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『 花びらの積もる道 』

 

第五章 小さな間違い

 

 鶴山公園で洋子と別れてから数日後、千穂の担当する展示が始まった。

 

 表町の空き店舗には、岡山へ移ってきた人たちの写真や文章が並んだ。県外から飲食店を開いた夫婦。子どもの進学をきっかけに来た家族。定年後に移り住んだ亨と洋子。

 

 亨の紹介文の横には、旭川から見た岡山城の絵が掛けられていた。

 

 黒い城の周りには、思いのほか多くの色が使われている。川面には薄い青と灰色が重なり、空には淡い黄色が残っていた。近くで見ると、何度も線を消した跡が分かった。

 

 初日の朝、千穂は開場前の店内を一人で見て回った。

 

 説明文を読み、写真の傾きを直し、来場者用の用紙を入口へ置く。

 

 亨の絵の前で足が止まった。

 

〈知らない町ではなく、これから暮らす町として岡山を見るようになりました〉

 

 千穂が聞き取りをもとに書いた文章である。

 

 その下には、亨の言葉として、

 

〈同じ景色でも、昨日と今日では違って見えます〉

 

と添えた。

 

 写真の角が少し浮いていた。千穂は両手で押さえた。

 

 手を離すと、また同じところが浮いた。

 

 開場すると、近所の人や買い物途中の客が少しずつ入ってきた。大きな展示ではない。それでも昼前には、十人ほどが店内にいる時間もあった。

 

「この絵を描いた方、今日は来られますか」

 

 年配の女性に尋ねられ、千穂は受付の予定表を見た。

 

「午後一時頃に来られる予定です」

 

「岡山城の話を聞いてみたいわ」

 

「お伝えしておきます」

 

 女性は絵の前へ戻った。

 

 千穂は予定表へ印をつけようとして、手を止めた。

 

 亨が来るのは一時ではない。

 

 二時だった。

 

 予定表には、はっきり二時と書いてある。数字の二には、千穂自身が赤い丸までつけていた。

 

 女性を追いかけた。

 

「すみません。澤口さんが来られるのは二時でした」

 

「あら、そうなの」

 

「申し訳ありません」

 

「それなら、買い物してから戻ってきます」

 

 女性は気にした様子もなく店を出た。

 

 時間を一つ間違えただけだった。

 

 千穂は受付へ戻り、予定表をもう一度見た。

 

 二時という数字が、一時に見えるはずはない。

 

 それでも、口から出たのは一時だった。

 

 午後、亨は予定どおり二時前に来た。

 

 絵の前で待っていた女性に声をかけられ、岡山城について話し始めた。

 

「黒いお城ですけど、黒だけでは描けないんですね」

 

「そうなんです。黒やと思うてるものの中にも、いろんな色がありますから」

 

 女性は絵へ顔を近づけた。

 

「ここは、紫ですか」

 

「黒にしたかったんですけどね」

 

「紫に見えます」

 

「ほな、紫なんでしょう」

 

 亨が笑った。

 

 千穂は受付から二人を見ていた。

 

 母は、亨の名前を聞いただけで窓を閉めた。住所も電話番号も教えるなと言った。

 

 いま絵の前で笑っている男性と、母の閉めた窓が結びつかなかった。

 

 亨が女性との話を終え、受付へ来た。

 

「今日は、何時までおったらええですか」

 

「四時までお願いしています」

 

 千穂は予定表を指で確かめてから答えた。

 

「先ほど、時間を間違えて伝えてしまって」

 

「僕の来る時間を?」

 

「一時と。すぐに訂正しました」

 

「そうですか」

 

「ご迷惑はかけていません」

 

 亨は千穂の顔を見た。

 

「疲れてるんやないですか」

 

「大丈夫です」

 

「展示が始まるまでは、忙しかったでしょう」

 

「仕事ですから」

 

 少し強い声になった。

 

 亨は何も言わず、入口に置かれた用紙を一枚取った。

 

 表を見て、裏を見た。

 

「これ、裏にも書くところがあるんですね」

 

「はい。ご意見があれば」

 

「表だけやと思うてました」

 

「そう思う方もいるかもしれませんね」

 

 千穂は用紙の置き方を変えた。

 

 裏にも記入欄があると分かるよう、一枚だけ裏返して置いた。

 

 それだけで少し落ち着いた。

 

 夕方、展示を閉め、市役所へ戻った。

 

 机の上には、別の部署から届いた書類が置かれていた。展示の報告をまとめる前に、その書類へ目を通さなければならない。

 

 パソコンを開くと、朝送ったメールへの返信が来ていた。

 

〈添付されている紹介文が、別の方のものになっています。ご確認ください〉

 

 千穂は送信済みのメールを開いた。

 

 亨の絵の写真に、飲食店を開いた夫婦の紹介文を添付していた。

 

 ファイル名はよく似ている。

 

 それでも、送る前には必ず開いて確かめてきた。今日だけ確かめなかったのか、確かめたのに見ていなかったのか、思い出せなかった。

 

 正しいファイルを送り直した。

 

〈大変失礼いたしました〉

 

と書き、送信ボタンを押した。

 

「松山さん」

 

 隣の席から同僚が声をかけた。

 

「もう七時ですよ」

 

 時計を見ると、思っていたより一時間近く遅かった。

 

「いま終わります」

 

