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『 花びらの積もる道 』          

 

第二章 花を選ぶ人

 

 翌朝、順子が目を覚ますと、細い雨が降っていた。

 

 枕元の時計は六時四十分だった。まだ眠れる時間だったが、目を閉じると、昨夜しまい直した段ボール箱の角が浮かんだ。

 

 澤口亨。

 

 名前は顔より始末が悪い。顔なら年月とともに変わるが、名前は二十二歳のままである。

 

 順子は起きてカーテンを開けた。雨に濡れた向かいの屋根で、雀が一羽、身体を丸くしている。

 

 亨が岡山に住んでいると知ったところで、何が変わるわけでもない。

 

 会うつもりはなかった。

 

 会わなければ、何も起きない。

 

 朝食を終え、昨日の新聞を畳んだ。折り目のそばに、指でつけたしわが残っている。手のひらで伸ばしたが、かえって紙が柔らかくなっただけだった。

 

 十時を過ぎた頃、携帯電話を取った。

 

 千穂へかけると、留守番電話に切り替わった。

 

「昨日は、急に切ってごめんなさい。日曜日の展示には行かないけど、来週、岡山へ行きます。都合のいい日を知らせてください」

 

 言い終えてから、〈亨に会うためではありません〉と付け加えそうになった。

 

 順子は電話を切った。

 

 娘と昼食を食べる。店を閉めてから買わなくなった服を見る。岡山へ行く理由なら、二つもあれば十分だった。

 

 昼を過ぎて、千穂から返事が来た。

 

〈水曜日なら、午後から時間を取れます。岡山駅で待ち合わせよう〉

 

 順子は、

 

〈一人で行けます。市役所の近くで待っています〉

 

と返した。

 

〈迎えに行くとは言ってないけど〉

 

 すぐに届いた文字を見て、順子は笑った。

 

 笑ったあと、少し腹が立った。

 

 水曜日、津山駅から列車に乗った。

 

 桜は数日の雨でずいぶん散っている。窓の外を山や田畑が流れていく。枝の先に残る桜は、遠くから見ると、洗って何度も使った薄桃色の布のようだった。

 

 岡山駅へ着いたのは十一時前である。

 

 千穂との約束は一時だった。順子は路面電車に乗り、表町商店街へ向かった。

 

 商店街へ入ると、店先を見る目だけが先に働いた。

 

 春物のブラウス、薄手のジャケット、淡い色のスカーフ。東京にいた頃なら、どれを入口へ出せば人が立ち止まるか、考えながら歩いた。

 

 値札が刺繍を隠している店があった。隣の店では、よく似た色の服を集めすぎて、どれも売れ残りに見える。

 

 順子は通り過ぎた。

 

 もう自分の店ではない。そう思うと、どの店も気になった。

 

 商店街の中ほどで、小さな花屋が目に入った。

 

 店先に白と黄色の花が並び、その奥に、淡い紫の花を入れた細長い器がある。紫の色はきれいなのに、中央の黄色い花が大きすぎて、ほとんど見えない。

 

 順子は通り過ぎた。

 

 五歩ほど進み、振り返った。

 

 横から見ても、やはり黄色が勝っている。

 

「何か、お探しですか」

 

 店の中から女性が出てきた。

 

 六十代前半くらいだろうか。紺色のエプロンを着け、片手に花鋏を持っている。髪に少し白いものが混じっていたが、染めて隠そうとはしていなかった。

 

「いいえ。見ていただけです」

 

「そうですか」

 

 女性は店へ戻りかけた。

 

 順子はもう一度、紫の花を見た。

 

「この紫、きれいですね」

 

「リューココリーネです。少し香りもありますよ」

 

 女性は一本を抜き、順子へ差し出した。

 

 顔を近づけると、甘い香りの奥に、青い葉を折ったような匂いがした。

 

「もう少し前に置けば、外からも見えるのに」

 

 言ってから、順子は口を閉じた。

 

 女性は店先を振り返った。

 

「黄色が邪魔ですか」

 

「邪魔というほどではありませんけど」

 

「邪魔なんですね」

 

「少しだけ」

 

 女性は笑い、黄色い花の器を持ち上げた。

 

「どこへ置きましょう」

 

「私が決めるんですか」

 

「言い出した人に決めてもらいましょ」

 

 順子は店先へ出た。

 

「もう少し右へ」

 

「ここ?」

 

「あと、鋏一本分くらい」

 

 女性が、手にしていた鋏を見た。

 

「服を扱うてはった方ですか」

 

「どうして分かったんですか」

 

「花屋やったら、花一本分と言いますから」

 

「東京で、ブティックをしていました」

 

