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クオの別世界

学生時代に書いた初々しい小説、コピーライター時代を語る懐かしいエッセイ、そして文章家として活動する日々の合い間のエッセイや小説を掲載しています。


十段戦でまた負ける


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 昭和39年度の升田の総成績は28勝16敗である。

 前に記したように、夏の王位戦は挑戦者決定戦で二上八段に不戦敗。王将戦も、リーグ戦5勝2敗で加藤博二八段と同点決勝になったが、あっさり敗退(消費わずかに33分)で、やる気がなかった。

 28勝16敗という、記録上の数字がそのまま升田の実力を示してはいない。

 さて、第3期十段戦リーグは、升田のほか二上、熊谷、大野、加藤一二三の各八段、長谷部七段の6人で争われ、升田は8勝2敗で、3期連続して大山十段・名人と

7番勝負を行った。

 第1期、第2期ともに升田は3勝4敗。いわば“フルセット”の末に敗れているのだが、勝ち負けの順番が全く同じ。つまり升田から見て●○●●○○●という、イヤな相似形になっていた。

運命的なものを感じるが、第3期も、4局までで●○●

●になってしまった。


 その第1局は、大山―升田戦には珍しい「相横歩取り」の急戦でスタートし、一段落して双方中住居の玉型で戦ったが、102手で大山の勝ち。升田は10時間のうち8時間59分を使って頑張っている。

 第2局は升田後手で中飛車。これは升田会心の勝利である。参考図が中盤の一局面。

 △3四歩に対し、大山は1時間15分も考えて▲同金と取ったのだが、まったく読みにない△3三桂の妙手を指されていっぺんに悪くしてしまったのだ。図では我慢して▲3六金と引く一手だった。

 しかし大山もよく粘り、138手。8時間を使った。升田の消費はわずか4時間12分である。

 升田は自戦記に、「手数は長びいたが、久しぶりにポカのない快勝。こういう勝ち方は体のために非常によろしい」と書いている。

 第3局は升田先番で、▲7六歩△3四歩に▲6六歩。大山、これに対し△3五歩。相振り飛車が大嫌いな大山にしては珍しい指し方。

 以下、なぐり合いのような大乱戦。入玉模様でもないのに188手。やや不利な升田が珍しく最後まで粘り抜いたのである。「十段」のタイトルへの執念が見られた。

 第4局が升田、痛恨の逆転負け。大山の猛攻を巧妙にしのぎ切った直後に「と金攻め」をはかった一手が敗着になった。

 こういう負け方は「体によろしくない」ばかりか、1勝3敗の「負けパターン」が3年連続で出てしまった。第5局は勝ったが、第6局が○にならず、升田は敗退した。



クオの別世界

(続く)




 

昭和39年、升田は46歳。

 蓬髪にヒゲ、たぐい稀なその容貌と相まって「新手一生」の升田の人気はまだ抜群だった。「ヒゲの九段」と呼ばれ始めたのはこのころからだ。

 囲碁のほうでは新規定により九段が続々と誕生しており、これに反対する人は「棋院で石を投げれば九段に当たる」などと言った。将棋のほうは旧規定のままなので、現役九段は依然大山康晴、塚田正夫、升田幸三の3人だけ。新規定が作られて丸田祐三、二上達也、加藤一二三の3人が九段に推挙されたのは9年後の48年11月である。

 大内延介九段から聞いたエピソード。

 昭和30年ごろのことらしい。初めて升田の記録係を務めたときに「何級か」と聞かれた。「5級です」と答えると「5級か。きみはいいなあ、上がなんぼでもあって。僕にはもう上がない」とつぶやいたそうだ。

 その大内が39年度の王将戦予選で上位者をなぎ倒し、「C級1組、五段のリーグ入り」という新記録を作った。そしてリーグ戦で憧れの升田と初手合わせのとき「勝負で盤に対するとなるとやはり緊張した。恐怖感すら抱いていた」と自戦記で告白している。この将棋は升田の完勝で、消費は1時間30分。大内は3時間39分。

この年も升田は順位戦に重点を置き、他の棋戦は早指しでこなした。7時間のうち、基本的には「2時間までしか使わない」と自分で決めていた。

そうとわかると、相手もサムライ揃いだから「それならこっちも」と意地の早指しで応じてしまう。結果的に升田ペースにのせられているのである。さらに、升田には得意の口三味線がある。博識で実に多種多様なジョークを連発するから、相手も、時には記録係まで吹き出してしまうのだった。

