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『 花びらの積もる道 』

 

第十二章 空いた店

 

 翌朝、順子が目を覚ますと、窓辺に置いた黄色い花へ日が当たっていた。

 

 洋子は、水をあげすぎないようにと言った。

 

 順子は土へ指を触れ、まだ湿っていることを確かめた。

 

 何もしないでおくことにも、加減がいる。

 

 寝室には、口を開けた段ボール箱が三つ並んでいた。

 

 残すもの、手放すもの、まだ決められないもの。

 

 昨夜は三つに分けた。以前なら、三つ目の箱ばかりがいっぱいになっただろう。

 

 順子は亨から受け取った手紙を鞄から出した。

 

 封を切ったのは、京橋から戻った夜だった。ひととおり読んだだけで、折り目を元に戻している。

 

 読み返すつもりはなかった。

 

 それでも捨てなかったのだから、いつか読むつもりだったのだろう。

 

 順子は手紙を食卓へ置き、湯を沸かした。

 

 千穂から電話がかかってきたのは、コーヒーを淹れた直後だった。

 

「昨日、ちゃんと帰った?」

 

「帰ったわよ」

 

「箱は開けた?」

 

「三つ」

 

「急に働くわね」

 

「あなたに言われたくないわ」

 

 千穂が少し笑った。

 

 以前と同じようで、以前とは違う笑い方だった。

 

「今日から、仕事に戻るのね」

 

「うん」

 

「大丈夫?」

 

「大丈夫かどうかは、戻ってみんと分からん」

 

「昨日も、同じことを言っていたわね」

 

「だから、間違えたら直す」

 

「それで疲れない?」

 

「前より確認は増えると思う」

 

「悪いことではないでしょう」

 

「お母さんまで上司みたいなことを言わないで」

 

 順子はコーヒーへ口をつけた。

 

「千穂、昨日のことなんだけど」

 

「何?」

 

「あのあと、洋子さんの店へ寄ったの」

 

 電話の向こうが静かになった。

 

「どうして?」

 

「顔を見ておきたかったのよ」

 

「何か話した?」

 

「私たちのことは、何も」

 

「そう」

 

「花を買ったわ」

 

「どんな花?」

 

「黄色い花」

 

 千穂は、それ以上すぐには尋ねなかった。

 

「黙っていられた?」

 

「ええ」

 

「苦しくなかった?」

 

 順子は窓辺の花を見た。

 

「苦しかったわ」

 

「それでも、話さなかったんだ」

 

「話さないと決めたから」

 

 自分で口にしてみると、立派な決意のように聞こえた。

 

 実際には、洋子の前で何度も言葉を飲み込んだ。少し油断すれば、亨という名前が口から出そうな気がした。

 

「正しかったと思う?」

 

「分からない」

 

「お母さんでも、分からないんだ」

 

「分からないことくらいあるわよ」

 

「前は、あまりそう言わなかったね」

 

 順子は返事をしなかった。

 

 千穂も答えを求めなかった。

 

「花の名前は?」

 

「聞くのを忘れたわ」

 

「花を買って、名前を聞かなかったの?」

 

「育て方は聞いたから大丈夫よ」

 

「写真を送って。調べるから」

 

「枯らす前に?」

 

「水をやりすぎなければ大丈夫」

 

「どうして、あなたまで同じことを言うの」

 

「花は大抵、水のやりすぎで駄目になるから」

 

 順子は、そう、と答えた。

 

 同じ言葉でも、誰が言ったかによって残り方が違う。

 

「お母さん」

 

「何?」

 

「洋子さんに会ったことを、話してくれてありがとう」

 

「隠すことではないでしょう」

 

「うん」

 

 千穂は短く答えた。

 

 順子には、その一言で十分だった。

 

 電話を切ったあと、食卓の手紙を開いた。

 

 亨の字は、大学時代より小さくなっている。線も細い。だが、ところどころ右上がりになる癖は変わらなかった。

 

〈あのとき、僕は自分の怖さを、あなたのためだと言い換えました〉

 

〈決めることをあなたに押しつけながら、決まったあとは、二人で決めたことのように振る舞いました〉

 

 順子はそこで手を止めた。

 

 亨は、言い訳を書いていなかった。

 

 若かったことも、怖かったことも、それだけなら言い訳になったはずだ。それを自分の卑怯さとして書いている。

 

 だからといって、順子の記憶が軽くなるわけではない。

 

 書かれた言葉が正しければ、起きたことまで正しくなるわけでもなかった。

 