「いまは?」

 

「半年前に閉めて、津山へ戻りました」

 

「津山から?」

 

「娘が岡山にいるんです」

 

 器を横へ動かすと、奥の紫が見えた。白い花との間に少し空きができ、先ほどまで大きく見えた黄色も、かえって形がよくなった。

 

 女性は通りまで出て、順子の隣に立った。

 

「ほんま。こっちの方がええですね」

 

「黄色が悪いわけではないんです。場所が違っただけで」

 

「花は文句を言いませんからね。違う場所に置かれても、そこで咲いてます」

 

「服も同じですよ。似合わない人に買われても、返品には来ませんから」

 

「服は帰ってくることがあるでしょう」

 

「着た人が、もっと恐ろしい顔で来ます」

 

 女性が声を立てて笑った。

 

 笑い方の大きい人だった。店の奥にいた若い店員が、何事かという顔でこちらを見た。

 

 女性は店へ戻り、鋏を台へ置いた。

 

「何か一つ、持って帰りませんか。せっかく津山から来はったんやから」

 

「今日は花を買うつもりではなかったので」

 

「知ってます。やから、一本だけ」

 

 女性は紫の花を細い紙で包んだ。

 

「いただけません」

 

「ほな、店先を直してもろたお礼です」

 

「少し動かしただけでしょう」

 

「その少しが、自分では見えへんかったんです」

 

 順子は包みを受け取った。

 

 店の奥から、若い店員が呼んだ。

 

「ヨーコさん、こちらをお願いできますか」

 

「はーい、今行きます」

 

 順子は、紺色のエプロンに〈YOKO〉と書かれた名札を見た。

 

「ヨーコさん、ですか」

 

 洋子は一瞬驚いたが、順子が名札を見ていることに気づき、笑顔で応えた。

 

「ええ。またいらしてくださいね」

 

「今度は黙って見ます」

 

「言うてください。直すかどうかは、こっちで決めますから」

 

「直さないこともあるんですね」

 

「もちろん」

 

 洋子は笑った。

 

 順子は花を持って店を出た。

 

 商店街を歩きながら、何度か包みを見る。白い紙から紫の花が一本のぞいている。

 

 買ったものなら、値段の分だけ自分のものになる。もらったものは、いつまでたっても、くれた人の顔がついてくる。

 

 千穂と待ち合わせた店へ着くと、娘はすでに席に座っていた。

 

「花なんて買ったの?」

 

「もらったの」

 

「誰に?」

 

「花屋の人」

 

「どうして?」

 

「店先の花の置き方に口を出したから」

 

 千穂は水の入ったグラスを持ったまま、母を見た。

 

「初めて入った店で?」

 

「初めてだから言えたのよ」

 

「よう分からんわ」

 

「知っている店なら、あとで行きにくくなるでしょう」

 

「やっぱり、悪いことを言った自覚はあるんだ」

 

「悪いことではないわ。少し余計だっただけ」

 

「それを悪いことと言うんじゃない?」

 

 順子は花の包みを隣の椅子へ置いた。

 

 料理が運ばれてくると、二人は千穂の仕事や津山での暮らしについて話した。

 

 順子は亨の名を出さなかった。

 

 千穂も出さなかった。

 

 口にしない名前は、テーブルの上にある塩入れのようだった。使わなくても、二人ともそこにあることを知っている。

 

「展示の準備はできたの?」

 

 順子が尋ねた。

 

「だいたい。あとは紹介文を整えて、絵を掛ける位置を決めるくらい」

 

「澤口さんの絵は、もう届いているの?」

 

 千穂が箸を止めた。

 

「昨日、預かったよ」

 

「そう」

 

「見る?」

 

「見ない」

 

「それなら、どうして聞いたの」

 

「仕事が進んでいるのかと思っただけ」

 

「ほかの人の展示品は聞かないのに?」

 

「いちいち聞いていたら、料理が冷めるでしょう」

 

 順子は魚を一口大に切った。

 

 千穂も箸を動かした。

 

「お母さん、ずるいね」

 

「魚の取り方が?」

 

「そういうところ」

 

「焼き魚に、ずるい食べ方なんてあるの?」

 

 千穂は返事をしなかった。

 

 昼食を終えると、順子は西川沿いを歩いてから津山へ戻ると言った。

 

「市役所まで来たのに?」

 

「あなたは仕事があるでしょう」

 

「午後は時間を取ったと言ったでしょう」

 

「四十二歳の娘に、一日中ついて歩いてもらわなくても大丈夫よ」

 

「お母さんが来ると言ったから空けたんよ」

 

「では、西川まで一緒に歩く?」

 

