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『 花びらの積もる道 』

 

第六章 開けなかった箱

 

 千穂の間違いは、そのあとも続いた。

 

 会議の開始時刻を三十分早く手帳へ書き、誰も来ない部屋で一人待った。

 

 出展者へ返す写真を別の封筒へ入れ、宛名を書く前に気づいた。

 

 電話を受けながら用件をメモしたはずなのに、受話器を置くと、相手の名前だけがなかった。

 

 どれも、その場で直せた。

 

 誰かを怒らせたわけでもない。金銭的な損害も出ていない。

 

 そのことが、かえって気になった。

 

 小さな間違いは、謝れば終わる。終わるので、次の間違いまで誰も覚えていない。

 

「松山さん、この頃、少し変ですよ」

 

 同じ展示を担当する後輩に言われた。

 

「何が?」

 

「同じことを何度も確認しているから」

 

「間違えないために確認してるの」

 

「確認したことを、また確認してます」

 

「それの何が悪いの?」

 

「悪いとは言ってません」

 

 後輩は机の上の書類へ目を落とした。

 

「ただ、前は一度で合うてましたから」

 

 悪意がないことは分かっていた。

 

 千穂は書類の端を揃えた。

 

「展示が終われば落ち着くから」

 

「それなら、ええんですけど」

 

 後輩は自分の席へ戻った。

 

 千穂はパソコンの画面を見た。

 

 亨から届いたメールが開いたままになっている。

 

〈本日はありがとうございました。絵の返却については、展示終了後に改めてご連絡ください〉

 

 仕事上の短い文章だった。

 

 母のことは一言も書かれていない。

 

 千穂はメールを閉じた。

 

 閉じてから、もう一度開いた。

 

 文章は同じだった。

 

 午後、展示会場から電話が入った。

 

「今日の三時から、商店街の方たちとの打ち合わせですよね」

 

 現地の担当者が言った。

 

 千穂は手帳を開いた。

 

 打ち合わせは、翌日の三時と書いてある。

 

「明日ではありませんか」

 

「今日で伺っていますが」

 

「少々お待ちください」

 

 千穂は共有の予定表を開いた。

 

 今日の日付の欄に、打ち合わせの予定があった。

 

 自分が手帳へ書き写すとき、一日ずらしていた。

 

「申し訳ありません。すぐに伺います」

 

 資料を鞄へ入れ、上司の席へ行った。

 

「打ち合わせの日付を間違えていました。いまから表町へ行ってきます」

 

 上司は壁の時計を見た。

 

「私が行きます」

 

「でも、私の担当です」

 

「いまから行っても、落ち着いて話せないでしょう」

 

「大丈夫です」

 

「大丈夫ではないから、間違えたんじゃないですか」

 

 強く叱られたわけではなかった。

 

 上司は手元の書類を裏返し、場所を空けた。

 

「資料を置いてください」

 

「説明は私の方が」

 

「松山さん」

 

 名前を呼ばれ、千穂は口を閉じた。

 

「今日は帰ってください」

 

「体調は悪くありません」

 

「体調が悪くなくても、休んだ方がいい日はあります」

 

 千穂は鞄から資料を出した。

 

 上司は受け取り、中を確かめた。

 

「この資料で全部ですね」

 

「はい」

 

 答えたあと、不安になった。

 

「少し待ってください。確認します」

 

「いま確認したでしょう」

 

「念のためです」

 

 千穂は資料を取り返し、一枚ずつ数えた。

 

 必要なものは揃っていた。

 

「全部あります」

 

「そうですか」

 

 上司はもう一度受け取った。

 

「気をつけて帰ってください」

 

 机へ戻り、途中の仕事を片づけようとすると、

 

「明日でいいです」

 

と、背中から声がした。

 

 市役所を出ると、まだ三時前だった。

 

 西川沿いには明るい日差しが残り、ベンチでは親子が菓子を食べていた。母親が袋を持ち、子どもが中へ手を入れている。同じ菓子を何度もつかむので、母親が袋を遠ざけた。

 

 千穂は岡山駅まで歩いた。

 

 自宅へ帰るつもりだった。

 

 改札の前で津山線の時刻を見た。

 

 次の列車は十五分後に出る。

 

 千穂は津山行きの切符を買った。

 

 母には連絡しなかった。

 

 列車の中で何度か携帯電話を出した。電話帳から〈母〉を開き、発信の印に指を置いた。

 

 押さずに閉じた。

 

 仕事で間違いを重ねていること。上司から帰るように言われたこと。母と亨のことが頭から離れないこと。

 

 どれから話しても、母には同じことを言われる気がした。

 

 私のせいにしないで。

 

 津山駅へ着いたのは、五時前だった。

 

 順子は、突然訪ねてきた娘を見て驚いた。

 

「どうしたの」

 

「別に」

 

「仕事は?」

 

「早く終わった」

 

「そんな顔で?」

 

 順子は千穂を玄関へ入れた。

 

 上着を受け取ろうとすると、千穂は自分で椅子の背へ掛けた。

 

「夕食、食べていく?」

 

「何でもいい」

 

「何でもいいが、いちばん困るのよ」

 

「あるものでええよ」

 

「あるものを言っても、あなたは食べたくないと言うでしょう」

 

「今日は言わない」

 

「今日だけ?」

 

