クオの別世界

クオの別世界

学生時代に書いた初々しい小説、コピーライター時代を語る懐かしいエッセイ、そして文章家として活動する日々の合い間のエッセイや小説を掲載しています。

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なかよしの

クマとジロー



今となってはもう昔の話だが、私が小学3~4年生のころの思い出で

ある。朝起きたら近所の豆腐屋さんへお使いにいくのが私の日課だった。

母が小さな鍋の中に10円玉と5円玉を1つずつ入れ、それを持って

私がお店へ。2つのコインと引き換えに、豆腐を鍋に入れてもらうのだ。

そのお店では、犬を1匹飼っていた。真っ黒な毛色の、個性的な容姿を

した牡の小型犬で、名前は「クマ」。今、思い返してみると、あれはた

ぶん、スコティッシュ・テリアだったのではないか。当時の田舎町に

洋犬は珍しく、クマは近所の人気者。来客のたびに店先へ現れる彼の

顔や体を撫でてやると、うれしそうにシッポを振った。クマには、独特

の体臭があった。オカラの匂いだ。いかにも豆腐屋さんらしい食事を、

毎日与えられていたのだろう。年齢は10歳と聞いた。栄養バランスの

良いドッグフードが(そして獣医さんなどの医療施設も)まだ普及して

いない時代、人間の残り物を食べていた日本の犬たちの平均寿命は7~

8歳だったという。それを越えてなお、クマが元気だったのは、オカラ

に含まれるタンパク質やリノール酸などの豊かな栄養素のおかげだった

のかもしれない。クマには友だちがいた。お店の右隣りの民家の飼い犬、

おなじく牡の「ジロー」だ。こちらは、ポピュラーな日本犬の雑種で、

クマよりも大きな中型サイズ。年齢は知らなかった。犬小屋に鎖でつな

がれていた。毎日、決まった時刻になると、クマがジローのところへ

会いにいく → ジローがうれしそうに吠える → 飼い主が現れてジロー

を鎖から放ってやる → 2匹で思いっきり遊びにいく、といったプロセ

スを経て、なかよしの日々を楽しんでいたようだ。2匹の友情と結束力

はとても強く、住み家を中心とした自分たちのテリトリーに侵入してく

る他の犬たちに対しては、一緒になって威嚇をし、ときには容赦のない

攻撃を加えて駆逐した。また遠征をすることもしばしばで、住み家から

数百メートル離れた市民グランドで私たちが三角ベースに興じていると、

突然犬たちのケンカ声が聞こえ、見るとクマとジローが大型のコリー犬

(「名犬ラッシー」人気で、私の町でも飼われていた)に挑んだりして

いた。クマ&ジローは、かなりの武闘派だったのである。そんなある日、

犬小屋からジローの姿が消えた。亡くなったのだ。天寿が尽きたのか、

病気のせいなのか、死因は知らない。聞いたところでは、飼い主が裏庭

の土を掘って、ジローを葬ったそうだ。無二の友を失ったクマは、たち

まち元気も失くした。店先で寝そべっている姿をよく見かけるように

なった。そうして半年くらいが経ったころ、クマも逝った。お使いのと

き、豆腐屋の主人に私は訊いた。「クマのお墓はどこ?」。主人は答えた。

「ジローのそば」。隣りの民家の許しを得て、ジローのお墓のすぐ

横に穴を掘り、クマを葬ったとのことだ。それを聞いた私は、なんだか

幸せな気持ちになった。あれから半世紀近くの今もなお、クマとジロー

は、なかよく一緒に、天国の野原を駆けまわっていることだろう。



※12回にわたって連載してきた「今は昔」は、今回をもって終了です。

おつきあいくださった読者の皆さま、どうもありがとうございました。


(クオ)


