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クオの別世界

学生時代に書いた初々しい小説、コピーライター時代を語る懐かしいエッセイ、そして文章家として活動する日々の合い間のエッセイや小説を掲載しています。


今は昔 (その2)



今となってはもう昔の話だが、私は九州の片田舎の小学生であった。

悪ガキであった。自宅近くの川でナマズやサンショウウオを釣り、ザリ

ガニやテナガエビを捕ってバケツに入れ、他人の家の庭に忍びこんだ。

そして鯉たちの泳ぐ池の中へそれらの生物たちを放ったのである。

池は、あっという間に水族館だ。美しい鯉たちに混じり、異形の物たちを

発見した家の主は腰を抜かしたに違いない。なんというガキであろう。

そんな時代のある日、地元の高校野球のチームが甲子園で初優勝した。

たいへん感激をした私は、大人になってからこの思い出を小説にし、

本ブログに連載した。そしてこのたび、小説はラジオのドラマになった

のである。大分県にお住まいの方は、ぜひ聴いてけろ。



OBS大分放送開局60周年記念スペシャルラジオドラマ

クオ原作 「みかんの色の野球チーム」、

こんどの土曜日(9月21日)午後7~9時、オンエア!


今は昔 (その1)



今となってはもう昔の話だが、私は九州の片田舎の小学生であった。

悪ガキであった。校庭のクスの木にウジャウジャ生息している毛虫を、

ビニール袋がパンパンになるほど捕まえ、それらを授業中の教室の

なかへバラまいた。先生は「ひゃあーっ」と叫んで黒板にへばりつき、

女の子たちは「きゃあーっ」と泣き声をあげて毛虫を踏み潰しながら

逃げまどった。教室の床はもうグチャグチャだ。なんというガキであろう。

そんな時代のある日、地元の高校野球のチームが甲子園で初優勝した。

たいへん感激をした私は、大人になってからこの思い出を小説にし、

本ブログに連載した。そしてこのたび、小説はラジオのドラマになった

のである。大分県にお住まいの方は、ぜひ聴いてくださりませ。



OBS大分放送開局60周年記念スペシャルラジオドラマ

クオ原作 「みかんの色の野球チーム」、

こんどの土曜日(9月21日)午後7時~9時、オンエア!


「何か書いてよ」との

まひるさんへのリクエストにおこたえして、

読み切り一発ショートショート。




 かいぶん回次郎






昔昔その昔(江戸時代くらいかな)、西国のとある海辺の村に、回次郎という名前の男が暮らしておった。歳は二十代の半ば。小さいながらも舟を持ち、イカを釣ったり小魚を獲ったりの漁をして、日々の生計を立てていた。
 ところがこの回次郎、働きぶりはまあまあだが、女遊びが大好きだった。夜が来て、イカ釣り舟を漕ぎだしたはいいが、そのままぐんぐん沖へ向かい、岬をぐるっと回って目指していくのは、漁場ではなく、山をひとつ隔てたお隣の城下町。商いの盛んなその町では、華やかな遊廓も連日の賑わいで、舟を港へ着けた回次郎も、いそいそと花街へ向かい、極楽気分に浸るのだった。
 回次郎が独り身であったなら、廓遊びに文句を言う者はおるまい。しかし彼にはれっきとした妻がおった。その名は、お福。網元の娘に生まれながら、なにゆえ回次郎のような放蕩者の連れ添いの道を彼女は選ぶことになったのか。
 それは、「回文」の魔力なのだった。回文とは「竹藪焼けた(→たけやぶやけた←)」とか「磨かぬ鏡(→みがかぬかがみ←)」とか、上から(左から)読んでも、下から(右から)読んでも同じ文のことなのだが、何を隠そう、回次郎こそは回文作りの名手だったのである。人呼んで「かいぶん回次郎」!
 去年の夏の夕暮れどき。浜辺に並んで腰を下ろした、回次郎とお福。遊び人との噂は聞いていたが、村には稀な男前。誘いに乗って、ついふらふらと落陽見物。恥じらいながら波の向こうを眺めるお福の目の前に、すっと回次郎から差し出されたのは、何と一通の恋文ではないか。驚き、ためらいながらも彼女が開くと、そこには、一句。
『恋しさや 笑窪を僕へ やさしい子』
 下からも読んでみて、と回次郎に促され、そのとおりにすると、
『こいしさや えくぼをぼくへ やさしいこ』
 このとき、お福の全身を貫いた恋の衝撃力は、回次郎の伴侶となることを受け入れるのに十分すぎるほど強烈なものであった。
 ところが、ところがである。夫婦になってもう一年が経つというのに、回次郎の廓通いはとどまることを知らない。最初のうちは、女遊びも男の甲斐性と、もともと我慢強い性格のお福はじっと耐えていたが、漁に出ると言いいながら、出ていくものは金ばかり。ひとり寝る夜の寂しさと遊女たちへの嫉妬の心はいつしかめらめら燃え上がり、それらを何とか紛らわそうと、とうとう酒を口にするようになった。
 回次郎が遊びに行くと、お福は家で一合酒。またまた行くと、こんどは二合酒。二合酒は三合酒になり、三合酒は四合酒になり、四合酒が五号酒をこえていつしか朝が白々と明けてきたそのとき、ちょうど回次郎が家へ帰ってきた。
 そして、夫の身体から潮の香りに混じって白粉の匂いがプンと鼻を突いたとき、ついにお福の堪忍袋の緒は切れた。
「女遊びの大馬鹿亭主めーっ!」
 すると回次郎、涼しげな顔をして、こう答えた。
「嫁、やけ酒やめよ」
(→ よめやけざけやめよ ←)
 さらに加えて、もう一言。
「廓通いなど無い世が悪く」
(→ くるわがよいなどないよがわるく ←)









