんは、どうして一人で病院へ行ったんだろうって。澤口さんは、そのあと普通に就職して、結婚したのかなって。お父さんは、何も知らずにお母さんと暮らしたのかなって」

 

 順子は何も言わなかった。

 

「知らん方がよかったのかもしれない」

 

 千穂が言った。

 

「でも、もう知ってしもうたから」

 

「そうね」

 

「どうしたら、知らなかったときみたいに戻れるの」

 

「戻れないわ」

 

 順子は静かに答えた。

 

 千穂は目を閉じた。

 

 大丈夫よ、と言ってもらいたかったのかもしれない。

 

 何が大丈夫なのかは分からなかった。

 

「でも、あなたが背負うことではないの」

 

「そう言われても、頭から出ていかない」

 

「分かってる」

 

「お母さんには分からんよ。お母さんは、ずっと知ってたんだから」

 

 順子は返事をしなかった。

 

「ごめん。もう少し寝る」

 

「何か食べなさい」

 

「あとで」

 

「冷蔵庫に何かあるの?」

 

「ある」

 

「何が?」

 

「知らない」

 

「それでは、ないのと同じでしょう」

 

「お母さん」

 

「何?」

 

「電話、切るよ」

 

「そう」

 

 千穂は電話を切った。

 

 順子は津山の部屋で、消えた画面を見ていた。

 

 娘に話さなかったのは、守るためだと思っていた。

 

 自分の過去は自分の中に置いておけばよい。夫にも、娘にも、持たせる必要はない。

 

 だが、偶然知った千穂は、事実だけを渡され、その置き場所を持っていなかった。

 

 順子は寝室へ入り、段ボール箱の前へ座った。

 

 底をテープで留めた箱には、古い封筒と手帳が戻してある。

 

 亨から送られた金も、そのままだった。

 

 箱の蓋を開けた。

 

 封筒を取り出しかけ、戻した。

 

 亨に会いたいとは思わない。

 

 許すつもりもなかった。

 

 順子は箱を閉めた。

 

 立ち上がると、膝にテープの切れ端がついていた。指で取り、屑籠へ捨てた。

 

 岡山では、その日の午後、展示の撤去が行われた。

 

 亨は指定された時刻に表町の会場へ出向いた。

 

 自宅へ届けてもらう予定だったが、朝になってから、自分で取りに行くと連絡した。

 

 会場では、千穂の後輩が作品を包んでいた。

 

「お世話になりました」

 

 亨が声をかけると、後輩は手を止めた。

 

「こちらこそ、ありがとうございました。アンケートでも、澤口さんの絵がよかったという声が多かったです」

 

「松山さんは?」

 

 尋ねてから、仕事を外れた質問だと思った。

 

「昨日からお休みです」

 

「体調を崩しはったんですか」

 

「少し疲れてるみたいで。展示が始まる前から、ずっと忙しかったですから」

 

 後輩は、それ以上話さなかった。

 

 亨も聞けなかった。

 

 包まれた絵を抱え、表町商店街を歩いた。

 

 少し先に、洋子の働く花屋がある。

 

 店先で、洋子が若い店員と花の器を動かしていた。

 

 亨に気づくと、手を上げた。

 

「絵、取りに来たの?」

 

「うん」

 

「もう終わったんやね」

 

「今日で」

 

「あとで、ゆっくり見せて」

 

 洋子は店員に呼ばれ、奥へ戻った。

 

 店先の花は、白と薄い桃色だった。

 

 少し離れたところに、黄色い花が一鉢置かれている。

 

 順子が動かしたのだろうか。

 

 洋子が自分で動かしたのだろうか。

 

 亨には分からなかった。

 

 亨は絵を抱え直し、その場を離れた。

 

 家へ帰ると、絵を二階へ運んだ。

 

 机には、宛名だけを書いた便箋が伏せてある。

 

〈松山順子様〉

 

 亨は便箋を裏返した。

 

 手紙を書くことばかり考えていた。

 

 書けば、自分の言いたいことを相手へ送れる。

 

 順子が読みたいかどうかは、書き終えてから考えるつもりでいた。

 

 それでは、四十数年前と変わらない。

 

 自分の時間で考え、順子の時間を待たせる。

 

 亨は便箋を引き出しへ戻した。

 

 その頃、順子は岡山市役所の代表番号へ電話をかけていた。

 

「移住された方の展示について、お尋ねしたいのですが」

 

「どのようなことでしょうか」

 

「出展されていた澤口亨さんへ、伝言をお願いできますか」

 

「個人の連絡先はお伝えできませんが、こちらからご本人へ確認することはできます」

 

「それで結構です」

 

「お名前を伺ってもよろしいですか」

 

 順子は一度、息を吸った。

 

「松山順子です」

 

 小坂ではなく、いまの姓を名乗った。

 

「澤口さんに、千穂のことで話があります、と伝えてください。私の電話番号を渡していただいて構いません」

 

 職員が番号を復唱した。

 

 順子は一つずつ聞いた。

 

 最後の数字だけ、職員が間違えた。

 

