升田幸三物語 第112話
「56歳で復帰」
びゅんびゅん
指して、
勝ちまくる。
46年のA級順位戦に、ものすごい升田―有吉の激闘があった。その日までの升田は各棋戦で次々に若手と当たり、大内、中原(千日手指し直し)、西村、米長、米長、中原、有吉の順に7連敗中だったこともあって、十分に四股を踏んで家を出て来たらしかった。
有吉先番、升田三間飛車の立ち上がりから、227手までで持将棋。
参考A図、有吉の駒数は規定ギリギリ。有吉は残り
1分、升田は6時間のうち3時間44分を余し、終局は午後9時57分。
指し直しは夜の10時半開始。記録係の若い子がダウンして、塾生の鈴木輝彦2級と交替した。
新規の持ち時間は有吉が1時間で、升田は4時間43分。ノータイムで指し進められた序盤は、升田のひねり飛車。これが前局に輪をかけたモーレツな叩き合いで、「将棋じゃない!」と言いたいような執念深い有吉のソッポ攻め。完全に指し切らせたつもりの升田も怪しくなり「2筋タテ一線」の参考B図が143手目。結局169手までで有吉が投げたが、升田の消費時間はなんと、ただの3分。有吉はもちろん59分を使い切って秒読みだった。終局は午前0時32分。これだけの気力が、まだ升田には残っていたのである。持将棋局との合計396手。感想戦が終わると、上機嫌の升田は言った。
「有吉君、碁を一番教えようか」
昭和47年度。24歳の中原が大山を破って名人位に就いた年だ。升田は十段戦リーグなどの残務整理を5局指しただけで1勝4敗。5月から休場した。翌48年度は全休。この年の11月、紫綬褒章を受章する。
勲章嫌いの升田も、「将棋の技術向上」に対して贈られたこれだけは、喜んで受けた。
見かけは元気なので「どこがお悪いのですか」と尋ねるとヒゲの九段はこう答えた。
「どこって、全部だ。アタマ以外はどこもかしこも全部ガタガタです」
(続く)
優秀な後輩育つ
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
名人位返り咲きの念願叶わなかった升田は、夫人と
二人で関西に夏を過ごし、残暑の8月半ばから戦列に復帰した。各社が待ち兼ねていて十分な休養は許されなかった。
6時間使っていては今や体がもたない。1時間で指してみよう。相手に長考されれば、ぼんやり休んで待っていよう。
升田はこの戦術を実行した。王将リーグや棋聖戦ではもっと以前から早く指していたから大体数十分しか使わず、昼過ぎに終わることは珍しくなかった。
対星田戦もその一つ。初手の18分は遅刻6分の3倍引きだから、実際の消費は7分だった。10時8分開始で、11時57分に終了している。対面する相手が升田とあっては、いやがらせの長考は実際にはできないのである。なお、ベテラン星田はこの年絶好調で、松浦卓造八段、塚田正夫九段、加藤一二三八段ら5人を連破して王将リーグ入りし、第3戦で中原誠十段を破って大変な話題になった。筋金入りの棋士は調子に乗ると恐ろしいのだ。中原はこの1敗が致命傷となって有吉八段に挑戦権を取られている。
疲れやすい升田は、よく対局中に脇息を枕にして長々と寝そべった。あるとき相手の原田八段が、
「升田さん、いくら先輩でもそれは失礼でしょう」
と大声で言うと、
「あ、悪かった」
と謝って、やめた。勝負には原田のような気骨が大切である。
升田が「この男」と見込んでいた山田道美九段(棋聖)は、45年の夏、年端わずか36で奇病にたおれた。訃を聞いたとき升田は一言「かわいそうに」と言ったそうである。
升田は明朗闊達な若者が好きだったのに、同門の二見敬三七段や熊谷達人八段、板谷進九段にも先立たれ、残念がっていた。「わしゃ死ぬるよ」が口癖だった升田が、頑健そのものに思えた大山よりも長命だったのは不思議な気がする。
46年度の升田の成績は12勝19敗である。しかし生命線ともいうべき順位戦では5勝3敗。それでも、8戦全勝の記録を作った中原誠十段・棋聖(当時の順位戦表には八段と表記)に次ぐ2位だった。
升田の退潮をはっきり私たちに感じさせたのは俊秀米長邦雄八段だった。米長はこの先輩に6戦全勝である。46年度は順位戦(初手合い)、王将戦、最強者決定戦(記念対局)と続けて3番指したが、いずれも盤上に火花の散る華麗な将棋だった。