「最近、遅いですね」

 

「展示が始まったばかりだから」

 

 千穂は書類を片づけ、パソコンの電源を切った。

 

 机の上に、赤いボールペンが一本残った。自分のものではないと思い、隣の机へ置いた。

 

 隣の同僚が見た。

 

「それ、松山さんのですよ」

 

「そうだった?」

 

「名前、貼ってあります」

 

 ペンには〈松山〉と書いた細いシールが巻かれていた。

 

 千穂は黙って鞄へ入れた。

 

 市役所を出ると、昼の暖かさが消え、風が冷たくなっていた。

 

 西川緑道公園の近くまで歩き、途中のベンチへ腰を下ろした。

 

 帰宅する人たちが、足早に通り過ぎていく。

 

 千穂は携帯電話を取り出し、母へ電話をかけた。

 

 三度鳴って、順子が出た。

 

「もしもし」

 

「お母さん、いま大丈夫?」

 

「今日は、そちらから聞くのね」

 

「いつも聞いてるでしょう」

 

「仕事は終わったの?」

 

「いま帰るところ」

 

 千穂は西川の水面を見た。街路樹の影が、街灯の光で揺れている。

 

「展示が始まったよ」

 

「そう」

 

「澤口さんの絵も掛けた」

 

 順子は何も言わなかった。

 

「今日、会場に来た」

 

「そう」

 

「お母さんと、付き合っていたの?」

 

 電話の向こうが静かになった。

 

 千穂は返事を待った。

 

「そうよ」

 

 予想していた言葉だった。

 

 それでも、知らなかった頃へは戻れなくなった。

 

「いつ頃?」

 

「大学生の頃」

 

「どうして別れたの」

 

「その話はしたくない」

 

「澤口さんも、何も話さない」

 

「亨に聞いたの?」

 

 順子の声が変わった。

 

「聞いてない。向こうから話すことではないと言われた」

 

「そのとおりよ」

 

「二人とも、相手に聞けと言って、聞いたら話さない」

 

「あなたに関係のないことだから」

 

「関係のない人を、私の仕事へ持ち込まないで」

 

 順子が黙った。

 

 千穂自身にも、なぜそんな言い方をしたのか分からなかった。

 

 亨を展示へ呼んだのは自分である。母の名前を出したのも自分だった。

 

 水の上を、小さな葉が一枚流れてきた。街灯の下へ入ると見え、光を過ぎると消えた。

 

「ごめん」

 

 千穂は言った。

 

「今日、少し疲れてるみたい」

 

「仕事で何かあったの?」

 

「何もない」

 

 母が使ったのと同じ言葉が、口から出た。

 

「千穂」

 

「もう帰る。切るね」

 

 電話を切り、携帯電話を鞄へ入れた。

 

 画面が消える直前、時刻が七時二十六分と表示された。

 

 千穂はもう一度取り出して見た。

 

 七時二十六分だった。

 

 翌朝、千穂は出勤してすぐ、展示会場へ届ける来場者用の用紙を封筒へ入れた。

 

 宛名を書き、庁内便の箱へ入れた。

 

 席へ戻ると、机の上に同じ用紙が残っている。

 

 封筒へ入れたのは、別の会議で使う資料だった。

 

 千穂は立ち上がり、庁内便の箱へ走った。

 

 回収前だった。封筒はまだ残っている。

 

 封を開け、書類を入れ替えた。

 

 誰にも迷惑はかからなかった。

 

 千穂は古い封筒を細かく破り始めた。

 

 四つに破れば捨てられるのに、八つに破った。さらに半分にしようとして、紙で指の腹を切った。

 

 血は出なかった。

 

 白い筋だけが、しばらく残った。

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『 花びらの積もる道 』

 

第四章 花びらの積もる道

 

 日曜日の朝、亨は洋子を岡山駅まで送ろうかと言った。

 

「一人で行けます」

 

 洋子は小さな鞄へ水筒を入れながら答えた。

 

「津山線の乗り場、ちょっと分かりにくいで」

 

「前に岡山駅から乗ったことあります」

 

「いつ?」

 

「家を探してた頃。津山へは行かへんかったけど、乗り場くらい見ました」

 

「二年前やろ」

 

「乗り場は逃げません」

 

「変わってるかもしれへん」

 

「駅まで送ってもらう間に、電車一本遅れます」

 

 亨は時計を見た。

 

 洋子の言うとおりだった。

 

 玄関で靴を履いた洋子は、薄い色の帽子をかぶった。花屋へ行く日より、少し明るい服を着ている。

 

「帰り、何時頃になる?」

 

「順子さんとお昼を食べても、夕方には戻れると思います」

 

「そうか」

 

「何か買うてきましょうか」

 

「いや」

 

 洋子は亨の顔を見た。

 

「ほんまに、どうしたの?」

 

「何が?」

 

「私が津山へ行くと言うてから、ちょっと変よ」

 

 亨は、玄関脇に置かれた洋子の傘を見た。

 

「久しぶりの遠出やから、気ぃつけてほしいだけや」

 

「一時間ほどでしょう」

 

 洋子は笑って扉を開けた。

 

「行ってきます」

 

「行ってらっしゃい」

 

 扉が閉じたあとも、亨はしばらく玄関に立っていた。

 

 津山線に乗れば、洋子は一時間あまりで鶴山公園の近くへ着く。

 