「そこは、七です」

 

「失礼いたしました。七ですね」

 

「はい」

 

 電話を切ると、順子はダイニングテーブルの前へ座った。

 

 自分の電話番号なのに、紙へ書いて確かめた。

 

 間違っていなかった。

 

夕方近く、市役所から亨へ連絡が入った。

 

「松山順子さんから、伝言をお預かりしています」

 

 亨は椅子から立ち上がった。

 

「千穂さんのことで、お話があるそうです」

 

 職員が電話番号を読み上げた。

 

 亨は机にあった紙へ書いた。

 

 最後の数字は七だった。

 

「もう一度、お願いします」

 

 数字を一つずつ復唱した。

 

「以上で間違いありません」

 

「ありがとうございます」

 

 電話を切った。

 

 紙を机へ置いた。

 

 四十数年前、順子の実家の番号は暗記していた。公衆電話から何度もかけた番号だった。

 

 手帳を見なくても、指が勝手に動いた。

 

 いま目の前にあるのは、松山順子の番号である。

 

 亨は受話器を取った。

 

 一度置いた。

 

 もう一度取った。

 

 数字を押すと、呼出音が鳴った。

 

 一度目。

 

 二度目。

 

 三度目で、順子が出た。

 

「もしもし」

 

 四十数年ぶりに聞く声だった。

 

 若い頃より低く、落ち着いていた。

 

 それでも、順子の声だと分かった。

 

「澤口です」

 

 電話の向こうで、短い沈黙があった。

 

「連絡をいただいたと聞きました」

 

「千穂が、仕事を休まされました」

 

「今日、会場で聞きました」

 

「私たちのことを知ってから、間違いが続いているそうです」

 

「そうですか」

 

「そうですか、だけ?」

 

 亨は受話器を握り直した。

 

「すみません」

 

「私に謝るんですか」

 

「いや」

 

「では、誰に?」

 

 亨は答えられなかった。

 

「このままにはできません」

 

「はい」

 

 順子は黙った。

 

 亨が次に何を言うか、待っている。

 

 昔も、順子は待った。

 

 亨は考えると言った。

 

 考えている間にも、時間は過ぎていた。

 

「会うて、話せませんか」

 

 亨が言った。

 

 電話の向こうで、順子が息をした。

 

「千穂のためです」

 

「分かってます」

 

「岡山で会います。あの子を呼ぶ前に、二人で話しましょう」

 

「どこにしますか」

 

「旭川の京橋の近くで」

 

「分かりました」

 

「明後日の午後二時」

 

「行きます」

 

 用件は、それだけだった。

 

 元気だったかとは聞かなかった。

 

 結婚したことも、夫を亡くしたことも、洋子と暮らしていることも、互いに知っていた。

 

 知っているだけで、何も尋ねなかった。

 

「では、明後日に」

 

 順子が言った。

 

「はい」

 

 亨は受話器を置かなかった。

 

 順子も切らなかった。

 

 電話の向こうから、ごく小さな音が聞こえた。

 

 時計か、冷蔵庫か、順子が指で何かを触っている音かもしれない。

 

「何か?」

 

 順子が言った。

 

「いや」

 

「では、切ります」

 

「はい」

 

 電話が切れた。

 

 通話時間は、二分四十七秒だった。

 

 亨は受話器を置いた。

 

 四十数年前、順子の母に長電話を叱られた夜、二人は一時間近く話していた。

 

 何を話したのかは、ほとんど覚えていない。

 

 母親の声が途中へ入ったことだけは、二人とも覚えていた。

 

 順子は津山の部屋で、携帯電話をテーブルへ置いた。

 

 画面には、登録していない番号が残っている。

 

 澤口亨。

 

 名前を登録する必要はなかった。

 

 明後日に会えば、そのあと電話をすることはない。

 

 順子はそう思った。

 

 番号を消そうとして、指を止めた。

 

 消すのは、会ってからでよい。

 

 台所へ行き、湯を沸かした。

 

 茶葉を入れすぎ、濃い茶になった。

 

 一口飲んだが、淹れ直さなかった。

 

 岡山では、亨が二階から下りてきた。

 

 洋子は居間で、新聞を畳んでいた。

 

「電話、長かった?」

 

「いや」

 

「誰から?」

 

 亨は少し間を置いた。

 

「市役所から」

 

「絵のこと?」

 

「うん」

 

 嘘ではなかった。

 

 市役所から電話はあった。

 

 そのあと、誰へ電話したかを言わなかっただけである。

 

「お茶、飲む?」

 

「いや、ええ」

 

「今日は、いらん日なんやね」

 

 洋子は立ち上がり、自分の湯呑みだけを台所へ運んだ。

 

「洋子」

 

「何?」

 

「明後日の午後、出かけるから」

 

「どこへ?」

 

「京橋の方」

 

「絵を描きに?」

 

 亨は洋子の背中を見た。

 

「人に会う」

 

 洋子が振り返った。

 

「市役所の人?」

 

「そうや」

 

 今度は、嘘だった。

 

「分かりました」

 