「お母さん、何でも聞き返さんと気が済まんの?」

 

「あなたが何も言わないからでしょう」

 

 千穂は黙った。

 

 目の下に、薄い影がある。

 

「仕事で何かあったの」

 

「何もない」

 

 順子は娘の顔を見た。

 

 以前、自分も同じ言葉を使った。

 

「千穂」

 

「少し休ませて」

 

 千穂は寝室へ入り、壁際の段ボール箱の前へ腰を下ろした。

 

「まだ開けてないの?」

 

「必要のないものだから」

 

「半年もそのままなら、捨てればいいでしょう」

 

「簡単に言わないで」

 

「私が片づけようか」

 

「触らなくていい」

 

 順子の声が強くなった。

 

 千穂は箱から母へ目を移した。

 

「その中にも、私には見せられないものがあるの?」

 

「いま、その話をしているんじゃないでしょう」

 

「何の話をしてるの。お母さんは何も話さんじゃない」

 

「仕事で何があったのか、先に話しなさい」

 

「お母さんと澤口さんのことを考えてて、日付を間違えた」

 

 順子の表情が変わった。

 

「私たちのことと、あなたの仕事は関係ないでしょう」

 

「そう言われても、頭から離れんのよ」

 

「昔、付き合っていた。それだけ話したでしょう」

 

「それだけで、どうしていまも会えないの?」

 

「千穂」

 

「お父さんと結婚したあとも、ずっと澤口さんのことを思ってたの?」

 

「何を言ってるの」

 

「だったら、どうして」

 

「あなたに説明する必要はないわ」

 

「私が仕事で会わなければ、聞かない。でも二人とも、私の前で何かを隠してる。澤口さんは何も言わない。お母さんは会うことさえ拒む。それで関係ないと言われても、分からんよ」

 

「分からなくていいこともあるの」

 

「誰が決めるの?」

 

 順子は何も返さなかった。

 

 千穂の肩が、小さく上下していた。

 

 怒っているのではない。息を整えようとしている。

 

 順子は、台所へ水を取りに行こうとした。

 

「どこへ行くの」

 

「水を持ってくるだけよ」

 

「いらない」

 

「喉が渇いているでしょう」

 

「お母さんは、そうやって違うことをする」

 

「水を持ってくることが?」

 

「話したくないことがあると、窓を閉めたり、お茶を入れたりする」

 

 順子は寝室の入口で立ち止まった。

 

「今日は帰りなさい」

 

「もう列車に乗りたくない」

 

「では、ここで休みなさい。箱には触らないで」

 

 千穂が立ち上がった。

 

「どうして、そんなに触らせたくないの」

 

「あなたには関係のないものだから」

 

「また、それ?」

 

 順子は一番下の箱を奥へ押そうとした。

 

 上に載っていた箱が傾いた。

 

 千穂が手を伸ばして支えた。

 

 下の箱の底が、片側だけ抜けた。

 

 古い手帳や封筒が床へ滑り落ちた。

 

 順子は膝をついた。

 

「触らないで」

 

 千穂も、散らばったものへ手を伸ばした。

 

 二人の間に、一通の封筒が落ちていた。

 

〈小坂順子様〉

 

 古い字で書かれている。

 

 差出人は、澤口亨だった。

 

順子が封筒を取ろうとした。

 

 千穂の手が先に触れた。

 

「返して」

 

「これ、澤口さんから?」

 

「返しなさい」

 

 封筒は長い年月で糊が弱くなっていた。千穂が持ち上げると口が開き、折り畳まれた便箋と古い紙幣が落ちた。

 

 順子は紙幣を拾った。

 

 千穂は便箋を見た。

 

 読もうとしたわけではなかった。

 

 開いた紙の中央に、短い文章があった。

 

〈先日は渡せなかったので送ります。費用の半分です。足りなければ知らせてください〉

 

「何の費用?」

 

 順子は紙幣を封筒へ戻そうとした。古い札は幅が合わず、角が引っ掛かった。

 

 床には、病院の領収書も落ちていた。

 

 産婦人科の名前と、大学四回生の冬の日付がある。

 

「お母さん」

 

 千穂が領収書へ手を伸ばした。

 

「見ないで」

 

 順子は先に拾い、紺色の手帳へ挟んだ。

 

「何の手術?」

 

「知らなくていい」

 

「また、それ?」

 

 千穂の声が震えた。

 

「澤口さんとの間に、何があったの」

 

 順子は床へ座ったまま、封筒を見た。

 

 四十数年前、津山の母へ電話をかけた夜を思い出した。

 

「何かあったん?」

 

 母は、すぐに気づいた。

 

「何もない。声が聞きたかっただけ」

 

 順子はそう答えた。

 

 受話器の向こうで、母はしばらく黙っていた。

 

 その夜に言えなかったことを、いま娘が聞いている。

 

「子どもができたの」

 

 千穂の顔から表情が消えた。

 

「私と、亨の間に」

 

 部屋の外で、冷蔵庫の音が止まった。

 

 静かになったのではなかった。

 

 それまで鳴っていたものが、一つなくなっただけだった。

 

「産まなかったの?」

 

「産めなかった」

 

「澤口さんに、そう言われたの?」

 

 順子は首を振った。

 

「何も言わなかった」

 

「何も?」

 

