升田幸三物語 第117話
「小池重明を負かす」
升田幸三
健在なり、じゃ。
ハッハッハ。
引退後は悠々自適
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
「あたたかく激励し、再起を待っていてくださるファンのみなさんに、いきなり引退というのでは申し訳ない。そこで2番ほど指してみましたが、年間何十局という将棋を指すのは、病体がもちません。各棋戦に迷惑をかけないよう、いさぎよく退くことにしたわけです。しかし、これで将棋をやめるというのではなく、臨時の特別棋戦などが企画され、升田よ出ろということなら、体調の許す限り指すつもりでいます」
昭和54年5月1日、引退を声明した升田は61歳。「やっとこれで好きなだけ碁が打てるわ」と笑っていた。長男の晋造さんも次男の高寛さんも父の職業は継がず、慶応大学から一流会社へ就職していた。長年気の休まる時がなかった静尾夫人にとっては、初めて経験する平和な日々だった。
講演の依頼やパーティーの誘いは相変わらず多かったが、特別の関係がないところはなるべく断るようにし、もっぱら囲碁を楽しんだ。
大山康晴日本将棋連盟会長は、偉大な兄弟子の処遇に知恵をしぼった。先に記したように升田が、名誉名人は受けられない、と断ったからである。棋士名簿などは九段のままになっていたが、色紙や著書に署名するとき「名人の上 升田幸三」と皮肉をこめて茶目っ気たっぷりに書いた。昭和61年に完結した『升田幸三選集』の出版記念会で配られた特製扇子も「香一筋 名人の上 升田幸三」である。このころはもはや肩書きなどどうでもいい心境になっていたと思うが、決してそうは言わないで「大山君に任してある」と表現していた。
谷川浩司が八段に昇ったとき、ある書店の社長が特別対局を企画、打診したところ、
「名人にもなっとらん者と平手は指せない」という答えが返ってきたと聞く。これも南禅寺対局の阪田三吉のまねをした、升田一流のジョークだ。『将棋世界』の企画では五段の谷川少年と平手で指す気でいたのだから。
昭和63年3月5日、日本プレスセンターで催された「永井大三を偲ぶ会」に出席した升田は、相も変わらぬドスの利いた升田節を披露し、旧知の宮沢喜一首相らと大いに歓談した。
棋士は現役を退くと急に身辺がさびしくなるものだが、升田を慕って訪問する客は多く、笑い声の絶えない毎日だった。
河口俊彦六段が何かに書いていたが、ある時、升田後援者の一人が「ヒゲの旦那もトシで、弱っているから、碁でも打って慰めてやろうや」と河口を誘った。河口は「朝日アマ囲碁十傑戦」で神奈川県代表になったほどの強豪だが、升田家を訪れ、わが家の中を歩くのさえ大儀そうな先輩の姿を見て、なるほど大名人もトシには勝てないなと気の毒になり、升田に白を持たせてかるく打ち、2番負けた。その間に升田はだんだん機嫌がよくなり、背筋が伸び、手つきも鮮やかになってくる。
「話がちがうぞ」と思った河口。3局目は本気を出して勝とうとしたが、勝負の流れで、見事に負かされてしまった。升田いわく、
「やっぱり神奈川県は田舎やなあ」
記憶力も確かで、ちっとも弱っちゃいなかったのだ。
(続く)
若手と腕試し対局
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
名人戦が毎日主催になると朝日はどうするのか。「将棋欄を白紙にしてやるんだ」と叫んだ八段もいたと聞くが、棋界伝統の「刺し違え精神」はすでに古かった。朝日では「チェス欄にするか」という案まで出たが、大阪本社の池田昌二学芸部長が打ち出した線は「升田、加藤両九段の力も借りてアマチュア将棋でいこう」だった。しかし連盟は「休場中の棋士が、解説ならいいが対局してはいけない」と言ってきた。進行中の升田対学生の飛落ち指導対局は中断された。が、将棋は将棋連盟が発明したゲームではない。やれることはたくさんあった。