 順子は手紙の先を読んだ。

 

〈あなたが許さないと言ったことを、そのまま受け取ります〉

 

〈許されないまま覚えておくことが、僕に残されたことだと思っています〉

 

 京橋で、順子は許さないと言った。

 

 いまも、その言葉を取り消すつもりはない。

 

 許さないという言葉は、亨を縛るためだけに口にしたのではなかった。許したふりをして自分を急がせないためでもある。

 

〈あなたの人生が、あの日より先へ続いていたことを、いまの僕は知っています〉

 

 手紙は、その一文で終わっていた。

 

 順子の人生は続いていた。

 

 東京へ行き、結婚し、千穂を産み、店を持った。夫を亡くしたあとも七年働き、店を閉じて津山へ戻った。

 

 あの日だけを抱えて生きてきたわけではない。

 

 だが、あの日を置いてきたわけでもなかった。

 

 続いてきた時間のなかに、どちらもある。

 

 亨の人生も、同じように続いてきたのだろう。

 

 洋子と暮らし、息子を育て、その息子はいま神戸で働いている。

 

 順子の知らない年月が、亨にもあった。

 

 順子は、その年月まで自分の記憶の中へ引き寄せたくはなかった。

 

 手紙を元の封筒へ戻し、大学時代のものとは別の小箱へ入れた。

 

 蓋はしなかった。

 

 午後、順子は商店街へ出た。

 

 買うものがあったわけではない。

 

 ただ、部屋にいると、洋子が花を包む姿ばかり思い出された。

 

 洋子は花の色を選び、日当たりを尋ね、水のやり方を教えた。話をしながらも、薄い紙を重ね、包み紙の端をきちんと折っていた。

 

 あれは、ただ手順を覚えている人の手つきではなかった。

 

 花が順子の部屋へ運ばれたあとまで考えている。

 

 順子は、洋子の働く姿をきれいだと思った。

 

 花が似合うからではない。

 

 目の前にいる人のために手を動かしている。そのことが、きれいだった。

 

 東京で店をしていたころの自分を思い出した。

 

 客の顔を見て、似合う服を選ぶ。迷っている人には別の色を出し、買わずに帰る人にも、またどうぞと言う。

 

 夫が亡くなったあとも、順子は七年間、店を開けた。

 

 あのころは、暮らすために続けていると思っていた。閉めてみて初めて、店に立つことで暮らしていたのだと分かった。

 

 洋子は、店を始めろとは言わなかった。

 

 何かを勧めたわけでもない。

 

 ただ、花屋で働いていた。

 

 その姿を見たあとでは、段ボール箱を片づけるだけで、自分のこれまでが片づくとは思えなくなっていた。

 

 以前ブティックだった店の前で、順子は足を止めた。

 

 閉店してから長く、ガラス戸には内側から紙が貼られていた。数日前、その紙が外され、中が見えるようになっている。

 

 空いた店内には、壁際の棚が二つ残っていた。床には、什器を置いていた跡が薄く四角くついている。

 

 順子が見ていると、隣の履物店から店主が出てきた。

 

「借り手を探しとるんですよ」

 

「ここ、空いたんですか」

 

「先月でな。若い人が何かしてくれたらええんじゃけど」

 

「若くない人では駄目なの?」

 

 店主は順子の顔を見た。

 

「何かするんですか」

 

「まだ、何も」

 

「何もせん人は、そんな顔で中を見ませんよ」

 

「どんな顔をしていたのかしら」

 

「家賃を聞こうかどうしようか、考えとる顔です」

 

 順子は笑った。

 

「おいくら?」

 

「ほら、聞いた」

 

 店主は履物店へ戻り、帳面を持ってきた。

 

 家賃は、東京で借りていた店の五分の一にも満たなかった。広さは三分の一ほどである。

 

「何を置くんです?」

 

「まだ決めていないの」

 

「服ですか」

 

「もう、仕入れて売る店はしないわ」

 

 言ってから、順子は自分がすでに一つ決めていたことに気づいた。

 

 以前と同じ店にはしない。

 

 それだけは決まっている。

 

「中、見ますか」

 

 店主が鍵を取りに戻った。

 

 順子はガラス越しに空いた店を見た。

 

 店を持てば、昔の自分へ戻れるわけではない。

 

 戻りたいとも思わなかった。

 

 それでも、誰かの前に立ち、手を動かし、その人のために何かを選ぶ時間を、もう一度持ってみたいと思った。

 

 店主が鍵を持って戻り、ガラス戸を開けた。

 