オニヤンマの

子どもたち



今となってはもう昔の話だが、私が小学4年生のころの思い出である。

昆虫好きの少年だった私は、森や林に分け入ってはカブトムシ、クワ

ガタ、カナブンなどを探し、川や田んぼに足を踏み入れてはタガメ、

タイコウチ、ゲンゴロウなどを捕まえようとした。そんなある日、ク

ラスメートのマサノリくんが貴重な情報をくれた。「10センチくらいの

ヤゴがおる」。ヤゴとはトンボの幼虫で水生しているが、通常は3~4

センチくらいの体長である。10センチとは何事であろうか。「オニ

ヤンマのヤゴじゃ」。そう聞いて私は納得した。日本最大のトンボで

あるオニヤンマの幼虫なら、巨大なサイズも頷ける。「どこにおるん?」

私の問いに、マサノリくんは驚愕の言葉で答えた。「肥溜めの中じゃ」。

コエダメとは、若い読者のために説明すると、野菜等を栽培するため

の畑の肥料として、人間の排泄物を貯蔵しておく大きな瓶(かめ)の

こと。伝統的な農業設備の一種である。昔の農地にはこれが散在して

いた。「肥溜めの中か……」。あまりの悪条件に、私の決断力は鈍った。

だがしかし、10センチのヤゴ! その誘惑には勝てず、私は自転車に

乗り、肥溜めの近くの農家に住むマサノリくんに案内されて山の麓の

現地へと向かったのである。そして、いよいよ、その前へ。黒い素焼き

の瓶から発せられる強烈な臭気は、私を怯ませた。だがしかし、10セ

ンチのヤゴ! 誘惑を勇気に変えて、瓶の中を覗くと、薄茶色をした

上澄みの中、それらは漂うように生息していた。まさに巨大なヤゴたち

の群れだ。とっさに私は右手を差し入れて1匹をつかみ、それを瓶から

取り出して、左手に持ったビニール袋の中へ入れた。この動作を5回

繰り返し、袋の中に5匹の姿を確認すると、自転車に乗り、大急ぎで

自宅を目指した。早く水の中へ入れてあげなくては! 数十分の後、

我が家へ到着した私は、洗面所へ駆け込み、ボウルに栓をして水道の

蛇口をひねった。水が溜まると、その中へ、5匹の巨大ヤゴを入れた。

ヤゴたちは動いていた。間に合った! ホッとした私は、次にお風

呂場の蛇口をひねり、汚れた両手を石けんできれいに洗った。よし、

任務完了だ! 5匹の巨大ヤゴを獲得したのだ! 歓びに包まれて

洗面所へ戻ると、あれれ? ヤゴたちが動いていない。指でつつい

てみても、ピクリともしない。私は呆然とした。5匹のヤゴたちは

みんな死んでいたのだ。糞尿の中では生きられても、塩素を含んだ

水道水の中では、自然の命は生きていけないことを、私は痛いほど

理解した。環境問題をライブで学んだ、昭和42年のころの話である。





ばあちゃんと

ウチワエビ



今となってはもう昔の話だが、私が小学3年生のころの思い出である。

港のすぐそばに魚市場があり、その真向いに母の実家があった。そこ

には優しいばあちゃん(母の母)がおり、よく小遣いをくれた。まだ

じいちゃんが生きていたころ、この家は料亭を営んでいたという。名物

のフグ料理を食べに、関西方面からも来客があったそうだ。日曜日が

くるたびに、私は朝早くから自転車でばあちゃんの家へ行った。競りの

終った魚市場に人影はなく、売れ残った小魚が数匹、時おりピチピチと

最期の動きを見せていた。ある日、小魚ではなく、ユニークな姿をした

生物が残されていた。体の前半分が平たい円盤のような甲羅になって

いる「ウチワエビ」だ。体長は10センチくらいで、まだ小さいから

買い手が付かなかったのだろう。ヒゲのような触角をしきりに動かして

いるこのエビを、私は「愛しい」と感じ「飼いたい」と思った。「水槽を

買って海水を入れて飼育する」というビジョンを描いた私は、エビを

両手でつかむと、ばあちゃんのもとへ行き「ちょっと、これ、預かって」

と頼んだ。そして自転車に乗り、金魚屋さんへ。その店では大小いろ

いろ、素材も値段もさまざまな水槽を売っており、いちばん安いプラス

チック製のやつを私は買った。それからばあちゃんの家へ戻っていき、

「エビは元気?」と弾んだ声で訊いた。すると、ばあちゃんは、お盆を

持って現れた。お盆の上には、お皿が1つと小皿が1つとお箸が1膳。

お皿には小ぶりの天ぷらが載り、小皿には塩が入っていた。それらを

私に差し出しながら、ばあちゃんは言った。「殻を割ってみたら、身が

ちょっとしか入っちょらんかった。じゃあけん、天ぷらにした。熱いう

ちに早う食べよ。美味しいで」。あまりの出来事に、私は頭がクラクラし、

持っていた水槽を廊下に取り落した。丸い水槽は、廊下をコロコロと

転がっていった。私が「預かって」とエビを手渡したとき、往年の料亭

夫人の感覚が、ばあちゃんのなかに、よみがえったのに違いなかった。

悲しかったけど、今となっては貴重な、昭和40年代初頭の思い出である。

ニワトリの

じいちゃん



今となってはもう昔の話だが、私が3歳のころの思い出である。両親と

兄との4人家族。父は外国航路の船員が仕事で、年に1度くらいしか

日本に帰ってこなかった。だから普段は母と兄との3人暮らし。当時は

たしか「銀嶺荘」という名のアパートに住んでいた。アパートの前には