 洋子は台所へ入った。

 

 流しへ置いた湯呑みを、すぐには洗わなかった。

 

 亨は食卓へ座った。

 

 自分の前には、空の湯呑みさえなかった。

 

 明後日、四十数年ぶりに順子と会う。

 

 そのことを考えると、若い頃の顔ばかりが浮かんだ。

 

 いま会うのは、小坂順子ではない。

 

 夫を亡くし、娘を心配して、自分へ連絡してきた松山順子だった。

 

 亨は机に残した電話番号を思い出した。

 

 最後の数字は七である。

 

 忘れないようにと何度も復唱したため、ほかの数字より強く残っていた。

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第七章 知ったあと

 

 千穂がマンションへ戻ったのは、一時間ほどたってからだった。

 

 順子は夕食の支度をせず、ダイニングテーブルの前に座っていた。

 

 床に散らばったものは箱へ戻した。亨から届いた封筒だけが、テーブルの端にある。

 

 玄関の扉が開いた。

 

「お帰り」

 

 順子が言った。

 

 千穂は返事をせず、上着を脱いだ。

 

「夕食は?」

 

「いらない」

 

「お昼も、あまり食べてないんでしょう」

 

「食べたくない」

 

「何か少しだけでも」

 

「いらないと言ってるでしょう」

 

 千穂は寝室へ行こうとしたが、テーブルの封筒を見て足を止めた。

 

「どうして、あのお金を持ってたの」

 

 順子は封筒へ目を向けた。

 

「使えなかったから」

 

「返さなかったの?」

 

「返せば、また亨と話さなければならなかった」

 

「捨てることもできたでしょう」

 

「できなかった」

 

「ずっと持ってたんだ」

 

「そうね」

 

 千穂は椅子を引き、順子の向かいへ座った。

 

「お母さんは、澤口さんをいまも憎んでるの?」

 

「憎んでると言えば、分かりやすい?」

 

「分からんから聞いてるの」

 

「許してはいない」

 

「同じことでしょう」

 

「同じではないわ」

 

「どう違うの」

 

 順子は答えなかった。

 

 封筒の表には、小坂順子と書いてある。

 

 夫と暮らした年月より前の名前だった。

 

「亨のことを考えながら生きてきたわけじゃないの」

 

「でも、名前を聞いただけで、あんなふうになったでしょう」

 

「忘れていたわけではないから」

 

「お父さんと一緒にいたときも?」

 

「あなたのお父さんと暮らしたことと、亨とのことは別よ」

 

「お父さんは知らなかった」

 

「ええ」

 

「それで、本当に別と言えるの?」

 

「言えるわ」

 

 順子は娘から目をそらさなかった。

 

「あなたのお父さんとの暮らしは、代わりではなかった。あなたも、あの子の代わりではない」

 

「あの子って言うんだ」

 

 千穂の声が震えた。

 

 順子は口を閉じた。

 

 性別も知らなかった。

 

 顔も、声も知らない。

 

 名前もつけなかった。

 

 それでも、心の中では長い間、あの子と呼んでいた。

 

「名前はなかったの?」

 

「なかった」

 

「考えたことは?」

 

「ないわ」

 

「一度も?」

 

「ない」

 

「どうして?」

 

「考えたら、名前ができるでしょう」

 

「そうでしょうね」

 

「名前をつける前に、いなくなったの」

 

「いなくしたんでしょう」

 

 順子の手が、膝の上で動いた。

 

 千穂も、自分の言葉に気づいたらしい。だが、言い直さなかった。

 

「そうね」

 

 順子が言った。

 

「そういう言い方もできるわね」

 

「お母さん」

 

「あなたが間違っているとは言ってないのよ」

 

 順子は立ち上がった。

 

「何か食べるものを作るわ」

 

「いらない」

 

「私が食べるの」

 

「さっきまで何もしてなかったのに?」

 

「あなたが帰ってくるかもしれないと思ったから」

 

「帰ってこなかったら?」

 

「食べなかったかもしれない」

 

「それで、私には食べろと言うの?」

 

「親は勝手なものよ」

 

 順子は冷蔵庫を開けた。

 

 豆腐と卵と、半分残った葱があった。

 

「お味噌汁でいい?」

 

「いらないと言ってるでしょう」

 

「二人分作るわ」

 

 返事はなかった。

 

 順子は鍋へ水を入れた。

 

 出汁を取っている間、背中に千穂の視線を感じた。

 

「今日は休みなさい」

 

「朝一番で帰る」

 

「仕事は?」

 

「休んでる場合じゃない」

 

「だからこそ、休んだ方がいいんじゃないの」

 

「お母さんに言われたくない」

 

 千穂は立ち上がり、寝室へ入った。

 

 扉は閉めなかった。

 

 味噌汁ができると、順子は二つの椀へよそった。

 

 一つを寝室の前へ置いた。

 

「ここへ置いておくわよ」

 

「いらない」

 

「冷めたら、おいしくなくなるから」

 

「いらないって」

 

「分かった」

 

 順子は椀を下げなかった。

 

