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クオの別世界

学生時代に書いた初々しい小説、コピーライター時代を語る懐かしいエッセイ、そして文章家として活動する日々の合い間のエッセイや小説を掲載しています。


名人に角を引きたい


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 升田の昭和37年度の成績は、29勝21敗だった。棋戦のシステムが今と違うので、B級2組以下の棋士とは1局しか当たっていない。大山五冠王とは5勝7敗。

「まだまだ指せる」

 後輩の二上、加藤、芹沢あたりに快勝すると、子供のようにはしゃいでご機嫌。感想を終えて縄のれんをくぐって一杯。酒量もふえて大病以前に戻り、夫人をはらはらさせた。

 A級順位戦は、休場明けの塚田九段が参加したために各10局。升田は名人位奪回に的をしぼっており、対局過多になると、他の棋戦は「片目で指す」とか「5分しか使わん」とかジョークを発しながら(実際にそんな早指しや、早投げはなかったが)楽しそうにやっていた。ポンポン指しても、王将リーグなどは残留に必要なだけちゃんと勝っていた。

 升田は強かった。兄弟子の大野と二上に敗れたが、丸田、灘、芹沢、広津、花村、加藤一二三、熊谷、塚田に勝って8勝2敗。バリバリの若手を尻目に、大山への挑戦権を手中にした。45歳である。

 ここで例によって“升田語録”をご紹介。

 新日鉄(のち副社長)の藤井丙午との対談から。

 政界入りについて。

「僕が中風になって、将棋が指せなくなって、物の役に立たんようになったら(参議院選挙に)出るよといってあるんです()。本職に自信のある者が政治家になるもんじゃない。あれは本職が半人前の人が出るんです」

 大学について。

「将棋の世界では我流はいかん。基本を学べといって教えるんですが、天下をとるような者は20歳ぐらいまでに八段の相が出ます。学校教育においても小、中、高校までが大事で、大学に行かねばものにならんようでは、よほど頭が悪いんでしょう」

 日本オイルシール社長、鶴正吾との対談から。棋風について。

「性格ですね。私は武道もやるが、安全が一番の極意です。しかし人間は安全を願いながら、冒険とか変化を求める。変化のない国へは行きたくないですね」

 民主主義について。

「アメリカの通りにするのはだめで、日本の国に合ったことにしなければだめですよ。20歳で成人なんてのは甘い。日本には昔、元服ということがあった。その伝統で、おそくとも16ぐらいで元服(成人)として自己責任をとらせるようにする。一番いけないのは、小学校の先生の給料が安いことだ。安いからあまり優秀な教師がいかない」

 升田は、幼時教育の重要性を力説した。自分の体験から発していたようだ。前に一度書いたかもしれないが「もう一度生まれて来たら、天野宗歩のように3歳ぐらいで将棋を覚えて、名人に角を引きたい」と言ったことがある。

 思うに、これが大山に対したときの唯一の劣等感となって心の底にあったのではないか。「我流でない将棋」を知った年齢が13歳ぐらいだった。大山は7歳になったばかりのころから近所の人に木村義雄八段著の『将棋大観』をテキストにした英才教育を受けていた。


(続く)



60歳名人説


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 この年、高島一岐代八段(のち九段)が体力の限界を理由に、A級第5位のまま潔く引退した。45歳である。病弱の人だった。

 2歳下の升田も、体力には全く自信がなかったが、高島とは反対のすごい発言をした。

「棋士に限らず、40代はいろんな悩みの時期であり、焦りも出てくる年代だ。将棋の力というものは20歳前後で頂点に達し、あとはその力をどこまで維持できるかということ。僕らの仲間では、50を過ぎたら棋士の生命は終わり、タイトルなどには近寄れぬということになっている。しかし僕は、なあになあに60になってもタイトルを取ってみせる、と自分に言いきかせているし仲間にも公言している。50過ぎてタイトルを取れないというのは、お前さん方の常識に過ぎない、とね」

 この自信がなかったら、升田は、三冠すべてを失った時点で「なす事終われり」として現役を引き、転身を考えただろう。安楽に暮らすなら世にいう“評論家”になればよかったし、自民党の中曽根康弘の奨めで参議院選挙出馬も考えてはみたそうだが、それはプライドが許さなかった。どこかの派閥に属し、親分に頭を下げて地盤を分けてもらう――いやなことだ。