全力投球のA級順位戦でも、7時間のうち2時間ぐらいで快勝している将棋は多い。もちろん、早指しのできる人は相手の考慮中に手が読めるわけで、升田はその典型だったから、真の考慮時間というものは計りようもないが。

43年にA級入りした大友昇八段が、升田ペースの早指しに完敗し、局後の感想で「恐れ入りました。どうも、同じA級でも私は先生より香一本弱い」とシャッポをぬぎ、升田が高笑いしたシーンを思い出す。

また、板谷進九段が初めて升田とA級順位戦を指したとき、昼休みの雑談で言った。

「もし升田先生と、命を懸けて勝負するとしたら、角落ちでも私は自信ないですよ。そうだね、飛香落ちなら逃げませんがね」

「ばか。甘ったれるな」と升田。

 この時代も大山、升田は、勝負は別として「格上の将棋」とA級棋士までが認めていた。


(続く)



大山十段に挑戦


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 昭和38年度の升田は、朝日のA級順位戦と読売の十段戦、産経の棋聖戦に標的をしぼった。第1期十段戦で大山に3勝4敗でやられている。意地でも、その雪辱がしたかった。

 リーグのメンバーは升田九段、二上八段、大野八段、熊谷八段、加藤博二八段、広津八段の6人で、先後2局ずつの総当たり。

 升田は8連勝した。2局を余して挑戦権を取ってしまった。「オレが本気を出せばこんなものだ」と呵々大笑されても、他の棋士には返す言葉がなかっただろう。

 大山十段との7番勝負は10月23日から始まった。各10時間、2日制である。

 体調はそう悪くない。

「大山君には気の毒だが、こんどは“本十段”にさせてもらうよ。死ぬまでだれにも渡さん。本当の十段になる」

 こういう談話を新聞に発表してしまうのだ。

 十段戦第1局は東京の将棋会館で行われ、大山先番で矢倉を望めば、升田はツノ銀型の三間飛車に振った。当時、タイトル戦にはファン(会館設立募金に協力した人が中心)を招待していた。木造二階建ての会館に百数十人が詰めかけ、その接待に在京棋士のほとんどが参集するという熱気があった。対局者も心得ていて、第2日の切迫した局面でも、わざと観戦時間に合わせて指すように配慮していた。

 この将棋にも“升田のポカ”が出た。しかし升田は執念の粘り腰を見せた。大山は9時間59分を使い果たして

249手の乱戦を制した。升田も7時間余を使っている。

 第2局は富山県高岡市で行われ、後手番大山の四間飛車に升田は玉頭位取り。この対局にも富山、石川両県の各界の名士やファンを多数招待している。

 激しい玉頭戦。升田の桂使いがさえ、125手で1勝を返した。名局といわれている。

 第3局は札幌で行われ、升田の陽動向い飛車。93手でケリがつき「升田、自滅の一局」と書かれている。

 第4局は大阪で。先番升田は相矢倉模様から新趣向の急戦を仕掛けた。双方居玉という乱闘だったが、82手で大山の勝ち。升田は3時間10分しか使わなかった。

 第5局はカド番。

 升田は陽動三間飛車から面白い金銀の繰り替えを見せる。途中、千日手模様になったが大山が打開。ところが本局では大山の方が終盤で乱れ、勝ちを逸した。

 息を吹き返した升田は、年末に東京で行われた第6局を得意の角換わりで制し、新年の第7局に勝負を持ち込んだ。

「諦めかけていたが、ここまで来ると欲も出る」と升田。

 1月7、8の両日、東京の将棋会館で行われた最終局は振り駒で升田先手。この将棋は「しんどいから、めったにやらぬ」と言っていた升田が、がっちり矢倉に組んで▲3七銀戦法を用いた。しかし大山は強かった。一進一退の終盤で読み勝って、120手までで、辛うじて十段のタイトルを守った。

 二年連続して3―4の勝負負け。

 升田は12月に棋聖戦の挑戦権も取っており、十段戦と並行して5番勝負を争ったが、こちらも1勝3敗で大山に敗退してしまった。

 しかし、「まだまだオレは指せる」の自信がよみがえって来るのを感じていた。大山以外の棋士には、めったに負けていないのだ。

 この年度のNHK杯戦では決勝で加藤一二三八段を破って、この棋戦3度目の優勝を果たした。

 当面の敵は、40歳の大山。だが、升田の新たなる目標は「今の力を、60歳まで、あと15年持ち続けられるか」であった。



人生四季論


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 昭和38年度の升田の総成績は決して悪くはない。41勝24敗である。