 自分が四十数年訪れていない場所を、今日は順子と洋子が歩く。

 

 亨は洋子の靴があった場所を見た。

 

 そこだけ、細長く埃が残っていた。

 

 洋子が津山駅へ着いた頃、順子は鶴山公園の入口で待っていた。

 

 桜は満開を過ぎ、多くの枝に若い葉が混じり始めている。それでも風が吹くたび、残っていた花びらが途切れずに落ちてきた。

 

 石段の端や石垣の下には、淡い色が幾重にも積もっている。人に踏まれたところだけ、花びらが濃く沈んでいた。

 

「順子さん」

 

 呼ばれて振り向くと、洋子が坂の下から歩いてきた。

 

「お待たせしました」

 

「まだ時間前です」

 

「駅から迷わんと来られました」

 

「それはよかったですね」

 

「少しくらい褒めてください」

 

「子どもじゃないんでしょう」

 

 千穂へ何度も言った言葉だった。

 

 順子は笑った。

 

「思うてたより、人がいますね」

 

「桜が散っても、日曜日ですから」

 

「上まで行けますか」

 

「私に聞くんですか」

 

「案内してくれる人が、先に疲れたら困ります」

 

「洋子さんこそ、途中で膝が痛いと言わないでくださいね」

 

「痛うなったら、言います」

 

「言うんですか」

 

「黙ってたら、置いていかれるでしょう」

 

 二人は並んで入口を入った。

 

 下りてくる人とすれ違いながら、ゆっくり石段を上がった。

 

 洋子は何度か立ち止まり、石垣を見上げた。

 

「こんなに高う積んであるんですね」

 

「お城は残っていませんけど、石垣は残っています」

 

「うちの人が来たら、動かへんようになりそう」

 

「石垣が好きなんですか」

 

「絵を描くんです。岡山城でも、城より石垣を見てる時間の方が長うて」

 

 順子の足が、わずかに遅くなった。

 

 亨もそうだった。

 

 若い頃、ここへ連れてきたとき、亨は石垣の前へ来るたびにスケッチブックを開いた。

 

「絵を描く人は、一緒に歩く人の時間を考えないんでしょうね」

 

 順子が言った。

 

「ほんまに。私が先へ行っても、いつまでも同じところにいます」

 

 洋子は笑った。

 

 その横顔の向こうに、白いシャツを着た亨が見えた。

 

「私を見に来たんか、石垣を見に来たんか、どっちなん」

 

「石垣は逃げへんけど、順子は先に行ってしまうから」

 

 若い順子は、石垣に勝ったと思って笑った。

 

「順子さん?」

 

 洋子の声で、石垣に色が戻った。

 

「どうしました?」

 

「何でもありません」

 

「少し休みますか」

 

「まだ上り始めたばかりでしょう」

 

 順子は先へ進んだ。

 

 花びらの積もった一段へ足を置くと、靴底が滑った。

 

「危ない」

 

 洋子が順子の肘をつかんだ。

 

「大丈夫です」

 

「花びらって、見た目より滑るんですね」

 

 順子が足元を確かめるまで、洋子は手を離さなかった。

 

 順子は石垣の下へ目を向けた。

 

「昔、花見に来た酔っ払いが、石垣から落ちたことがあるそうです」

 

「ここから?」

 

「どの石垣だったかまでは知りません。でも、下に桜の花びらがようけ積もっていて、それがクッションになったらしいんです」

 

「けがは?」

 

「大騒ぎした割には、軽いけがで済んだって」

 

 洋子は石垣の下をのぞいた。

 

「そんなこと、ほんまにあるんですか」

 

「津山では、あることになっています」

 

 洋子が笑った。

 

「花びらに助けられたんやね」

 

「本人は次の年も、同じところへ飲みに来たそうですけど」

 

「懲りへん人やね」

 

「助けた花びらも、がっかりしたでしょう」

 

 二人は笑いながら、もう一度石垣の下を見た。

 

「でも」

 

 洋子が言った。

 

「助かった人やったら、また来てもええんやないですか」

 

「同じところから落ちなければね」

 

「今度は気ぃつけて飲んだかもしれません」

 

「人は、そんなに簡単に変わりませんよ」

 

「そうかもしれません」

 

 洋子は石段へ戻った。

 

「でも、次も同じやとは限らへんでしょう」

 

 順子は石垣の下に積もった花びらを見た。

 

「花屋さんは、酔っ払いにも甘いのね」

 

「お客さんになるかもしれませんから」

 

「石垣から落ちる人が、花を買うかしら」

 

「次の年、花びらにお礼を言いに来たのかもしれません」

 

「お酒を持って?」

 

「花は飲めへんから、自分で飲んだんでしょう」

 

 順子は笑った。

 

 二人は石垣の見える場所で休んだ。

 

 洋子が鞄から水筒と小さな菓子を取り出した。

 

「用意がいいですね」

 

「花屋では立ってる時間が長いから、休めるときに休むんです」

 

 順子は水筒の蓋へ注がれた茶を受け取った。

 

 少し離れた桜の下で、若い女性が携帯電話を耳に当てている。笑いながら話し、風が吹くと髪を耳へ掛け直した。

 

「いまは、どこにいても電話ができますね」

 

 洋子も同じ女性を見た。

 