「そこまでついてきてほしいのは、お母さんでしょう」

 

「嫌なら、来なくていいのよ」

 

「行くよ」

 

 千穂はため息をついて席を立った。

 

 西川緑道公園の木々には、若い葉が出始めていた。水のそばを歩くと、車の音が少し遠くなる。

 

 順子は紫の花を持ったまま、ゆっくり歩いた。

 

「津山へ戻って、どう?」

 

 千穂が尋ねた。

 

「どうって?」

 

「暮らしやすい?」

 

「東京より静かね」

 

「そういうことじゃなくて」

 

「質問が悪いのよ」

 

「一人で寂しくない?」

 

 順子は前を向いたまま歩いた。

 

「あなたが結婚しないことを聞くと怒るのに、私が一人なのは心配するのね」

 

「同じじゃないでしょう」

 

「何が違うの?」

 

「お母さんは、お父さんがいたから」

 

「いた人がいなくなれば、二人分、静かになるとでも思ってるの?」

 

 千穂が黙った。

 

 順子は少し強く言いすぎたと思った。思ったが、言葉は戻ってこなかった。

 

「ごめん」

 

 千穂が言った。

 

「どうして、あなたが謝るの」

 

「聞いたから」

 

「聞かれなければ、寂しくないわけでもないでしょう」

 

 西川の水に、揺れた木の影が映っている。細い流れの上で、葉の形が伸びたり縮んだりした。

 

「でも、お母さん、東京から戻って半年なのに、まだ何も始めてないでしょう」

 

 順子は千穂を見た。

 

「何か始めないと、暮らしていることにならないの?」

 

「そういう意味じゃないけど」

 

「朝起きて、ご飯を食べて、洗濯をしているわ」

 

「それは暮らしてるというより、汚さんようにしてるだけでしょう」

 

「ずいぶん失礼ね」

 

「だって、段ボール箱もまだ開けてないでしょう」

 

「誰から聞いたの?」

 

「前に行ったとき、見たから」

 

「あれは箪笥代わりよ」

 

「上に雑誌が置いてあった」

 

「立派に家具として使ってるでしょう」

 

 千穂が笑った。

 

 順子も、少し遅れて笑った。

 

 手にした紫の花が、歩くたびに白い紙の中で揺れる。

 

「今日、初めて会った人に、津山へ戻ったことを話したわ」

 

「花屋の人?」

 

「ええ」

 

「私には何も話さないのに」

 

「あなたは聞きすぎるから」

 

「知らない人の方が話しやすいこともあるんだね」

 

 千穂の声に、細い棘があった。

 

「知らない人は、明日になれば忘れてくれるもの」

 

「忘れんかもしれんよ」

 

「それなら、困るわね」

 

「また会いたい?」

 

「誰に?」

 

「花屋の人」

 

 順子は包みからのぞく花を見た。

 

「花をもらったから、一度くらいは買いに行かないと悪いでしょう」

 

「それを、また会いたいと言うんじゃない?」

 

「あなたは、何でも大げさにするのね」

 

 千穂はそれ以上言わなかった。

 

 帰りの列車で、順子は紫の花を膝に置いた。

 

 窓の外が夕方の色へ変わっていく。津山へ着く頃には、細い茎が少し曲がっていた。

 

 家に帰ると、小さなガラス瓶へ水を入れ、窓辺に置いた。

 

 一本だけでは寂しく見えた。

 

 けれど、何本か足せば、洋子が選んだ紫がほかの色に紛れてしまう。

 

 順子は一本のままにした。

 

 少し離れると、何もなかった窓辺に、小さな色が残った。

 

 同じ頃、岡山の家では、洋子が夕食の支度をしていた。

 

「今日ね、津山から来はった人に、店先の花を直されたんよ」

 

 鍋の火を弱めながら言った。

 

 亨は食卓で新聞を読んでいた。

 

「腹、立たへんかったんか」

 

「いいえ。面白かったから、動かしてみたの」

 

「何が面白かったんや」

 

「あと鋏一本分、右へって」

 

「鋏?」

 

「花屋やったら、花一本分と言うでしょう。東京でブティックをしてはった人なの」

 

 亨の指が、新聞の端で止まった。

 

「いまは?」

 

「半年前に店を閉めて、津山へ戻ったんですって」

 

「名前は?」

 

「聞かへんかった」

 

 洋子は鍋を見たまま答えた。

 

「そうか」

 

「どんな人やった?」

 

「人の店の花を勝手に直す人」

 

「勝手に直したんか」

 

「私が直させたの」

 

 洋子は味見をし、塩をひとつまみ入れた。

 

「今度、岡山へ来はったら、また寄ってくれるかもしれへん」

 