「3タイトルを全部失ってから、まる2年間の休場と、復活後2年間(昭和36、7年度をいう)の手ならし期間があった。私の勝負師としての人生にもこの4年間は大きな意味があったような気がする」と升田は語っている。

 休場中の2年間は、自分の周囲から将棋に関連するあらゆるものを遠ざけた。そして夫人と二人であてのない旅に出、ごく一部の人にしか居所を知らせなかった。取材などはすべて断ったし、ファンに見つかってサインなどを要求されぬよう、ムギワラ帽子をかぶったり、ナッパ服(作業衣)に地下足袋をはいたりして旅をしたという。

 その2年間で升田は「人生の面白さというものを天から教えられたらしい」と述懐する。

「おもしろい、おもしろい」が口癖になり、夫人に「何がおもしろいんですか」とふしぎそうに聞かれたそうだ。

「休場中に将棋が強くなることはない。季節にたとえてみれば、秋から冬に生きていることであろう。この間に根をしっかりと大地におろさねばいけないと思ったのである。やがて春が来れば、花はその根のおり具合によってしっかりと咲くこともでき、実を結ぶこともできよう。花が咲いたとき、これは喜びにあふれることである。花というものは開いたときは笑っている。そのときは大いに、率直に笑うべきなのだ。その喜びの結果として子孫という実がなるのである」

 笑えるときに笑っておけ。今にきっと泣くときが来るんだから。

 升田の「人生四季論」は、これからの将棋界を明るいものにする原動力になるだろう。

 升田は、しばしば休場している。これに対し「体が不調だからといってA級順位戦を指さない(落ちない)のは甚だしい身勝手だ。横暴である」という批判は当然出た。また、順位戦に全力投球をし、他の棋戦をいいかげんに指すのはけしからん、という声もあった。

 これに対し升田は「私のような病体では、全棋戦に出よ、すべてに全力を尽くせといわれてもできないのだ。出なければ収入がないのだから、休場は認めるべきだし、特定の棋戦に力を集中するのも個人の自由だろう」と反論していた。正直なのだ。常に“本音”でものを言う人であった。

 たとえば、升田は昭和39年度の王位戦白組で4戦全勝しながら、紅組優勝の二上八段との挑戦者決定戦を棄権(不戦敗)している。夏の盛りに、大山王位と各地で7番勝負をするのは体力的に無理で「わしゃ、死ぬるよ」が口癖だった。この年、4月から6月までは11勝2敗。7、8月にも他棋戦がある。升田は、命と相談をして王位戦を捨てたのだ。


(続く)



あっけない敗北


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 第1局は大山名人の先番で相矢倉模様。互いに居玉のまま、升田の早い位取り、△6五歩から風変わりな形になった。

「升田の巧妙な布陣は私にボクシングの名手の型を思い出させた」と金子は書く。たくみな駆け引きで作戦勝ちに近い布陣を得た升田だったが、この将棋は“受けの大山”の傑作で、升田の指し過ぎを誘って強烈な反撃を加え、119手で大山が勝った。

 第2局は関西に移り、芦屋市外の「蘆山荘」で行われた。

「羽田空港のロビーでも、1時間半の機中でも、両対局者は実によくしゃべり、よく笑った。宿についてからは大山はマージャン、升田は碁に興じ、夜のふけるのを忘れたかのよう。立会い役の坂口八段を相手に升田が“吹けば飛ぶよオな将棋のコマに”と白石を打ちつけると、これも立会いの熊谷八段らと卓を囲みながら、となりの大山が“賭ァけた命イを笑わば笑え”と続ける」

 田村孝雄(龍)は第1譜で、なごやかな兄第弟子の姿を伝えている。

 この将棋も、相矢倉模様のスタートから、升田が奇抜な新手(参考A図)を指して乱戦形になった。開局わずか15分、7手目にして早くも全国のファンを驚かせる一手を見せた升田。このあと升田は向い飛車に転じ、大山も中飛車に振る力戦を展開したが、升田は“得意”の手拍子の悪手でいっぺんに形勢を損ね、大山の猛攻を浴びてついえた。

 第3局は長崎市で。この地で名人戦が行なわれるのは初めてで支部の人が多数観戦に詰めかけた。天狗太郎の観戦記は格調高く、実にユーモラスな表現もある。

「支部の人は長崎弁でこう語った。真剣な対局姿ば見とったら息が詰まるごたった。よくわからんばってんか、大山先生はたんもん(反物)屋はんのダンナ様のごたった。升田先生は鋭いお方ですばってんか、ユーモラスでよか人と思いました」

