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『 しあわせの素顔 』

 

第二章 決裂のブライダルサロンと兄夫婦の夜

 

午後一時過ぎの池袋。

 

秋晴れの太陽がデパートのガラス張りの壁面に照りつけ、目抜き通りを往来する人々の影を短く深く切り取っていた。

 

デパートのブライダルサロンがある階から逃げるように自動ドアを潜り抜けてきた和彦の背中は、大きく、そして異様なまでに強張っていた。

 

その数歩後ろを、高いヒールを鳴らしながら必死に追いかける奈美の足取りが乱れる。

 

「ちょっと待ってよ、カズ!」

 

奈美の声が秋空に響いたが、和彦は一度も振り返らなかった。

 

人混みを縫うように、ただまっすぐ、大股で歩道を突き進んでいく。

 

「ちょっと待ってったら!」

 

奈美は息を切らせて走り込み、和彦の前に回り込んで立ちふさがった。

 

突然目の前を遮られた和彦は、ハッと足を止めた。

 

奈美は両手を膝に置き、乱れた息を整えながら彼の顔を見上げた。

 

昨夜、肘に怪我を負って遅く帰ってきた和彦の腕には、小さな絆創膏が貼られたままだった。

 

「……聞こえないの? 何回も呼んだじゃない」

 

「……」

 

「そんなに、あの結婚式場がいやだった? いきなり立ち上がってあんなところ飛び出してきちゃうんだもの……あたし、びっくりしちゃったわよ」

 

和彦は黙ったままだった。

 

彼の視線は奈美の顔を避け、数センチ上にある街頭ディスプレイの鮮やかな映像のあたりをさまよっている。

 

「この間から、『あそこでいいの?』って何度も聞いてたのに、カズは何も返事しなかったじゃない。だから、あたし決まりなんだって思ってたの。今どき、ハネムーンまでセットになってて、あのWEBプランであの内容の式場なんて他には絶対ないんだから。無理言って今日まで予約を入れてもらってたんだから、手付け金をカードで決済しなきゃいけなかったのに……」

 

奈美の声には、怒りよりも、突如現れた裂け目を必死で埋めようとする焦燥が滲んでいた。

 

「あっ……わかった! ムービーの撮影を頼まなかったから怒ってるの? あれね、うちの会社の京子が『私、最新のミラーレス持ってるから撮らせて』って言ってくれてるの。だから安心して。ちゃんと綺麗な映像残せるから……」

 

「そうじゃないんだ」

 

低く、押し殺したような和彦の声が奈美の言葉を遮った。

 

「じゃあ……引き出物を、カズが言ってたあのスマートウォッチにしなかったから?」

 

「ナミ」

 

「うん……?」

 

「あのさ……話さなきゃならないことがあるんだ」

 

その声のトーンがあまりに重く、奈美の胸が嫌な音を立てて鳴った。

 

だが彼女は、自分を安心させるように、引きつった笑顔を無理やり作ってみせた。

 

「わかった! 結婚式は海外でしよう、って言いたいんでしょ?」

 

「いや……そうじゃない」

 

「ハネムーンで外国に行って、ただ観光するだけじゃつまんないもんね。一生の思い出にするなら、海外挙式もいいかなってあたしも思ってたところよ。カズも、やっぱりそっちがいいと思ったんでしょ?」

 

「……そうじゃないんだよ」

 

「えっ……?」

 

和彦はゆっくりと息を吐き出した。

 

指先でスマホを握りしめたまま、これまで逃げ続けていた自分を断ち切るように、奈美の瞳を真っ直ぐに見据えた。

 

その瞳の奥にある、冷たく固い「決意」の色を見た瞬間、奈美の頬から急速に色が失われていった。

 

「結婚……先に延ばしたいんだ」

 

街の喧騒が、潮が引くように遠ざかった。

 

通りを走る自動車の走行音も、すれ違う買い物客の笑い声も、すべてが分厚いガラスの向こう側の出来事のように感じられた。

 

「……先に延ばすって……どういうことよ」

 

絞り出した声が、自分のものではないように細く震えていた。

 