 閉め切っていた匂いが外へ流れた。

 

「電気は来とります。水道は奥。便所は共同です」

 

 順子は中へ入った。

 

 表から見るより狭い。

 

 それでも、奥まで歩くと、壁一面に布を掛けられることが分かった。棚には小物を置ける。窓辺なら、鉢植えも一つ置けそうだった。

 

「すぐには決めませんよ」

 

「もちろん」

 

「娘にも相談します」

 

「そうしてください」

 

 店主は急がせなかった。

 

 順子は店の中央に立った。

 

 東京の店を再現するつもりはない。

 

 昔の自分へ戻るつもりもなかった。

 

 戻らずにできることがあるかもしれない。

 

「一週間、待ってもらえますか」

 

「その間に若い人が来たら、そちらを優先してもええですか」

 

「ええ」

 

「冗談ですよ。ずっと空いとりますから」

 

「商売が上手なのか、下手なのか分からないわね」

 

「貸す方も、相手を見ますから」

 

 順子はもう一度、店の中を見回した。

 

 何を置くかは決まっていない。

 

 誰を呼ぶかも、まだ分からない。

 

 ただ、何もない場所には、何かを置く余地がある。

 

 それは、空っぽであることとは少し違った。

 

 帰り道、千穂へ電話をかけた。

 

「いま、話せる?」

 

「大丈夫。どうしたの」

 

「商店街に空いている店があるの」

 

「店?」

 

「小さいけれど」

 

「借りるの?」

 

「まだ決めていないわ」

 

「何をするの?」

 

「それも、まだ」

 

 電話の向こうで、千穂が黙った。

 

「止めないの?」

 

 順子が尋ねると、千穂は息をついた。

 

「止めてほしいの?」

 

「そういうわけではないけど」

 

「なら、自分で決めたら」

 

 少し前までの千穂なら、家賃や契約期間や採算を先に尋ねただろう。

 

「ただし、契約書は私にも見せて」

 

「やっぱり、そこは確認するのね」

 

「確認して困ることはないでしょう」

 

「それはそうね」

 

「決める前に見せて」

 

「分かったわ」

 

「お母さん」

 

「何?」

 

「何をするか決まったら、一番に教えて」

 

「決まればね」

 

 電話を切り、順子は家へ戻った。

 

 窓辺の黄色い花は、朝と同じ場所にある。

 

 土はまだ湿っていた。

 

 順子は水をやらなかった。

 

 何もしないまま、しばらく花を見ていた。

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『 花びらの積もる道 』

 

第十一章 知ったまま

 

 三人で別れたあと、順子と千穂は遅い昼食を取った。

 

 二人とも多くは話さなかった。

 

 千穂は料理を半分ほど食べたところで箸を止め、順子に促されて、残りを少しずつ口へ運んだ。

 

 店を出たところで、千穂が言った。

 

「少し歩きたいの」

 

 順子は津山へ戻る列車まで一緒にいると言ったが、千穂は断った。

 

 母は何か言いたそうにしていたが、引き止めなかった。

 

 千穂は振り返らずに歩いた。

 

 亨が母に頭を下げたことも、母が許さないと言ったことも、三人だけの話にすると自分で決めたことも、まだ身体の中へ収まっていない。

 

 それでも、洋子へ知らせなければならないという思いは消えていた。

 

 消えたというより、置く場所が変わったのかもしれない。

 

 以前の千穂は、知らされなかった自分のために怒っていた。いまは、知らされたあとの洋子を考えている。

 

 どちらが正しいのかは分からない。

 

 ただ、自分の痛みを理由に、別の女性を同じ場所へ立たせることだけはしたくなかった。

 

 千穂と別れたあと、順子は表町へ向かった。

 

 津山へ戻る列車には、まだ時間がある。

 

 洋子の働く花屋の前まで来ると、店先には白い花と淡い桃色の花が並んでいた。

 

 順子は少し離れた場所で足を止めた。

 

 先ほど、自分は洋子に何も知らせないと決めた。

 

 その決心を確かめるために来たのだと言えば、聞こえはよい。

 

 本当は、洋子の顔を見たかった。

 

 何も知らない人の前で、それまでと変わらずにいられるのか。自分を試そうとしている。

 

 順子は店へ入った。

 

「いらっしゃいませ」

 

 洋子は花を包んでいた手を止め、顔を上げた。

 

「あら、順子さん」

 

 その笑顔は、鶴山公園で別れたときと変わらなかった。

 

「岡山へ来てたんですか」

 