「少し考えさせてほしいと言ったまま、答えを出さなかった」

 

「どれくらい待ったの」

 

「覚えてない」

 

「覚えてないわけないでしょう」

 

「毎日待っていたから、何日だったかは覚えてないの」

 

 順子は古い紙幣を見た。

 

「私の身体は待ってくれなかった。それで、一人で病院を探した」

 

「一人で行ったの?」

 

「来なくていいと言ったから」

 

「それで、本当に来なかったの?」

 

 順子は、紙幣の角を指で伸ばした。

 

 千穂は壁へ背を預け、その場に座り込んだ。

 

「このお金、あとから送ってきたの?」

 

「そう」

 

「受け取ったんだ」

 

「返そうと思った」

 

「返してないじゃない」

 

「返すには、手紙を書かなければならなかったから」

 

「お金だけ送り返せばよかったでしょう」

 

「そうね」

 

「使わなかったの?」

 

「使えると思う?」

 

「じゃあ、どうして持ってたの」

 

 順子は答えなかった。

 

 古い紙幣は、いまでは店へ持っていっても使えるかどうか分からない。使わなかったことで、許さなかったつもりだった。

 

 捨てなかったことで、何を残したかったのかは分からない。

 

「どうして、いままで」

 

 千穂が言った。

 

「誰に話せばよかったの」

 

「お父さんは知ってたの?」

 

「全部は話していない」

 

「どこまで?」

 

「前に好きだった人がいたことは知ってた」

 

「子どものことは?」

 

 順子は首を振った。

 

「私が生まれたときは?」

 

「何?」

 

「その子のことを思い出した?」

 

 順子はすぐに否定できなかった。

 

 千穂の目が揺れた。

 

「思い出したの?」

 

「思い出したことはある」

 

 千穂は顔を伏せた。

 

「でも、あなたを代わりだと思ったことは一度もない」

 

「同じじゃないの」

 

「同じではないわ」

 

「どう違うの」

 

「思い出すことと、代わりにすることは違うでしょう」

 

「生まれたばかりの私を見ながら、別の子を思い出したんでしょう」

 

「そうよ」

 

 順子は嘘をつかなかった。

 

 千穂の顔が上がった。

 

「あなたが生まれたとき、私はうれしかった。指が五本あることも、爪が小さかったことも覚えてる。看護婦さんが、髪の多い赤ちゃんだと言ったことも」

 

「そんなことを聞いてるんじゃない」

 

「でも、私はそのことを覚えてる」

 

 順子は娘へ手を伸ばしかけた。

 

 千穂は、わずかに身体を引いた。

 

 順子は手を膝へ戻した。

 

「うれしいだけじゃなかったんでしょう」

 

「そうよ」

 

「怖かった?」

 

「怖かった」

 

「何が?」

 

「あなたまで、いなくなるんじゃないかと思った」

 

「私は、その子じゃない」

 

「分かってる」

 

「分かってたら、そんなふうに思わないでしょう」

 

「人は、分かっていることだけを思うわけじゃないのよ」

 

「ずるい言い方」

 

「そうね」

 

 順子は床に散らばった手帳や封筒を集めた。

 

 亨から送られた紙幣を封筒へ戻そうとしたが、指が震え、また角が引っ掛かった。

 

 千穂が手を伸ばした。

 

 順子は封筒を渡さなかった。

 

「入らないんでしょう」

 

「入るわよ」

 

「さっきから入ってないじゃない」

 

「古くなって、封筒が縮んだの」

 

「紙は、そんなに縮まないよ」

 

「では、お札が大きくなったんでしょう」

 

 千穂は母を見た。

 

「こんなときまで、何を言ってるの」

 

「入らないんだから、仕方ないでしょう」

 

 順子は紙幣を二つ折りにしようとした。

 

「折らない方がいいよ」

 

「もう折り目がついてるわ」

 

「そうだけど」

 

 千穂は手を引いた。

 

 順子は紙幣を元の折り目に沿って畳み、封筒へ入れた。

 

 窓の外が暗くなり始めている。

 

 千穂が立ち上がった。

 

「帰るの?」

 

「少し外を歩いてくる」

 

「もう暗くなるわよ」

 

「子どもじゃない」

 

 千穂は上着を取り、玄関へ向かった。

 

「千穂」

 

 順子が呼び止めた。

 

 娘は振り返らなかった。

 

「あなたに、亨を憎んでほしくて話したんじゃない」

 

 千穂は玄関の扉に手を掛けた。

 

「お母さんが話したんじゃない。私が見つけたの」

 

 扉が閉まった。

 

 順子は散らばったものを一つずつ箱へ戻した。

 

 手帳。

 

 病院の領収書。

 

 亨の封筒。

 

 夫のネクタイを買った店の古い伝票まで出てきた。

 

 順子は一番上に封筒を置いた。

 

 箱の底は抜けている。

 

 持ち上げれば、また全部落ちる。

 

 順子は箱をその場所に置いたまま、寝室の明かりを消した。

 

 暗くなっても、白い封筒だけがしばらく見えていた。

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『 花びらの積もる道 』

 

第五章 小さな間違い

 

 鶴山公園で洋子と別れてから数日後、千穂の担当する展示が始まった。

 