 自分の分を食べ終え、食器を洗った。

 

 寝室の前を通ると、椀は空になっていた。

 

 順子は黙って台所へ運んだ。

 

 翌朝、千穂は始発に近い列車で岡山へ戻った。

 

 市役所へ着くと、誰もいない机で前日の書類を確かめた。日付、宛名、添付資料。一つずつ指で追った。

 

 確認に時間をかけたため、朝の打ち合わせに遅れそうになった。

 

「松山さん、昨日は休めましたか」

 

 上司に聞かれた。

 

「はい。ご迷惑をおかけしました」

 

「今日は大丈夫?」

 

「大丈夫です」

 

 その言葉を口にした途端、不安になった。

 

「たぶん」

 

 付け加えると、上司は何も言わず千穂を見た。

 

 午前中、展示会場から絵の返却について連絡が入った。

 

 展示は予定どおり週末に終わる。作品を持ち主へ直接返すか、市役所で預かるかを確認しなければならない。

 

 千穂は出展者の一覧を見た。

 

 澤口亨。

 

 電話番号の横に、〈自宅返却希望〉と書かれている。

 

 メールでも確認できた。

 

 千穂は受話器を取った。

 

 三度鳴って、亨が出た。

 

「澤口です」

 

「岡山市役所の松山です」

 

「ああ、千穂さん」

 

 名前で呼ばれたことに、胸の奥が反応した。

 

「展示作品の返却について、確認のお電話です。ご自宅へお持ちすることになっていますが、来週の火曜日でよろしいでしょうか」

 

「ええ。時間はいつでもかまいません」

 

「午後二時頃に伺います」

 

「お願いします」

 

 仕事の話は終わった。

 

 千穂は受話器を置かなかった。

 

「澤口さん」

 

「はい」

 

「母から聞きました」

 

 電話の向こうが静かになった。

 

「何を、ですか」

 

「分かってるでしょう」

 

 亨は答えなかった。

 

「母が妊娠したことも、一人で病院へ行ったことも」

 

「そうですか」

 

 それだけだった。

 

 千穂は受話器を握り直した。

 

「それだけですか」

 

「電話で話すことやないと思います」

 

「母にも、私から話すことではないと言いましたよね」

 

「はい」

 

「二人とも、話すことじゃないと言って、ずっと誰にも話さなかった」

 

「千穂さん」

 

「母に、来なくていいと言われたから、本当に行かなかったんですか」

 

 受話器の向こうで、亨が息をした。

 

「そうです」

 

「どうして?」

 

「あのときの僕は、順子の言葉に従うたつもりでした」

 

「いまは?」

 

 亨はしばらく答えなかった。

 

「行くのが怖かったんやと思います」

 

「思います、なんですね」

 

「四十数年前の自分が何を考えてたのか、いまとなっては、きれいには説明できません」

 

「母は、きれいに説明できないことを、ずっと一人で持ってたんですよ」

 

「分かってます」

 

「分かってたら」

 

 その先が出なかった。

 

 亨に何を言わせたいのか、自分でも分からなかった。

 

 謝ってほしいのか。

 

 母に会ってほしいのか。

 

 今の暮らしが壊れるほど、後悔してほしいのか。

 

「火曜日の二時に、絵をお持ちします」

 

 千穂は仕事の声へ戻した。

 

「分かりました」

 

 電話を切った。

 

 受話器を置いたあと、メモ用紙へ〈火曜日 二時〉と書いた。

 

 日付も書いた。

 

 その下にもう一度、〈火曜日 二時〉と書いた。

 

午後、千穂は出展者への礼状を印刷した。

 

 一枚ずつ宛名を確かめ、封筒へ入れた。三度見直してから、庁内の発送箱へ運んだ。

 

 席へ戻ると、机の上に亨宛ての礼状だけが残っていた。

 

 封筒の数を間違え、亨の分を入れていなかった。

 

 千穂は礼状を持ち、もう一度発送箱へ向かった。

 

 廊下の途中で、上司に呼び止められた。

 

「松山さん」

 

「何でしょう」

 

「昨日、帰ってもらった理由を覚えていますか」

 

「これは、入れ忘れただけです」

 

「それが続いているんでしょう」

 

「次から気をつけます」

 

「次が来る前に、休んでください」

 

「仕事はできます」

 

「できるかどうかを、いま自分で決めない方がいい」

 

 千穂は礼状を持ったまま立っていた。

 

「明日から三日、休暇を取ってください」

 

「展示が終わる前です」

 

「ほかの人に任せます」

 

「私の担当です」

 

「松山さんにしかできない仕事ではありません」

 

 千穂は礼状を見た。

 

〈澤口亨様〉

 

 宛名は間違っていなかった。

 

 日付も、文章も合っている。

 

 ただ、封筒へ入れ忘れただけだった。

 

「分かりました」

 

 礼状を上司へ渡した。

 

「これも、お願いできますか」

 

「預かります」

 

 上司は受け取った。

 

 席へ戻り、必要な引き継ぎを書き始めた。

 