おしまい








※作中の回文3点「恋しさや 笑窪を僕へ やさしい子」「嫁やけ酒やめよ」「廓通いなど無い世が悪く」は、土屋耕一回文集「軽い機敏な仔猫何匹いるか」(誠文堂新光社・刊)より転載したものです。















升田を慕う棋士たち


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 追悼会や偲ぶ会など一切の将棋関係の行事がなかったのは、ご家族の辞退による。

 ただ一つだけ、升田さんを送るにふさわしい会が開かれた。同年10月21日、東京・市ヶ谷の日本棋院に有志が集まった「升田幸三先生を偲ぶ囲碁大会」である。

 この会の発起人は米長邦雄九段だ。

 あるパーティーの席で日本棋院の安倍吉輝九段をつかまえた米長は、

「升田先生に、九段を追贈してほしい」

 と持ちかけた。

 安倍は「九段?」と目を丸くし、「アマチュアに九段は、ちょっと前例もないし、どうかな……無理ですよヨネさん。八段ならなんとか交渉してみますけどね」と答えた。「いや、九段。ヒゲの九段ですから」「弱ったなあ……オレ、今は渉外担当じゃないしさ。一応棋院に相談してみますがね」

 こんないきさつがあって、政、財界人以外では破格の「囲碁八段」が贈られたわけである。静尾夫人もこの贈位には喜び、当日はご長男の夫人を伴って来場、米長囲碁七段、二上会長ら出席者と歓談し、遺影の前で免状を受け、静かな声で謝辞を述べられた。

 朝日新聞では、いろいろ相談の結果『作家の見た升田将棋』を出版した。「なるべく安価な本にしよう」という方針で、写真は僅かしか載せられなかったが、夫人から「これを」と送られて来た数葉の写真は、対局写真でもなく、有名人との記念撮影でもなかった。二人の坊やを中心にした、よき父・升田の姿だった。

 五味康祐が予言したように、升田の没後、この大棋士と会ったこともない若手棋士たちまでが「升田将棋」を研究し始めた。流行戦法の花形「角換わり腰掛け銀・棒銀」「相矢倉・スズメ刺し」などがそれである。

 升田幸三がこの世に残した「新手」の数々は、永遠に指し継がれ、語り継がれるだろう。  


(終わり)



3月からスタートした「升田幸三物語」は、今回をもって終了です。長期の連載となりましたが、おつきあいくだ

さった皆様には、心より御礼申し上げます。

昭和という舞台で輝いた数多くのヒーローたちの中に、このような人物もいたのかということを、一人でも多くの方に知っていただければ、私としても、これに優る喜びはありません。

最後に、ご著書から弊ブログへの全文転載にご快諾を

くださった東公平先生にあらためて御礼申し上げます。

どうもありがとうございました。  (クオ)


別れの日


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 平成3年4月5日。東京の将棋会館で第9回全日本プロ決勝5番勝負の第4局が行われた。対局者は桐山清澄九段と森下卓六段。森下が3勝1敗で優勝を決めた日である。

 非番の私は午後から仕事の応援をするために千葉県柏市の自宅を朝10時頃に出発、高速道路を走行中にラジオで「升田幸三死す」のニュースを聞いた。とうとう来る日が来たか、という感じで、悲しみとは違う深い感慨が私を包んだ。

 会館に到着すると控室には浅井義貴記者が一人いるだけ。谷口牧夫記者は升田家へ駆けつけたとのこと。東京本社の富川盛之デスクからは電話で「東さん、朝刊の追悼文を書いてください。締切は4時」という指令だ。

