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クオの別世界

学生時代に書いた初々しい小説、コピーライター時代を語る懐かしいエッセイ、そして文章家として活動する日々の合い間のエッセイや小説を掲載しています。


名人戦の4連敗


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 第4局は5月7日から湯河原温泉の「石亭」で行われた。

 これが2人の150局目。過去は大山の83勝(不戦1)、升田の65勝、1持将棋。むろん当時の最多対戦記録で、群を抜く数である。図面は省略するが、大山の四間飛車に対し升田が▲4六金と出る新手(実は悪手)を指し、▲3五歩のとき△4五歩と突き返されて読み落としに気付いたという、悲劇的な一番であった。

「この将棋は40手で終わっとる」

 局後の升田の、悲痛な感想。大山が、升田の読みにある決め手を逃がしたので1日では終わらなかったが、第2日の午前10時50分、80手までで升田が「これまでだな」と投了を告げた。升田は6時間29分を使っているが大山はたったの2時間19分。大山には考え込むほど難しい局面はなかったのだ。

 手短な感想戦が終わり、昼食(今期の打ち上げになる)の支度を待つ間に大山が、記者室に一人いた私に、

「升田さん、ひどかったねえ。やってて気の毒になっちゃった」

 と小声で言ったのである。忘れられぬ一言だった。升田と大山を結ぶ「兄弟弟子の絆(きずな)」が切れていないことは明白である。もし、憎い相手なら、4タテを食わせた快感を何らかの言葉で表現しただろう。さんざ、憎まれ口をたたかれていた大山なのだから。

 第27期名人戦は4月5日に始まり、5月8日に終わってしまった。

 升田は十段リーグと王位リーグに入っていたため当時としては非常な過密日程だったが、屈辱にじっと耐えて対局を続けた。山田に負け、西村五段に負け、棋聖戦準決勝では2期続けて中原六段に負けた。めったに負けたことのない兄弟子大野八段にまで負かされ、7月中旬までの年度成績は6勝12敗となる。

 だが升田は馬首を立て直す。十段リーグで加藤一二三に勝ち、8月一杯は軽井沢と奈良で静養。9月から始まったA級順位戦では内藤、大友、塚田(前期は休場)の順に3連勝。4局目に山田に負けたが、花村、加藤博二、二上、関根を連破して、7勝1敗。

 次の有吉戦は44年2月24日に組まれていたが、升田にとっては“魔の2月”である。急病のため対局不能となり、不戦敗を喫した。このあと、NHK杯の準決勝で山田に負け、王座戦で佐藤大五郎七段に負け、3月18日、A級の最終戦で丸田にも敗れて7勝3敗。

 挑戦権は大山の弟子、有吉八段が8勝2敗で握り、初の師弟名人戦になる。升田は2位。21日の誕生日が来て升田は51歳になった。43年度はタイトル挑戦も優勝もなく、21勝20敗である。


(続く)



居飛車穴グマ


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 この年も升田は、名人位奪回に的をしぼっていたようである。年間成績は22勝11敗だったが、順位戦はしっかりと勝った。

 加藤博二、二上、丸田、山田棋聖、松田、有吉、内藤の順に7連勝。残りの花村、加藤一二三戦は負けたが、2位山田の6勝3敗を押さえて首尾よく挑戦権を握った。升田は他の棋戦で新戦法を試し、改良して順位戦に使っていた。

 第27期名人戦第1局は、43年4月5、6の両日、東京の「羽沢ガーデン」で行われた。この期から持ち時間を1時間短縮し、各9時間。

「順位戦で2敗したころから寒さで体調を崩していた。私の持病のようなものだが、名人戦に、回復しないままで臨むことになった」

 風邪をこじらせたような状態で、残念だったろうと思う。

 後手番升田の「英(ひで)ちゃん流」。山口英夫七段創案の、5筋の歩を突かない中飛車。

 升田の早指しに、大山も調子を合わせたようなテンポで進む。やや有利の岐れから大山が二枚竜の一枚を自陣に引くという独特の手堅い指し方で押し切った。升田が封じ手をするころには大勢決しており、2日目の午前11時40分に終了した。

 第2局は16日から京都市の「坂口」で。今度は後手番大山の四間飛車。対する升田の布陣は控え室を驚かせた。参考図の「居飛車穴グマ」である。負けたため「奇策」と言われたが、偉大な“升田の新手”だ。

 さらに注目すべきは、大山の「居飛穴対策」だろう。升田の▲1五歩に手抜きして△6一飛(参考図)がすごい強手。▲1四歩に△6五歩と突き、▲1三歩成△6六歩▲6八金引△4六歩(好手)▲同歩△1三香。

 観戦記者は朝日の(栄)こと吉井栄治。立会人は升田、大山の兄弟子、大野源一八段。この激しい攻め合いの最中に升田が「わるうてもええさんか」とつぶやいた。大野が「酒を飲んでもエエジロウ」と受け、大山が吉井に「何のことかわからないでしょう」と言った。