 読み返すと、〈展示終了後〉と書くところを、〈展示終了語〉と変換していた。

 

 直した。

 

 次に読むと、別のところが気になった。

 

 何度見直しても、自分の文章が合っているのか分からない。

 

「松山さん」

 

 上司が席から声をかけた。

 

「もう、それで大丈夫です」

 

「まだ途中です」

 

「続きはこちらでします」

 

「でも」

 

「引き継ぎのために、帰れなくなっていますよ」

 

 千穂は手を止めた。

 

 鞄へ書類を入れようとして、これは持ち帰ってはいけないものだと気づいた。机へ戻し、代わりに空のファイルを鞄へ入れた。

 

 何のために入れたのか分からず、それも取り出した。

 

「お先に失礼します」

 

 周囲の人が顔を上げた。

 

「お疲れさまでした」

 

 いつもと同じ挨拶だった。

 

 千穂は、それがかえってつらかった。

 

 同じ日の夕方、亨は烏城公園のベンチに座っていた。

 

 朝から曇っていた空が、旭川の上でさらに暗くなっている。

 

 スケッチブックを開いたものの、何も描かなかった。

 

「母は、きれいに説明できないことを、ずっと一人で持ってたんですよ」

 

 千穂の声が残っていた。

 

 亨は順子が東京で結婚し、娘を産み、店を営んだことを、千穂から聞いて初めて知った。

 

 順子が幸せだったのなら、それでよかった。

 

 そう思いかけた。

 

 鉛筆を指の間で回し、止めた。

 

 順子が幸せなら、あの日の自分が少し軽くなる。順子が不幸なら、自分のしたことが重くなる。

 

 どちらにしても、順子の人生を自分の秤へ載せている。

 

 亨はスケッチブックを閉じた。

 

 橋の方から、仕事帰りの人たちが歩いてくる。

 

 千穂も毎日、この町で働いている。

 

 亨は、千穂が仕事で間違いを重ねていることを知らなかった。ただ、電話の声が、最初に市役所で会った人のものとは違っていた。

 

 立ち上がり、市役所の方角を見た。

 

 行って、何を言うのか。

 

 千穂に謝るのか。

 

 順子に会わせてほしいと頼むのか。

 

 また考えようとしている。

 

 四十数年前も、そうだった。

 

 病院へ来なくていいと言われたとき、順子は本当に来るなと言ったのではないかもしれない。

 

 そう思った。

 

 だが、行って拒まれるのが怖かった。

 

 行けば、自分がしたことを、病院の廊下や消毒薬の匂いの中で見なければならない。

 

 だから、順子の言葉に従った。

 

 従うという形で、逃げた。

 

 亨は家へ戻った。

 

 玄関を開けると、煮物の匂いがした。

 

「お帰り」

 

 台所から洋子の声がした。

 

「ただいま」

 

「今日は遅かったね」

 

「公園におった」

 

「絵は描けた?」

 

「いや」

 

「何しに行ったの」

 

「考えごと」

 

「家でもできます」

 

「家やと、時計が気になるから」

 

「外でも腕時計を見てるでしょう」

 

 洋子が台所から顔を出した。

 

「この頃、考えごとばかりやね」

 

「そうやな」

 

「考えて、何か決まりました?」

 

「まだ」

 

「考えるのが好きなんやね」

 

「そうやない」

 

「決めへんで済むから、考えてるんやないの?」

 

 亨は靴を脱ぐ手を止めた。

 

 洋子はもう台所へ戻っていた。

 

「ご飯、もうすぐできます」

 

「ああ」

 

「今日は肉じゃがです」

 

「そうか」

 

「嫌?」

 

「いや」

 

「返事が短いから」

 

 亨は居間へ入り、鞄を置いた。

 

 食卓には二人分の箸が並んでいる。

 

 自分の箸の先が、少しだけ洋子の方へ向いていた。

 

 亨はまっすぐに直した。

 

 台所から洋子が出てきた。

 

「何してるの?」

 

「箸が曲がってた」

 

「それくらいで、ご飯の味は変わりません」

 

 洋子は肉じゃがの鉢を食卓へ置いた。

 

 じゃがいもの一つが、煮崩れていた。

 

「それ、私が食べます」

 

「どうして?」

 

「崩れたから」

 

「僕でええよ」

 

「きれいな方がええでしょう」

 

「どっちでも同じや」

 

「ほな、崩れた方をどうぞ」

 

 洋子は煮崩れたじゃがいもを亨の小鉢へ入れた。

 

 亨は箸を取った。

 

 形は崩れていたが、味はよく染みていた。

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第六章 開けなかった箱

 

 千穂の間違いは、そのあとも続いた。

 

 会議の開始時刻を三十分早く手帳へ書き、誰も来ない部屋で一人待った。

 

 出展者へ返す写真を別の封筒へ入れ、宛名を書く前に気づいた。

 

 電話を受けながら用件をメモしたはずなのに、受話器を置くと、相手の名前だけがなかった。

 

 どれも、その場で直せた。

 