「少し用事があって」

 

「寄ってくださったのね」

 

 洋子はうれしそうに言った。

 

 その声を聞き、順子は自分が試す相手を間違えていたと思った。

 

 洋子を見て黙っていられるかどうかではない。最初から、この人を試してよい理由などなかった。

 

「何か、お探しですか」

 

「部屋に置く花を」

 

「どんな色がいいでしょう」

 

「明るい色がいいわ」

 

「では、こちらはどうですか」

 

 洋子が選んだのは、黄色の花だった。

 

「順子さんのお部屋、日当たりはいいですか」

 

「午前中は入ります」

 

「なら、窓辺でも大丈夫です。お水はあげすぎないようにしてくださいね」

 

 洋子は花を包みながら、鶴山公園の話をした。

 

「この前は、順子さんに案内してもろうたでしょう。今年の桜は、もう終わりました?」

 

「いまは葉桜よ」

 

「やっぱり、花の時期は短いね」

 

「短いから、人が見に行くのかもしれないわ」

 

「来年も行ってええですか」

 

「もちろん」

 

「今度は、千穂さんも誘いましょう」

 

「千穂を?」

 

「展示でお世話になったのに、仕事の話しかしたことがありませんから」

 

「そうね。あの子も、たまには花を見る方がいいわ」

 

「仕事ばかりなんですか」

 

「自分では、そう思っていないみたいだけど」

 

 洋子は笑った。

 

「親から見たら、子どもはいつまでも働きすぎるんでしょうね」

 

「洋子さんには、お子さんは?」

 

「ええ。息子が一人。神戸の会社で働いています」

 

「もう、こちらにはいないのね」

 

「ときどき帰ってきます。帰ってきても、ほとんど寝てますけど」

 

「男の子は、そんなものかもしれないわね」

 

「順子さんのところは、娘さんでしょう。話し相手になってくれてええですね」

 

「話し相手というより、注意する相手だと思っているみたい」

 

「親から見たら、子どもはいくつになっても心配ですから」

 

 洋子が息子のことを話す目は、千穂のことを話すときの自分と同じ、母親の目だった。

 

 順子はあらためて思った。

 

 千穂に知られてしまった亨との過去を、この人にまで背負わせてはならない。

 

 それは洋子を何も知らない場所へ置いておくためだけではなかった。

 

 洋子が母親として生きてきた時間も、亨と築いてきた暮らしも、順子たち三人の過去とは別のところにある。

 

 その時間へ、自分から踏み込んではならないと思った。

 

 洋子は花の包みを順子へ渡した。

 

「また来てくださいね」

 

「ええ」

 

「今度は、何か買う用事がなくても」

 

「花屋へ来て、何も買わないの?」

 

「話をして帰るお客さんもいます」

 

「商売にならないわね」

 

「毎日やったら困りますけど、順子さんなら、ときどきは」

 

 順子は黄色い花を受け取った。

 

「では、ときどきにするわ」

 

 何も話さなかった。

 

 それでも、嘘をついたとは思わなかった。

 

 話さないことと、なかったことにするのは違う。

 

 その違いを、自分の中で守らなければならない。

 

 順子が津山の部屋へ戻ったのは、夜になってからだった。

 

 黄色い花を窓辺へ置く。

 

 寝室には、五つの段ボール箱が積まれたままになっている。

 

 順子は一番上の箱を床へ下ろし、蓋を開けた。

 

 ブティックの帳簿や、店で使っていた布が入っている。手に取ったものを、残すものと手放すものに分けていった。

 

 一箱目を終えると、二箱目を開けた。

 

 夫の服が入っている。

 

 順子は一枚ずつ広げた。

 

 亡くなった人の服を手放すことは、その人を忘れることではない。

 

 そう思えるまでに、八年かかった。

 

 残すものを選び、ほかは畳み直した。

 

 三箱目には、大学時代の手帳と亨の古い封筒が入っている。

 

 順子は封筒を取り出し、しばらく見た。

 

 京橋で受け取った新しい手紙は、まだ鞄の中にある。

 

 古い封筒を、新しい手紙のそばへ置く気にはなれなかった。

 

 順子は大学時代の手帳と病院の領収書、古い紙幣を小さな箱へ移した。

 

 捨てるためでも、誰かに見せるためでもない。

 

 今度は、自分がどこへ置いたのかを知っておくためだった。

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『 花びらの積もる道 』

 

第十章 三人

 

 順子から電話があったのは、千穂が二日目の休暇を終えようとしていた夕方だった。

 