「昔は、電話するだけでも大変でした」

 

「順子さんのお家には、電話があったんですか」

 

「ありました。母が電話交換手をしていたんです」

 

「電話交換手?」

 

「ええ。だからなのか、人が電話をしていると、時間が気になって仕方なかったみたいで」

 

 若い女性の笑い声が、風に乗って聞こえてきた。

 

「学生の頃、実家の電話でいつまでも話していたことがあったんです。そうしたら途中で、母の声が入ってきて」

 

 順子は、母の声をまねた。

 

「あんたら、いつまで話しょんで」

 

 洋子が吹き出した。

 

「聞いてはったんですか」

 

「全部ではないと思います。でも、何を聞かれたか分からないでしょう。向こうも急に黙ってしまって」

 

「その人、驚いたでしょうね」

 

「母に謝ってました。電話の向こうから」

 

「お母さんに?」

 

「私に謝っても仕方がないと思ったんでしょうね」

 

「それで切ったんですか」

 

「いいえ。母がいなくなるのを待って、また話し始めました」

 

「懲りへんかったんですね」

 

「若かったですから」

 

 順子は声を出して笑った。

 

 この記憶には、いつも亨がいた。

 

 けれど、いま目に浮かんだのは、受話器の途中へ入ってきた母の顔だった。電話交換手に電話のことで言い返すなと、自分で言って笑っていた。

 

「その人は、ご主人になった方ですか」

 

 洋子が尋ねた。

 

 順子の笑みが止まった。

 

「いいえ」

 

 風が吹き、二人の間へ花びらが一枚落ちた。

 

「そうはならなかった人です」

 

 洋子は膝の上の菓子を包み直した。

 

「余計なことを聞きました」

 

「昔の話です」

 

 順子は茶を一口飲んだ。

 

 洋子は茶を足そうとはしなかった。

 

洋子さんのご主人とは、長いんですか」

 

 順子が尋ねた。

 

「もう四十年近くになります」

 

「仲がいいんですね」

 

「どうやろ」

 

 洋子は水筒の蓋を持ったまま笑った。

 

「仲が悪かったら、岡山まで一緒に来えへんかったと思います。でも、知らんことも、きっとようけあります」

 

「夫婦なのに?」

 

「夫婦やから、全部知ってると思う方が不思議でしょう」

 

 順子は洋子を見た。

 

「知りたくありませんか」

 

「知って、どうするかによります」

 

「どういう意味ですか」

 

「知ったことで、何かしてあげられるんやったら知りたい。でも、ただ私が安心するためだけやったら、聞かん方がええこともあるでしょう」

 

 洋子は茶を飲み、石垣の向こうに残った桜を見上げた。

 

「うちの人も、私に話してへんことがあると思います」

 

「そう思っていて、平気なんですか」

 

「平気やありません。でも、私にも話してへんことはありますから」

 

 洋子は順子へ顔を向けた。

 

「順子さんにも、あるでしょう」

 

 順子は水筒の蓋に残った茶を見た。

 

「あります」

 

「それで、ご主人と暮らした時間が嘘になるわけやないでしょう」

 

 夫が亡くなる一週間ほど前、病室で古い店の話をしたことがあった。

 

 順子が最初に仕入れた青いワンピースは、一着も売れなかった。夫は、あれは服が悪かったのではなく、店の照明が暗かったのだと言った。

 

 順子は最後まで、服が悪かったのだと思っていた。

 

 どちらが正しかったのか、確かめる前に夫は亡くなった。

 

「洋子さんは、ずいぶん都合よく考えるんですね」

 

「そうせんと、長いこと一緒には暮らせません」

 

「ご主人も、そう思っているかしら」

 

「さあ。あの人は、自分が我慢してると思うてるんやないですか」

 

「違うんですか」

 

「お互いにそう思うてるくらいが、ちょうどええんです」

 

 洋子は水筒の蓋に残った茶を飲み干した。

 

 二人は再び歩き始めた。

 

 少し高い石段の前で、今度は洋子が足を止めた。

 

「ここ、上がれますか」

 

「上がれますよ」

 

 順子は一段上へ上がり、洋子へ手を差し出した。

 

「大丈夫です」

 

 そう言いながら、洋子はその手を取った。

 

 若い頃、同じ場所で亨が順子へ手を差し出した。

 

「順子、そこ滑るで」

 

 白いシャツの袖が、洋子の腕に重なった。

 

 順子は、少し強く洋子の手を引いた。

 

「痛い」

 

「あ、ごめんなさい」

 

「置いていかれるかと思いました」

 

「引っ張ったんでしょう」

 

「人に引っ張られるの、久しぶりやから」

 

 洋子は手を離し、指を一度握った。

 

「大丈夫?」

 

「そこまで年寄りやありません」

 

「さっき、膝が痛いと言ってたでしょう」

 

「言うてません。痛うなったら言うと言うただけです」

 

「同じことよ」

 

「違います」

 

 二人は笑った。

 

 白い袖は、もう見えなかった。

 

 天守台へ上がると、津山の町が見渡せた。

 

 屋根の間を道路が通り、その向こうに山の稜線が続いている。桜の間から、町の灰色や茶色がのぞいていた。

 

 洋子はしばらく何も言わず、遠くの山と町並みを眺めていた。

 

「ここで育ったんですね」

 