 表町の空き店舗には、岡山へ移ってきた人たちの写真や文章が並んだ。県外から飲食店を開いた夫婦。子どもの進学をきっかけに来た家族。定年後に移り住んだ亨と洋子。

 

 亨の紹介文の横には、旭川から見た岡山城の絵が掛けられていた。

 

 黒い城の周りには、思いのほか多くの色が使われている。川面には薄い青と灰色が重なり、空には淡い黄色が残っていた。近くで見ると、何度も線を消した跡が分かった。

 

 初日の朝、千穂は開場前の店内を一人で見て回った。

 

 説明文を読み、写真の傾きを直し、来場者用の用紙を入口へ置く。

 

 亨の絵の前で足が止まった。

 

〈知らない町ではなく、これから暮らす町として岡山を見るようになりました〉

 

 千穂が聞き取りをもとに書いた文章である。

 

 その下には、亨の言葉として、

 

〈同じ景色でも、昨日と今日では違って見えます〉

 

と添えた。

 

 写真の角が少し浮いていた。千穂は両手で押さえた。

 

 手を離すと、また同じところが浮いた。

 

 開場すると、近所の人や買い物途中の客が少しずつ入ってきた。大きな展示ではない。それでも昼前には、十人ほどが店内にいる時間もあった。

 

「この絵を描いた方、今日は来られますか」

 

 年配の女性に尋ねられ、千穂は受付の予定表を見た。

 

「午後一時頃に来られる予定です」

 

「岡山城の話を聞いてみたいわ」

 

「お伝えしておきます」

 

 女性は絵の前へ戻った。

 

 千穂は予定表へ印をつけようとして、手を止めた。

 

 亨が来るのは一時ではない。

 

 二時だった。

 

 予定表には、はっきり二時と書いてある。数字の二には、千穂自身が赤い丸までつけていた。

 

 女性を追いかけた。

 

「すみません。澤口さんが来られるのは二時でした」

 

「あら、そうなの」

 

「申し訳ありません」

 

「それなら、買い物してから戻ってきます」

 

 女性は気にした様子もなく店を出た。

 

 時間を一つ間違えただけだった。

 

 千穂は受付へ戻り、予定表をもう一度見た。

 

 二時という数字が、一時に見えるはずはない。

 

 それでも、口から出たのは一時だった。

 

 午後、亨は予定どおり二時前に来た。

 

 絵の前で待っていた女性に声をかけられ、岡山城について話し始めた。

 

「黒いお城ですけど、黒だけでは描けないんですね」

 

「そうなんです。黒やと思うてるものの中にも、いろんな色がありますから」

 

 女性は絵へ顔を近づけた。

 

「ここは、紫ですか」

 

「黒にしたかったんですけどね」

 

「紫に見えます」

 

「ほな、紫なんでしょう」

 

 亨が笑った。

 

 千穂は受付から二人を見ていた。

 

 母は、亨の名前を聞いただけで窓を閉めた。住所も電話番号も教えるなと言った。

 

 いま絵の前で笑っている男性と、母の閉めた窓が結びつかなかった。

 

 亨が女性との話を終え、受付へ来た。

 

「今日は、何時までおったらええですか」

 

「四時までお願いしています」

 

 千穂は予定表を指で確かめてから答えた。

 

「先ほど、時間を間違えて伝えてしまって」

 

「僕の来る時間を?」

 

「一時と。すぐに訂正しました」

 

「そうですか」

 

「ご迷惑はかけていません」

 

 亨は千穂の顔を見た。

 

「疲れてるんやないですか」

 

「大丈夫です」

 

「展示が始まるまでは、忙しかったでしょう」

 

「仕事ですから」

 

 少し強い声になった。

 

 亨は何も言わず、入口に置かれた用紙を一枚取った。

 

 表を見て、裏を見た。

 

「これ、裏にも書くところがあるんですね」

 

「はい。ご意見があれば」

 

「表だけやと思うてました」

 

「そう思う方もいるかもしれませんね」

 

 千穂は用紙の置き方を変えた。

 

 裏にも記入欄があると分かるよう、一枚だけ裏返して置いた。

 

 それだけで少し落ち着いた。

 

 夕方、展示を閉め、市役所へ戻った。

 

 机の上には、別の部署から届いた書類が置かれていた。展示の報告をまとめる前に、その書類へ目を通さなければならない。

 

 パソコンを開くと、朝送ったメールへの返信が来ていた。

 

〈添付されている紹介文が、別の方のものになっています。ご確認ください〉

 

 千穂は送信済みのメールを開いた。

 

 亨の絵の写真に、飲食店を開いた夫婦の紹介文を添付していた。

 

 ファイル名はよく似ている。

 

 それでも、送る前には必ず開いて確かめてきた。今日だけ確かめなかったのか、確かめたのに見ていなかったのか、思い出せなかった。

 

 正しいファイルを送り直した。

 

〈大変失礼いたしました〉

 

と書き、送信ボタンを押した。

 

「松山さん」

 

 隣の席から同僚が声をかけた。

 

「もう七時ですよ」

 

 時計を見ると、思っていたより一時間近く遅かった。

 

「いま終わります」

 

「最近、遅いですね」

 

「展示が始まったばかりだから」

 

 千穂は書類を片づけ、パソコンの電源を切った。

 