米長は升田と同じ町内に居を構え、升田は「ムギナガとかいう、碁の弱い男がこの辺に越して来てな」などと私に言っていた。
関西の後輩では内藤國雄が好きで、信頼し切っていたようだ。珍談がある。昭和50年1月にNHK杯戦で当たり、升田には珍しい千日手指し直しの末内藤が勝った。中盤で内藤の▲4五歩から▲4四歩がすばらしい好手順だった。
一杯ひっかけて帰宅した升田は、ごろりと横になって夫人に話しかけた。
「今日の将棋はどうもおかしいよ。あの歩突きは早かったなあ。いっぺんに2手続けて指されたような気がするなあ」
好手順に感心していたわけだが、全く将棋を知らぬ夫人は冗談を真に受け、内藤がインチキをしたのではないかと思い、翌朝電話で「主人がゆうべ帰って来て、こんなことを申しておりましたが……」と内藤に問い合わせた。夫人の気心をよく知る内藤は、とっさに「反則はしなかったと思うんですが、念のため調査してみます」と答えたそうである。
大山門下の有吉道夫八段もA級に定着し、升田の一大敵国になってきた。稀に見る師匠思いの人だけに、毒舌で時に「大山のバカが」などと放言する升田には、絶対に負けちゃいかんと思っていたようだ。ある年のA級順位戦で升田が四間飛車で勝ち、私は後日改めて升田に解説を受けて「ここで有吉は▲4四歩と打つべきだった」と書いたところ有吉から電話がかかって来た。「あの手は私も読んだが、利かない。升田先生の意見だろうが、間違っている」という抗議だった。
勝率4割になれば引退
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
升田は『中央公論』46年9月号に手記を寄せた。「石田流に挑戦する」というタイトルで、気の向くままに勝負観、人生論を語った口述筆記である。“升田語録”として要約してみる。
「石田流は短期決戦の戦法だ。今度の名人戦では初めは石田流だが後は升田流。構えは石田流でも、鞘走ってからは違う。この指し方は百年くらい前から悪いとされており、木村名人も大山名人も著書の中でそう書いている。これに対するぼくの一つの抵抗があった。もし名人戦でぼくが石田流を使って勝ったらどうなるか。結果的にはミスがあったり、身体をこわしたりして負けたけれども、私が勝っていたら棋士は皆、腹を切るのか」
「われわれのように技術に携わる者は、自分で詳細に調べて納得してから発言しなければいけない。先輩が悪いといったから悪い、とするのはアマチュアの論で、
プロの論ではない。それでは少しも進歩がない。ぼくには、不利だ、不可能だといわれるものに挑戦する性癖がある。全部が全部成功するわけではないけれどそれが新型になり、新手を生み、つまり将棋の進歩につながる。他の人は安全を先に考えるから、先輩の模倣を選ぶ」
「視野の狭いことはしない。ここにぼくの考え方の根本がある。女にしてもそうだろう。八頭身の女が一番美しいといっても、自分が妻を選ぶ場合、八頭身ばかり好んで選ぶわけじゃあるまい。デブが好きとかいろいろあります。そこをいっておるわけだ」
「大体、棋士は口では謙虚なことをいっていても、自信過剰の天狗が多い。ほんとうの天才はなかなか出ない。大天才というのは日々勉強し努力を惜しまない。その上、自分のアイデア、発想を創り出す。小天才、中天才は他人が3日で覚えるのを5時間で覚えたとかいう習得の早い連中のことでね」
「若い時は、一番一番どれも勝ちたい、なんでもかんでも勝ちたいと思ったが、いまはマラソン的な考え方。スピードを出したりゆるめたり。常に勝つことばかり考えて燃焼していたら参ってしまう。50を過ぎてまだ勝負をやっておるけれども、勝負にとらわれていない。とらわれてはいないが、まだくたばらない。位に対する執着はある。Aクラスの位は守りたい。しかし、10番指して4番しか勝てなくなれば、Aクラスから落ちなくても辞める」
「まあ、弱くなったら段位を返上して指すことはあるかも知れない。それなら世間をごまかすことにならないからね。肩書きは八段だけれど実力四段というのは、世間の人にはわからない。だからといってお礼(対局料)を八段としてもらうのは虚偽だ。そんなことはぼくの性格に合わない」