さっきまでバスの中でスマホを開き、完璧な未来の計画を立てていた自分が、遠い昔の幻のように思えた。

 

「今のままじゃ……結婚して、やっていける自信がないんだ」

 

「自信がないって……カズ、何言ってるの……?」

 

和彦はそれ以上、何も言わなかった。

 

ただ、申し訳なさそうに、しかし撤回するつもりのない眼差しで奈美を見つめ返した。

 

秋の澄んだ日差しが、二人の間に横たわる埋めようのない溝を浮き彫りにしていた。

 

◇

 

その夜。奈美は、自分がどうやって池袋からアパートへ戻り、どうやって時間を過ごしたのか、ほとんど記憶がなかった。

 

気づけば、普段はめったに呑むことのない缶チューハイを二本空け、頭の芯が冷たく痺れていた。

 

千鳥足で夜の街を歩き、見上げたマンションの格子窓は、涙とアルコールで滲んでぼやけていた。

 

自分の部屋へ帰る気になれず、引き寄せられるようにエレベーターに乗り、兄である村岡修治の部屋の前に立っていた。

 

その頃、村岡家のダイニングキッチンでは、修治(32)が不機嫌な顔でカップ麺の容器にフォークを突っ込んでいた。

 

「おい、容子!」

 

修治は奥の部屋に向かって、わざと大きな声を張り上げた。

 

「俺が休みの日くらい、夕飯の支度くらいなんとかならないのかよ! おかげで、休みに一人でカップ麺すすってる亭主がいるって絵面だぜ。お前にデッサンの宿題を出したイラスト教室の先生ってのは、今頃パートナーの手料理でもありがたく食べてんじゃねえのか?」

 

奥の部屋からは、液晶タブレットの上にタッチペンが滑る、サッ、サッという規則正しい音だけが返ってきた。

 

テーブルの上に置かれたバナナやレモンを真剣な目つきで睨みつけていた妻の容子(29)が、顔も上げずに言い返す。

 

「ブツブツ文句言わないの! 先生が見ればすぐわかるんだからね、真剣に描いたかどうかなんて! そもそも、これは宿題だからやってるわけじゃないのよ。こういう習い事はね、ちゃんと元を取らなきゃ気が済まないの。たまにはそういうジャンクなもの食べて、普段私が作ってる料理のありがたみを骨身にしみて噛み締めてみなさいよ!」

 

「勝手な理屈を……」

 

修治が苦り切った顔で麺をすくい上げた瞬間、玄関のスマートロックの電子音がピッピッと鳴り、チャイムが響いた。

 

「あなた、出てちょうだい」

 

「まったく、今日は休みなのに休まる暇がねえな」

 

修治は渋々箸を置き、玄関へ向かった。

 

「どちらさまですか」

 

『……お兄ちゃん。あたし』

 

「なんだ、奈美か」

 

ロックを解除してドアを開けると、そこには髪を少し乱し、どこか焦点の合っていない目をした奈美がぽつんと立っていた。

 

「……おじゃまします」

 

「お前、休みの日は忙しいんじゃないのか? ウエディングの打ち合わせしたり、ドレスの試着に行ったりさ」

 

修治が何気なく投げかけたその言葉に、奈美の肩がわずかに震えた。

 

だが彼女はそれを飲み込むように、引きつった笑みを作ってみせる。

 

「お義姉さんは……?」

 

「いるよ。奥で、これだ」

 

修治がペンを動かすようなジェスチャーをすると、奥の部屋のドアが開き、容子が顔を出した。

 

「あら、奈美さん。いらっしゃい……って、今日はどうしたの? そんな顔して」

 

「ちょっと……お話したいことがあって」

 

奈美のただならぬ様子をひと目で見抜いた容子は、修治とアイコンタクトを交わすと、「こっちへいらっしゃい」と優しく居間へ招き入れたのだった。

 

冷蔵庫から冷たいお茶を取り出し、グラスに注いだ容子は、修治のカップ麺の脇にもトンとグラスを置いた。

 

早く食べて居間に入って来なさい、と目線で合図を送ったが、修治は知らん顔でスープをズズッと音を立ててすする。

 