 机の上に、赤いボールペンが一本残った。自分のものではないと思い、隣の机へ置いた。

 

 隣の同僚が見た。

 

「それ、松山さんのですよ」

 

「そうだった?」

 

「名前、貼ってあります」

 

 ペンには〈松山〉と書いた細いシールが巻かれていた。

 

 千穂は黙って鞄へ入れた。

 

 市役所を出ると、昼の暖かさが消え、風が冷たくなっていた。

 

 西川緑道公園の近くまで歩き、途中のベンチへ腰を下ろした。

 

 帰宅する人たちが、足早に通り過ぎていく。

 

 千穂は携帯電話を取り出し、母へ電話をかけた。

 

 三度鳴って、順子が出た。

 

「もしもし」

 

「お母さん、いま大丈夫?」

 

「今日は、そちらから聞くのね」

 

「いつも聞いてるでしょう」

 

「仕事は終わったの?」

 

「いま帰るところ」

 

 千穂は西川の水面を見た。街路樹の影が、街灯の光で揺れている。

 

「展示が始まったよ」

 

「そう」

 

「澤口さんの絵も掛けた」

 

 順子は何も言わなかった。

 

「今日、会場に来た」

 

「そう」

 

「お母さんと、付き合っていたの?」

 

 電話の向こうが静かになった。

 

 千穂は返事を待った。

 

「そうよ」

 

 予想していた言葉だった。

 

 それでも、知らなかった頃へは戻れなくなった。

 

「いつ頃?」

 

「大学生の頃」

 

「どうして別れたの」

 

「その話はしたくない」

 

「澤口さんも、何も話さない」

 

「亨に聞いたの?」

 

 順子の声が変わった。

 

「聞いてない。向こうから話すことではないと言われた」

 

「そのとおりよ」

 

「二人とも、相手に聞けと言って、聞いたら話さない」

 

「あなたに関係のないことだから」

 

「関係のない人を、私の仕事へ持ち込まないで」

 

 順子が黙った。

 

 千穂自身にも、なぜそんな言い方をしたのか分からなかった。

 

 亨を展示へ呼んだのは自分である。母の名前を出したのも自分だった。

 

 水の上を、小さな葉が一枚流れてきた。街灯の下へ入ると見え、光を過ぎると消えた。

 

「ごめん」

 

 千穂は言った。

 

「今日、少し疲れてるみたい」

 

「仕事で何かあったの?」

 

「何もない」

 

 母が使ったのと同じ言葉が、口から出た。

 

「千穂」

 

「もう帰る。切るね」

 

 電話を切り、携帯電話を鞄へ入れた。

 

 画面が消える直前、時刻が七時二十六分と表示された。

 

 千穂はもう一度取り出して見た。

 

 七時二十六分だった。

 

 翌朝、千穂は出勤してすぐ、展示会場へ届ける来場者用の用紙を封筒へ入れた。

 

 宛名を書き、庁内便の箱へ入れた。

 

 席へ戻ると、机の上に同じ用紙が残っている。

 

 封筒へ入れたのは、別の会議で使う資料だった。

 

 千穂は立ち上がり、庁内便の箱へ走った。

 

 回収前だった。封筒はまだ残っている。

 

 封を開け、書類を入れ替えた。

 

 誰にも迷惑はかからなかった。

 

 千穂は古い封筒を細かく破り始めた。

 

 四つに破れば捨てられるのに、八つに破った。さらに半分にしようとして、紙で指の腹を切った。

 

 血は出なかった。

 

 白い筋だけが、しばらく残った。

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『 花びらの積もる道 』

 

第四章 花びらの積もる道

 

 日曜日の朝、亨は洋子を岡山駅まで送ろうかと言った。

 

「一人で行けます」

 

 洋子は小さな鞄へ水筒を入れながら答えた。

 

「津山線の乗り場、ちょっと分かりにくいで」

 

「前に岡山駅から乗ったことあります」

 

「いつ?」

 

「家を探してた頃。津山へは行かへんかったけど、乗り場くらい見ました」

 

「二年前やろ」

 

「乗り場は逃げません」

 

「変わってるかもしれへん」

 

「駅まで送ってもらう間に、電車一本遅れます」

 

 亨は時計を見た。

 

 洋子の言うとおりだった。

 

 玄関で靴を履いた洋子は、薄い色の帽子をかぶった。花屋へ行く日より、少し明るい服を着ている。

 

「帰り、何時頃になる?」

 

「順子さんとお昼を食べても、夕方には戻れると思います」

 

「そうか」

 

「何か買うてきましょうか」

 

「いや」

 

 洋子は亨の顔を見た。

 

「ほんまに、どうしたの?」

 

「何が?」

 

「私が津山へ行くと言うてから、ちょっと変よ」

 

 亨は、玄関脇に置かれた洋子の傘を見た。

 

「久しぶりの遠出やから、気ぃつけてほしいだけや」

 

「一時間ほどでしょう」

 

 洋子は笑って扉を開けた。

 

「行ってきます」

 

「行ってらっしゃい」

 

 扉が閉じたあとも、亨はしばらく玄関に立っていた。

 

 津山線に乗れば、洋子は一時間あまりで鶴山公園の近くへ着く。

 

 自分が四十数年訪れていない場所を、今日は順子と洋子が歩く。

 

 亨は洋子の靴があった場所を見た。

 