ニワトリをたくさん飼っている家があり、「コケコッコー」の鳴き声が

近所のみんなの目覚まし時計だった。その鶏たちの世話をしていたのが、

通称「ニワトリのじいちゃん」。本名は知らなかった。白髪を丸刈りに

した頭と、大きな身体が特徴の人物だった。もっとも、幼児の目には

大人はみんな大きく見えたものだが。ある日のお昼ごろ、私は1人で

家の中にいた。母と兄はどこかへ出かけていたのだろう。すると突然、

玄関の戸をガラガラガラッと開き、だだだだだっと足音をさせて、ニワ

トリのじいちゃんが家の中へ入ってきた。私の顔をチラッと見たじい

ちゃんは、そのまま台所へいくと、何事かを始めた。そしてしばらく

すると、私のいる場所へ、お皿を持ったじいちゃんが現れた。お皿の上

には、おにぎりが2つ。じいちゃんは私に「ほれ」と言ってそれを手渡し、

そのままガラガラガラッと玄関を閉めて出ていった。お皿に載った2つの

おにぎりはとても大きく、母が作ってくれるおにぎりの3倍くらいの

サイズだった。ニワトリのじいちゃんの手は、それほど大きかったのだ。

海苔も巻いていない、ごはんだけのおにぎり。2つあるうちの1つに、

かぶりついてみると、塩加減がすばらしく、ばつぐんに美味しかった。

食べ進んでいると、母と兄が外出先から帰ってきた。おにぎりの事情を

話すと、母はすぐ、じいちゃんの家へ行った。お礼を言いに行ったのだ。

つまり、こういうこと。ニワトリのじいちゃんは、小さな子供が1人で

留守番しているのを、かわいそうに思い、おなかを空かせてはいないかと

案じてくれたのだ。日本全国津々浦々のコミュニティに、人間どうしの

濃密な結びつきが力強く存在していた、昭和35年のころの話である。

今は昔 (その8)



今となってはもう昔の話だが、私は九州の片田舎の小学生であった。

悪ガキであった。自宅近くの川を100メートルほど下ると、海へと

注ぐ場所、すなわち河口になっていた。そこには鉄橋が架かり、線路が

敷かれていた。ある日のこと、友だちと河口で釣りをしていた私は、

その鉄橋を渡ってみたくなり、釣り道具はそのままに、友だちを伴って

土手を駆け上がると線路の上に立った。そうして、2人でゆっくりと

歩き始めた。鉄橋の上から水面までは5メートルくらいあり、スリル

満点だった。橋の半ばまで進んだとき、後方から「ピーッ」と警笛が

聞こえた。振り向くと蒸気機関車がやってくる。とっさに私は友だちの

背中をぐいっと押し、水の中へ突き落とした。「じゃっぼーん」と沈んだ

友だちは、すぐに水面に浮き上がり、無事の様子だ。安全性を確認

できた私は、続いて自分も「じゃっぼーん」と飛びこみ、水面から顔を

出した。なんというガキであろう。見上げると蒸気機関車はすでに鉄橋の

手前まで到っており、私たちの悪事を叱りつけるかのように「ピーッ!

ピーッ!」と何度も汽笛を鳴らしながら貨物列車の長い列を「ゴットン、

ゴットン」と引っ張って鉄橋を渡っていったのである。私たちは命拾いを

した。まるで、往年の名画「スタンド・バイ・ミー」の世界ではないか。

そんな時代のある日、地元の高校野球のチームが甲子園で初優勝した。

たいへん感激をした私は、大人になってからこの思い出を小説にし、

本ブログに連載した。そしてこのたび、小説はラジオのドラマになって

大分県にお住まいの方々に聴いていただいたのである。ありがとうな。





OBS大分放送開局60周年記念スペシャルラジオドラマ

クオ原作「みかんの色の野球チーム」、

たくさんのご聴取、どうもありがとうございました!






今は昔 (その7)



今となってはもう昔の話だが、私は九州の片田舎の小学生であった。
悪ガキであった。ある午前のこと、近くの空き地で友だちとキャッチ
ボールをしていると、向こうのほうに家の建築現場のテントがあり、
大工さんたちが柱をカンナで削っていた。そしてお昼。食事にいった
のか、大工さんたちは1人もいなくなった。私は建築現場に近づき、
テントをくぐると、柱の木の上に置かれたままのカンナを見つけた。
それに両手をかけ、思いっきり引いてみた。すると、まるで鉛筆を削る
みたいに、木肌がしゅるうーっとムケて快感を与えてくれた。なので
何度も何度も私はカンナを引き、しゅるうーっ、しゅるうーっと木屑を
飛ばしまくった。ふと気がつくと、柱の木はそこだけ見事に細くなった。
もういいかなと、私はまた友だちとキャッチボールに戻った。そうする
うちに大工さんたちが再び姿を現わし、テントのなかに入っていくなり
「なんじゃーこりゃーっ!」と大声を上げた。「誰がやったんかーっ!」と
怒声を張り上げた。私と友だちは走って逃げた。なんというガキであろう。
そんな時代のある日、地元の高校野球のチームが甲子園で初優勝した。
たいへん感激をした私は、大人になってからこの思い出を小説にし、
本ブログに連載した。そしてこのたび、小説はラジオのドラマになった
のである。大分県にお住まいの方は、ぜひ聴いてくれんせよ。




OBS大分放送開局60周年記念スペシャルラジオドラマ
クオ原作「みかんの色の野球チーム」、
いよいよ本日(21日)午後7時~9時、オンエア!