居間に通された奈美は、ローテーブルの上に置かれた容子のタブレット端末に目を留めた。

 

画面には繊細なタッチで描かれた果物のデッサンが表示されている。

 

「……すてきだわ。これ、お義姉さんが描いたの?」

 

「この間からデザインスクールに通い始めたのよ。これでも学生の頃は美術部だったの」

 

グラスを手にした修治が、鼻で笑いながら居間に入ってくる。

 

「ヘタの横好きってやつだよ」

 

「絵のことわからない人に言われたくないわ」

 

「上手い絵はさっぱり分からんがね、どういうわけかヘタクソな絵だけは見れば一発で分かるんだよ」

 

「失礼ねえ、まったく」

 

「お前もあんまり褒めるなよ奈美。これ以上調子に乗られたら、この部屋が丸ごとアトリエになっちまう」

 

「お兄ちゃんたら……」

 

いつもの夫婦の軽妙なやり取りに触れて、奈美の固くなっていた表情がほんのわずかだけ緩んだ。

 

修治はお茶を一口で飲み干すと、真面目な顔つきになって奈美を直視した。

 

「……ところで、相談って何の話なんだ?」

 

「今日……和彦さんと逢ってたの」

 

「いよいよ和彦さんも年貢の納め時ってわけね」と容子が微笑む。

 

「で、どうしたんだ?」

 

奈美は膝の上で握りしめたスマホの画面を強く押し込み、消え入るような声で吐き出した。

 

「和彦さんね……結婚、延ばしたいって」

 

「「延ばす!?」」

 

修治と容子の声が完璧にハモった。

 

「結婚延ばすって、どういうことだよ!」

 

「だって奈美さん、結婚式まであと一ヵ月でしょ!?」

 

「……結婚する前に、どうしてもやっておきたいことがあるって」

 

「やっておきたいこと?」

 

「何を聞いても、何も答えてくれないの」

 

「何をやりたいのか知らんが、今頃になって言うことじゃないだろ!」修治の声が一気に熱を帯びる。

 

「……今のままじゃ、結婚してやっていく自信がないって」

 

奈美の言葉に、修治は一瞬口を噤んだ。

 

「今さらそんなこと言ってどうするんだ。結婚してやっていけるか不安がるのは分かるけどさ……俺たちだってこうして……」

 

修治は横目でチラリと容子を見ると、軽く咳払いをして言葉をごまかした。

 

容子は呆れたように溜息をつく。

 

「でも、今の時期にそういうこと言うのって、あまりに自分勝手すぎないかしら」

 

「……和彦さん、あたしのこと愛してないのかしら」

 

「ふたりとも愛してるから結婚しようと思ったんだろ?」

 

「でも……結婚延ばすってことは、もう愛してないってことじゃない?」

 

絞り出すような奈美の言葉に、居間の空気が重く沈んだ。

 

容子が膝を進め、優しく問いかける。

 

「奈美さんは……どうしたいの?」

 

「……延ばすって言われたからじゃないけど、自分の気持ちまで分からなくなっちゃった」

 

修治は頭をかきむしった。

 

「とにかく、ふたりで腹を割って話し合わなきゃダメだよ」

 

「何言ってるのよ」容子が修治の脇腹を突く。

 

「話し合いができれば、奈美さんここに相談に来てないわよ」

 

修治は「あ、それもそうか」という顔をして黙り込んだ。

 

「あなたの方から和彦さんに逢って、話を聞いてみたらどうかしら」

 

「俺が!?」

 

「男同士の方話しやすいってこともあるでしょ」

 

容子と奈美の視線が、同時に修治に注がれる。

 

修治は逃げ場を失ったように、自分のグラスに残ったお茶を一気に煽った。

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『 しあわせの素顔 』

 

第一章 混濁する日常

 

手元のスマートフォンには、次々とSNSの通知が届いていた。

 

「多様性」や「自分らしい生き方」がこれ以上ないほど尊重される時代になっても、人生の大きな節目を前にした人間の戸惑いや葛藤は、そう簡単には消えてくれない。

 