大山さんは広岡知男社長に「名人戦がなくなると朝日は潰れますよ」と捨てゼリフを残したが、そんなことはない。私は「阪田三吉物語」をのべ9か月連載した。
升田は悠々としていた。「いつ引退するか。それは自分で決めること」
棋士全員が朝日嫌いになるわけはない。2年後には雪解けが始まり、春近しを予感させた。
しかし升田とて還暦を迎え、松浦卓造、野村慶虎、清野静男、梶一郎、さらには飲み友達でケンカ友達だった塚田正夫にまで先立たれてみると、無常観に身をさいなまれるのは当然だったろう。
「人が変わったようになりましたね」とは、静尾夫人の話。古風な人物だから「限りある身の力試さん」という心境になったようだ。
元気な時から優しい人だった。道やデパートの将棋まつりなどで子どもに「サインして下さーい」と囲まれると必ず応じていた。あの「升田名人」の顔を知らない人はいなかった。「人気」では空前絶後の棋士かもしれない。「東君。いま何か失言しなかったか」という声がまた聞こえる。訂正追加します。「将棋の創造も空前」です。
昭和54年。『将棋世界』の清水孝晏編集長が、「升田九段登場」を企画。新鋭小林健二五段、青野照市六段、谷川浩司五段との3番戦、升田は承諾した。主治医の言に従って、体に悪いから椅子で指させろ、と言ったのだが、だめだと言うので畳で指した。
観戦記は絶対の升田びいきであった倉島竹二郎、脚本家の石堂淑朗、観戦記の大御所太期喬也である。
まず小林五段。彼はのちにA級順位戦で入院直前の大山十五世名人のために繰り上げ対局を快諾したほどの敬老精神の持ち主。すっかり升田を喜ばせてしまった。明治生まれの倉島さんの文もすばらしい。全文ここに引用したいほどあたたかい観戦記。升田は後で「小林君は態度が非常によい。きっと大物になる」とほめたそうだ。
第二局、青野六段。
「疲れか? 九段にミス出る」と見出しにある。各3時間の対局で升田は「集中力がだめだな」と言ったそうだ。
第三局は谷川五段。17歳になったばかり。谷川は他の対局が済み、東京で待機していた。編集長が念のため前々日、升田に「5月1日はよろしく」と電話をかけた。
「ああ。もう指さない」と升田。
谷川君には黙っていた、と清水氏は言う。気が変わるということがあるから。
当日朝、清水氏は朝日新聞を見て驚く。
「升田九段が現役引退」と一面に大きな字。即日将棋会館で記者会見が行われた。
「あの時、谷川さんはなんて言いましたか」
清水氏は「黙ってたね。なんにも言わないで神戸へ帰っちゃったよ」と私に答えた。
「人は、時代的にしか生きられない」と坂口安吾の言葉がある。升田の時代はとっくに去り、谷川の時代が始まっていたのだ。羽生善治は小学生だった。
(続く)
名人戦、毎日へ
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
将棋名人戦は昭和10年から毎日新聞、25年から朝日新聞がスポンサーになっていたが、朝日が囲碁の名人戦を持ったことに端を発して将棋連盟は大幅な契約金の値上げを要求した。朝日は「囲碁と同額」の要求をのんだ。ところが将棋連盟は翌年、さらにその2倍以上の値上げを申し入れて来た。昭和51年夏の出来事である。私にはその真相は分からない。
「バナナの叩き売りじゃあるまいし」と升田は激怒した。
3億円の要求を断られた将棋連盟が、一挙に「1億6千万」に下げたからだ。私の知る限りでは、もう少しで折り合いのつく金額に近寄ったらしいが、棋士総会の票決は56対54票で「朝日とは契約しない」と決まった。以後の動きについては省くが、順位戦も名人戦も1年のブランクを作って、結局は古巣の毎日へ戻った。
ひとつ言えること。それは、升田と大山の“最後の戦い”でもあったのだ。恐らく、升田と大山は何度か会って話をしている。そして両雄ともに、人には言えないことを胸にたたみ込んでこの世とおさらばしたに違いない。