「高校を卒業するまでです」

 

「帰ってきて、よかったですか」

 

 順子は町を見下ろした。

 

「まだ、分かりません」

 

「半年でしょう」

 

「もう半年です」

 

「同じ半年やのにね」

 

 洋子は手すりへ手を置いた。

 

「私は岡山へ来て二年ですけど、いまでも、よその町におると思う日があります」

 

「自分で選んで来たんでしょう」

 

「選んだことと、慣れることは別です」

 

「ご主人についてきたんですか」

 

「一緒に来たんです」

 

 洋子はすぐに言った。

 

「ついてきたと言うたら、あの人が決めて、私が従うたみたいでしょう」

 

「違うんですか」

 

「決めたのは、たぶん私です」

 

「それなら、ご主人がついてきたのね」

 

「そう言うたら、あの人は怒るでしょうね」

 

「男の人は、決めたことだけ自分の手柄にしたがりますから」

 

「失敗したことは、妻が決めたことになります」

 

「便利ですね」

 

「夫婦ですから」

 

 二人は町を見下ろしたまま笑った。

 

「帰ってきた人間も、似たようなものです」

 

 順子が言った。

 

「ほな、私たちは反対から同じところへ来たんですね」

 

「同じかしら」

 

「同じやなかったら、それでもかまいません」

 

 洋子は手すりから手を離した。

 

「そろそろ下りましょうか。上ったからには、下りんと帰れません」

 

「当たり前でしょう」

 

「上る前に、そこまで考えてへんかったから」

 

 公園を下りるとき、順子は上ってきた道とは別の道を選んだ。

 

「さっきの道を戻るんやないんですか」

 

「こちらからも下りられます」

 

「遠回りでは?」

 

「少しだけ」

 

「私の膝を心配してくれてるんですか」

 

「同じ景色を二度見ても、仕方がないでしょう」

 

「上るときと下りるときでは、違う景色かもしれませんよ」

 

 順子は返事をせず、先に歩いた。

 

 洋子は空になった水筒を鞄へ入れ、その少し後ろを歩いた。

 

 足元には花びらが積もっている。

 

 順子はときどき振り返った。

 

 洋子がついてきているか確かめるためだった。

 

 それに気づくたび、昔と同じだと思った。だが、洋子は少し遅れながらも、必ずそこにいた。

 

 入口へ戻る頃には、昼を過ぎていた。

 

「今日は、ありがとうございました」

 

「こちらこそ」

 

「今度は、岡山を案内します」

 

「岡山城なら、娘に連れていかれそうになりました」

 

「ほな、後楽園か、旭川沿いを歩きましょ。京橋から空を飛んだ人の話もありますよ」

 

「空を?」

 

「鳥人幸吉という人です」

 

「鳥人?」

 

「詳しいことは、そのときに」

 

「花びらで助かった酔っ払いより、本当らしくないわね」

 

「こっちは、ほんまです」

 

「津山の話も、本当かもしれないでしょう」

 

「ほな、どちらも本当ということにしときましょ」

 

「ずいぶん簡単ね」

 

「知らん人の昔の話ですから」

 

 二人は津山駅へ向かって歩いた。

 

 順子は、今日のことを千穂には話さないだろうと思った。

 

 隠すほどのことではない。

 

 だからこそ、自分だけの一日にしておきたかった。

 

 洋子が夕方の列車で岡山へ戻ると、亨は居間で絵を描いていた。

 

「ただいま」

 

「お帰り」

 

「上まで歩けました」

 

「膝は?」

 

「大丈夫。順子さんが途中で何度も休んでくれたから」

 

「そうか」

 

 亨は鉛筆を置いた。

 

「どんな話、したん?」

 

「いろいろ」

 

「いろいろって?」

 

 洋子は帽子を取り、椅子の背へ掛けた。

 

「花びらに助けられた酔っ払いの話と、電話交換手やったお母さんの話。それから、津山へ帰ってきたこと」

 

「電話の話?」

 

「学生の頃、長電話してたら、お母さんが途中へ入ってきたんですって」

 

 洋子は笑った。

 

「あんたら、いつまで話しょんで、って」

 

 亨の手から、鉛筆が落ちた。

 

 床に当たり、小さな音を立てた。

 

「どうしたの?」

 

「手ぇ滑った」

 

 亨は鉛筆を拾った。

 

「その相手は、ご主人やなかったそうよ」

 

 洋子は何気なく続けた。

 

「そうはならへんかった人やって」

 

 亨は鉛筆についた埃を指で払った。

 

「そうか」

 

「昔の人の話を聞くのは、不思議ね。名前も知らへんのに、ちょっとだけその人を知ったような気になる」

 

 洋子は台所へ向かった。

 

「お茶、入れましょうか」

 

「いや、ええ」

 

「いらんの?」

 

「ああ」

 

「朝から、返事が短いね」

 

「そうか」

 

「また短い」

 

 洋子は台所へ入り、自分の分だけ湯を沸かし始めた。

 

 亨は描きかけの岡山城へ目を戻した。

 

 順子は、あの夜を覚えていた。

 

 母親に話を聞かれ、二人で声を抑えて笑った夜を。

 

 洋子は何も知らないまま、その話を持って帰ってきた。

 

 亨は鉛筆を紙へ置いた。

 

 一本線を引くと、城の屋根が少し曲がった。

 

