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『 花びらの積もる道 』
第十三章 最初の客
月曜日、千穂はいつもより早く市役所へ着いた。
休んでいる間の仕事は、後輩が整理してくれていた。
処理の済んだものには日付が入り、途中のものには、誰へ何を確認するかが書いてある。
「おはようございます」
「おはよう。これ、分かりやすかった。ありがとう」
「僕が忘れないために書いただけです」
後輩はそれ以上何も言わず、自分の席へ向かった。
午前中、千穂は会議の日程を入力した。
手帳と照らし合わせ、保存してから、もう一度画面を開く。
「来週の水曜日で合ってるよね」
横を通った後輩へ尋ねると、画面を見てくれた。
「合ってます。午後二時からです」
「ありがとう」
以前なら、人に確かめることを恥ずかしいと思ったかもしれない。
いまは、確かめたことで間違わずに済んだのなら、それでよいと思えた。
一週間後の日曜日、千穂は津山へ来た。
順子と二人で商店街へ向かい、空いた店の中で契約書を広げた。
隣の履物店の店主は、折り畳み椅子を三脚運んできた。
「市役所の人に見られると、緊張しますな」
「今日は娘として来ただけです」
千穂はそう言いながら、契約書を一枚ずつめくった。
家賃、電気代、水道代、契約を終える場合の申し出の期限。順子が聞いていた内容と違うところはない。
「この棚は、使ってもいいんですか」
千穂が壁際を指した。
「ええ。前の店が置いていったもんです」
「不要になった場合は?」
「こちらで片づけます」
「では、それを書き加えてもらえますか」
店主は順子を見た。
「しっかりした娘さんですね」
「こういうことになると、細かいのよ」
「お母さんが細かくなさすぎるの」
「まだ何も始めていないのに、棚を捨てる話をする人も珍しいわ」
「始める前だから確認するの」
店主は笑いながら、契約書へ一行を書き加えた。
千穂がもう一度読み、順子へ渡した。
「大丈夫だと思う」
「思う、なのね」
「絶対とは言わないことにしたの」
順子は署名し、印を押した。
店主が契約書を受け取り、鍵を一つ差し出した。
「これで、今日から借り主です」
順子は鍵を手のひらへ載せた。
東京の店の鍵より、小さくて軽かった。
「それで、何をするの?」
千穂が尋ねた。
「服の相談と、少しのお直し」
「服を売るんじゃなくて?」
「新しいものを仕入れて並べるつもりはないわ。手持ちの服を見て、何と合わせるか考えたり、丈を直したり」
「それで商売になるの?」
「ならないかもしれないわね」
「ならないかもしれないのに借りたの?」
「だから、週に三日だけ」
千穂は店の中を見回した。
「お母さんが決めたなら、やってみたら」
「止めないの?」
「もう契約したでしょう」
「あなたが確認したあとにね」
店主は二人の顔を交互に見た。
「ええ相棒がおって、よろしいな」
「相棒ではありません」
千穂がすぐに言った。
「では、監査役ですか」
「それなら近いです」
順子は笑った。
それから二週間、順子は店を整えた。
東京から持ち帰った小さなミシンを窓際へ置いた。壁には布を掛け、棚には糸や針、ボタンを並べた。
入口には、自分で書いた紙を貼った。
〈服の相談とお直し
火・木・土 十時から四時まで〉
店の名前は、まだつけなかった。
名前を決めてから始めるより、始めたあとで似合う名前を探してもよいと思った。
洋子の店で買った黄色い花は、部屋の窓辺から店へ移した。
朝の日が入る場所を選び、土が乾いていることを確かめてから水をやった。
開店の日、順子は九時半に店へ入った。
床を掃き、ミシンの糸を確かめ、入口の紙を真っすぐに貼り直す。
十時になっても、誰も来なかった。
十時半、隣の店主が顔を出した。
「どうです?」
「見れば分かるでしょう」
「最初の日は、そんなもんです」
「慰めに来たの?」
「様子を見に来ただけです」
店主は棚と壁を見回した。
「ええ店になりましたな」
「何も売っていないけれど」
「何をしてくれる店かは分かります」
店主が戻ると、また静かになった。
順子は椅子へ座り、ほどきかけの布を手に取った。
十一時を少し過ぎたころ、ガラス戸が開いた。
「入ってもええですか」
履物店の店主の妻だった。
「もちろん」
「主人に行ってこいと言われたんじゃありませんよ」
「まだ何も聞いていません」
「それなら、ええんです」
妻は紙袋から、灰色のカーディガンを出した。
「ここが薄うなってしもうて」
片方の肘に、小さな穴が開いている。
「直せますか」
順子は布を光へ透かした。
「同じ色で目立たなくすることもできますし、別の色を使うこともできます」
「別の色?」
「たとえば、深い赤で両方の肘へ小さく刺しておけば、直した跡には見えません」
「穴がない方も?」
「片方だけより、最初からそういう服に見えます」
妻はカーディガンを広げた。
「赤は派手じゃありませんか」
「袖口から少し見えるだけです。お嫌なら、灰色で直します」
妻はしばらく考えた。
「赤にしてください」
「分かりました」
「いつできます?」
「木曜日には」
「おいくら?」
順子が金額を告げると、妻は財布を出した。
「受け取るときで結構です」
「最初のお客なのに、逃げると思うたんですか」
「逃げると思わないから、あとでいいんです」
妻は笑った。
「では、お願いします」
順子はカーディガンを預かり、名前と電話番号を書いてもらった。
ガラス戸が閉まる。
店の中は、また静かになった。
それでも、先ほどまでの静けさとは違っていた。
灰色のカーディガンが、ミシンのそばに置かれている。
順子は赤い糸を何色か並べた。
店を閉めてから、千穂へ電話をかけた。
「今日、最初のお客さんが来たわ」
「ほんとに?」
「どういう意味よ」
「誰も来なくても、来たことにするかと思って」
「そんな嘘はつきません」
「何を頼まれたの?」
「カーディガンの肘を直すの」
「お母さんらしい仕事ね」
「私らしい?」
「穴を隠すだけじゃなくて、何か足すんでしょう」
順子は赤い糸を見た。
「どうして分かったの」
「お母さんだから」
千穂の声が笑っていた。
「今日は機嫌がいいのね」
「普通よ」
「そう?」
「お母さんの最初のお客さんが来たんだから、少しくらい喜んでもいいでしょう」
以前の千穂なら、自分の声が明るいことまで打ち消したかもしれない。
順子は、それ以上尋ねなかった。
「木曜日までに仕上げるの?」
「ええ」
「明日は店を休むんでしょう」
「休むわよ」
「なら、ゆっくりしたら」
「そうするわ」
電話を切ったあとも、順子はすぐには帰らなかった。
灰色のカーディガンをもう一度広げ、肘へ赤い糸を置いてみる。
店は明日、開けない。
それでも、次に何をするかは決まっていた。
