なぜこんなに不幸なのですか
なぜこんなに過酷な人生なのですか
と、人は問う。
しかし
なぜわたしは健康なのですか
なぜこんなに幸せなのでしょう
なぜこんなに毎日が満ち足りているのでしょう
と問う人は、あまりいないでしょう。
なぜ、なのか?
健康とか幸せとか充実感とか
所有したり
努力してなるものではなく
「すでにそうであった」
(改めて顧みると)
という、あり方ですよね。
試しに病気知らずな人は
なぜわたしは健康なのだろう
と自身に問いかけてみてください
早寝早起きだから
とか
なんとか療法をやっているから
とか
糖質やお酒をとらないとか一日一食だから
とかとか
いろいろ出てくるでしょうが
どれをとっても十分な説明になってはいないはず。
だから、多くの人は
「幸せになりたい!」
と願うけれど
そのために何をどうしたらいいか
わからないのがほとんどです。
トマトを食べるとか
人を恨まないとか
自分を信頼するとか
いろいろ回答は浮かぶかもしれませんが
どれも幸せや健康であることを
十分に説明できるものではありません。
幸せや健康であるという事実は
◯◯だからこうなる
という因果律が成立しないものです
因果律が成立しないものに対して
なぜ?と問うことは難しい。
だから、
なぜわたしは健康なのでしょう
なぜわたしは幸せなのでしょう
と、普通は問わない。
「なぜわたしは猫が好きなのか」
と問うと、
それは突き詰めると
「猫だから」としか言えないし
「わたしが猫を好きだから....」
ということしか言えないでしょう
Q:なぜあなたは猫が好きなんですか?
A:わたしが好きだからです
答えになっていませんね
そう!
好きなこと幸せなこと健康なことは
その理由を答えられないものなのです!!!
理由を探すものではなく
そうであることを
ただ受け容れていこうとするもの
だから
幸せになること
なりたい自分になること
は
努力して目指すような目標ではなく
気づくことです。
気づくときには
意識のスイッチが変わるのです。
変えようとするのではなく
変わっていたのです。
幸せになったのは
自分のことを好きになることができたのは
人をひがむことをしなくなったのは
状況が変わったわけでもなく
お金がたくさん入ったわけでもなく
彼氏ができた
というわけでもない....
その状況でも
幸せじゃなく生きている人はたくさんいる
見方が捉え方が
これまでと違う選択肢に向かったのです。
わたしたちのあり方は
現実の出来事何如に
依存するものではなく
見方次第で変わります
だから
自分自身の選択が大事なのです。
見方が変われば、世界は変わる
自分自身が変わる
だから
不幸であっても
みじめであっても
なぜわたしは不幸なのでしょうか
と問うこと自体がナンセンスなのです。
なぜわたしは
そのように世界を観ているのでしょうか
と、いう問い方で
自身に気づいていくことでしょう。
幸せも不幸も状況がつくっているわけではなく
自分自身が選択しているのです。
被害者も加害者もいない
すべては自分のシナリオです。
あら、本当?