 そこだけ、細長く埃が残っていた。

 

 洋子が津山駅へ着いた頃、順子は鶴山公園の入口で待っていた。

 

 桜は満開を過ぎ、多くの枝に若い葉が混じり始めている。それでも風が吹くたび、残っていた花びらが途切れずに落ちてきた。

 

 石段の端や石垣の下には、淡い色が幾重にも積もっている。人に踏まれたところだけ、花びらが濃く沈んでいた。

 

「順子さん」

 

 呼ばれて振り向くと、洋子が坂の下から歩いてきた。

 

「お待たせしました」

 

「まだ時間前です」

 

「駅から迷わんと来られました」

 

「それはよかったですね」

 

「少しくらい褒めてください」

 

「子どもじゃないんでしょう」

 

 千穂へ何度も言った言葉だった。

 

 順子は笑った。

 

「思うてたより、人がいますね」

 

「桜が散っても、日曜日ですから」

 

「上まで行けますか」

 

「私に聞くんですか」

 

「案内してくれる人が、先に疲れたら困ります」

 

「洋子さんこそ、途中で膝が痛いと言わないでくださいね」

 

「痛うなったら、言います」

 

「言うんですか」

 

「黙ってたら、置いていかれるでしょう」

 

 二人は並んで入口を入った。

 

 下りてくる人とすれ違いながら、ゆっくり石段を上がった。

 

 洋子は何度か立ち止まり、石垣を見上げた。

 

「こんなに高う積んであるんですね」

 

「お城は残っていませんけど、石垣は残っています」

 

「うちの人が来たら、動かへんようになりそう」

 

「石垣が好きなんですか」

 

「絵を描くんです。岡山城でも、城より石垣を見てる時間の方が長うて」

 

 順子の足が、わずかに遅くなった。

 

 亨もそうだった。

 

 若い頃、ここへ連れてきたとき、亨は石垣の前へ来るたびにスケッチブックを開いた。

 

「絵を描く人は、一緒に歩く人の時間を考えないんでしょうね」

 

 順子が言った。

 

「ほんまに。私が先へ行っても、いつまでも同じところにいます」

 

 洋子は笑った。

 

 その横顔の向こうに、白いシャツを着た亨が見えた。

 

「私を見に来たんか、石垣を見に来たんか、どっちなん」

 

「石垣は逃げへんけど、順子は先に行ってしまうから」

 

 若い順子は、石垣に勝ったと思って笑った。

 

「順子さん?」

 

 洋子の声で、石垣に色が戻った。

 

「どうしました?」

 

「何でもありません」

 

「少し休みますか」

 

「まだ上り始めたばかりでしょう」

 

 順子は先へ進んだ。

 

 花びらの積もった一段へ足を置くと、靴底が滑った。

 

「危ない」

 

 洋子が順子の肘をつかんだ。

 

「大丈夫です」

 

「花びらって、見た目より滑るんですね」

 

 順子が足元を確かめるまで、洋子は手を離さなかった。

 

 順子は石垣の下へ目を向けた。

 

「昔、花見に来た酔っ払いが、石垣から落ちたことがあるそうです」

 

「ここから?」

 

「どの石垣だったかまでは知りません。でも、下に桜の花びらがようけ積もっていて、それがクッションになったらしいんです」

 

「けがは?」

 

「大騒ぎした割には、軽いけがで済んだって」

 

 洋子は石垣の下をのぞいた。

 

「そんなこと、ほんまにあるんですか」

 

「津山では、あることになっています」

 

 洋子が笑った。

 

「花びらに助けられたんやね」

 

「本人は次の年も、同じところへ飲みに来たそうですけど」

 

「懲りへん人やね」

 

「助けた花びらも、がっかりしたでしょう」

 

 二人は笑いながら、もう一度石垣の下を見た。

 

「でも」

 

 洋子が言った。

 

「助かった人やったら、また来てもええんやないですか」

 

「同じところから落ちなければね」

 

「今度は気ぃつけて飲んだかもしれません」

 

「人は、そんなに簡単に変わりませんよ」

 

「そうかもしれません」

 

 洋子は石段へ戻った。

 

「でも、次も同じやとは限らへんでしょう」

 

 順子は石垣の下に積もった花びらを見た。

 

「花屋さんは、酔っ払いにも甘いのね」

 

「お客さんになるかもしれませんから」

 

「石垣から落ちる人が、花を買うかしら」

 

「次の年、花びらにお礼を言いに来たのかもしれません」

 

「お酒を持って?」

 

「花は飲めへんから、自分で飲んだんでしょう」

 

 順子は笑った。

 

 二人は石垣の見える場所で休んだ。

 

 洋子が鞄から水筒と小さな菓子を取り出した。

 

「用意がいいですね」

 

「花屋では立ってる時間が長いから、休めるときに休むんです」

 

 順子は水筒の蓋へ注がれた茶を受け取った。

 

 少し離れた桜の下で、若い女性が携帯電話を耳に当てている。笑いながら話し、風が吹くと髪を耳へ掛け直した。

 

「いまは、どこにいても電話ができますね」

 

 洋子も同じ女性を見た。

 

「昔は、電話するだけでも大変でした」

 

「順子さんのお家には、電話があったんですか」

 

「ありました。母が電話交換手をしていたんです」

 