 将棋は三たび相矢倉模様のスタートから升田が陽動向い飛車を採り、大山速攻。ところが初日に大山が攻めを誤り升田優勢。

 升田は上機嫌で指し進めたが、必勝形の終盤で“錯覚”があり、うっちゃられてしまう。

 菅谷北斗星に話したように、大山は升田のアキレス腱の弱点を知っていたのだろうか。またしても――である。121手目▲6一竜(参考B図)と金を取られて升田、無念の投了。

 熱海市での第4局は、升田先手で角換わり。この将棋を大山は「生涯の拙戦」と言っているが、83手、一方的に攻めつぶして升田がようやく1勝を返した。

 東京に戻った第5局。升田の体調はまずまずであった。この将棋もまた相矢倉模様から大山が変化して前例を見ない力戦に誘導。しかし升田の構想が見事で、作戦勝ち。

 難解ながら升田必勝となった終盤、参考C図の▲3四銀に対し、△同玉なら勝ち。ところが、6分考えて升田は△5四玉と逃げ、▲4三角でトン死に気付き投了した。

 ▲4三角以下は△6四玉▲7四金△5五玉▲4六金△同玉▲3七銀引△5五玉▲2五飛△4四玉▲4五飛まで。

 このトン死には思い出がある。私は連絡係として有楽町の朝日新聞社に詰めていた。重役をはじめとして社内の愛棋家10人以上が継ぎ盤を囲んでいた。

「△5四玉だとぴったり詰みですから、取ると思います」。私にさえ分かる詰み形だったのに、鳴った電話は「大山の勝ち」と知らせてきたのである。




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(続く)



4年ぶりの名人挑戦


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 昭和38年4月。

 第22期名人戦は4年ぶりに大山―升田の顔合わせとなった。

 独占五冠王を続けていた大山も、この年の春に王将戦で二上達也八段に敗れていたが、棋士仲間もファンも「升田―大山時代去る」とは思っていなかった。健康状態さえよければ、升田は名人位を奪回するだろう。「二上―加藤時代」はなお数年先のことだろうと。

 45歳の升田は、名人戦を前にして、これまでとは全く違った調子の次のような手記を公表している。

「去年順位戦が始まったとき私は、今期は名人位を奪回すると宣言し、それが新聞に載ってファンから激励の言葉をいただいた。挑戦者にはなったけれど、徳川家康流に『百里の道は九十九里をもって半ばとする』ならば、まだ一里しか来ていないのである。

 しかし、とくに気負ったり、悲壮がるほど私はもう若くはない。名人戦に出場できるのは将棋指し冥利に尽きるものであることは当然だが、その晴れがましさに心を動揺させるほど若くはない、という意味である。あるいは、こんなことを言うところにかえって気負いがあるのかも知れないが、かつて木村さんを目標として『打倒木村』の一念に燃えたような、精神的にも肉体的にも張り切っていた若さはもうない」

 名人戦第1局は4月11日から東京の「羽沢ガーデン」で行われた。観戦記を担当した金子金五郎八段は、升田の心境の変化をまず語った。

「かつては升田が幽鬼の如き形相で大山に迫って行った対局もあったが」と前置きをし、

「意外なほど堅さがほぐれている。勝負師というものは年輪を重ねてくると、こういう境地に行きつくのかも知れない。毛筋ほどの心の動きが勝敗を左右する分かれ目になることを幾度か知らされて自分に勝つこと制すること、迷わぬことができるようになる。神技に対して限界を知ったとき、勝負師は運命論者になる」

 かつて木村義雄、花田長太郎と天下を争った金子は、升田の心境に託して、自分の経験を語ったのかも知れない。金子行秀は日本山妙法寺の闘士だ。

 棋士・金子の心理描写は巧みで、多くの観戦記ファンを持っていたし升田自身も「金子さんの文章はいい」とほめていたが、一方、常に脇役として描かれる大山が不満を抱いていたのは当然で、「もっと(金子先輩は)わたしの話も聞いてくれなきゃ」と洩らしたことがある。金子先生にそれを話すと「升田が将棋を創り、大山が追随して行くんだから、オレとしては升田側からその一局を見ることになる。どこがおかしいんだ」と、とりあわなかった。

 後年、大山と山田道美の名人戦のときに、大山が「山田さんは金子さんの弟子だから、観戦記担当を遠慮してもらいたい」と朝日に申し入れて来たことがある。金子行秀上人は「こっちから下りようと思ってたんだ」と呵々大笑して大山の要求をいれた。


(続く)