 申し訳ないが対局はそっちのけであった。立会いの棋士に任せて私達は升田死去の原稿を書き続けた。

 桐山九段は元升田門下である。まだ升田の死を知らない。対局が終わるまで知らせないことにしようと、慣例通り決めていたが、桐山は昼休みに控室の様子から変事に気づいた。しかし平然として対局を続け、負けた。

 局後すぐに大阪の自宅に電話し、夫人に、喪服を持ってすぐ上京せよと言った。

 亡くなったのは5日の午前6時27分。心不全。東京・中野の慈生会病院で。73歳。

 新聞には、葬儀、告別式の日取りは未定と出た。実は遺志により、告別式はやらないことになっていたのだ。

「ファンのため」ということで朝日新聞の幹部が家族を説得し、葬儀を行うことに決まったが、前例を破って、「日本将棋連盟葬」にはしなかった。

 通夜の場に、まっさきに駆けつけた棋士は大山康晴だった。

「升田さんと私のつき合いは、奥さんより長いんですからね」と言ったそうだ。大山は『将棋世界』に長い追悼文を寄せているが、その一部を引用する。

「升田さんと私は宿命のライバルなどとよく言われましたが、これはむしろ周囲の人が作り上げたような関係で、私自身としては、常に兄弟子という升田さん、将棋がものすごく強い升田さん、といった存在でした。 (中略) 一昨年の棋士総会の時、今後の将棋界について20分ほど、しみじみと話し合ったのですが、それが最後となってしまいました」

 その大山は、升田の後を追うかのように翌年、69歳で死んだ。

 升田幸三実力制第四代名人の葬儀は、4月7日に「密葬」の形で行われ、故人を慕う棋士、関係者が多数参列した。ご家族は香典を辞退し一切受け取らなかった。信念に生きた棋士・升田らしい最期だった。私はあの日のことをはっきり思い出せない。『週刊文春』の記者と口論もしたが、中野駅からバスに乗ったときの、沿道の紅の花(桜だったと思う)の色だけが脳のスクリーンに焼きついている。



谷川浩司との対局


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 引退直前に谷川浩司五段との臨時対局が流れたのを残念がった人は多かった。NHKの澤実氏もその一人。テレビお好み対局を企画して再三升田に交渉したが色よい返事がもらえない。

 一計を案じ、升田と親しい内藤國雄、森雞二の内諾を得て昭和58年元旦放送の「お好み連将棋」を企画したところ「いいよ」の返事。

 升田としても、同じ関西棋界出身で人柄も抜群にいい天才谷川とは、指してみたかたに違いないと想像できる。

 ビデオ収録は57年12月。解説中原誠前名人、聞き手に神田山陽、棋譜読み上げ蛸島彰子女流四段、記録谷川治恵女流二段という華やかなメンバーで、和気あいあいの対局が行われた。

 升田は対局前の談話として「4年間将棋は指してないが、衰えたかどうかは、今日指してみるからわかる」と言った。

 この棋譜と進行の模様は『NHK将棋講座』に南川義一氏(アマ名人)の観戦記で掲載されている。連将棋だから升田と谷川が一対一で戦う局面が何度かある。


(続く)



全日本プロトーナメント


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 日本将棋連盟理事会(大山会長)は63年に新規定を作り、升田に「実力制第四代名人」の称号を贈ることを決めた。苦心のほどが思いやられる。その時点で該当する人は升田だけ、という規定をこしらえたのである。

 贈位式は同年4月、他の昇段者と同じ日に行われたが、升田は欠席し、弟子の桐谷広人六段が代理として贈位状を大山から受け取った。このとき升田は、弟分大山の非常な苦心をよしとして妥協したのだと思う。もらった称号についてはノーコメントだった。

 将棋会館には足を向けない升田だったが、朝日新聞主催の全日本プロトーナメントの決勝戦第1局が羽沢ガーデンで行われる時は、毎回元気な姿を見せた。大山と戦った古戦場なので懐かしかったのかも知れない。

 思い出すのは森内俊之四段と谷川浩司名人が決勝3番勝負をやり森内が勝ったとき(平成元年2月10日)のこと。だまって継ぎ盤を眺めていた升田は森内の勝ちとにらみ、「名人がC級2組に負けちゃいかん」の一言を残して帰ってしまった。対局者とは顔を合わせなかったが升田は、18歳の新人森内が、昔親しかった京須行男八段の孫であることを知っていて、応援の気持ちで来たのだったと思う。