名人戦問題は「陣屋事件」以来の騒動となり、マスコミはいろんな報道をした。
同時に起きたのが「升田の引退問題」だった。大内延介八段が正面に立って「元三冠王、きれいにおやめになるべきだ」という意味の勧告が升田に対してなされたという。正論である。時代が変わったのである。若者たちから見れば、病気で休むの、椅子対局ならやるのと、随分自分勝手な親分に見えたはずだ。しかし有名人をたくさんふくむオールドファンの心中では、升田は「別格の棋士」だった。
私も升田びいきである。一例を挙げよう。升田さんが亡くなった直後、あまり縁のない出版社「ジ・エンサイクロペディア・ブリタニカ」から依頼があり、升田さんの略伝を年鑑に書いてくれという。今年の物故者の一人として収録したい。囲碁、将棋界を通じてこの大事典に載る最初の棋士だという。日本人では安部晋太郎、本田宗一郎、上原謙、後藤得三、瀬川美能留、中川一政、野間宏、務台光雄、橋本明治らと同列である。
「人の評価は棺を履いて後に定まる」という。将棋人、特に下位棋士は、升田の欠点ばかりを見て功績がよくわからなかったのではないか。ブリタニカの評価は正しい。
(続く)
引退の花道
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
昭和49年度の升田の成績は12勝10敗。
50年度は、さらに下がって7勝13敗である。鬼才も病気には勝てず、指すたびにファンを湧かせた新手も見せず、何歳までA級の地位が保てるか、引退の花道はあるのかといった淋しい話題が升田ファンの間でささやかれるようになっていた。
過去、順位戦では3局までしか負けたことのなかった升田だが、この年は苦しかった。
当時、千駄ヶ谷の将棋会館は資金援助に恵まれて、和風2階建てを取りこわし、現在の地上5階地下1階のビルが建つことになり、仮住まいとして元日本棋院だった高輪の木造家屋を借りて対局していた。50年度のA級の顔ぶれは、上位から大内、大山、升田、米長、板谷、二上、有吉、加藤一二三、桐山、熊谷だった。なお、関西の理事としても大活躍していた熊谷達人八段は難病に死を覚悟しての出場であって、数回の大手術もむなしく、52年4月、脳腫瘍で死去した。46歳だった。
升田は桐山に勝ち、米長に負け、大内に勝ち、熊谷に勝ち、大山に負け、二上に負けた。河口俊彦五段には病気で不戦敗。NHK杯で中原に惨敗したあと、順位戦で有吉にも負けて3勝4敗。私たちは緊張した。升田は、あとを指さないで引退してしまうのではないか。
第8戦の相手は板谷。ところがこの将棋、三間飛車に振った升田は、ゆっくりと時間を使ってうまく指し、中盤のリードをそのまま持ちこたえて163手で勝った。
4勝4敗。最終戦の相手は、かつて弟子のように面倒を見た加藤一二三九段。加藤は3勝5敗で、降級の恐れがあった。
51年の3月3日。天気は覚えていないが寒い日だった。東京の高輪では大山―有吉、升田―加藤、二上―大内、米長―桐山の4局。大阪で板谷―熊谷の1局が行われた。
挑戦権争いは、7勝1敗の米長が「自力」。米長が負けた場合に同点決勝の目のある大山が、弟子の有吉と指す。有吉は5勝3敗だから挑戦も降級も無関係。降級2名のうち熊谷はすでに決定で、あと1人は2勝6敗の大内(名人になり損ねたショックか、と言われた)が負けると落ちる。大内が勝てば、加藤は負けると落ちる。両者が勝てば板谷が危ないが、相手が重病人だから彼は勝てるだろうと予想された。
産経新聞に梶川真治という名物記者がいて、当時の将棋担当で私もお世話になった。そのカジさんが「今日は見ものだ」と言って昼過ぎから用もないのにうろうろしている。「えらそうに威張り散らしている升田幸三が、負けて引退するとこを取材するんだ」などと言う。「やめませんよ、升田さんは」「負け越したら引退すると言ったよ」「いやそうじゃない、勝率4割が公約ですよ。4勝5敗じゃわかりません」「やめてもらわなくちゃ困るんだよ、あの旦那には」「夜中まで待つんですか」「もちろん。あんたが帰っても俺は居る」