「電話交換手?」

 

「ええ。だからなのか、人が電話をしていると、時間が気になって仕方なかったみたいで」

 

 若い女性の笑い声が、風に乗って聞こえてきた。

 

「学生の頃、実家の電話でいつまでも話していたことがあったんです。そうしたら途中で、母の声が入ってきて」

 

 順子は、母の声をまねた。

 

「あんたら、いつまで話しょんで」

 

 洋子が吹き出した。

 

「聞いてはったんですか」

 

「全部ではないと思います。でも、何を聞かれたか分からないでしょう。向こうも急に黙ってしまって」

 

「その人、驚いたでしょうね」

 

「母に謝ってました。電話の向こうから」

 

「お母さんに?」

 

「私に謝っても仕方がないと思ったんでしょうね」

 

「それで切ったんですか」

 

「いいえ。母がいなくなるのを待って、また話し始めました」

 

「懲りへんかったんですね」

 

「若かったですから」

 

 順子は声を出して笑った。

 

 この記憶には、いつも亨がいた。

 

 けれど、いま目に浮かんだのは、受話器の途中へ入ってきた母の顔だった。電話交換手に電話のことで言い返すなと、自分で言って笑っていた。

 

「その人は、ご主人になった方ですか」

 

 洋子が尋ねた。

 

 順子の笑みが止まった。

 

「いいえ」

 

 風が吹き、二人の間へ花びらが一枚落ちた。

 

「そうはならなかった人です」

 

 洋子は膝の上の菓子を包み直した。

 

「余計なことを聞きました」

 

「昔の話です」

 

 順子は茶を一口飲んだ。

 

 洋子は茶を足そうとはしなかった。

 

洋子さんのご主人とは、長いんですか」

 

 順子が尋ねた。

 

「もう四十年近くになります」

 

「仲がいいんですね」

 

「どうやろ」

 

 洋子は水筒の蓋を持ったまま笑った。

 

「仲が悪かったら、岡山まで一緒に来えへんかったと思います。でも、知らんことも、きっとようけあります」

 

「夫婦なのに?」

 

「夫婦やから、全部知ってると思う方が不思議でしょう」

 

 順子は洋子を見た。

 

「知りたくありませんか」

 

「知って、どうするかによります」

 

「どういう意味ですか」

 

「知ったことで、何かしてあげられるんやったら知りたい。でも、ただ私が安心するためだけやったら、聞かん方がええこともあるでしょう」

 

 洋子は茶を飲み、石垣の向こうに残った桜を見上げた。

 

「うちの人も、私に話してへんことがあると思います」

 

「そう思っていて、平気なんですか」

 

「平気やありません。でも、私にも話してへんことはありますから」

 

 洋子は順子へ顔を向けた。

 

「順子さんにも、あるでしょう」

 

 順子は水筒の蓋に残った茶を見た。

 

「あります」

 

「それで、ご主人と暮らした時間が嘘になるわけやないでしょう」

 

 夫が亡くなる一週間ほど前、病室で古い店の話をしたことがあった。

 

 順子が最初に仕入れた青いワンピースは、一着も売れなかった。夫は、あれは服が悪かったのではなく、店の照明が暗かったのだと言った。

 

 順子は最後まで、服が悪かったのだと思っていた。

 

 どちらが正しかったのか、確かめる前に夫は亡くなった。

 

「洋子さんは、ずいぶん都合よく考えるんですね」

 

「そうせんと、長いこと一緒には暮らせません」

 

「ご主人も、そう思っているかしら」

 

「さあ。あの人は、自分が我慢してると思うてるんやないですか」

 

「違うんですか」

 

「お互いにそう思うてるくらいが、ちょうどええんです」

 

 洋子は水筒の蓋に残った茶を飲み干した。

 

 二人は再び歩き始めた。

 

 少し高い石段の前で、今度は洋子が足を止めた。

 

「ここ、上がれますか」

 

「上がれますよ」

 

 順子は一段上へ上がり、洋子へ手を差し出した。

 

「大丈夫です」

 

 そう言いながら、洋子はその手を取った。

 

 若い頃、同じ場所で亨が順子へ手を差し出した。

 

「順子、そこ滑るで」

 

 白いシャツの袖が、洋子の腕に重なった。

 

 順子は、少し強く洋子の手を引いた。

 

「痛い」

 

「あ、ごめんなさい」

 

「置いていかれるかと思いました」

 

「引っ張ったんでしょう」

 

「人に引っ張られるの、久しぶりやから」

 

 洋子は手を離し、指を一度握った。

 

「大丈夫?」

 

「そこまで年寄りやありません」

 

「さっき、膝が痛いと言ってたでしょう」

 

「言うてません。痛うなったら言うと言うただけです」

 

「同じことよ」

 

「違います」

 

 二人は笑った。

 

 白い袖は、もう見えなかった。

 

 天守台へ上がると、津山の町が見渡せた。

 

 屋根の間を道路が通り、その向こうに山の稜線が続いている。桜の間から、町の灰色や茶色がのぞいていた。

 

 洋子はしばらく何も言わず、遠くの山と町並みを眺めていた。

 

「ここで育ったんですね」

 

「高校を卒業するまでです」

 

「帰ってきて、よかったですか」

 

 順子は町を見下ろした。

 