 消しゴムを手に取ったが、すぐには消さなかった。

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『 花びらの積もる道 』

 

第三章 もう一度、花屋へ

 

 窓辺の紫の花は、五日ほど咲いた。

 

 初めの二日は細い茎をまっすぐ伸ばしていたが、三日目の朝から、少しずつ首を傾け始めた。

 

 順子は水を替え、茎の先を斜めに切った。

 

 一本だけなのに、毎朝気になった。

 

 花が気になるのか、花をくれた人が気になるのか、考えるのはやめた。どちらにしても、窓辺を見る回数が増えたことに変わりはない。

 

 五日目の夕方、紫の花びらが一枚、棚の上に落ちていた。

 

 翌朝には、もう一枚落ちた。

 

 順子は残った花を紙に包み、小瓶を洗った。

 

 空になった瓶を棚へ戻すと、そこだけ四角く色が抜けたように見えた。

 

 昼前、千穂へ電話をかけた。

 

「明日、岡山へ行くけど、お昼は空いてる?」

 

「明日?」

 

「都合が悪いなら、いいのよ」

 

「急に言われても。午後から打ち合わせがあるんよ」

 

「では、十一時半なら?」

 

「一時までなら大丈夫」

 

「市役所の近くで待ってる」

 

「何か用事?」

 

「あなたとお昼を食べるのに、理由が必要なの?」

 

 千穂が少し黙った。

 

「また、あの花屋へ行くつもりでしょう」

 

「どうしてそう思うの」

 

「この前、西川を歩きながら、何度も花を見てたから」

 

「折れないようにしていただけよ」

 

「はいはい」

 

「その言い方、嫌いだわ」

 

「十一時半ね。遅れないで」

 

「あなたこそ」

 

 電話を切ったあと、順子は棚へ戻した小瓶を取り出した。

 

 もう一度洗う必要はなかった。それでも、水道の水ですすいだ。

 

 翌日、前回より一本早い列車で岡山へ向かった。

 

 表町商店街へ着くと、花屋の前で足を止めた。

 

 店先の花は入れ替わっていた。黄色い花はなく、白と淡い桃色の花が並んでいる。奥には緑の枝物があり、通りからもよく見えた。

 

 順子は少し右へ寄り、次に左へ寄って眺めた。

 

「あら」

 

 店の奥にいた洋子が気づいた。

 

 紺色のエプロンで手を拭きながら出てくる。

 

「津山のお客さま」

 

 順子は少し思い出すように、洋子の顔を見た。

 

「ヨーコさん」

 

「覚えててくださったんですね」

 

「花をくださった方の名前ですから」

 

「花を動かされたことも覚えてます」

 

「根に持っているんですか」

 

「今日は何を直されるんやろと思って」

 

 洋子は店先を見た。

 

「どうですか」

 

「今日は、直すところはありません」

 

「ほな、合格ですね」

 

「私が決めることではないでしょう」

 

「この前は決めたやないですか」

 

「頼まれたからです」

 

「頼んだことにしときます」

 

 二人は笑った。

 

「そういえば、お名前を聞いてませんでしたね」

 

 順子は、洋子の胸の名札を見た。

 

「私も、ジュンコです」

 

「ジュンコさん」

 

 洋子は覚えるように、一度呼んだ。

 

「この前の花、長く咲きました」

 

「リューココリーネですね」

 

「名前までは覚えられませんでした」

 

「ええんですよ。名前を覚えてもらうより、また見たいと思ってもらう方がうれしいですから」

 

「花屋さんが、そんなことを言うんですか」

 

「名前を間違えても、花は怒りません」

 

「人は怒りますけどね」

 

「そうですね」

 

 洋子は店先の白い花から、傷んだ葉を一枚取った。

 

「今日は何か、お探しですか」

 

「仏壇に置く花を」

 

「どなたかの?」

 

「夫です」

 

 洋子の手が止まった。

 

「ご命日ですか」

 

「いいえ。月命日でもありません」

 

「そうですか」

 

「何でもない日に飾ったら、いけませんか」

 

「まさか」

 

 洋子は店の中へ入った。

 

「何でもない日の方が、びっくりしはるかもしれませんね」

 

「生きているときに花を買って帰ったことは、一度もありませんでしたけど」

 

「ほな、なおさらです」

 

「いまさら機嫌を取っても、遅いでしょう」

 

「亡くなった人は、返事をしませんから。こっちの好きなように考えられます」

 

「花屋さんらしくないことを言うのね」

 

「花屋は、生きてる人からお金をいただく仕事ですから」

 

 洋子は白い花を数本選び、淡い緑の葉を添えた。

 

「ご主人は、どんな花がお好きでした?」

 

「花には、興味のない人でした」

 

「ほな、順子さんの好きな花で」

 

「そうなりますね」

 

 洋子は桃色の花を一本加え、少し離れて見た。

 

「これは多いですか」

 

「少し」

 

「やっぱり」

 

 洋子が抜こうとすると、順子は止めた。

 

「でも、残してください」

 

「どうして?」

 

「白と緑だけでは、あの人には上品すぎます」

 

「どんな方やったんですか」

 

「ネクタイを選ばせると、必ずいちばん派手なものを持ってくる人でした」

 

「順子さんが止めた?」

 

「私が、もう一本派手なものを出しました」

 