小池重明を負かす


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


「ジューメイ」の愛称で人気のあったアマチュア名人小池重明(しげあき)。真剣師である。若くして他界したが、昭和56年頃の彼は「史上最強のアマチュア」と呼ばれ、アマ・プロ平手戦でプロの四、五、六段の強いところと10局指して7勝3敗。角落ちでは中原と米長に各々1勝1敗、大山には完勝という強さ。森雞二に平手で勝ったこともある。松田茂役九段や花村元司九段の協力で、奨励会三段として入会を認めようかという話が起きていた。

 この男に目をつけたのが、朝日新聞系の新雑誌『リベルタン』の編集長、長谷川明(作家)である。創刊記念に升田―小池の角落ち戦はできないだろうか。

 最初に話を聞いたのは私で、おもしろいけれど、升田先生、勝てないと思いますよ、小池さんは強いからと言った。

 プロ棋士に意見を聞いても同じ答えだったというが、長谷川氏は絶対にファンにうける企画だと信じていたので、両者に話した。升田は二つ返事で受けた。

 小池氏は自信満々。「年寄りをいじめるのも気の毒ですけどね」と来た。「ご高齢で引退後ですから弱くなっておられると思います。全盛期に指していただきたかったなあ」

 対局は実現した。駒落ちとはいえ升田にとっては引退後初めての対局である。

「どうやら升田先生は小池重明の強さをまったくご存じないらしい」と思った長谷川氏と観戦記を書く私は、大山十五世名人が完敗した棋譜をそれとなく升田宅に送ったりして、心配しながら当日を迎えた。

 対局場は東京・広尾(もと羽沢町)の「羽沢ガーデン」。

 ひざを曲げるのが体に悪いという升田の状態を考え、応接間に急ごしらえの椅子席を設けて指してもらうことにした。

 間もなく64歳になる升田は、夫人同伴でやってきた。

 足がひどく弱っているから、長い廊下をカタツムリのようにそろそろと進む。魔法瓶を下げた奥方が寄り添って歩く。

 この日の話は非常におもしろくて、観戦記を全文転載したいほどだ。小池アマ六段にはプロ入りの念願があるので、必勝を期して指し進めた。

 升田の指し方は風変わりだった。いや、それどころか、アマ初段の長谷川氏などは、△8三玉と飛の頭に玉が上がった手を見て、

「升田先生、ほんとにボケちゃってるんじゃないのか」

と心配したそうだ。実はこれが升田流必殺入玉戦術であることにさすがの小池六段も気付かなかったのである。

「久しぶりに将棋指すから、メチャクチャだ」と苦笑する升田。シャミセンだった。

 ▲8五歩(参考A図)と打てば△9四金の一手。そこで▲8六角または▲8八飛で必勝形と小池は読んでいた。

 ところが、升田はにやっと笑い、△8五同金とこの歩を取った。金のただ捨てだ。▲同銀なら△8七歩成で、下手歩切れだから難しい。

 小池が急に考え込んだ。大失敗に気がついたのだ。

13分考えて▲7四歩。これも悪手。

「そうか。突いたか。ハッハッハ」と升田が高笑いした。

 2手連続の悪手を指しては、大駒落ちでも下手が苦しい。じりじりと押され、角ただ捨ての勝負手をひねり出したころには時すでに遅く、大勢は決していた。

 ▲5八歩(参考B図)。

「取るとどうする」とつぶやいた升田、ノータイムで△同飛成。

「参りました」と文字通り平伏した小池ジューメイ。

 感想は升田が一人でしゃべった。

 がっくりした小池は宴席の用意があるというのに「帰りたい」とうめいた。私たちがむりやり引き止め、升田の横に座らせた。

 持参の魔法瓶から、日本酒は体に悪いので特製の梅干し入り焼酎かなんかをコップにどぼどぼ注いで飲みながら、ヒゲの九段は談論風発、その元気なこと。

 小池六段はどうしたか。

 さすがにやるもんで、座椅子にもたれて狸寝入りをしていた。朝昼晩と酒には目のない小池が、目を開けてビール一杯しか飲まないうちにお開きになった。

 升田は小池の顔を見てこう言った。

「あんたは強いんだが、敗因は僕がプロだということを忘れとったことだ。やせても枯れてもわしはプロ。君はやっぱりアマチュアだな」

 升田は“地獄耳”なのだ。何も知らぬふりをしていながら、小池の強いことも、プロ入り問題も知っていた。「万事承知の上で、全力を挙げてこの強豪を叩き潰すために来ていたのだ」と長谷川編集長は驚きを記している。

 送りの車が来た。ヒゲの九段は玄関で手を振った。

「小池君ありがとう。君は、升田健在なりを宣伝してくれた。バイバイ」



クオの別世界



クオの別世界


(続く)