「まだ、分かりません」

 

「半年でしょう」

 

「もう半年です」

 

「同じ半年やのにね」

 

 洋子は手すりへ手を置いた。

 

「私は岡山へ来て二年ですけど、いまでも、よその町におると思う日があります」

 

「自分で選んで来たんでしょう」

 

「選んだことと、慣れることは別です」

 

「ご主人についてきたんですか」

 

「一緒に来たんです」

 

 洋子はすぐに言った。

 

「ついてきたと言うたら、あの人が決めて、私が従うたみたいでしょう」

 

「違うんですか」

 

「決めたのは、たぶん私です」

 

「それなら、ご主人がついてきたのね」

 

「そう言うたら、あの人は怒るでしょうね」

 

「男の人は、決めたことだけ自分の手柄にしたがりますから」

 

「失敗したことは、妻が決めたことになります」

 

「便利ですね」

 

「夫婦ですから」

 

 二人は町を見下ろしたまま笑った。

 

「帰ってきた人間も、似たようなものです」

 

 順子が言った。

 

「ほな、私たちは反対から同じところへ来たんですね」

 

「同じかしら」

 

「同じやなかったら、それでもかまいません」

 

 洋子は手すりから手を離した。

 

「そろそろ下りましょうか。上ったからには、下りんと帰れません」

 

「当たり前でしょう」

 

「上る前に、そこまで考えてへんかったから」

 

 公園を下りるとき、順子は上ってきた道とは別の道を選んだ。

 

「さっきの道を戻るんやないんですか」

 

「こちらからも下りられます」

 

「遠回りでは?」

 

「少しだけ」

 

「私の膝を心配してくれてるんですか」

 

「同じ景色を二度見ても、仕方がないでしょう」

 

「上るときと下りるときでは、違う景色かもしれませんよ」

 

 順子は返事をせず、先に歩いた。

 

 洋子は空になった水筒を鞄へ入れ、その少し後ろを歩いた。

 

 足元には花びらが積もっている。

 

 順子はときどき振り返った。

 

 洋子がついてきているか確かめるためだった。

 

 それに気づくたび、昔と同じだと思った。だが、洋子は少し遅れながらも、必ずそこにいた。

 

 入口へ戻る頃には、昼を過ぎていた。

 

「今日は、ありがとうございました」

 

「こちらこそ」

 

「今度は、岡山を案内します」

 

「岡山城なら、娘に連れていかれそうになりました」

 

「ほな、後楽園か、旭川沿いを歩きましょ。京橋から空を飛んだ人の話もありますよ」

 

「空を?」

 

「鳥人幸吉という人です」

 

「鳥人?」

 

「詳しいことは、そのときに」

 

「花びらで助かった酔っ払いより、本当らしくないわね」

 

「こっちは、ほんまです」

 

「津山の話も、本当かもしれないでしょう」

 

「ほな、どちらも本当ということにしときましょ」

 

「ずいぶん簡単ね」

 

「知らん人の昔の話ですから」

 

 二人は津山駅へ向かって歩いた。

 

 順子は、今日のことを千穂には話さないだろうと思った。

 

 隠すほどのことではない。

 

 だからこそ、自分だけの一日にしておきたかった。

 

 洋子が夕方の列車で岡山へ戻ると、亨は居間で絵を描いていた。

 

「ただいま」

 

「お帰り」

 

「上まで歩けました」

 

「膝は?」

 

「大丈夫。順子さんが途中で何度も休んでくれたから」

 

「そうか」

 

 亨は鉛筆を置いた。

 

「どんな話、したん?」

 

「いろいろ」

 

「いろいろって?」

 

 洋子は帽子を取り、椅子の背へ掛けた。

 

「花びらに助けられた酔っ払いの話と、電話交換手やったお母さんの話。それから、津山へ帰ってきたこと」

 

「電話の話?」

 

「学生の頃、長電話してたら、お母さんが途中へ入ってきたんですって」

 

 洋子は笑った。

 

「あんたら、いつまで話しょんで、って」

 

 亨の手から、鉛筆が落ちた。

 

 床に当たり、小さな音を立てた。

 

「どうしたの?」

 

「手ぇ滑った」

 

 亨は鉛筆を拾った。

 

「その相手は、ご主人やなかったそうよ」

 

 洋子は何気なく続けた。

 

「そうはならへんかった人やって」

 

 亨は鉛筆についた埃を指で払った。

 

「そうか」

 

「昔の人の話を聞くのは、不思議ね。名前も知らへんのに、ちょっとだけその人を知ったような気になる」

 

 洋子は台所へ向かった。

 

「お茶、入れましょうか」

 

「いや、ええ」

 

「いらんの?」

 

「ああ」

 

「朝から、返事が短いね」

 

「そうか」

 

「また短い」

 

 洋子は台所へ入り、自分の分だけ湯を沸かし始めた。

 

 亨は描きかけの岡山城へ目を戻した。

 

 順子は、あの夜を覚えていた。

 

 母親に話を聞かれ、二人で声を抑えて笑った夜を。

 

 洋子は何も知らないまま、その話を持って帰ってきた。

 

 亨は鉛筆を紙へ置いた。

 

 一本線を引くと、城の屋根が少し曲がった。

 

 消しゴムを手に取ったが、すぐには消さなかった。