「ほな、ご主人だけのせいやありませんね」

 

「夫婦ですから。悪趣味も半分ずつです」

 

 洋子は桃色の花を、白い花の間に差し直した。

 

「では、これは残しましょ」

 

 包み紙を広げ、花を載せる。

 

「東京で、ご主人と一緒にお店を?」

 

「表に立っていたのは私です。夫は帳簿を見たり、仕入れの相談に乗ったり」

 

「亡くなられたあとも、続けてはったんですね」

 

「七年ほど」

 

「長いですね」

 

「やめる日を決めなかったら、七年たっただけです」

 

 洋子は包み紙を折る手を止めなかった。

 

「閉めようと思った日は?」

 

「何度もありました」

 

「開けてよかったと思った日は?」

 

「それも、何度も」

 

「同じくらい?」

 

「閉めたい日の方が、少し多かったかもしれません」

 

「それやったら、七年も続きませんよ」

 

「人は、嫌なことの方をよく覚えていますから」

 

「そうですね。うちの主人も、私が作った料理で、おいしくなかったものだけ覚えてます」

 

「おいしいものは?」

 

「黙って食べます」

 

「それは、作った人には分からないわね」

 

「そうなんです」

 

 洋子は花を包みながら笑った。

 

 順子は、夫の派手なネクタイを思い出した。紺色の背広に赤い斜め縞を合わせ、順子が眉をひそめると、似合っている証拠だと言った。

 

 亡くなってからは、そのネクタイを一度も箱から出していない。

 

「洋子さんは、ご自分の店を持とうと思ったことはないんですか」

 

「若い頃はありました」

 

「いまは?」

 

「いまは、雇われてる方が気楽です。店を閉めるかどうかまで、私が決めんでもええから」

 

「開けたい日に開けることもできないでしょう」

 

「そうなんです」

 

 洋子は包み紙の端を折った。

 

「たまに、自分の店やったらと思います。でも、毎日やありません」

 

「後悔しているんですか」

 

「してる日もあります」

 

 洋子は包んだ花を持ち上げ、桃色が正面から見えるように少し回した。

 

「順子さんは、店を閉めたことを後悔してますか」

 

「している日もあります」

 

 洋子がうなずいた。

 

「毎日やなかったら、ええんやないですか」

 

「ずいぶん都合のいい考え方ね」

 

「毎日きちんと後悔するのは、疲れますから」

 

 順子は花を受け取り、代金を払った。

 

 店の時計を見ると、千穂との待ち合わせまで、まだ少し時間がある。

 

「津山の桜は、もう終わりましたか」

 

 洋子が尋ねた。

 

「ほとんど散りました。木には、まだ少し残っています」

 

「鶴山公園は、桜で有名ですよね」

 

「ええ」

 

「一度、行ってみたいと思うてるんです」

 

「岡山からなら、遠くはないでしょう」

 

「近いところほど、行かへんものです」

 

「東京にいた頃、東京タワーへ行ったことはありませんでした」

 

「私も岡山城には、主人に連れられて一度行っただけです」

 

「今度の日曜日なら、まだ少しは残っているかもしれません」

 

「案内してくださるんですか」

 

「入口までなら」

 

「石段があるんでしょう」

 

「思っているより上りますよ」

 

「順子さんが上れるんやったら、私も上れます」

 

「私の方が年上です」

 

「三つくらいでしょう」

 

「どうして分かるんですか」

 

「花屋は、お客さまの年齢を考えて花を選ぶこともありますから」

 

「失礼な花屋さんね」

 

「ほな、同じくらいということにしときます」

 

「同じくらいなら、私が上れたからといって、洋子さんが上れるとは限らないでしょう」

 

「負けず嫌いですね」

 

「足腰の話です」

 

 二人は笑った。

 

「日曜日の十時に、入口でどうでしょう」

 

「行きます」

 

 洋子はすぐに答えた。

 

 店を出てしばらくしてから、順子は、自分が鶴山公園へ行く約束をしたことに気づいた。

 

 津山へ戻って半年、一人では近づけなかった場所である。

 

 洋子は昔の順子を知らない。

 

 先に石段を上り、誰かが追ってくるか確かめていた順子を知らない。

 

 知らない人の前では、いまの年齢で歩ける。

 

 順子はそう思った。

 

 千穂との昼食では、花屋の話をしなかった。

 

 夫に供える花を買ったことも、日曜日に鶴山公園へ行くことも、あえて話すほどではないと思った。

 

 千穂は展示の準備で忙しいらしく、料理を食べながら何度も腕時計を見た。

 

「落ち着かないわね」

 

「一時から打ち合わせがあるから」

 

「それなら、急いで食べればいいでしょう」

 

「お母さんがゆっくり食べるから」

 

「私に合わせなくてもいいのよ」

 

「合わせんかったら、あとで早く帰ったって言うでしょう」

 

「言わないわよ」

 

「前に言った」

 

「いつ?」

 

「二年前」

 

「二年前のことを、まだ覚えているの?」

 

「お母さんの娘だから」

 

 千穂は水を飲んだ。

 

「澤口さんの絵、今日、会場へ運ぶことになってる」

 

 順子は箸を止めなかった。

 

「そう」

 

「展示に来ないのは、澤口さんがいるから?」

 

「その話はしないと言ったでしょう」

 