最後に升田は、「プロは、ファンにとって面白い将棋を指す義務がある」という持論でしめくくっている。
数学の岡潔博士(文化勲章受章者)も升田ファンであった。名著『紫の火花』ほかエッセイ集の中には将棋の話がたくさん出てくる。「創造」を論じた哲学的で格調の高い文章だ。「升田のポカ」を次のように解釈している。
「桐の葉は秋にあうと、葉柄のつけ根のところにコルク層ができてポロリと落ちる。そんな気がするだろう。これが升田さんの前頭葉に、無形の総合像がある時とない時の差である。もう勝ったと思って気を抜いた瞬間、その像が消えたのであるが、升田さんはそれに気付かないで、同じつもりで指したから、こういう結果が出たのである。前に『すみれの言葉』でのべた宗看や看寿の詰将棋も、この前頭葉の画布の働きによるものに違いない。私は詰将棋を作ってみたことがないからよくわからないが、このときは無形像、有形像の2種類をともに使うのではなかろうか」
桐の葉は秋にあうと――美しいたとえだ。
不世出の天才棋士升田の波乱万丈の人生も「秋」にさしかかっていた。神は、いま少しの体力を、升田に与え給わなかった。
(続く)
最終局も石田流
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
第30期名人戦は3勝3敗になった。升田と大山は28年から43年までに名人戦を8回戦っているが、なぜかスコアは一方的で、最後の一番に命運が託されたのは初めてである。
53歳の升田は東京の「富田」で一夜を過ごし、6月14日の朝9時5分前、対局の部屋にスタスタと入って来たが、関係者のあいさつに「うん」と答礼しただけ。黙って下座に着き、たもとからタバコをとり出し、灰皿を引き寄せて一服つけた。いつものジョークが出ない。大山の顔も見ない。観戦記者の私には、体調の悪さがまず分かった。如才なく大山が立会い人の金易二郎名誉九段に碁の話をしかけ、こわばった空気をほぐした。
鈴木英春三段の振り駒は「と金3枚」。升田が先手になった。廊下に居並ぶカメラマンが撮影を開始しており、やがてストップウォッチが動き出した。大山のお辞儀に「や」と礼を返した升田。20人もの男がいて全員無言の2分というのはひどく長いものだと思った。
▲7六歩△3四歩▲7五歩△8四歩▲7八飛
スタートの5手で、1時間を超えた。
大山 「おそらく升田さんもそうだったと思いますけど、今度の名人戦は石田流が“目”になっているわけですよね。私にしても、たとえば相振り飛車とかほかの指し方で行くより、ここで(石田流を指させて)勝負つけときたいという気もしたし……結局、△8四歩と突いたわけですよ」
升田 「初めは居飛車で(大山に振らせて)指すつもりだった。意地? そうです。意地ということですね」
天下一品の受け将棋大山に、石田流の奇策を4度ぶつけて○○●●である。升田の胸中を去来したのは何だったか。
名人戦で大山君と戦うのは、この一番が最後かもしれないな。勝てばよし、負けるもまたよしか。やってみるか……。
アメリカの智将、ダグラス・マッカーサー元帥は、勝つことの専門家だった。パール・ハーバー奇襲を指揮した日本の名将山本五十六海軍大将(将棋好き)は、不利を承知で陸軍の要望にこたえて対米開戦に踏み切ったと聞く。勝負師としての大山と升田の人間性を、この二人にたとえられるように思う。
参考図は、大山の「最終戦用の秘策」という感じのする駒配置だった。金銀三枚を前線に繰り出した大山は徹底マークで升田の飛車を封じ込め、苦悩する升田が中央に銀を進めて争点を作ろうとした寸前、「大山の金引き」と今でも語り草になっている△4二金の妙手で、升田の構想を打ち破った。
後年『升田幸三選集』を編集したとき、升田は「あの金引きは、さすがに大山だよ」と小さな声でほめていた。
名人の考慮中、第1日の指しかけ時刻が来た。はーい、と少し引っぱった声で返事をした大山は、こんこんと考え続け、1時間14分で「やりましょう」と立ち上がった。
その間、升田は何をしていたか。