「無所属で全国区に出てもだめだよ。僕には女の票が入らんから」

と冗談っぽく言っていた。

 将棋あっての升田だ。休場2年間で、ふたたび大山に挑戦する覚悟を決めていた。

 産経新聞社長の水野成夫は、特に将棋好きというのではないが、升田をはじめ塚田正夫、原田泰夫、加藤博二など、清貧に甘んじて一本の道を突き進むさわやかな棋士たちに惚れていた。それまでは「早指し王位戦」の主催や、三社連合と組んで「王位戦」の共催社になる、いわばおつき合い程度だった将棋を見直した。升田の復帰を祝う意味で36年の12月から「特別棋戦(公式戦)大山・升田3番勝負」をやった。

 “決戦シリーズ”と呼ばれたお好み対局で升田は水野の知遇に応えるべく頑張ったが、千日手2回の第2局に勝っただけで2敗した。

 このころの大山は“一人天下”で、名人、王将、九段、王位の全タイトルを保持していた。若い二上、加藤一二三も及ばず、大山は「怖いのは升田さんだけ」と公言していた。

 タイトルをうかがう升田は、37年度の第3期王位戦で白組優勝。しかし紅組の花村八段に敗れた。その花村も大山との7番勝負は4ゼロ負け。

 次のチャンスはすぐに来た。読売新聞は九段戦(全日本選手権戦)を発展的に終結し、37年度から「十段戦」を開始した。第1期は、大山、塚田、升田を同順位でシードし、予選勝ち抜きの大野八段、灘八段、二上八段を加えた6人の、先後2局ずつの総当たり戦を行い、1位と2位の7番勝負で第1期十段を決めるシステムだ。

 升田は、大山、大野、二上に1勝1敗。塚田と灘に連勝して7勝3敗で第1位。しかし、6勝4敗ながら二上の頭をハネてしぶとく第2位に残ったのが大山である。

 またしても……であった。升田は、●○●●○○●の3勝4敗で大山に屈する。


(続く)




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A級順位戦の中から丸田八段との一局をご紹介しよう。

 観戦記から引用する。

「これまでは△4四歩に対して先手は▲6六歩であった。ところが升田は敢然と定跡に挑戦した。33分で▲2六角(参考C図)。新しい構想はこの一手ではじまった。升田は局後『なにか手があるぞと直感した。それで掘りさげて見た』と▲2六角を発見したときの気持ちを語っている」

 いうまでもないが、ここへナマ角を打つだけで先手有利なら、だれも後手を持たない。升田は丸田という優れた“共演者”の棋風から、以下の後手の指し方を想定し、6手後の▲6六銀を決め手にする構想を立てたのだ。

「▲6六銀はまさしくKOパンチであった。丸田は『やられました』といって嘆息した。丸田の長考がはじまったので升田ははじめて隣室に行った。すると丸田は『これでおしまい。大変な手があったもんだ』」

 “天才”の定義は難しい。真部一男八段がどこかに書いていた。単に将棋だけ上手な人のことをやたら天才と持ち上げるのは誤りで、多くは“偏才”や“単才”であると。

 升田の没後、丸田九段はしみじみとした口調で好敵手を讃えている。

「升田さんは本当に、天才というにふさわしい将棋を指した人だね」

 対戦成績を見れば丸田16勝23敗となっているが、はっきり一目置いている。


(続く)




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参考A図は芹沢八段とのA級順位戦。

 この序盤は、▲7六歩△8四歩▲5六歩△8五歩▲7七角△3四歩▲8八飛△7七角成▲同桂……の手順。そして参考A図から、92分の長考で▲8五桂と歩を払った。芹沢は「そんなムチャな……」と苦笑したが、〈△同飛▲8六歩△8二飛▲8五歩〉の変化に自信が持てず、48分考えて△3四銀。

 93手で升田が攻め勝った。

 もうひとつ、珍しい指し方を。

 参考B図は加藤一二三八段との王将リーグ。この序盤は、▲7六歩△3四歩▲2六歩△3五歩▲2五歩△3二金▲4八銀△3三金……の手順。図の少しあと△3三桂から△2五桂と歩を取っているが、さすがにこれは無理だったらしく107手で加藤の勝ち。