升田は幽鬼のようだった。加藤は、叱られている子どものように小さくなって座っていた。すごい対局だと思った。午後10時50分、159手で升田投了。
盤側で感想を聞いた。升田は淡々と「これが悪かった」「こうやったらどうする」
加藤は「は」「は」と答えて手を動かすだけ。この両棋士にしては不思議に静かな会話。やがて立ち上がった升田は「いま何時だ」と記録係に聞き、私に「ご苦労さん」と一声かけて去ってしまった。梶川氏が後を追ったが、口を利いてくれなかったそうだ。
米長の名人挑戦、大内が降級だった。
(続く)
56歳で復帰
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
昭和49年、升田は56歳。当時の規定では公務(会長就任など)以外の休場は連続2年まで認められ3年続けて休めば降級だ。復帰の日は近付いた。観戦記で私は朗報を伝え「アタマ以外は全部悪い、などと言っておられるが……」と記したところ、掲載されたその日、たちまち電話でしかられてしまった。
「升田幸三。今日の観戦記にあんたは間違いを書いとる」
「え……手のことでしょうか」
「僕の体のことだ。良いのは頭だけじゃないぞ。心も優しい。フッフッフ」
電話で「東君か」などと言わず、いきなり升田幸三、とフルネームを言うのがヒゲの先生のごあいさつだった。
7月17日。約2年ぶりに駒を握った升田は王将戦予選で新鋭勝浦修と戦った。余談ながら、ガンに打ち勝って奇跡的な再起をした時の大山の相手も、勝浦九段だった。
笑顔で話す升田。予定通りの超早指しで、6時間のうち38分しか使わずに七段を負かした。中1日で19日の原田泰夫八段との棋聖戦も、1時間ほどしか使わずに勝った。
「肩馴らしはまあまあだと思うが足が弱って、正座できんようになったのが困る。椅子でやらせてくれ、いうて連盟に申し入れたが、だめだと断られた」
A級順位戦は、初戦で加藤一二三九段に敗れた。この対局も37分しか使わず、加藤は5時間59分を使い切って1分将棋。
青野照市四段にも早指しをして敗れたあと、順位戦の2局目は、内藤國雄九段。このあたりからペースをつかんだ升田は、相掛かりの急戦調でスタートし、150手の力闘で勝った。消費は3時間1分、内藤は5時間50分。当時の内藤は大山から王位、米長から棋聖を奪取、次いで第1回の棋王戦に優勝するなど、脂の乗った30代だった。
やっぱり強い。A級順位戦に的を絞る升田は関根茂八段に1時間22分で勝ち、二上達也九段には負けたが、板谷進八段にねじり合いの151手で辛勝、3勝2敗とした。
升田の愛した好青年板谷は、63年に47歳で急死してしまった。
6回戦で大内延介八段に勝つ。次の相手大山九段と順位戦を指すのは実に23年ぶりということになる。広島と岡山の出身で同じ釜の飯を食って育った兄弟弟子は、大山が18期、升田が2期「関東方にはあと10年名人位を渡さない」という大山の宣言より長く、中原誠が現れるまでの20年間、どちらかが名人の座にいた。「中原さんだって生まれたのは鳥取県だもんね。将棋は関西が強いんですよ」と大山はよく言って笑っていた。
升田は大山に勝った。189手、午後11時までかかった。これで5勝2敗。
次いで有吉道夫八段にも、消費1時間36分で勝って6勝。しかし苦手米長邦雄八段に90手で敗れ、3敗。最終局塚田正夫九段には31分しか使わずに楽勝したが、名人挑戦権は大内八段に取られた。急所の一番、対大山戦に、わざとゴルフウェアで登場した大内の勇姿を昨日のことのように思い出す。8勝2敗である。大山は板谷に敗れたのが痛く、7勝3敗で2位。升田は3位だった。
(続く)