 千穂は起きたまま、寝床に座っていた。

 

 窓の外では、向かいの建物の明かりが一つずつつき始めている。

 

「明日、岡山へ行きます」

 

 挨拶のあと、順子はすぐに言った。

 

「どうして?」

 

「亨と話しました」

 

 千穂は携帯電話を耳から少し離した。

 

 母が亨を名前で呼んだ。

 

「会ったの?」

 

「昨日、京橋の近くで」

 

「私には何も言わずに?」

 

「先に二人で話す必要があったから」

 

「何を話したの」

 

「あなたのことよ」

 

「私のことなのに、私はあとなんだ」

 

「あなたの前で、四十数年前の喧嘩を始めたくなかったの」

 

「喧嘩したの?」

 

「少し」

 

「少しで済んだんだ」

 

「千穂」

 

 順子は声を強くしなかった。

 

「明日の午後、三人で会いませんか」

 

「どうして私が」

 

「あなたが、仕事を休むことになったから」

 

「二人で話して、もう終わったんでしょう」

 

「終わってないわ」

 

「だったら、私を入れないで」

 

「来るかどうかは、あなたが決めればいい」

 

 順子はそこで言葉を切った。

 

「でも、私と亨は、あなたに話さなければならないと思っています」

 

「何を?」

 

「私たちのことを、あなたが代わりに引き受けなくていいということを」

 

「言われたら、忘れられるの?」

 

「忘れなくていい」

 

「では、何のために会うの」

 

「知らなかった頃には戻れないでしょう。戻れないなら、知ったまま、どこへ置くかを考えるしかないから」

 

「二人で置き場所を決めたの?」

 

「決めてないわ」

 

「また、私に決めさせるんだ」

 

「そう聞こえたなら、ごめんなさい」

 

 千穂は枕元に置いた腕時計を見た。止まっているように見えたが、秒針は動いていた。

 

「明日の二時に、京橋の近くにいます」

 

「行かなかったら?」

 

「帰ります」

 

「澤口さんも?」

 

「ええ」

 

「二人で待つの?」

 

「そうなるわね」

 

 千穂は、母と亨が並んで自分を待つ姿を思い浮かべた。

 

 四十数年会わなかった二人が、自分を待つために同じ場所へ立つ。

 

「分かった」

 

 千穂は言った。

 

「行く」

 

 翌日の午後、千穂は約束より十分ほど遅れて京橋へ着いた。

 

 遅れようとしたわけではない。

 

 自宅を出る前、何度も鞄の中を確かめた。携帯電話を持ったか。鍵を掛けたか。火を使っていないか。

 

 建物を出たあと、もう一度戻って鍵を確かめた。

 

 掛かっていた。

 

 順子と亨は、旭川沿いのベンチから少し離れた場所に立っていた。

 

 二人の間には、人が一人入れるほどの距離がある。

 

 近くもなく、遠くもなかった。

 

「遅くなってごめん」

 

「来てくれただけでいいわ」

 

 順子が答えた。

 

 亨は頭を下げた。

 

「休んではるところ、すみません」

 

「今日まで休みなんです」

 

 千穂の声が硬くなった。

 

「誰のせいとは言いませんけど」

 

 亨は言い返さなかった。

 

 三人は川沿いのベンチへ移った。

 

 順子が端に座った。

 

 千穂は母との間を一人分空けて座り、亨は反対の端へ腰を下ろした。

 

 三人の間には、それぞれ一人分ずつの空きがあった。

 

 旭川には、午後の光が細かく揺れている。

 

「何を話すの」

 

 千穂が尋ねた。

 

 順子と亨は一度、互いを見た。

 

「私から話すわ」

 

 順子が言った。

 

「あなたが箱の中を見つけたとき、あなたには関係のないことだと言いました」

 

「うん」

 

「あれは違った」

 

 千穂は母を見た。

 

「あなたは私の娘だから、まったく関係がないとは言えない」

 

「では、関係があるんでしょう」

 

「あるわ」

 

「昨日は、ないと言った」

 

「間違えたのよ」

 

「お母さんも間違えるんだ」

 

「よく間違えるわ。あなたに言わないだけで」

 

 千穂は少しだけ口元を動かした。

 

「でも」

 

 順子は続けた。

 

「あなたに関係があることと、あなたが何かをしなければならないことは、同じではない」

 

「言葉を変えただけに聞こえる」

 

「そうかもしれない。でも、聞いて」

 

 順子は膝の上で両手を重ねた。

 