むしろ選択肢が増えた分だけ、自分自身の足元が見えなくなる暗がりも、深く、濃くなっているのかもしれない。

 

朝の通勤ラッシュを迎えた都営バスの車内は、乗客たちの体温と、雨上がりの湿った衣服の匂い、そしてワイヤレスイヤホンから漏れ出るかすかな音楽の音で満ちていた。

 

揺れる通路の奥、窓際に身を寄せた村岡奈美(26)は、スマホの画面に指先を滑らせていた。

 

画面に表示されているのは、Notionで細かく管理している結婚準備のタスクリストと、スプレッドシートにまとめた結婚費用の詳細な予算表だった。

 

スマートフォンを叩く小さな電子音が、走行音に紛れていく。

 

「挙式・披露宴の予約金が二十万円、ドレスのフィッティングと仮押さえに十五万。

 

それに、ハネムーンの差額分と、当日のWEB招待状・動画制作の決済……」

 

奈美は声に出さず、ただ唇をかすかに動かしてアプリ上の数値に目を落としていた。

 

都内の印刷会社でデジタルトランスフォーメーション(DX)とシステム管理の部門に配属され、日々のデータ連携やシステムエラーの対処に追われて四年になる。

 

彼女にとって、画面に整然と並ぶ数字や整えられたデータベースは、裏切ることのない安心の基準だった。

 

バグを排除し、ロジック通りに処理を重ねていけば、必ず正しい答えに辿り着く。

 

そして今、彼女の人生の中で最も大きなプロジェクト――「平山和彦との結婚」もまた、正しく計算され、決められた予算とスケジュールという論理の枠内に収められていくことで、揺るぎない現実になろうとしていた。

 

ふと隣の座席に目をやると、スーツ姿の女性がスマホでInstagramの投稿をスクロールしているのが見えた。

 

『ふたりらしい結婚式を叶える、最新ウエディングスタイル。妥協したくないプロポーズ後のロードマップ』

 

画面には、自然光がやわらかく差し込むモダンなチャペル、洗練されたドライフラワーで彩られたバンケット、そしてシックなタキシードとドレスに身を包んだカップルの洗練された写真が流れていく。

 

奈美は無意識のうちに首を傾け、その画面をのぞき込んだ。

 

胸の奥から、じんわりと温かい高揚感が湧き上がってくる。

 

――和彦さんと、夫婦になる。

 

その事実を心の中で反芻するだけで、どんよりと曇り空の広がる首都高の無機質高架も、祝福の色を帯びて見えた。

 

平山和彦、二十八歳。中堅の商社で堅実に働く男。

 

マッチングアプリを通じて知り合い、付き合って三年になる。

 

派手なサプライズや気の利いたSNS投稿が得意なわけではないが、穏やかで、不器用なまでに誠実な人柄だった。

 

彼の隣で「妻」として生きていく未来を想像するたび、奈美の胸は温かい満足感で満たされた。

 

自分は正しい選択をし、着実に「幸せ」というゴールへ向かって歩いているのだと信じて疑わなかった。

 

だが、同じ時刻。

 

都心を離れ、多摩川の鉄橋を渡る私鉄の電車の中で、平山和彦はまったく違う色の風景を見つめていた。

 

日曜日の車内は、行楽へ向かう家族連れやカップルでごった返していた。

 

ドア付近に押されるように立たされた和彦のスーツの肩に、小さな男の子のリュックサックが何度もコツコツと当たる。

 

男の子のすぐ横では、疲れ切った顔の父親が、吊り革に片手を預けながら抱っこ紐の子どもをあやすようにゆらゆらと揺れていた。

 

男のワイシャツの襟元は少しヨレており、その横顔には長年の日常に磨り減らされた疲労が深く刻まれている。

 

和彦の視線は、その父親の横顔から、ガラス窓の向こうへと移っていった。

 

鉄橋の下を流れる灰色の水面。遠くに見える新興住宅街の並ぶ屋根。

 

二十八歳。このまま会社で相応の立場を得て、奈美と結婚し、ペアローンを組んで郊外のタワーマンションを買い、子どもを育て、目の前の父親と同じように満員電車に揺られながら歳をとっていく。