「言ってない。聞いただけ」

 

「同じことよ」

 

「昔の同級生なんでしょう」

 

「それだけよ」

 

「それだけなら、どうして」

 

 順子は箸を置いた。

 

「千穂」

 

 強く言ったつもりはなかった。

 

 千穂は口を閉じた。

 

「人には、話したくないこともあるの」

 

「私には?」

 

「娘だから話せないこともあるでしょう」

 

 千穂はテーブルの端に目を落とした。

 

「そう」

 

 その返事は、納得した声ではなかった。

 

 料理の皿には、千穂の嫌いな椎茸が一つ残っている。子どもの頃なら、順子が食べてやった。

 

 千穂は箸でそれをつまみ、口へ入れた。

 

 順子は何も言わなかった。

 

 昼食を終えると、千穂は市役所へ戻った。

 

 順子は一人で岡山駅へ向かった。

 

 白い花の間から、桃色が一本だけ高くのぞいている。包みの中へ押し戻しても、歩くうちにまた顔を出した。

 

 その夜、洋子は夕食のあとで、日曜日に津山へ行くことを亨に話した。

 

「この前、店に来はった順子さんが、鶴山公園を案内してくれるの」

 

 亨は湯呑みを持ったまま顔を上げた。

 

「鶴山公園?」

 

「桜はだいぶ散ったそうやけど、まだ少し残ってるみたい」

 

「その人と?」

 

「一人で案内してもろたら、あかんの?」

 

「いや」

 

「あなたも来る?」

 

「僕は」

 

 亨は湯呑みを置いた。

 

「やめとく」

 

「石段が嫌なん?」

 

「そうやない」

 

「ほな、花屋の女が二人で歩いたら、長うなるから?」

 

「順子さんは、もう花屋やないやろ」

 

 洋子は亨を見た。

 

「よう覚えてるのね」

 

「君が話したから」

 

「あなた、私の話を聞いてたんやね」

 

「いつも聞いてるよ」

 

「返事せえへんから、聞いてへんのかと思うてました」

 

 洋子は自分の湯呑みに茶を足した。

 

「名字は聞いた?」

 

 亨が尋ねた。

 

 洋子の手が止まった。

 

「どうして、そんなに名字が気になるの」

 

「いや」

 

「順子さんは順子さんでしょう」

 

「そうやけど」

 

「東京でブティックをしてはったけど、ご主人を亡くして、半年前に津山へ戻ったんですって」

 

「本人が、そう言うたんか」

 

「ええ。今日は、ご主人のお仏壇に供える花を買うてくれました」

 

 亨は湯呑みに目を落とした。

 

 茶の表面に、天井の明かりが映っている。

 

「鶴山公園は、石段が多いよ」

 

「行ったことあるの?」

 

「学生の頃に、一度」

 

「誰と?」

 

 亨は顔を上げた。

 

 洋子は湯呑みを口へ運ぶ。

 

「聞いたらあかんかった?」

 

「昔の友人と」

 

「男の人?」

 

「いや」

 

「女の人ね」

 

 洋子は茶を飲んだ。

 

「昔のことやったら、そう言うたらええのに」

 

「聞かれたから答えただけや」

 

「聞かれへんかったら、言わへんかったでしょう」

 

「わざわざ言うことでもないから」

 

「そうやね。昔の女の人と桜を見た話なんて、妻に聞かせるもんやありません」

 

 洋子は穏やかな声で言った。

 

 亨は返事ができなかった。

 

「この頃、膝が痛むことがあるやろ」

 

「歩けへんほどやありません」

 

「無理せん方がええ」

 

「順子さんにも、同じこと言われました」

 

「ほかの日にしたらどうや」

 

 洋子は亨を見た。

 

「どうして?」

 

「桜の時期は、人が多いから」

 

「もう満開は過ぎてます」

 

「それでも、日曜日は混むよ」

 

「入口まで行って、無理やったら帰ります」

 

 洋子は湯呑みを盆へ戻した。

 

「そんなに心配やったら、一緒に来たらええでしょう」

 

「いや、それは」

 

「来えへんのね」

 

「気ぃつけて」

 

「はい」

 

 洋子は食器を重ね、台所へ運んだ。

 

 亨は一人で食卓に残った。

 

 しばらくして、台所から洋子の声がした。

 

「鶴山公園の石垣は、きれい?」

 

「ああ」

 

「桜と、どっちがきれい?」

 

「比べるもんやないよ」

 

「昔の女の人は?」

 

 亨は振り返った。

 

 洋子は流しに向かったまま、食器を洗っている。

 

「何?」

 

「いま、何て言うた?」

 

「昔の女の人は、石垣と桜のどっちを見てたんやろと思って」

 

「さあ」

 

「覚えてへんのね」

 

 水の音が続いた。

 

 亨は二階へ上がった。

 

 机の引き出しを開け、茶色い包みから古いスケッチを取り出した。

 

 鶴山公園の石垣の前で、若い順子が振り返っている。

 

 桜は描かれていなかった。

 

 順子の肩と、上げた右手と、石垣だけがあった。

 

 亨は絵を裏返した。

 

 裏には、小さな字で日付が書いてある。

 

 今度の日曜日、順子と洋子が同じ石段を歩く。

 

 亨は裏返した絵を机に置いたまま、引き出しを閉めた。