「私が妊娠したこと。産まないと決めたこと。一人で病院へ行ったこと。亨を許していないこと。それは、私と亨の間にあることです」

 

「でも、お母さんは一人だった」

 

「一人だったわ」

 

「澤口さんは来なかった」

 

「来なかった」

 

「だったら」

 

「あなたが、私の代わりにこの人を憎む必要はないの」

 

 千穂は亨を見た。

 

「私が憎んでるように見える?」

 

「見えるわ」

 

「お母さんの代わりじゃない。私が腹を立ててるの」

 

「それなら、腹を立てていい」

 

「どっちなの?」

 

「私のために腹を立てているなら、やめてほしい。でも、あなたが自分で腹を立てているなら、私にはやめさせられない」

 

「ずるいね」

 

「そうね」

 

 順子は否定しなかった。

 

「私も、どう渡せばいいのか分からないのよ」

 

「お母さんが渡したんじゃないでしょう。私が見つけた」

 

「そうね」

 

 順子は同じ言葉を繰り返した。

 

「それも、間違えた。私が話す前に、あなたに見つけさせた」

 

「わざとじゃないでしょう」

 

「わざとでなければ、間違いにならないの?」

 

 千穂は答えなかった。

 

 川から来た風が、三人の足元を通った。

 

 順子のスカートの裾が揺れた。

 

「澤口さんは?」

 

 千穂が尋ねた。

 

 亨は膝の上で組んだ手をほどいた。

 

「僕は、あなたのお母さんが一人で決めるしかない場所から、逃げました」

 

「母は、来なくていいと言ったんでしょう」

 

「言われました」

 

「だったら」

 

「ほんまに行くつもりやったら、病院の近くまで行けたと思います。順子に会うなと言われたら、外で待つこともできた」

 

「どうして行かなかったんですか」

 

「怖かったからです」

 

「何が?」

 

「順子の顔を見ることも、その日に失うものを見ることも、自分が責任を持つことも」

 

「それで、あとから半分のお金を送った」

 

「はい」

 

「半分で済むと思ったんですか」

 

「金を払わなあかんとしか、考えられませんでした」

 

「母は使わなかった」

 

 亨は順子を見なかった。

 

「昨日、聞きました」

 

「ずっと持ってたんです」

 

「はい」

 

「どう思いました?」

 

 亨は膝の上の手を見た。

 

「捨てられへんものを、僕が送ったんやと思いました」

 

「お金を?」

 

「お金も、その手紙も」

 

「後悔した?」

 

「しました」

 

「四十数年?」

 

「毎日やありません」

 

 千穂は顔を上げた。

 

 亨は続けた。

 

「忘れてた日もあります。仕事をして、洋子と暮らして、別のことを考えてた日もようけあります」

 

「よく、そんなことを言えますね」

 

「ずっと苦しんでたと言うたら、嘘になるからです」

 

 千穂は亨を見た。

 

 長く苦しんできたと言って泣かれたら、もっと腹が立ったかもしれない。

 

 だからといって、忘れていたと言われて楽になるわけでもなかった。

 

「謝ったんですか」

 

「昨日、謝りました」

 

「それで?」

 

「聞きました」

 

 順子が答えた。

 

「許したの?」

 

「許してないわ」

 

「では、何が変わったの」

 

 順子は川を見た。

 

「この人が、来なかった人であることは変わらない」

 

 亨が静かにうなずいた。

 

「でも、この人が、あの日だけでできているわけではないことも分かった」

 

「許してないのに?」

 

「許さないまま、そう思ったの」

 

 千穂は二人を交互に見た。

 

「よく分からない」

 

「私も昨日、初めてそう思ったばかりだから、うまく説明できないわ」

 

「お母さんが説明できないのに、私に分かるわけないでしょう」

 

「そうね」

 

 順子は少し笑った。

 

「では、いまは分からないままでいいんじゃない?」

 

 千穂は笑わなかった。

 

 ただ、鞄の中を確かめたくなる気持ちが、少しだけ遠のいた。

 

「私は、順子がそのあと幸せだったのか、知りたいと思ってました」

 

 亨が言った。

 

「どうして?」

 

 千穂が尋ねた。

 

「幸せやったら、自分が少し安心できると思うてたからです」

 

「それの何が悪いんですか」

 

「さあ」

 

 亨は川へ目を向けた。

 

「悪いと言い切れるかどうかは、僕にも分かりません。ただ、順子が幸せやったら、自分のしたことが少し軽うなると思うてました」

 