 

それが世間で言う「一人前の幸せ」であり、誰もが疑うことのない正解の軌道であることは、痛いほど理解していた。

 

しかし、車窓のガラスに映り込んでいる自分の顔は、驚くほど暗く、冷めきっていた。

 

胸の奥底で、学生時代からくすぶり続けている小さな火種。

 

首から下げた愛用のレンズ交換式デジタルカメラの冷たい感触が、シャツの上から胸を圧迫していた。

 

光と影の交錯する一瞬を切り取っている時のあの胸の高鳴り。

 

ファインダー越しに見つめた世界は、いつだって生々しく、自分という存在を確かめさせてくれた。

 

しかし現実の自分は、オフィスで無味乾燥な書類とExcelのシートに向き合い、他人の人生のレールをただなぞっているだけだ。

 

その問いを無視して蓋をしてきた代償が、結婚という人生の節目を前にして、静かに全身へ回っていた。

 

和彦は無意識のうちに、奥歯を強く噛み締めた。

 

◇

 

その日の夕刻、和彦は逃げるように会社を出て、あてもなく古い商店街へと足を進めていた。

 

手に提げた鞄の底には、重たいオールドレンズが眠っている。

 

夕陽が古びた喫茶店の木枠の扉を飴色に照らしていた。

 

和彦は引き寄せられるようにカメラを取り出し、ファインダーを覗き込んだ。

 

光と影が重なり合う瞬間を夢中で追ううち、和彦はゆっくりと後ずさりしていた。

 

――ドツン、と硬い衝撃。

 

「痛ってぇなぁ!」

 

ガラのかすれた怒声が響いた。

 

通りかかった商店街の若者三人組だった。

 

和彦は慌てて深く頭を下げた。

 

「すみません! 不注意でした、お怪我はありませんか!」

 

「おいおい……謝って済むと思ってんのか? けどよ、いいカメラ持ってるじゃねえか。……そのカメラで勘弁してやらあ」

 

若者が手を伸ばし、胸元のカメラのストラップを力任せに引っ張る。

 

和彦は咄嗟にカメラを両手で抱え込んだ。

 

「渡せません! 謝っているじゃないですか!」

 

身を翻して無我夢中で駆け出した和彦だったが、後ろを振り返る焦りから足元が乱れ、路地裏の軒下にあった店舗の扉へ――背中から猛烈な勢いで激突した。

 

ガシャーーーーン!!!

 

古い居酒屋の木枠の引き戸が激しく振動し、立てつけの悪いガラスが大きな音を立てて鳴り響いた。

 

肘と背中に強い衝撃と激痛が走り、和彦はその場にへたり込んだ。

 

カメラだけは必死に胸元でかばい続けたが、破れたシャツの肘から血が滲み出していく。

 

追いついてきた若者たちが冷笑を浮かべて、「逃げきれると思ってんのかよ」とへたり込む和彦のカメラへ手を伸ばそうとした、まさにその瞬間だった。

 

ガララッ!! と勢いよく引き戸が開いた。

 

「おいコラァ!! 店のドアになにぶつけてやがんだ!!」

 

雷のような怒声が商店街のアーケードに炸裂した。

 

飛び出してきた声の主は、居酒屋「吉野」の大将だった。

 

腕まくりされた丸太のように太い腕、深く刻まれた眉間のシワ、鋭い眼光。

 

店を揺るがす大音量に怒り心頭で表に出てきた大将の圧倒的な威圧感に毒気を抜かれ、若者たちは舌打ちを残して蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。

 

「ったく……大丈夫かい、兄さん」

 

戸惑いながら頭を下げる和彦に、大将の手招きと、奥から出てきた割烹着姿の女将さんの温かな声がかけられた。

 

「まあまああなた、怪我してるじゃないの。上がりなさい」

 

導かれるように、和彦は吸い込まれるように紺色の暖簾をくぐった。

 

居酒屋「吉野」。

 

そこは、赤橙色の光と出汁の香りが満ちる、小さな聖域だった。

 

