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『 しあわせの素顔 』

 

第二章 決裂のブライダルサロンと兄夫婦の夜

 

午後一時過ぎの池袋。

 

秋晴れの太陽がデパートのガラス張りの壁面に照りつけ、目抜き通りを往来する人々の影を短く深く切り取っていた。

 

デパートのブライダルサロンがある階から逃げるように自動ドアを潜り抜けてきた和彦の背中は、大きく、そして異様なまでに強張っていた。

 

その数歩後ろを、高いヒールを鳴らしながら必死に追いかける奈美の足取りが乱れる。

 

「ちょっと待ってよ、カズ!」

 

奈美の声が秋空に響いたが、和彦は一度も振り返らなかった。

 

人混みを縫うように、ただまっすぐ、大股で歩道を突き進んでいく。

 

「ちょっと待ってったら!」

 

奈美は息を切らせて走り込み、和彦の前に回り込んで立ちふさがった。

 

突然目の前を遮られた和彦は、ハッと足を止めた。

 

奈美は両手を膝に置き、乱れた息を整えながら彼の顔を見上げた。

 

昨夜、肘に怪我を負って遅く帰ってきた和彦の腕には、小さな絆創膏が貼られたままだった。

 

「……聞こえないの? 何回も呼んだじゃない」

 

「……」

 

「そんなに、あの結婚式場がいやだった? いきなり立ち上がってあんなところ飛び出してきちゃうんだもの……あたし、びっくりしちゃったわよ」

 

和彦は黙ったままだった。

 

彼の視線は奈美の顔を避け、数センチ上にある街頭ディスプレイの鮮やかな映像のあたりをさまよっている。

 

「この間から、『あそこでいいの?』って何度も聞いてたのに、カズは何も返事しなかったじゃない。だから、あたし決まりなんだって思ってたの。今どき、ハネムーンまでセットになってて、あのWEBプランであの内容の式場なんて他には絶対ないんだから。無理言って今日まで予約を入れてもらってたんだから、手付け金をカードで決済しなきゃいけなかったのに……」

 

奈美の声には、怒りよりも、突如現れた裂け目を必死で埋めようとする焦燥が滲んでいた。

 

「あっ……わかった! ムービーの撮影を頼まなかったから怒ってるの? あれね、うちの会社の京子が『私、最新のミラーレス持ってるから撮らせて』って言ってくれてるの。だから安心して。ちゃんと綺麗な映像残せるから……」

 

「そうじゃないんだ」

 

低く、押し殺したような和彦の声が奈美の言葉を遮った。

 

「じゃあ……引き出物を、カズが言ってたあのスマートウォッチにしなかったから?」

 

「ナミ」

 

「うん……?」

 

「あのさ……話さなきゃならないことがあるんだ」

 

その声のトーンがあまりに重く、奈美の胸が嫌な音を立てて鳴った。

 

だが彼女は、自分を安心させるように、引きつった笑顔を無理やり作ってみせた。

 

「わかった! 結婚式は海外でしよう、って言いたいんでしょ?」

 

「いや……そうじゃない」

 

「ハネムーンで外国に行って、ただ観光するだけじゃつまんないもんね。一生の思い出にするなら、海外挙式もいいかなってあたしも思ってたところよ。カズも、やっぱりそっちがいいと思ったんでしょ?」

 

「……そうじゃないんだよ」

 

「えっ……?」

 

和彦はゆっくりと息を吐き出した。

 

指先でスマホを握りしめたまま、これまで逃げ続けていた自分を断ち切るように、奈美の瞳を真っ直ぐに見据えた。

 

その瞳の奥にある、冷たく固い「決意」の色を見た瞬間、奈美の頬から急速に色が失われていった。

 

「結婚……先に延ばしたいんだ」

 

街の喧騒が、潮が引くように遠ざかった。

 

通りを走る自動車の走行音も、すれ違う買い物客の笑い声も、すべてが分厚いガラスの向こう側の出来事のように感じられた。

 

