旧定跡の否定
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
第2局は大乱戦。入玉には無関係なのに207手かかって升田が勝った。升田は、9時間のうち8時間58分を費やして根限り戦い抜いた。大山に勝ったのは41年4月の名人戦第2局以来だ。5年間に12連敗を喫していた。升田といえども自信を失っていただろう。
「まだやれる。体力が残っている」
升田は喜んだ。
翌朝、大阪市内にある恩師木見金治郎の墓前に立ち、香華を手向けた。
第3局。4月30日から東京・紀尾井町「ふくでん」で行われた大一番。観戦記者は私だったが、いま振り返って思い出せるのは、会心の一手を指した前後のヒゲの先生の表情だけである。升田の名局として、多くの読者がご存じと思う。
「石田流をやるのは意地です」と升田。
「升田の序盤」を一貫するテーマは「旧定跡の否定」だった。そんなことは当たり前だが、升田にしか見られなかった“修正”は、50年も100年も前の定説をいきなりくつがえしたところにあり、ファンに新鮮な驚きを与えたのだ。その最高傑作がこの、アマチュアしか指さなかったハメ手の代表格「石田流」の再発見だろう。
第3局、大山が▲2四歩と突くところの観戦記に私はこんなことを書いた。
「“国際意地っ張りコンテスト”の日本代表を選ぶとしたら、それは大山だろう」
盤側で、猛烈な“意地っ張りコンテスト”を見せていただいたからである。どんな新手だって、相手が弱くては実現しない。大内や大山のように、よし、行ってやれと度胸を決めて▲2四歩を決行する“協力者”なくしては、升田の鬼手も生まれない。勝利への“打算”抜きに、ようし、と注文に乗る度胸が、後輩の大内、米長、中原あたりの将棋には顕著である。
角を交換し、△2二飛と飛の交換も挑み、▲2三歩と打たせて△1二飛。この構想が前人未踏のジャングルへ潜り込むような冒険であった。その周辺を解説した著書『升田式石田流』(日本将棋連盟刊)は当時のベストセラーになった。将棋クラブへ行っても、みんな真似をして指していた。私の知る限りでは、この新手のヒントは七世名人伊藤宗看の左香落の棋譜にあると思う。
△3一角と引いた時に、1一の香が升田の袖に引っかかって畳の上で跳ねた。升田は、
「バッタみたいな奴だ」
と言いながら拾い上げ、時計を見た。大山が▲5四歩と取り込む。升田、しばらく考えるうちに5時半になり、考慮14分で封じ手(△4七銀)が行なわれた。升田は、
「封じましょう。早うやめて碁を打ったほうが面白い」
で周囲を爆笑させた。上機嫌なのだ。
第2日の戦いで△8四桂と打つ時は、何度も空たたきをしながらつぶやいた。
「苦心の作か。傑作……」
すでに“天来の妙手”△3五銀のただ捨てを発見していたのだろうか。それとも、▲7九角が妙手を誘い出してしまったのだろうか。
古いたとえに、山寺の鐘ゴンと鳴るといえども、鐘が鳴るやら撞木(しゅもく)が鳴るやら、とんとわからぬ――とある。この将棋、升田が鐘で大山が撞木であった。
(続く)