 升田は言う。

「棋士は、世の中に“なくてもいい職業”のひとつだ。だから見る人に楽しさを与えなくては存在理由を失う」

 36年度のA級順位戦は二上八段が8勝1敗で初の名人挑戦権を握り、升田は6勝3敗で2位だった。



見る人に楽しさを


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 昭和36年6月、日本将棋連盟は東中野から、現在地の渋谷区千駄ヶ谷に移転。木造二階建ての「将棋会館」は今から思うとずいぶん質素なたたずまいだったが、加藤治郎会長を中心に全棋士が奔走して寄付金を集め、不足分は各新聞社から借りてどうにか形ができた。

 特別対局室(離れ)では堂々とタイトル戦がやれたし、広い直営道場もある。戦中、戦後に非常な苦しみを味わった明治、大正生まれの棋士にとっては「夢」の実現だった。

 時代の違いを思うのは冷房装置がなかったこと。資金不足のせいでなくて「冷房嫌い」が圧倒的に多かったからである。だから二階の対局場は窓を大きく取り、風通しをよくしてあった。記録用紙は風で飛ばないように文鎮で押さえた。深夜の駒音や感想の声が筒抜けで、よく近所から苦情を持ち込まれた。

 升田物語の背景として、この昭和36年の順位を簡単にご紹介しておく。名人は“独占四冠王”の大山康晴。

A級は上から丸田祐三(前期名人挑戦者)、加藤博二、二上達也、灘蓮照、高島一岐代、花村元司、塚田正夫、大野源一、芹沢博文、広津久雄、升田幸三(張出し)

11人。九段は塚田と升田だけ。

 B級1組に加藤一二三、熊谷達人(ともにこの期8勝2敗でA級復帰)。有吉道夫、北村昌男、山田道美、長谷部久雄の4人は20代の若手七段。以下新鋭をひろってゆくとB級2組に佐藤大五郎。C級1組に内藤國雄。C級2組に佐伯昌優、剱持松寿、伊達康夫、山口千嶺の各四段がいる。桜井、米長、大内、中原あたりがまだ、記録係を務める奨励会員だった。

 7月1日。ちょうど2年ぶりで出場した升田は、王将戦の2次予選で岡崎史明六段に完勝した。升田の中飛車で87手。

 この年代、升田の実力と貫禄は、格下の相手をまったく寄せつけなかった。早指しで、100手以内で“吹っ飛ばす”という感じだった。そういう棋譜は『升田選集』などに収録されていないが、惜しい。

 36年度の升田の総成績は20勝10敗。体力をセーブした早指しが多いが、当時大山に迫る一番手だった二上八段とは全力で戦った。5戦して2勝3敗、いずれも短手数の好局。30局のうち24局は升田の振り飛車。先手番で角道を止めずに▲8八飛と振る「升田式向い飛車」がとりわけファンを驚かせた。



将棋界の活況


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 将棋界の“成長”は続いていた。有力な新聞人、財界人たちが(特に将棋好きの旦那という形でなしに)将棋という伝統文化の価値を十分に認め、後援を強化してくれた。

 棋戦の増加などについて升田の持つ大きな人脈がモノを言った。

 交渉ごとは、おずおずとしていてはだめだ。升田にはその方面の才能もあった。必要とあらばホラも吹くべし、ハッタリもきかすべし。「ここは升田さんでなけりゃ」といわれる場面が数多くあった。升田の力添えによって出来た新棋戦は数多い。

 休場中の34、5年は次々と新顔の挑戦者が大山三冠王に立ち向かったが、だれも大山を倒すことはできず、新たに4つめのタイトル戦として誕生した「王位戦」も、決勝で大山が塚田正夫九段を破り、史上初の四冠王となって棋界に君臨した。

 升田は35年3月21日の誕生日で42歳になった。

「もう、やるべきことはやった。しかし……」

 棋士をやめる考えは、なかった。

 もう一度、大山と戦ってみよう。それに、名人になった人間には「普及」というまた別の大切な仕事がある。

 力尽きるまで――升田は再起を決意した。


(続く)