今は昔 (その9) | クオの別世界

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学生時代に書いた初々しい小説、コピーライター時代を語る懐かしいエッセイ、そして文章家として活動する日々の合い間のエッセイや小説を掲載しています。

ニワトリの

じいちゃん



今となってはもう昔の話だが、私が3歳のころの思い出である。両親と

兄との4人家族。父は外国航路の船員が仕事で、年に1度くらいしか

日本に帰ってこなかった。だから普段は母と兄との3人暮らし。当時は

たしか「銀嶺荘」という名のアパートに住んでいた。アパートの前には

ニワトリをたくさん飼っている家があり、「コケコッコー」の鳴き声が

近所のみんなの目覚まし時計だった。その鶏たちの世話をしていたのが、

通称「ニワトリのじいちゃん」。本名は知らなかった。白髪を丸刈りに

した頭と、大きな身体が特徴の人物だった。もっとも、幼児の目には

大人はみんな大きく見えたものだが。ある日のお昼ごろ、私は1人で

家の中にいた。母と兄はどこかへ出かけていたのだろう。すると突然、

玄関の戸をガラガラガラッと開き、だだだだだっと足音をさせて、ニワ

トリのじいちゃんが家の中へ入ってきた。私の顔をチラッと見たじい

ちゃんは、そのまま台所へいくと、何事かを始めた。そしてしばらく

すると、私のいる場所へ、お皿を持ったじいちゃんが現れた。お皿の上

には、おにぎりが2つ。じいちゃんは私に「ほれ」と言ってそれを手渡し、

そのままガラガラガラッと玄関を閉めて出ていった。お皿に載った2つの

おにぎりはとても大きく、母が作ってくれるおにぎりの3倍くらいの

サイズだった。ニワトリのじいちゃんの手は、それほど大きかったのだ。

海苔も巻いていない、ごはんだけのおにぎり。2つあるうちの1つに、

かぶりついてみると、塩加減がすばらしく、ばつぐんに美味しかった。

食べ進んでいると、母と兄が外出先から帰ってきた。おにぎりの事情を

話すと、母はすぐ、じいちゃんの家へ行った。お礼を言いに行ったのだ。

つまり、こういうこと。ニワトリのじいちゃんは、小さな子供が1人で

留守番しているのを、かわいそうに思い、おなかを空かせてはいないかと

案じてくれたのだ。日本全国津々浦々のコミュニティに、人間どうしの

濃密な結びつきが力強く存在していた、昭和35年のころの話である。