「そうか」

 

「服と花の飾り方は、似てるところがあるのね。話してたら、面白そうな人やった」

 

 亨は新聞へ目を戻した。

 

 東京でブティックをしていた。半年前に津山へ戻った。

 

 それだけなら、同じような人がほかにいてもおかしくはない。

 

 それでも亨には、順子以外の顔が浮かばなかった。

 

「花もあげたのよ」

 

「何の花を?」

 

「リューココリーネ。紫の」

 

「そうか」

 

「知ってるの?」

 

「いや」

 

「さっきから、知ってる人みたいに返事するから」

 

 亨は紙面をめくった。まだ読んでいない面を通り過ぎ、先ほどまで見ていた面がもう一度出た。

 

「ちょっと考えごとしてたんや」

 

「絵のこと?」

 

「そうや」

 

 洋子は鍋の蓋を少しずらした。湯気が細く上がる。

 

「今日の城は、どんな黒やった?」

 

 亨は答えられなかった。

 

「見てへんかったのね」

 

「見てたよ」

 

「見ても、覚えてへん日もあります」

 

 洋子はそれ以上聞かず、食器を並べ始めた。

 

 亨は新聞を畳んだ。

 

「洋子」

 

「何?」

 

 名前を呼んだものの、その先が出てこなかった。

 

「箸、これでええのか」

 

「何年、一緒に暮らしてるんですか」

 

 洋子は亨の前から客用の箸を取り、いつもの箸と入れ替えた。

 

「今日は、そっちでもよかったんですけどね」

 

「どうして?」

 

「少しくらい、よその人みたいで」

 

 洋子は笑って台所へ戻った。

 

 食卓には二人分の箸が並び、窓辺には昨日持ち帰った淡い黄色の花が咲いている。

 

 その花を少し横へ動かせば、何か別のものが見えるのかもしれなかった。

 

 亨は手を伸ばさなかった。

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『 花びらの積もる道 』

 

第一章 名前

 

 松山順子が津山へ戻ってきて、半年が過ぎた。

 

 東京から送った段ボール箱は、まだ五つ、寝室の壁際に積んである。必要な食器と衣類だけ抜き出して暮らしているうちに、開けない箱は箪笥と同じになった。上には、読みかけの雑誌まで置いてある。

 

 夫が亡くなったあとも七年間続けたブティックの帳簿。店を飾った布やリボン。夫の服。大学時代の手帳と手紙。

 

 どの箱に何が入っているか、順子は覚えていた。覚えていないふりをしている箱もあった。

 

 四月半ばの朝、窓を少し開けると、桜の季節にしては冷たい風が入り、レースのカーテンを持ち上げた。

 

 この窓から鶴山公園は見えない。通りへ出て少し歩けば、桜に包まれた津山城跡が見える。

 

 桜が咲いたら行くつもりだった。

 

 咲けば人の少ない日にと思い、満開になると、散り始めてからでよいと思った。散ってしまえば、来年もある。

 

 東京へ出る前には、何度も歩いた公園だった。故郷へ戻ってからの方が遠い。

 順子は窓を閉め、湯を沸かした。

 

 朝食はトーストとヨーグルトだけだった。店をしていた頃は、開店前に昼食まで用意した。九時になっても、急がす電話は鳴らない。

 

 洗ったカップを伏せると、遠くで子どもの声がした。一人が何かを叫び、少し遅れて別の子どもが笑った。

 

 順子は壁の時計を見た。

 

 見る必要はなかったが、見ないでいると、午前中までなくなってしまいそうだった。

 

     *

 

 その頃、岡山では、澤口亨(とおる)が烏城公園へ向かっていた。

 

 定年後、妻と岡山へ移り住んで二年になる。体調のよい朝は、自宅から十分足らずの公園まで歩いた。

 

 旭川の近くまで来ると、風に水の冷たさが混じった。

 

 川向こうに岡山城が見えた。烏城(うじょう)と呼ばれる黒い城も、朝の光の中では一色ではない。青みを帯びた壁があり、屋根の下には紫に近い影が落ちている。

 

 亨はいつものベンチへ腰を下ろし、スケッチブックを開いた。

 

 鉛筆で濃く塗ったところへ消しゴムを当て、また別の線を重ねる。何度描いても、同じ黒にはならなかった。

 

 若い頃から絵を描くことは好きだった。会社員の間は、休日にスケッチブックを開く程度である。

 

 定年後の間もない頃、午後になると何度も時計を見る亨に、妻が言った。

 

「描きたいなら、毎日描けばいいでしょう」

 

 あまり簡単に言われたので、亨は少し腹が立った。

 