「軽くなったんですか」

 

 今度は順子が尋ねた。

 

「いいえ」

 

「私は幸せでした」

 

 順子は言った。

 

 亨を見ず、千穂を見た。

 

「お父さんと暮らしたことも、あなたを産んだことも、店をしていたことも」

 

「でも、私が生まれたとき、思い出したんでしょう」

 

「思い出したわ」

 

 順子は同じ答えを返した。

 

「それでも、あなたを代わりだと思ったことはない」

 

「どうして、二つに分けられるの」

 

「分けてないのよ」

 

「では、同じなの?」

 

「同じでもない」

 

「また言葉の話?」

 

 千穂は苛立った。

 

 順子は膝の上の手をほどいた。

 

「あなたが生まれた日のことを、話してもいい?」

 

「前にも聞いた」

 

「全部は話してないわ」

 

 千穂は答えなかった。

 

「あなたは髪の多い赤ちゃんだった。看護婦さんが、こんなに髪がある子は珍しいと言ったの」

 

「それは聞いた」

 

「指を一本ずつ数えた。右手を数えて、左手も数えた。それから、もう一度右手を数えた」

 

「どうして?」

 

「十本あると分かっても、また数えたくなったのよ」

 

 千穂は自分の右手を見た。

 

「お父さんは?」

 

「あなたの足を数えてた」

 

「二本でしょう」

 

「指よ。靴下を脱がせようとして、看護婦さんに怒られた」

 

 千穂の口元が少し動いた。

 

「それで、あの子のことを思い出したの?」

 

「あなたの指を数えたときに」

 

「やっぱり」

 

「でも、数えていたのは、あなたの指よ」

 

 順子は千穂の手を見た。

 

「十本あったから、うれしかった。あの子を思い出したから、うれしくなかったわけではないの」

 

 千穂は手を握った。

 

 すぐに納得できたわけではない。

 

 ただ、母が数えたという指は、いまも自分の手についている。

 

「澤口さん」

 

 千穂が言った。

 

「はい」

 

「奥さんは、何も知らないんですよね」

 

 亨の表情が止まった。

 

「知りません」

 

「このまま、話さないんですか」

 

「いまは、そのつもりです」

 

「どうして?」

 

 亨は答える前に、順子を見た。

 

「私を見ないでください」

 

 順子が言った。

 

「洋子さんに話すかどうかは、あなたが決めることでしょう」

 

 千穂は母を見た。

 

「洋子さんって、鶴山公園を一緒に歩いた人?」

 

「そうよ」

 

「知ってたの?」

 

「昨日、亨から聞いたの」

 

「それで、何も言わなかったの?」

 

「いま言ったでしょう」

 

「そういう意味じゃない。澤口さんの奥さんだと知って、どうしたの」

 

「腹を立てたわ」

 

「それだけ?」

 

「帰ろうともした」

 

「帰らなかったんだ」

 

「あなたの話が残ってたから」

 

 千穂は亨へ顔を向けた。

 

「澤口さんは、母と奥さんが会ってることを知ってたんですか」

 

「知ってました」

 

「それなのに黙ってた」

 

「はい」

 

「なぜ?」

 

「言えば、二人の間にできたものを、僕と順子の過去に変えてしまうと思うたからです」

 

「それは、きれいな方の理由でしょう」

 

 順子が言った。

 

 亨はうなずいた。

 

「洋子に知られるのが怖かった。順子と洋子が会えへんようになるのも、自分が責められるのも怖かった」

 

「また怖かったんですね」

 

 千穂が言った。

 

「はい」

 

「怖いと言えば、何でも済むんですか」

 

「済みません」

 

「では、奥さんに話すんですか」

 

「いまは話しません」

 

「どうして?」

 

「話したら、自分が楽になる気がするからです」

 

「奥さんが知りたいかもしれないでしょう」

 

「そうかもしれません」

 

「知らないままにするのも、澤口さんが決めるんですね」

 

「そうです」

 

「矛盾してる」

 

「はい」

 

 千穂は眉を寄せた。

 

「そこで、はいと言われると腹が立つ」

 

「すみません」

 

「謝られても腹が立つ」

 

「亨」

 

 順子が言った。

 

「何も言わない方がいいわよ」

 

「黙られても腹が立つ」

 

 千穂が言った。

 

 三人は黙った。

 

 しばらくして、順子が笑った。

 

 声を立てたわけではない。

 

 だが、千穂には分かった。

 

「何がおかしいの」

 