 誰かを怒らせたわけでもない。金銭的な損害も出ていない。

 

 そのことが、かえって気になった。

 

 小さな間違いは、謝れば終わる。終わるので、次の間違いまで誰も覚えていない。

 

「松山さん、この頃、少し変ですよ」

 

 同じ展示を担当する後輩に言われた。

 

「何が?」

 

「同じことを何度も確認しているから」

 

「間違えないために確認してるの」

 

「確認したことを、また確認してます」

 

「それの何が悪いの?」

 

「悪いとは言ってません」

 

 後輩は机の上の書類へ目を落とした。

 

「ただ、前は一度で合うてましたから」

 

 悪意がないことは分かっていた。

 

 千穂は書類の端を揃えた。

 

「展示が終われば落ち着くから」

 

「それなら、ええんですけど」

 

 後輩は自分の席へ戻った。

 

 千穂はパソコンの画面を見た。

 

 亨から届いたメールが開いたままになっている。

 

〈本日はありがとうございました。絵の返却については、展示終了後に改めてご連絡ください〉

 

 仕事上の短い文章だった。

 

 母のことは一言も書かれていない。

 

 千穂はメールを閉じた。

 

 閉じてから、もう一度開いた。

 

 文章は同じだった。

 

 午後、展示会場から電話が入った。

 

「今日の三時から、商店街の方たちとの打ち合わせですよね」

 

 現地の担当者が言った。

 

 千穂は手帳を開いた。

 

 打ち合わせは、翌日の三時と書いてある。

 

「明日ではありませんか」

 

「今日で伺っていますが」

 

「少々お待ちください」

 

 千穂は共有の予定表を開いた。

 

 今日の日付の欄に、打ち合わせの予定があった。

 

 自分が手帳へ書き写すとき、一日ずらしていた。

 

「申し訳ありません。すぐに伺います」

 

 資料を鞄へ入れ、上司の席へ行った。

 

「打ち合わせの日付を間違えていました。いまから表町へ行ってきます」

 

 上司は壁の時計を見た。

 

「私が行きます」

 

「でも、私の担当です」

 

「いまから行っても、落ち着いて話せないでしょう」

 

「大丈夫です」

 

「大丈夫ではないから、間違えたんじゃないですか」

 

 強く叱られたわけではなかった。

 

 上司は手元の書類を裏返し、場所を空けた。

 

「資料を置いてください」

 

「説明は私の方が」

 

「松山さん」

 

 名前を呼ばれ、千穂は口を閉じた。

 

「今日は帰ってください」

 

「体調は悪くありません」

 

「体調が悪くなくても、休んだ方がいい日はあります」

 

 千穂は鞄から資料を出した。

 

 上司は受け取り、中を確かめた。

 

「この資料で全部ですね」

 

「はい」

 

 答えたあと、不安になった。

 

「少し待ってください。確認します」

 

「いま確認したでしょう」

 

「念のためです」

 

 千穂は資料を取り返し、一枚ずつ数えた。

 

 必要なものは揃っていた。

 

「全部あります」

 

「そうですか」

 

 上司はもう一度受け取った。

 

「気をつけて帰ってください」

 

 机へ戻り、途中の仕事を片づけようとすると、

 

「明日でいいです」

 

と、背中から声がした。

 

 市役所を出ると、まだ三時前だった。

 

 西川沿いには明るい日差しが残り、ベンチでは親子が菓子を食べていた。母親が袋を持ち、子どもが中へ手を入れている。同じ菓子を何度もつかむので、母親が袋を遠ざけた。

 

 千穂は岡山駅まで歩いた。

 

 自宅へ帰るつもりだった。

 

 改札の前で津山線の時刻を見た。

 

 次の列車は十五分後に出る。

 

 千穂は津山行きの切符を買った。

 

 母には連絡しなかった。

 

 列車の中で何度か携帯電話を出した。電話帳から〈母〉を開き、発信の印に指を置いた。

 

 押さずに閉じた。

 

 仕事で間違いを重ねていること。上司から帰るように言われたこと。母と亨のことが頭から離れないこと。

 

 どれから話しても、母には同じことを言われる気がした。

 

 私のせいにしないで。

 

 津山駅へ着いたのは、五時前だった。

 

 順子は、突然訪ねてきた娘を見て驚いた。

 

「どうしたの」

 

「別に」

 

「仕事は?」

 

「早く終わった」

 

「そんな顔で?」

 

 順子は千穂を玄関へ入れた。

 

 上着を受け取ろうとすると、千穂は自分で椅子の背へ掛けた。

 

「夕食、食べていく?」

 

「何でもいい」

 

「何でもいいが、いちばん困るのよ」

 

「あるものでええよ」

 

「あるものを言っても、あなたは食べたくないと言うでしょう」

 

「今日は言わない」

 

「今日だけ?」

 

「お母さん、何でも聞き返さんと気が済まんの?」

 

「あなたが何も言わないからでしょう」

 

 千穂は黙った。

 

 目の下に、薄い影がある。

 

「仕事で何かあったの」

 

「何もない」

 