5時半ごろまではタバコばかりふかしていた。しばらく中座し、戻って来るといきなり手荒く盤側のくず箱の蓋を取り、中をじろじろと眺めまわしていた。何か物をなくしたのだろうと思ったが、聞かれもしないので、だれも何も言わなかった。あるいは、全然意味のない仕草だったのかも知れない。
升田は第2日の昼休みに自室で仮眠をとったが、午後も顔色はドス黒く、相変わらず無口なまま。局後「指しかけの晩に風邪を引いて……」と聞いた。終盤、かなりきわどい局面もあったと控室の二上達也八段、丸田祐三八段らは指摘したが、当の升田は「さっぱり読みがまとまらず、▲9八飛のミスで勝負を諦めとるから、細かい読みはしとらんのです」と感想戦で言っている。しかし、発熱のため赤黒くなった怖い顔の升田は激しく攻めを続け、大山はしばしば両手を畳に突く「苦戦のポーズ」を見せたが、やんぬるかな、升田は大山が心配していた唯一の勝負手▲5五金を逸した。以下の終盤戦は大差になってしまった。
午後5時18分、升田は扇子の先で盤の上に輪を描く仕草をして「だめか」と言い、やがて「や、それまで」と、意外な大声を出して投了した。
報道陣、棋士に囲まれて約2時間、少しも悪びれぬ升田はパチパチと駒を動かし続けた。問題の手どころを調べたあと、「能力が低下しとる……頭の」と淋しそうにつぶやいたが、目は人なつこく笑っていた。ころはよし。私は「もう、この辺で」と打ち上げに移ることを提案。ちらっと腕時計に目をやった大山は居ずまいを正し、まだ駒を叩いている兄弟子に「ありがとうございました」と艶のある声で言い、深く頭を下げた。
(続く)
3勝3敗となる
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
2対1と升田がリードして、名人戦は盛り上がった。
「60歳でも名人になれる」と言い放った升田が、ほんとに返り咲くかもしれないのだ。
第4局は5月11日から湯河原の「石亭」で行われた。この時の観戦記で龍記者が初めて「升田式石田流」と命名した。参考A図まではすらすらと進み、次の△6四歩に大山、18分。新戦法の手強さを認識している大山は、以下▲2八玉△4二玉▲3八銀△3二玉として▲7六飛に、また22分の考慮を払った△4二銀。手損を嫌う新対策。升田は▲7八金と指し、角交換の後に、また珍しい手を指した。▲5五角の「王手歩取り」で持ち角を手放したのである。前例のない戦い。
第2日に入って千日手模様が生じ、大山が立会いの広津八段に規定を訊ねる場面もあった。
「自信はなかったが、千日手は避けたかった」
と大山。
その後、終盤の入り口あたりで升田に2手連続のミスが出、優劣がついたが升田の戦意は衰えず、ぎりぎりの一手違いに持ち込む。しかし、156手までで駒を投じた。消費は升田3時間50分、大山8時間37分。
2対2。第5局は、5月25日から東京・四谷の「富田」で。先番大山の▲7六歩に対し、升田は△8四歩。ふと私は、大山が▲7五歩と突きはしないかと思ったが、ちょっと違った。▲5六歩以下、お株を奪う「升田式向い飛車」の採用だった。
この対局のころ升田はまだヘビースモーカーで、1局に200本くらい吸っていた。ただし、一口吸っては捨て、長い吸い殻を大きな灰皿の縁に菊の花のように並べるのがお気に入りだった。「愛煙家として専売公社(今の
JT)にも知れちまった。新製品のモニターを頼まれておる」と冗談を飛ばすほどで、自宅にはいつも大量のストックがあった。
この将棋も升田の会心作。大山の失着をとらえて86手で押し切り、3勝目を挙げた。升田の消費、2時間48分。大山は5時間43分で、第2日の朝10時54分に終わってしまった。名人戦における“早仕舞い”の新記録が生まれたが、原因が「大山の失着」だったところが珍しい。
第6局。6月3日から東京の「虎の門福田屋」で。先番升田は、四たび石田流を採用する。そして大山の新対策に、升田も珍しい銀のさばき(8八から5五を通って
4六へ)で応じ、参考B図の▲6七角打が、控室に詰めかけた棋士を驚かせた。
大山の気迫が升田の歯車を狂わせたのかも知れない。
終盤、升田が「ちょっと荒いかな。アラカワクマゾウ」と言いながら馬を切った手が本当に悪手で、134手、両者8時間以上を使った死闘は大山の勝利に終わった。
(続く)