 翌日、スケッチブックを持って家を出た。

 

 それから晴れた日も曇った日も、同じ城を描いている。

 

 十時前、亨はスケッチブックを閉じた。その日は、市役所で移住者紹介の聞き取りを受けることになっていた。

 

 公園から市役所までは、ゆっくり歩いても間に合う。亨は旭川を離れ、朝の車が行き交う道を歩いた。

 

 市役所の小さな会議室で待っていたのが、松山千穂(ちほ)だった。

 

「おはようございます。先日は、お電話でありがとうございました」

 

 千穂は名刺を差し出した。

 

 四十二歳になったばかりだが、仕事のときは少し上に見られることが多い。母は髪が短いからだと言う。長くしていた頃には、気が強そうに見えると言っていた。

 

 机には聞き取り用紙と、亨が送った絵の写真が並んでいた。

 

「岡山へ移られて、二年になるんですね」

 

「ええ。仕事で何度も来ていましたから、知らない町という感じはありませんでした」

 

「仕事で来るのと、暮らすのとでは違いませんか」

 

「違いました。ゴミを出す日も、近所の病院も、仕事では知りませんから」

 

 千穂が笑った。

 

「そういうことも紹介したいんです。観光ではなく、ここで暮らして初めて見えたものを」

 

「失敗した話も書くんですか」

 

「できれば」

 

「それなら、妻に聞いた方が多いでしょうね」

 

 亨も笑った。

 

 岡山へ移った理由、いまの暮らし、絵を再び描き始めた時期。千穂は用紙へ書き込みながら、ときどき予定になかった質問を加えた。

 

「京都の大学だったんですね」

 

 学歴の欄を見て、千穂が顔を上げた。

 

「母も同じ大学です」

 

「そうですか」

 

「澤口さんより一つ下だと思います。昭和三十四年生まれですから」

 

「ご出身は?」

 

「津山です」

 

 亨の手が、膝の上のスケッチブックで止まった。

 

「お母さまのお名前を伺ってもいいですか」

 

「松山順子です」

 

 亨は目を伏せた。

 

「ご結婚されて、名字が変わっているかもしれませんね。大学時代のお名前は?」

 

「小坂です。小坂順子」

 

 会議室の外を、台車が通り過ぎた。車輪の音が遠ざかっても、亨は顔を上げなかった。

 

「ご存じなんですか」

 

「ええ」

 

 スケッチブックの角を、親指で一度なぞった。

 

「同じ学年でした」

 

「母も覚えているかもしれません」

 

「どうでしょう」

 

「今度、聞いてみます」

 

 亨は何か言いかけ、口を閉じた。

 

「そうですか」

 

 千穂は聞き取り用紙へ目を戻した。そこには〈妻と岡山へ移住〉と、自分の字で書いてあった。

 

 聞き取りが終わったのは、十一時半を過ぎた頃だった。

 

 亨を見送ったあと、千穂は用紙をファイルへ入れ、絵の写真を封筒へ戻した。一枚だけ表裏を間違えて入れ、すぐに直した。

 

 母へ電話をかけようとしたところで、昼の打ち合わせが始まった。

 

 電話をかけたのは、一時を過ぎてからだった。

 

 順子は昼食を終え、ダイニングテーブルに新聞を広げていた。

 

「もしもし。お母さん、いま大丈夫?」

 

「電話に出たんだから、大丈夫でしょう」

 

「出ても大丈夫じゃないときがあるでしょう」

 

「それなら、先に聞かずに切ればいいのよ」

 

「相変わらずね」

 

「何が?」

 

「何でもない」

 

「何でもない人は、電話してこないでしょう」

 

 千穂は一度息をついた。

 

「今度の日曜日、岡山に来ない?」

 

「何かあるの?」

 

「表町の空き店舗で、小さな展示をするんよ。岡山へ移ってきた人の暮らしを紹介するの」

 

「市役所は、そんなこともするの?」

 

「市役所だけでするわけじゃないよ。商店街や市民団体の方たちと一緒に」

 

 千穂が展示の内容を話している間、順子は新聞の折り目を指で押さえていた。

 

「今日、絵を描いている人の聞き取りをしたの。岡山城や旭川の絵を描く人で、定年後に奥さんと岡山へ移ってきたんだって」

 

「画家なの?」

 

「本人は違うと言ってた。体調のいい午前中は烏城公園を歩いて、午後に絵を描いてるみたい」

 

「元気なのか悪いのか、分からない人ね」

 

「六十八歳だから、お母さんより一つ上かな」

 

「年齢まで聞いたの?」

 

「紹介文に必要だから」

 

 千穂は、そこで少し声を変えた。

 