 順子は娘の顔を見た。

 

 以前、自分も同じ言葉を使った。

 

「千穂」

 

「少し休ませて」

 

 千穂は寝室へ入り、壁際の段ボール箱の前へ腰を下ろした。

 

「まだ開けてないの?」

 

「必要のないものだから」

 

「半年もそのままなら、捨てればいいでしょう」

 

「簡単に言わないで」

 

「私が片づけようか」

 

「触らなくていい」

 

 順子の声が強くなった。

 

 千穂は箱から母へ目を移した。

 

「その中にも、私には見せられないものがあるの?」

 

「いま、その話をしているんじゃないでしょう」

 

「何の話をしてるの。お母さんは何も話さんじゃない」

 

「仕事で何があったのか、先に話しなさい」

 

「お母さんと澤口さんのことを考えてて、日付を間違えた」

 

 順子の表情が変わった。

 

「私たちのことと、あなたの仕事は関係ないでしょう」

 

「そう言われても、頭から離れんのよ」

 

「昔、付き合っていた。それだけ話したでしょう」

 

「それだけで、どうしていまも会えないの?」

 

「千穂」

 

「お父さんと結婚したあとも、ずっと澤口さんのことを思ってたの?」

 

「何を言ってるの」

 

「だったら、どうして」

 

「あなたに説明する必要はないわ」

 

「私が仕事で会わなければ、聞かない。でも二人とも、私の前で何かを隠してる。澤口さんは何も言わない。お母さんは会うことさえ拒む。それで関係ないと言われても、分からんよ」

 

「分からなくていいこともあるの」

 

「誰が決めるの?」

 

 順子は何も返さなかった。

 

 千穂の肩が、小さく上下していた。

 

 怒っているのではない。息を整えようとしている。

 

 順子は、台所へ水を取りに行こうとした。

 

「どこへ行くの」

 

「水を持ってくるだけよ」

 

「いらない」

 

「喉が渇いているでしょう」

 

「お母さんは、そうやって違うことをする」

 

「水を持ってくることが?」

 

「話したくないことがあると、窓を閉めたり、お茶を入れたりする」

 

 順子は寝室の入口で立ち止まった。

 

「今日は帰りなさい」

 

「もう列車に乗りたくない」

 

「では、ここで休みなさい。箱には触らないで」

 

 千穂が立ち上がった。

 

「どうして、そんなに触らせたくないの」

 

「あなたには関係のないものだから」

 

「また、それ?」

 

 順子は一番下の箱を奥へ押そうとした。

 

 上に載っていた箱が傾いた。

 

 千穂が手を伸ばして支えた。

 

 下の箱の底が、片側だけ抜けた。

 

 古い手帳や封筒が床へ滑り落ちた。

 

 順子は膝をついた。

 

「触らないで」

 

 千穂も、散らばったものへ手を伸ばした。

 

 二人の間に、一通の封筒が落ちていた。

 

〈小坂順子様〉

 

 古い字で書かれている。

 

 差出人は、澤口亨だった。

 

順子が封筒を取ろうとした。

 

 千穂の手が先に触れた。

 

「返して」

 

「これ、澤口さんから?」

 

「返しなさい」

 

 封筒は長い年月で糊が弱くなっていた。千穂が持ち上げると口が開き、折り畳まれた便箋と古い紙幣が落ちた。

 

 順子は紙幣を拾った。

 

 千穂は便箋を見た。

 

 読もうとしたわけではなかった。

 

 開いた紙の中央に、短い文章があった。

 

〈先日は渡せなかったので送ります。費用の半分です。足りなければ知らせてください〉

 

「何の費用?」

 

 順子は紙幣を封筒へ戻そうとした。古い札は幅が合わず、角が引っ掛かった。

 

 床には、病院の領収書も落ちていた。

 

 産婦人科の名前と、大学四回生の冬の日付がある。

 

「お母さん」

 

 千穂が領収書へ手を伸ばした。

 

「見ないで」

 

 順子は先に拾い、紺色の手帳へ挟んだ。

 

「何の手術?」

 

「知らなくていい」

 

「また、それ?」

 

 千穂の声が震えた。

 

「澤口さんとの間に、何があったの」

 

 順子は床へ座ったまま、封筒を見た。

 

 四十数年前、津山の母へ電話をかけた夜を思い出した。

 

「何かあったん?」

 

 母は、すぐに気づいた。

 

「何もない。声が聞きたかっただけ」

 

 順子はそう答えた。

 

 受話器の向こうで、母はしばらく黙っていた。

 

 その夜に言えなかったことを、いま娘が聞いている。

 

「子どもができたの」

 

 千穂の顔から表情が消えた。

 

「私と、亨の間に」

 

 部屋の外で、冷蔵庫の音が止まった。

 

 静かになったのではなかった。

 

 それまで鳴っていたものが、一つなくなっただけだった。

 

「産まなかったの?」

 

「産めなかった」

 

「澤口さんに、そう言われたの?」

 

 順子は首を振った。

 

「何も言わなかった」

 

「何も?」

 