「何をしても腹が立つんでしょう」

 

「いまはね」

 

「それなら、仕方ないわ」

 

 順子の口元には、まだ笑みが残っていた。

 

 亨も、わずかに俯いた。

 

「お母さんは、洋子さんに話さないの?」

 

「私からは話さない」

 

「どうして?」

 

 順子は川向こうを見た。

 

「洋子さんと私が鶴山公園で話したことまで、亨との昔のことにしたくないから」

 

「でも、洋子さんだけが何も知らない」

 

「そうね」

 

「不公平じゃない?」

 

「そうかもしれない」

 

「お母さんまで、それで済ませるの?」

 

「済ませてはいないわ」

 

 順子は鞄からハンカチを出した。風で目に埃が入ったらしく、目尻を押さえた。

 

「洋子さんは、夫婦でも知らないことはあると言ってた」

 

「だから、話さなくていいの?」

 

「そうではないわ」

 

「では、何?」

 

「分からないのよ」

 

 順子はハンカチを畳んだ。

 

「私に分かるのは、あの日、洋子さんが私を支えてくれたことだけ。花びらで滑ったとき、腕をつかんでくれた。それは、あの人が亨の妻だからしたことではないでしょう」

 

「そうだね」

 

「だから、その日のことは、そのままにしておきたい」

 

 千穂は川面を見た。

 

 風に揺れる光は、どれが昨日のものか分からない。

 

「私は、どうしたらいいの」

 

 千穂が尋ねた。

 

 順子も亨も、すぐには答えなかった。

 

「何も言わないんだ」

 

「あなたに黙っていてとは頼めないわ」

 

 順子が言った。

 

「でも、話してとも言えない」

 

「私が話したら?」

 

「そのときは、私が洋子に説明します」

 

 亨が答えた。

 

「私を責めない?」

 

「責めません」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

「私が洋子さんを傷つけても?」

 

 亨は口を閉じた。

 

「責めへんと言うたら、また、千穂さんが何をしてもええと僕が決めることになる」

 

「では、どうするんですか」

 

「説明します。千穂さんが話したことも、僕が黙ってたことも」

 

 千穂は二人を見た。

 

 誰も、正しい答えを持っていなかった。

 

 大人になれば分かることが増えると思っていた。母も亨も自分より長く生きているのに、分からないと言う。

 

 それが少し腹立たしく、少しだけ安心でもあった。

 

 川沿いを、自転車に乗った少年が通り過ぎた。

 

 三人の前でベルを鳴らし、振り返らず走っていった。

 

「明日から、仕事に戻ります」

 

 千穂が言った。

 

「大丈夫?」

 

 順子が尋ねた。

 

「大丈夫かどうかは、戻ってみんと分からん」

 

「無理はしないで」

 

「間違えたら、直す」

 

 千穂は亨を見た。

 

「澤口さんの絵の返却は、もう終わりましたから」

 

「お世話になりました」

 

「次に市役所から連絡があっても、母の話はしないでください」

 

「分かりました」

 

「仕事として会ってください」

 

「そうします」

 

 千穂は立ち上がった。

 

 順子も立ち、少し遅れて亨が立った。

 

「お昼、食べた?」

 

 順子が千穂へ尋ねた。

 

「まだ」

 

「もう三時近いでしょう」

 

「食べる気がしなかったから」

 

「何か食べましょう」

 

「いらない」

 

「休みの日まで、何も食べないつもり?」

 

「お母さんは、すぐ食べさせようとするね」

 

「それしか、できないからよ」

 

 順子は亨を見た。

 

「あなたは?」

 

「私は」

 

「誘っているわけではありません」

 

「分かってます」

 

「では、そこで迷わないでください」

 

 亨は少し笑った。

 

「帰ります」

 

「そうしてください」

 

 亨は二人へ頭を下げ、歩き始めた。

 

 途中で一度、振り返った。

 

 順子は千穂の鞄の中をのぞいていた。

 

「財布、持ってるの?」

 

「持ってるよ」

 

「さっきから鞄を何度も見てるから」

 

「もう確認しなくていい」

 

「何を食べる?」

 

「何でもいい」

 

「それが、いちばん困るのよ」

 

 母娘の声が、風に乗って届いた。

 

 亨は前を向いた。

 

 順子と千穂は、亨と反対の方角へ歩き始めた。

 

 誰も過去から飛び去ったわけではない。

 

 京橋のそばには、三人が座っていた空のベンチが残った。

 

 人一人分ずつ空けて座った跡は、もう見えなかった。