「……先に延ばすって……どういうことよ」

 

絞り出した声が、自分のものではないように細く震えていた。

 

さっきまでバスの中でスマホを開き、完璧な未来の計画を立てていた自分が、遠い昔の幻のように思えた。

 

「今のままじゃ……結婚して、やっていける自信がないんだ」

 

「自信がないって……カズ、何言ってるの……?」

 

和彦はそれ以上、何も言わなかった。

 

ただ、申し訳なさそうに、しかし撤回するつもりのない眼差しで奈美を見つめ返した。

 

秋の澄んだ日差しが、二人の間に横たわる埋めようのない溝を浮き彫りにしていた。

 

◇

 

その夜。奈美は、自分がどうやって池袋からアパートへ戻り、どうやって時間を過ごしたのか、ほとんど記憶がなかった。

 

気づけば、普段はめったに呑むことのない缶チューハイを二本空け、頭の芯が冷たく痺れていた。

 

千鳥足で夜の街を歩き、見上げたマンションの格子窓は、涙とアルコールで滲んでぼやけていた。

 

自分の部屋へ帰る気になれず、引き寄せられるようにエレベーターに乗り、兄である村岡修治の部屋の前に立っていた。

 

その頃、村岡家のダイニングキッチンでは、修治(32)が不機嫌な顔でカップ麺の容器にフォークを突っ込んでいた。

 

「おい、容子!」

 

修治は奥の部屋に向かって、わざと大きな声を張り上げた。

 

「俺が休みの日くらい、夕飯の支度くらいなんとかならないのかよ! おかげで、休みに一人でカップ麺すすってる亭主がいるって絵面だぜ。お前にデッサンの宿題を出したイラスト教室の先生ってのは、今頃パートナーの手料理でもありがたく食べてんじゃねえのか?」

 

奥の部屋からは、液晶タブレットの上にタッチペンが滑る、サッ、サッという規則正しい音だけが返ってきた。

 

テーブルの上に置かれたバナナやレモンを真剣な目つきで睨みつけていた妻の容子(29)が、顔も上げずに言い返す。

 

「ブツブツ文句言わないの! 先生が見ればすぐわかるんだからね、真剣に描いたかどうかなんて! そもそも、これは宿題だからやってるわけじゃないのよ。こういう習い事はね、ちゃんと元を取らなきゃ気が済まないの。たまにはそういうジャンクなもの食べて、普段私が作ってる料理のありがたみを骨身にしみて噛み締めてみなさいよ!」

 

「勝手な理屈を……」

 

修治が苦り切った顔で麺をすくい上げた瞬間、玄関のスマートロックの電子音がピッピッと鳴り、チャイムが響いた。

 

「あなた、出てちょうだい」

 

「まったく、今日は休みなのに休まる暇がねえな」

 

修治は渋々箸を置き、玄関へ向かった。

 

「どちらさまですか」

 

『……お兄ちゃん。あたし』

 

「なんだ、奈美か」

 

ロックを解除してドアを開けると、そこには髪を少し乱し、どこか焦点の合っていない目をした奈美がぽつんと立っていた。

 

「……おじゃまします」

 

「お前、休みの日は忙しいんじゃないのか? ウエディングの打ち合わせしたり、ドレスの試着に行ったりさ」

 

修治が何気なく投げかけたその言葉に、奈美の肩がわずかに震えた。

 

だが彼女はそれを飲み込むように、引きつった笑みを作ってみせる。

 

「お義姉さんは……?」

 

「いるよ。奥で、これだ」

 

修治がペンを動かすようなジェスチャーをすると、奥の部屋のドアが開き、容子が顔を出した。

 

「あら、奈美さん。いらっしゃい……って、今日はどうしたの? そんな顔して」

 

「ちょっと……お話したいことがあって」

 

奈美のただならぬ様子をひと目で見抜いた容子は、修治とアイコンタクトを交わすと、「こっちへいらっしゃい」と優しく居間へ招き入れたのだった。

 

