ニワトリの
じいちゃん
今となってはもう昔の話だが、私が3歳のころの思い出である。両親と
兄との4人家族。父は外国航路の船員が仕事で、年に1度くらいしか
日本に帰ってこなかった。だから普段は母と兄との3人暮らし。当時は
たしか「銀嶺荘」という名のアパートに住んでいた。アパートの前には
ニワトリをたくさん飼っている家があり、「コケコッコー」の鳴き声が
近所のみんなの目覚まし時計だった。その鶏たちの世話をしていたのが、
通称「ニワトリのじいちゃん」。本名は知らなかった。白髪を丸刈りに
した頭と、大きな身体が特徴の人物だった。もっとも、幼児の目には
大人はみんな大きく見えたものだが。ある日のお昼ごろ、私は1人で
家の中にいた。母と兄はどこかへ出かけていたのだろう。すると突然、
玄関の戸をガラガラガラッと開き、だだだだだっと足音をさせて、ニワ
トリのじいちゃんが家の中へ入ってきた。私の顔をチラッと見たじい
ちゃんは、そのまま台所へいくと、何事かを始めた。そしてしばらく
すると、私のいる場所へ、お皿を持ったじいちゃんが現れた。お皿の上
には、おにぎりが2つ。じいちゃんは私に「ほれ」と言ってそれを手渡し、
そのままガラガラガラッと玄関を閉めて出ていった。お皿に載った2つの
おにぎりはとても大きく、母が作ってくれるおにぎりの3倍くらいの
サイズだった。ニワトリのじいちゃんの手は、それほど大きかったのだ。
海苔も巻いていない、ごはんだけのおにぎり。2つあるうちの1つに、
かぶりついてみると、塩加減がすばらしく、ばつぐんに美味しかった。
食べ進んでいると、母と兄が外出先から帰ってきた。おにぎりの事情を
話すと、母はすぐ、じいちゃんの家へ行った。お礼を言いに行ったのだ。
つまり、こういうこと。ニワトリのじいちゃんは、小さな子供が1人で
留守番しているのを、かわいそうに思い、おなかを空かせてはいないかと
案じてくれたのだ。日本全国津々浦々のコミュニティに、人間どうしの
濃密な結びつきが力強く存在していた、昭和35年のころの話である。