今は昔 (その6)



今となってはもう昔の話だが、私は九州の片田舎の小学生であった。

悪ガキであった。初恋の相手は、ガラス屋さんの娘。そのお店を商売

繁盛にしてあげようと考えた私は、深夜、多くの民家の窓ガラスに

投石をし、バリバリと割りまくった。翌日、彼女のお店には、被害を

受けた家々から新しいガラスの注文が相次ぎ、大いに儲かったそうだ。

町に1軒しかないガラス屋さんだったからね。なんというガキであろう。

そんな時代のある日、地元の高校野球のチームが甲子園で初優勝した。

たいへん感激をした私は、大人になってからこの思い出を小説にし、

本ブログに連載した。そしてこのたび、小説はラジオのドラマになった

のである。大分県にお住まいの方は、ぜひ聴いてつかあさい。




OBS大分放送開局60周年記念スペシャルラジオドラマ
クオ原作「みかんの色の野球チーム」、
いよいよ明日(921日)午後7時~9時、オンエア!




今は昔 (その5)



今となってはもう昔の話だが、私は九州の片田舎の小学生であった。

悪ガキであった。公園の広場で友だち数名と銀玉鉄砲で遊んでいると、

ベンチに大人の男女が並んで座り、いちゃいちゃしている姿が見えた。

私はそちらへ近づいていき、「男女七歳にして席を同じゅうせず!」と、

どこで習ったのか分からぬコトワザを発しながら男の顔を狙って銀玉を

発射し、さらに「せず!」と女の顔をも撃った。玉は両方とも命中し、

二人がうろたえている隙に私は走って逃げた。なんというガキであろう。

そんな時代のある日、地元の高校野球のチームが甲子園で初優勝した。

たいへん感激をした私は、大人になってからこの思い出を小説にし、

本ブログに連載した。そしてこのたび、小説はラジオのドラマになった

のである。大分県にお住まいの方は、ぜひ聴いてやねん。



OBS大分放送開局60周年記念スペシャルラジオドラマ
クオ原作「みかんの色の野球チーム」、
明後日の土曜日(921日)午後7時~9時、オンエア!








今は昔 (その4)



今となってはもう昔の話だが、私は九州の片田舎の小学生であった。

悪ガキであった。ある温泉地を家族で訪れたときのこと。泊まった

ホテルには「7種類の湯」と銘うって「7つの湯船」が並んでいた。

その1つ1つ、すべてに入ったり出たりしながら、私は7回、お湯の

なかで小便をしてまわった。それに気づかぬ他の客たちが気持ちよさ

げにお湯に浸かっているのが実に愉快だった。なんというガキであろう。

そんな時代のある日、地元の高校野球のチームが甲子園で初優勝した。

たいへん感激をした私は、大人になってからこの思い出を小説にし、

本ブログに連載した。そしてこのたび、小説はラジオのドラマになった

のである。大分県にお住まいの方は、ぜひ聴いておくれやす。




OBS大分放送開局60周年記念スペシャルラジオドラマ
クオ原作「みかんの色の野球チーム」、
こんどの土曜日(921日)午後7時~9時、オンエア!


今は昔 (その3)



今となってはもう昔の話だが、私は九州の片田舎の小学生であった。

悪ガキであった。隣り町の、ばあちゃんの家へいくと、まんじゅうを

くれた。だが私は、まんじゅうよりもチョコレートがほしかった。

そこで、町でいちばん大きなスーパーのお菓子売り場へいき、こっそり

チョコレートを1ついただくと、空いたスペースに、ばあちゃんから

もらったまんじゅうを置いて走って帰った。なんというガキであろう。

そんな時代のある日、地元の高校野球のチームが甲子園で初優勝した。

たいへん感激をした私は、大人になってからこの思い出を小説にし、

本ブログに連載した。そしてこのたび、小説はラジオのドラマになった

のである。大分県にお住まいの方は、ぜひ聴いてくなんしょ。




OBS大分放送開局60周年記念スペシャルラジオドラマ
クオ原作「みかんの色の野球チーム」、
こんどの土曜日(921日)午後7時~9時、オンエア!