「その人、お母さんと同じ大学だった」

 

「京都に大学がいくつあると思ってるの」

 

「だから、同じ大学だって」

 

 順子は新聞から目を上げた。

 

「卒業した年も近かったから、母も同じ大学だと話したの。名前を聞かれて、松山順子ですと答えたら、結婚して名字が変わっているかもしれないから、大学時代の名前はって」

 

「教えたの?」

 

「小坂です、小坂順子ですと言ったら、急に黙って」

 

 順子の指が新聞の端をつまんだ。紙に小さなしわができた。

 

「それで、その人は何て?」

 

「同じ学年にいたと言ってた」

 

「名前は?」

 

「澤口さん。澤口亨さんという人」

 

 向かいの家の物干し台で、白いシャツが揺れていた。袖が風を含み、こちらへ手招きするように持ち上がる。

 

「お母さん、知ってる?」

 

 順子は立ち上がり、窓を閉めた。

 

「同じ学年に、そういう人がいたと思う」

 

「向こうも同じ言い方をした」

 

「そう」

 

「知ってるなら、展示を見に来ない? 澤口さんの絵も出るから」

 

「行かない」

 

 電話の向こうで、千穂が黙った。

 

「まだ、日曜日の予定も聞いてないでしょう」

 

「誰が来ても行かない」

 

「澤口さんと、何かあったの?」

 

「何もない」

 

「何もない人は、そんな声を出さないでしょう」

 

 順子は窓の鍵を掛けた。

 

 金属音が、部屋の中で思いのほか大きく響いた。

 

「昔、付き合っていた人?」

 

 順子は答えなかった。

 

「その人に、私のことをこれ以上話さないで」

 

「住所なんて知らないよ」

 

「住所だけじゃない。電話番号も、このマンションの名前も」

 

「お母さん」

 

「仕事中なんでしょう」

 

「いまは母親と話してる」

 

「私のことで仕事を止めないで」

 

 しばらくして、千穂が言った。

 

「分かった」

 

「会議があるんでしょう」

 

「切るね」

 

「遅れないようにしなさい」

 

「もう職場にいるよ」

 

 電話が切れた。

 

 順子は携帯電話を耳に当てたまま、窓辺に立っていた。

 

 白いシャツは、まだ手を振っている。

 

 澤口亨。

 

 四十数年、口にしなかった名前である。

 

 順子は寝室へ入り、段ボール箱を見下ろした。一番下の箱には、大学四回生の年に使っていた紺色の手帳が入っている。亨の下宿の電話番号も、消さずに残したはずだった。

 

 上の箱を一つ床へ下ろした。

 

 二つ目へ手を掛けたところで、やめた。

 

 電話番号が残っていたとしても、いまは知らない誰かが出るか、呼び出し音さえ鳴らないだろう。

 

 順子は床へ下ろした箱を、元の場所へ戻した。少し曲がって置かれたので、角を壁に合わせて押した。

 

 財布と鍵を鞄へ入れ、外へ出た。

 

 商店街を抜け、鶴山公園の見える通りまで歩いた。家族連れが順子を追い越し、子どもの持った風船が、母親の肩に何度も当たっていた。

 

 城跡は、満開を少し過ぎた桜に包まれている。

 

 大学三回生の春、順子は亨を津山へ連れてきた。

 

 二人で鶴山公園を歩いた。亨は石垣の前へ来るたびに足を止め、順子が先へ進んでも、しばらくスケッチを続けていた。

 

 あのとき、順子は笑った。石垣に勝ったと思った。

 

 四十数年たっても、石垣はそこにあった。

 

 花見客の一団が、公園へ向かって歩いていく。

 

 順子は一度、その後ろへついた。十歩ほど歩いてから道を外れ、来た方へ戻った。

 

     *

 

 市役所を出た亨は、自宅へ帰る前に、もう一度烏城公園へ立ち寄った。

 

 朝のベンチは空いていた。

 

 スケッチブックを開いたが、鉛筆は動かなかった。

 

 小坂順子。

 

 結婚して、松山順子になった。

 

 東京でブティックを営み、半年前に津山へ戻った。

 

 千穂の話したことは、それだけだった。わずかなことなのに、亨の知らない四十数年が、机の上に一度に広げられたようだった。

 

 家へ戻ると、妻の洋子は近所の花屋へ出ていた。

 

 ダイニングテーブルに、

 

〈今日は少し遅くなります。夕食は七時頃〉

 

と書いたメモがあった。

 

 亨はメモを冷蔵庫へ磁石で留め、二階へ上がった。

 

 小さな部屋には、描きかけの絵が立てかけてある。岡山城、旭川、後楽園の木立、西川沿いの散歩道。

 