オキシドールが傷口に沁みる痛みに耐えながら、和彦は店内に飾られた写真に目を見張った。

 

山野草や美しい風景の写真。

 

それらは大将の手によるものだった。

 

「兄さん、カメラが好きなんだろ? 目を見れば分かる」

 

手当てを受けながらカメラ談義に花を咲かせるうち、和彦の胸にあった重たい澱が、ゆっくりとけていくようだった。

 

しかし同時に、和彦の頭の片隅には、明日奈美と約束している「結婚式場の予約」のスケジュールが、重く冷たくのしかかっていた。

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『 花びらの積もる道 』

 

最終章 花びらの積もる道

 

 翌年の春、桜は四月の初めに満開になった。

 

 順子の店は、名前のないまま続いている。

 

 開ける日は週に三日で変わらない。客の少ない日もあれば、昼を食べる時間がなくなる日もあった。

 

 店の名を尋ねる人は、いつの間にかいなくなった。

 

 商店街では「順子さんのところ」で通じるようになっている。

 

 黄色い花は冬を越した。

 

 一度、葉を何枚か落としたが、春になると新しい芽を出した。

 

 洋子から電話があったのは、桜が見頃を迎えた朝だった。

 

「今日、予定どおり行きます」

 

「亨さんも?」

 

「ええ。去年、四人で行くと言うたでしょう」

 

「覚えていたのね」

 

「順子さんこそ、忘れてたんですか」

 

「忘れてはいないわ」

 

 亨が来ると聞き、順子は黄色い花の向きを直した。

 

 洋子が以前、こちらの方が日が当たると言って置いた向きである。

 

 店は休みにしていた。

 

 入口の紙には、臨時休業、と書いてある。

 

 千穂は、洋子たちより一本早い列車で来た。

 

「また早いのね」

 

「途中で遅れるよりいいでしょう」

 

「去年も同じことを言ったわ」

 

「そうだった?」

 

 千穂は店へ入り、窓辺の花を見た。

 

「大きくなったね」

 

「冬に枯れそうになったけど」

 

「水をやりすぎたんじゃないの?」

 

「やってないわよ」

 

「なら、寒かったのね」

 

 順子は千穂の顔を見た。

 

「今日、岡山へ帰るの?」

 

「夕方の電車で。明日は用事があるから」

 

「仕事?」

 

「違う」

 

 千穂は壁に掛けた布の端を直した。

 

「何?」

 

「職場の後輩と食事に行くの」

 

「後輩って、あなたが休んでいたときに仕事を引き受けてくれた人?」

 

「そう」

 

「二人で?」

 

「そうよ」

 

「本当なの、それ」

 

「嘘じゃないわよ」

 

「千穂、あなた」

 

「まだ食事に行くだけよ。先のことまで決めないで」

 

 千穂は順子に背を向けた。

 

 直す必要のない布を、もう一度直している。

 

「何を食べに行くの?」

 

「まだ決めてない」

 

「誘ったのは、どちら?」

 

「そこまで聞く?」

 

「聞くわよ」

 

「言わない」

 

 千穂が振り返った。

 

 少し照れた顔で笑っている。

 

 順子は、久しぶりにその笑い方を見た。

 

「そう」

 

「それだけ?」

 

「先のことまで決めるなと言ったのは、あなたでしょう」

 

「そうだけど」

 

「なら、食事をしてから考えればいいわ」

 

 千穂はしばらく順子を見ていた。

 

「お母さんも、変わったね」

 

「そうかしら」

 

「前なら、年齢も家族構成も聞いたわ」

 

「いまでも聞きたいわよ」

 

「聞かないの?」

 

「今日はね」

 

 店の外から、洋子の声がした。

 

「順子さん」

 

 ガラス戸の向こうで、洋子が手を振っている。

 

 その隣に亨がいた。

 

 順子と千穂が外へ出ると、洋子が言った。

 

「こちら、主人です」

 

「澤口亨です」

 

 亨が頭を下げた。

 

 順子も頭を下げた。

 

「初めまして。松山順子です」

 

 その言葉は、思っていたより静かに出た。

 

「初めまして」

 

 亨が答えた。

 