「少し考えさせてほしいと言ったまま、答えを出さなかった」

 

「どれくらい待ったの」

 

「覚えてない」

 

「覚えてないわけないでしょう」

 

「毎日待っていたから、何日だったかは覚えてないの」

 

 順子は古い紙幣を見た。

 

「私の身体は待ってくれなかった。それで、一人で病院を探した」

 

「一人で行ったの?」

 

「来なくていいと言ったから」

 

「それで、本当に来なかったの?」

 

 順子は、紙幣の角を指で伸ばした。

 

 千穂は壁へ背を預け、その場に座り込んだ。

 

「このお金、あとから送ってきたの?」

 

「そう」

 

「受け取ったんだ」

 

「返そうと思った」

 

「返してないじゃない」

 

「返すには、手紙を書かなければならなかったから」

 

「お金だけ送り返せばよかったでしょう」

 

「そうね」

 

「使わなかったの?」

 

「使えると思う?」

 

「じゃあ、どうして持ってたの」

 

 順子は答えなかった。

 

 古い紙幣は、いまでは店へ持っていっても使えるかどうか分からない。使わなかったことで、許さなかったつもりだった。

 

 捨てなかったことで、何を残したかったのかは分からない。

 

「どうして、いままで」

 

 千穂が言った。

 

「誰に話せばよかったの」

 

「お父さんは知ってたの?」

 

「全部は話していない」

 

「どこまで?」

 

「前に好きだった人がいたことは知ってた」

 

「子どものことは?」

 

 順子は首を振った。

 

「私が生まれたときは?」

 

「何?」

 

「その子のことを思い出した?」

 

 順子はすぐに否定できなかった。

 

 千穂の目が揺れた。

 

「思い出したの?」

 

「思い出したことはある」

 

 千穂は顔を伏せた。

 

「でも、あなたを代わりだと思ったことは一度もない」

 

「同じじゃないの」

 

「同じではないわ」

 

「どう違うの」

 

「思い出すことと、代わりにすることは違うでしょう」

 

「生まれたばかりの私を見ながら、別の子を思い出したんでしょう」

 

「そうよ」

 

 順子は嘘をつかなかった。

 

 千穂の顔が上がった。

 

「あなたが生まれたとき、私はうれしかった。指が五本あることも、爪が小さかったことも覚えてる。看護婦さんが、髪の多い赤ちゃんだと言ったことも」

 

「そんなことを聞いてるんじゃない」

 

「でも、私はそのことを覚えてる」

 

 順子は娘へ手を伸ばしかけた。

 

 千穂は、わずかに身体を引いた。

 

 順子は手を膝へ戻した。

 

「うれしいだけじゃなかったんでしょう」

 

「そうよ」

 

「怖かった?」

 

「怖かった」

 

「何が?」

 

「あなたまで、いなくなるんじゃないかと思った」

 

「私は、その子じゃない」

 

「分かってる」

 

「分かってたら、そんなふうに思わないでしょう」

 

「人は、分かっていることだけを思うわけじゃないのよ」

 

「ずるい言い方」

 

「そうね」

 

 順子は床に散らばった手帳や封筒を集めた。

 

 亨から送られた紙幣を封筒へ戻そうとしたが、指が震え、また角が引っ掛かった。

 

 千穂が手を伸ばした。

 

 順子は封筒を渡さなかった。

 

「入らないんでしょう」

 

「入るわよ」

 

「さっきから入ってないじゃない」

 

「古くなって、封筒が縮んだの」

 

「紙は、そんなに縮まないよ」

 

「では、お札が大きくなったんでしょう」

 

 千穂は母を見た。

 

「こんなときまで、何を言ってるの」

 

「入らないんだから、仕方ないでしょう」

 

 順子は紙幣を二つ折りにしようとした。

 

「折らない方がいいよ」

 

「もう折り目がついてるわ」

 

「そうだけど」

 

 千穂は手を引いた。

 

 順子は紙幣を元の折り目に沿って畳み、封筒へ入れた。

 

 窓の外が暗くなり始めている。

 

 千穂が立ち上がった。

 

「帰るの?」

 

「少し外を歩いてくる」

 

「もう暗くなるわよ」

 

「子どもじゃない」

 

 千穂は上着を取り、玄関へ向かった。

 

「千穂」

 

 順子が呼び止めた。

 

 娘は振り返らなかった。

 

「あなたに、亨を憎んでほしくて話したんじゃない」

 

 千穂は玄関の扉に手を掛けた。

 

「お母さんが話したんじゃない。私が見つけたの」

 

 扉が閉まった。

 

 順子は散らばったものを一つずつ箱へ戻した。

 

 手帳。

 

 病院の領収書。

 

 亨の封筒。

 

 夫のネクタイを買った店の古い伝票まで出てきた。

 

 順子は一番上に封筒を置いた。

 

 箱の底は抜けている。

 

 持ち上げれば、また全部落ちる。

 

 順子は箱をその場所に置いたまま、寝室の明かりを消した。

 

 暗くなっても、白い封筒だけがしばらく見えていた。