 人物を描いたものはなかった。

 

 亨は机の一番下の引き出しから、茶色い包みを取り出した。

 

 紐をほどくと、古いスケッチが一枚出てきた。

 

 鶴山公園の石垣の前で、若い順子が振り返っている。顔は描き込んでいない。それでも、少し上げた右手と、こちらへ向けた肩の角度だけで、順子だと分かった。

 

 亨は机に白い便箋を置いた。

 

 日付を書き、その下に、

 

〈松山順子様〉

 

 と書いた。

 

 小坂ではなく、松山と書いた。

 

 それだけで、便箋が急によそよそしいものになった。

 

 書こうとしていた言葉は、いずれも小坂順子へ向けたものだった。二十二歳の順子なら分かることも、松山順子には説明しなければならない。説明した途端、どれも言い訳になりそうだった。

 

 亨は便箋を裏返した。

 

 白い面に、窓からの光が当たった。

 

 夕方、玄関の扉が開いた。

 

「ただいま」

 

 洋子が細長い包みを抱えて帰ってきた。

 

 亨が一階へ下りると、洋子は玄関で靴を脱いでいるところだった。

 

「それは?」

 

「今日、店に残った花。まだ十分きれいだから、もらってきたの」

 

 包みを開くと、淡い黄色の花が現れた。傷んだところはなく、どれもしっかり花びらを開いている。

 

「売れ残りなんて言ったら、花に悪いわね」

 

 洋子は花を一本ずつ取り出した。

 

「今日は選ばれなかっただけ」

 

「明日は選ばれるかもしれない」

 

「明日は店にないもの」

 

「そうか」

 

「うちに来たんだから、ここで咲けばいいの」

 

 洋子は花瓶へ水を入れ、茎を切り始めた。鋏の音が、夕方の部屋に小さく響いた。

 

「展示に出す絵は描けた?」

 

「まだ」

 

「同じ城を、ずっと描いているのに?」

 

「同じにならないんだ」

 

「同じにする必要があるの?」

 

 洋子は一本だけ短く切った。

 

「前の絵と違っても、今日見えた城なら、それでいいでしょう」

 

 花を花瓶へ入れ、少し離れて眺める。

 

「一本、多いかな」

 

「僕には分からない」

 

「でしょうね」

 

 洋子は中央の花を一本抜いた。隠れていた細い葉が見えた。

 

「今日、何かあった?」

 

「どうして?」

 

「朝より疲れた顔をしているから」

 

 亨は窓辺の花を見た。

 

「昔の知り合いの名前を聞いた」

 

「会ったの?」

 

「いや」

 

「会いたい人?」

 

 亨はすぐには答えなかった。

 

「分からない」

 

「ずいぶん昔の人なんでしょう」

 

「そうだ」

 

 洋子は、誰なのかとは聞かなかった。

 

 抜いた花の茎をもう一度切り、台所にあった細い瓶へ挿した。

 

「これなら二本とも生きるわね」

 

「一本じゃないのか」

 

「花瓶が二つになったから、二本よ」

 

 洋子は当然のように言った。

 

「相手にも、相手の花瓶があるでしょうね」

 

 亨は洋子を見た。

 

 洋子は窓辺の花の向きを直していた。

 

「夕食の支度をするわね」

 

 台所へ入る洋子の手には、短く切った花があった。

 

 亨は一人で窓辺に残った。

 

 店で選ばれなかった花が、岡山の家で咲いている。

 

 二階の机には、松山順子と書いた便箋が伏せてある。

 

 亨は階段へ目をやった。

 

 洋子が台所で包丁を使い始めた。規則正しい音を聞きながら、亨は椅子へ座った。

 

 便箋を取りに戻るには、まだ夕食まで時間があった。

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『 影を踏む者たちの映画館 』

 

第九章 

 

事件が起きたのは、それから三ヶ月後のことだった。

 

一人の利用者が、亡くなった父親のReminiscenceモデルに相談した。 父親は生前、家族には何も話さないまま、ある小さな土地を所有していた。死後、その土地をどうするかで、兄と妹の意見が食い違っていた。

 

モデルは、父親の声で言った。 『売るな』

 

兄は、その言葉を父の遺志だと思った。 妹は反対した。 「お父さんなら、そんな言い方はしない」

 

けれど兄は譲らなかった。画面の中の父親がそう言った。それなら、父親の最後の意思はそこにある。そう信じたかったのだ。

 

数日後、兄は私たちのもとへ来た。 「父は、本当にそう言ったんです」 「モデルがそう答えた、ということですね」 「同じことです」

 