 千穂は二人を見ていた。

 

 初めてではない二人が、初めて会ったように挨拶をしている。

 

 嘘だと思えば、嘘だった。

 

 けれど、洋子の前にいる松山順子と澤口亨は、確かに初めて会う二人でもあった。

 

「あらためて、千穂です」

 

 千穂が亨へ頭を下げた。

 

「市役所では、お世話になりました」

 

「いえ、私は何も」

 

 四人が揃った。

 

 洋子だけが、ほかの三人の間に何があるのかを知らない。

 

 だが、そのことを確かめる者はいなかった。

 

「では、行きましょうか」

 

 洋子が言った。

 

 四人は店から歩いて鶴山公園へ向かった。

 

 道には、同じ方角へ歩く人が増えている。子どもの手を引く家族、弁当の包みを持った夫婦、杖をつきながら坂を上る人。

 

 石段の手前で、洋子が桜を見上げた。

 

「下からでも、よう見えますね」

 

「上はもっと咲いてるわよ」

 

「急がんでも、桜は逃げませんよね」

 

「花は逃げないけど、人が増えるわ」

 

 順子が言うと、洋子は笑った。

 

「やっぱり急ぎましょう」

 

 石段を上るにつれ、城下の町が少しずつ低くなった。

 

 石垣の上から桜の枝が張り出している。風が吹くたび、花びらが人の肩や髪へ落ちた。

 

 洋子は何度も足を止めた。

 

「去年より多い気がします」

 

「去年も同じくらいよ」

 

「一年たったから、忘れたんでしょうか」

 

「なら、来年も新しく見られるわね」

 

「それは得ですね」

 

 千穂が洋子の肩についた花びらを取った。

 

「ついてました」

 

「ありがとう。千穂さんには?」

 

「私も?」

 

「背中についてます」

 

 洋子が千穂の背中へ手を伸ばした。

 

 二人が少し先を歩いていく。

 

 順子と亨は、数歩遅れて並んだ。

 

「店は、続いているんですね」

 

 亨が言った。

 

「ええ」

 

「よかったです」

 

 しばらく、二人は黙って歩いた。

 

「千穂は、元気になりました」

 

 順子が言った。

 

 亨は、前を歩く千穂を見た。

 

「そうですか」

 

「仕事も続けています。このごろ、よく笑うようになりました」

 

「よかった」

 

「職場に、気にかけてくれる人もいるみたいです」

 

 亨はもう一度、千穂の背中を見た。

 

「そうですか」

 

「ええ」

 

 前を歩いていた洋子が振り返った。

 

「二人とも、遅いですよ」

 

「いま行くわ」

 

 順子が答えた。

 

 亨は先に歩き、洋子の隣へ戻った。

 

 順子も千穂の横へ並んだ。

 

 四人は、同じ速さでは歩かなかった。

 

 洋子が花を見つけて立ち止まり、亨が待つ。千穂が人の流れを避けて先へ進み、順子があとから追いつく。

 

 離れては並び、また少し離れた。

 

 それでも、誰も急がせなかった。

 

 上まで歩くと、石垣の向こうに城下の町が広がっていた。

 

 遠くの山は春霞の中にある。

 

「来てよかった」

 

 洋子が言った。

 

 誰へ向けた言葉なのかは分からなかった。

 

「ええ」

 

 順子は答えた。

 

 四人はしばらく、町を見下ろした。

 

 帰りの坂道には、散った花びらが重なっていた。

 

 踏まないように歩くことはできない。

 

 人が通るたび、花びらは靴の下で動き、道の端へ寄っていく。

 

 公園を出たところで、千穂が順子の足元を見た。

 

「お母さん、靴に花びらがついてる」

 

 順子の靴の縁に、薄桃色の花びらが一枚、貼りついていた。

 

「取る?」

 

「いいわ」

 

 順子はそのまま歩き出した。

 

 洋子と亨が少し先で待っている。

 

 千穂が順子の隣へ並んだ。

 

 花びらは落ちなかった。

 

 順子はそれを靴につけたまま、三人と城下の町へ戻っていった。

 

   ( 完 )