冷蔵庫から冷たいお茶を取り出し、グラスに注いだ容子は、修治のカップ麺の脇にもトンとグラスを置いた。

 

早く食べて居間に入って来なさい、と目線で合図を送ったが、修治は知らん顔でスープをズズッと音を立ててすする。

 

居間に通された奈美は、ローテーブルの上に置かれた容子のタブレット端末に目を留めた。

 

画面には繊細なタッチで描かれた果物のデッサンが表示されている。

 

「……すてきだわ。これ、お義姉さんが描いたの?」

 

「この間からデザインスクールに通い始めたのよ。これでも学生の頃は美術部だったの」

 

グラスを手にした修治が、鼻で笑いながら居間に入ってくる。

 

「ヘタの横好きってやつだよ」

 

「絵のことわからない人に言われたくないわ」

 

「上手い絵はさっぱり分からんがね、どういうわけかヘタクソな絵だけは見れば一発で分かるんだよ」

 

「失礼ねえ、まったく」

 

「お前もあんまり褒めるなよ奈美。これ以上調子に乗られたら、この部屋が丸ごとアトリエになっちまう」

 

「お兄ちゃんたら……」

 

いつもの夫婦の軽妙なやり取りに触れて、奈美の固くなっていた表情がほんのわずかだけ緩んだ。

 

修治はお茶を一口で飲み干すと、真面目な顔つきになって奈美を直視した。

 

「……ところで、相談って何の話なんだ?」

 

「今日……和彦さんと逢ってたの」

 

「いよいよ和彦さんも年貢の納め時ってわけね」と容子が微笑む。

 

「で、どうしたんだ?」

 

奈美は膝の上で握りしめたスマホの画面を強く押し込み、消え入るような声で吐き出した。

 

「和彦さんね……結婚、延ばしたいって」

 

「「延ばす!?」」

 

修治と容子の声が完璧にハモった。

 

「結婚延ばすって、どういうことだよ!」

 

「だって奈美さん、結婚式まであと一ヵ月でしょ!?」

 

「……結婚する前に、どうしてもやっておきたいことがあるって」

 

「やっておきたいこと?」

 

「何を聞いても、何も答えてくれないの」

 

「何をやりたいのか知らんが、今頃になって言うことじゃないだろ!」修治の声が一気に熱を帯びる。

 

「……今のままじゃ、結婚してやっていく自信がないって」

 

奈美の言葉に、修治は一瞬口を噤んだ。

 

「今さらそんなこと言ってどうするんだ。結婚してやっていけるか不安がるのは分かるけどさ……俺たちだってこうして……」

 

修治は横目でチラリと容子を見ると、軽く咳払いをして言葉をごまかした。

 

容子は呆れたように溜息をつく。

 

「でも、今の時期にそういうこと言うのって、あまりに自分勝手すぎないかしら」

 

「……和彦さん、あたしのこと愛してないのかしら」

 

「ふたりとも愛してるから結婚しようと思ったんだろ?」

 

「でも……結婚延ばすってことは、もう愛してないってことじゃない?」

 

絞り出すような奈美の言葉に、居間の空気が重く沈んだ。

 

容子が膝を進め、優しく問いかける。

 

「奈美さんは……どうしたいの?」

 

「……延ばすって言われたからじゃないけど、自分の気持ちまで分からなくなっちゃった」

 

修治は頭をかきむしった。

 

「とにかく、ふたりで腹を割って話し合わなきゃダメだよ」

 

「何言ってるのよ」容子が修治の脇腹を突く。

 

「話し合いができれば、奈美さんここに相談に来てないわよ」

 

修治は「あ、それもそうか」という顔をして黙り込んだ。

 

「あなたの方から和彦さんに逢って、話を聞いてみたらどうかしら」

 

「俺が!?」

 

「男同士の方話しやすいってこともあるでしょ」

 

容子と奈美の視線が、同時に修治に注がれる。

 

修治は逃げ場を失ったように、自分のグラスに残ったお茶を一気に煽った。