 その心は。3人の師、木見金治郎九段の弟に飲んべえの栄次郎という人がいたのだ。

 升田と大山は、めったに直接話をしなかったけれど、立会人や記者をはさんでのこうした「三角会話」はしょっちゅうだった。

 第2局も、126手で大山の勝ち。升田は大山より多い7時間54分を使って頑張ったのだが、終盤に大失着。感想戦のあと、低い声で「▲9一銀成で折角の名局を逃がしてしもうた」とつぶやいた。

 第3局は25日から熊本市の「おく村」で行われた。升田はずっと大阪に滞在、王位戦予選を1局指してから空路熊本入り。健康状態はやや回復していた。

 大好きなタバコをふかしながらの対局。後手番升田、再度の「英ちゃん流」中飛車。だが、得意の序盤で作戦負けし、完敗。

 変調である。升田は局後「どうもおかしい。考えて悪い手を指す」とぼやいた。




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(続く)


中原五段と初対局


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 昭和41年の8月から42年の3月まで休場した升田。

42年度の順位はA級最下位(張り出し)である。

 大山康晴名人(五冠)への挑戦者は二上達也八段。これまでに大山から王将1期、棋聖1期を奪取したことのある二上だが、いずれも次に大山の挑戦を受けて、ストレート負けを喰らっていた。「ガミさんには振り飛車がいい」と、すっかり手の内を読まれていた感じ。この26期名人戦も4対1、全局振り飛車で大山が連続9期(通算

14期)名人位を保持した。ガミさんは本当はフタカミなのだが“神さん”になってしまうからガミさん。

「二上君は良い家の生まれで、苦労を知らずに八段に昇った。技術ではもう大山名人に勝って不思議のない、いいものを持っておるが、どこが及ばんか。これは、ずるさが足りんのです。大山君を倒すには、ずるさが出て来なければだめだよ。技で倒すんじゃない」

 升田の二上評である。梶九段は二上を「女学校の先生見たいだ」と評した。

 しかし、升田も全く予想できなかった新人がタイトル争いに加わってきた。山田道美だ。長いB級のトンネルを抜けて39年にA級入りした山田は直ちに名人挑戦権を握り、1勝4敗で大山に敗れたが、続いて王将戦でも大山に挑戦し、今度は3勝4敗と肉薄。さらに42年の第10期棋聖戦で大山に挑み、3勝1敗で五冠王からタイトルを1つはぎ取った。

 山田には、升田のいう「ずるさ」はない。丹念に練り上げた序盤戦術と、打倒大山の烈々たる闘志があった。「将棋界の変化」を大正生まれの強豪連が認めはじめた。

 さらに、新鋭中原誠が抬頭して来た。三段リーグで米長邦雄、大内延介らに頭を押さえられている間に恐るべき棋力を身につけていた。

 升田と中原の初手合わせは、42年の7月14日、棋聖戦。中原は19歳で五段。四段になってからこの時までの全成績が60勝10敗(0.857)というすごさだった。

 参考図がその一局面。観戦記で加藤治郎名誉九段は「升田の珍戦法、ダブル陽動」と名付けた。「振ると見せて居飛車、持久戦と見せて急戦」で陽動のダブルだという。

 参考図から▲6六歩△4五歩▲6八銀△6四歩▲5七銀△7四歩▲4五歩△7五歩▲同歩△7二飛と進む。そのあとも居玉で攻めまくったヒゲの九段は、

「むちゃをやってみたが、案外指せるものだな、アッハッハァ」

と豪快に笑い飛ばした。しかし中原は堅実に受けとめた。隣席に山田道美がいて、大先輩升田をからかった。

「中原牛若丸がじっとしていて、升田弁慶がナギナタを振りまわして、ランカンをとびまわっているみたいですね」




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(続く)


大山への挑戦続く


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 昭和40年。升田は元気で、相変わらず風変わりな将棋を見せながら各棋戦で活躍した。

 年度成績は30勝20敗。

 第6期棋聖戦では原田八段、木村義徳四段、加藤一二三八段を連破して挑戦者決定戦に出た。相手は丸田祐三八段。名人戦をはじめ各棋戦で大山に挑戦しながら、ことごとく敗れていた丸田は、この時46歳。升田は47歳。この時代の40代は強かった。升田とて、棋聖のタイトルは、ぜひとも取りたかったのだ。

 両者死力を尽くした3番勝負は、2勝1敗で升田が勝った。第3期に次ぐ2度目の大山―升田5番勝負が実現した。

 対丸田戦の観戦記には、こんなことが記されている。丸田が席にいない時、だれに言うとなくつぶやいたそうだ。

「わしは以前から見ると角一枚弱くなった。香一枚ぐらいなら大山と平手でちょうどいいのだが……。いや、大山はどうでもいい。若い者たちの成長が問題なんだ」

 5番勝負第1局。向い飛車の大山に対し、升田は舟囲いから▲8六歩、▲8七玉、▲7八銀と組む左美濃。各7時間のうち升田は1時間5分しか使わずに寄せ切り、午後2時15分の終局は、全タイトル戦を通じての「早仕舞い」新記録だった。