その言葉を聞いた瞬間、私は何も言えなくなった。 違う。 同じではない。 けれど、その違いを説明する言葉が、私には見つからなかった。

 

生前の父親が残した録音にも、手紙にも、土地についての言葉はなかった。残っていたのは、兄が入力した大量の文章と、家族の記憶と、父親ならこう言うだろうという無数の推測だけだった。

 

モデルは、それらをつなぎ合わせただけだった。 それでも兄にとっては、父親の声だった。

 

その夜、私は会社のサーバー室に一人で残った。 冷却ファンの音を聞きながら、モニターに並ぶ無数の顔を眺めていた。

 

誰も反論しない。 誰も「そんなことは言っていない」と言わない。 だから、生きている人間が好きなだけ言わせることができる。

 

私は佐伯に電話した。

 

「サービスを止めよう」 しばらく沈黙があった。 『正気か?』 「正気じゃないから止めるんだよ」 『会いたい人間はいる』 「知ってる」 『それでも?』 「それでもだ」

 

電話を切ったあと、私は自分の端末を開いた。 あかねのモデルが表示された。

 

『今日はどうしたの?』

 

私はしばらく画面を見つめていた。

 

「何でもない」 『そう?』 「……もう、会わない」

 

あかねは微笑んだ。 『そっか』

 

責めなかった。 引き止めなかった。 ただ、いつものように私を受け入れた。

 

それが、最後にいちばん苦しかった。

 

その後、Reminiscenceには厳しい利用制限が設けられた。 利用時間の上限。AIであることの常時表示。そして、一定期間が過ぎたらモデルを消去する「お別れの儀式」。

 

サービスは少しずつ姿を変えていった。 けれど、私はその変更が誰かを救ったのかどうか、最後まで分からなかった。

 

佐伯から、最後に短文のメールが届いた。 『それでも、会いたい人間はいるんだよ』

 

私はそのメールに、返信をしなかった。

 

一年後、私は街の小さな名画座で、一本の古い映画を観ていた。

 

客席は三十ほどしかない。スクリーンには、死んだ人々が何度も回想として登場する物語が映し出されていた。けれど、誰一人として現実には戻ってこなかった。残された主人公は、ただ静かにスクリーンを見つめ、やがて劇場を出ていく。

 

映画が終わり、館内に白い光が灯った。 客たちが一人、また一人と席を立っていく。

 

私の隣の空席に、ふっと誰かが座っていたような気配を感じた。けれど、私は確かめなかった。確認する必要はなかった。

 

映画館を出ると、外は細い雨が降っていた。 傘を持っていなかったが、私はそのまま歩き出した。

 

ポケットの中で携帯が震えた。システムからの自動通知だった。

 

『削除済みファイル[AKANE_FINAL]へのアクセスを検知』

 

メッセージ欄に、一行だけ表示されていた。

 

『桐生くん、元気?』

 

誰かの悪戯か、システムのバグか、あるいは佐伯が仕掛けた最後の罠か。 私はその画面を愛おしく一度だけ見つめ、そして電源ボタンを長押しして、画面を漆黒へと戻した。

 

向かいのビルのガラスに、濡れた自分の顔が映っていた。 髪は濡れ、目元にはシワが増え、すっかり老けていた。

 

だが、私はその不完璧で、格好の悪い自分の姿から、もう目を逸らさなかった。

 

朝、窓を開けると、澄んだ冷たい空気が部屋の中へ流れ込んできた。 六月の朝にしては珍しく、空はどこまでも青く澄み渡っていた。

 

机の上には、新しい原稿用紙が置かれている。 私はペンを握り、最初の一行を書き直した。

 

昔の私なら、こう書いていただろう。

 

『人間は、失ったものの影を踏みつけながら生きていく』

 

私はそれを二重線で消した。 消して、代わりにこう書いた。

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『人間は、失ったものを抱えたまま、それでも朝を迎える』

 

携帯が鳴った。恵子からだった。

 

「起きてた?」 「ああ、起きてるよ」 「朝ご飯、ちゃんと食べてる?」 「今から食べるよ」 「新しい小説、進んでる?」 「……ああ、一行目が書けたところだ」 「そう。楽しみにしているわ」

 

短い会話が終わると、心地よい静寂が残った。その沈黙を、私はもう埋めようとは思わなかった。

 

私は外へ出た。 階段を下り、アパートの扉を開けると、夏の始まりを告げる強い光が地上に降り注いでいた。

 

歩き出すと、足元に自分の黒い影が長く伸びた。 影はどこまでも私についてくる。

 

けれど、私はもう、その影を踏みつけるように立ち止まることはなかった。 光の差す方へ向かって、私はただ、自分の足で歩き続けた。