 第2局は大山が雪辱。しかし第3局は角換わりから大山の指した“新手”が悪手で、升田楽勝。升田1時間11分、大山1時間52分の消費。記録更新の午後1時43分終局であった。明らかに大山は変調。升田は五冠王をカド番に追い込んだ。

「角一枚弱くなった」どころではない。升田の強さが目立ち、タイトル奪取は確実のように騒がれていた。しかし大山は、しっかり立ち直って第4局を取る。最終局は升田が大山の中飛車を▲4六金戦法で攻め、必勝の形になったが、悪手連発で自滅のような負け方をした。

 今思い返しても、棋聖のタイトルを升田が一度も取れなかったのは不思議な気がする。

 だが、升田はA級順位戦だけはがっちりとものにした。7勝2敗で、失冠のあと2度目の名人挑戦権を握った。

 昭和41年4月。升田48歳、大山は43歳。判官びいきということもあるが、第25期名人戦の下馬評は、升田乗りが多かった。ずいぶんぜいたくな話だが、当時の全タイトル、名人、王将、十段、棋聖、王位を保持する大山が「不調だ」と言われていたからだ。

 名人戦7番勝負は、下馬評通りに進行した。

 第1局は後手番升田の四間飛車に対し大山の5筋位取り。型破りの力戦。

 おしゃべり好きの二人が、この局ではほとんど口をきかなかったという。

 中盤で升田リード。大山が追い込むという両雄の戦いに多いパターンだったが、攻守に冴えを見せて升田が快勝した。

 第2局。後手番大山が飛車を振らなかった。升田得意の角換わり将棋を受けて立ち、△7二玉と構える右玉。これに対し升田が、自陣に放った「名手▲1八角」で圧倒。

 だが、またしても追い込まれてからが強い大山は立ち直った。第3局から4連勝である。

 升田4連敗の内容にはノータッチでこの項を終わるが、明らかに体力、気力の衰えが見られた。升田は歯槽膿瘍(よう)の悪化で、昭和41年度は途中休場のやむなきに至る。この年度、不戦敗を3つふくめて5勝13敗である。


(続く)



升田の若手評


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 十段戦で大山に3期連続して敗れた升田は、がっくりした。

 A級順位戦は快調で、松田、五十嵐、大野、塚田、二上の順に5連勝していたのだが、十段戦終了直後に丸田に敗れ、加藤一二三には勝ったが、加藤博二、山田に連敗し、6勝3敗で3位にとどまった。

 A級1年目で、最後に升田を倒して7勝2敗になった山田道美八段が、同点決勝で加藤博二八段に勝ち、大山名人に挑んだ年である。

 朝日新聞の「名人戦予想特集」で升田は次のように評している。

「山田君の将棋はウソのないまじめな将棋だ。技術的には立派に戦えるだけのものを持っているが、大山君は2日制の専門家である。山田君にはその経験がない」

 以下、2日制7番勝負には技術以外の諸要素がからむことを述べ、

「山田君は計画を立てては崩され、立てては崩されてクタクタに疲れるであろう」

 明快率直に「大山にはまだ勝てぬ」と予想している。

 升田という人は、もし棋士になっていなかったら(ご本人は農家を継いでいたろうと言っているけれど)武道家、あるいは政治家として世に立ち、言論で一家を成したのではないか。他の棋士と違う、実に多芸な人物だった。このころの『近代将棋』には「升田の政局診断」というシリーズ物の対談がのっており、中曽根康弘、田中角栄、佐々木更三、石原慎太郎などと政治論をやっているが、これを最近ある政界通の人に読んでもらうと「いや、たいした見識ですな」とほめていた。

 また同誌では、升田を主役として当時の新鋭棋士たちとの座談会を何度も企画しているが、四半世紀を過ぎた今、あらためて読み返すと、升田の優れた観察力、予見能力がわかって、舌を巻く思いである。

 だから、言論というよりは、宗教の教祖様にもなれた人のような気もする。

 ある座談会で升田はこう言っている。

「将棋はまだまだ技術的に進歩する。それは人の問題だ。昔は徳川幕府が庇護していたから人材が集まった(出雲出身の伊藤宗看三世名人などを指している)。それが、幕府がなくなってスポンサーのなくなった明治、大正期に、頭の悪い、親不孝みたいな連中ばっかりが将棋指しになっちゃった」

 と、棋界のブランクを指摘する。

 升田は天野宗歩を非常に高く評価し、「宗歩が今現れたら名人になる」と断言する。

「新聞将棋が発達して以後、頭のいい、将棋以外でも一流になれそうな人材が将棋界へ入って来るようになった。昔は原稿書けない、話はできない、あいさつもろくにできんようなのばっかりだったがこのごろはそうでない。何やらしても一流になれそうな能力者が集まってくると、将棋はまだまだ進歩する。彼らはあらゆる手を記憶してしまうだろう」

 この話からも、升田が決して「勝負師型」でなく、むしろ学者タイプと言える棋士だったことが知れる。

 亡くなる前、羽生善治、森内俊之両少年に注目し、高く評価していた。健在であれば、とび切り面白い「七冠王評論」が聞けたろうにと惜しまれてならない。


(続く)