先日小学6年生の息子が算盤の初段、小学3年生の娘が同じく5級を取った。
娘曰く「お父さんは何級まで行ったの?」
私「う~ん、、、8級」
娘「ええ~!全然あかんやん!」
私「…」
娘曰く「お父さんは何級まで行ったの?」
私「う~ん、、、8級」
娘「ええ~!全然あかんやん!」
私「…」
実は昔はライセンスマニアで、この先娘には到底取れない資格も沢山あるんだぞ!
と小学生の娘相手に威張っても情けないだけだよねぇ。
前に電話工事担任者のことを書いたので、ここで昔日を思い出してライセンスの棚卸をば。。。
と小学生の娘相手に威張っても情けないだけだよねぇ。
前に電話工事担任者のことを書いたので、ここで昔日を思い出してライセンスの棚卸をば。。。
独断かも知れないが、世の中には「資格」と「認定」の2つがある。
「資格」は法的に保護された「ライセンス」であり、「認定」は実力を認めるだけ。
資格である「自動車免許証」があれば公道で自動車を運転することができるが、お茶やお花は認定が無くても問題無く楽しめる。
「資格」は取得時点から年月を経てその実力を保っていなくても、法的な保護を受けられるが、「認定」は単にその時点での実力。
個人的には「資格」は権力機構(つまり政府だ)が、最終的には己が利権の為に個人の利益を確保するものであり、「認定」は単にその実力に対してその時点で所謂「お墨付き」を貰うこと。
でも実力勝負なのでそれを維持出来なければ只の紙切れ、それでも昔取った杵柄で自慢程度にはなるか。
個人的には「資格」に力点を置いる。
でも入社した会社が「認定」の取得を奨励する(…と言っても見返りなんて無いに等しいんだけど)ので、これについても最小限度は取得させられた。
これとは別に過去に「ライセンスマニア」だった私が取得した「資格」の数々も併せて、資料の在る限り陳列しよう(笑)
~有史以前
初めて貰ったのは小学校低学年の時の「算盤10級」。その後「8級」まで行くが、当時気力のない私は夏の間通っただけの算盤塾から撤退する。
考えてみりゃこの時代の私は何事もやる気の無い子供で、同時期に通っていた「習字教室」なんてなんの免状も貰わなかったなぁ。。。
…あ、後中学生の時に「英検3級」取ったぞ!既に免状もなくなったけど。。。
初めて貰ったのは小学校低学年の時の「算盤10級」。その後「8級」まで行くが、当時気力のない私は夏の間通っただけの算盤塾から撤退する。
考えてみりゃこの時代の私は何事もやる気の無い子供で、同時期に通っていた「習字教室」なんてなんの免状も貰わなかったなぁ。。。
…あ、後中学生の時に「英検3級」取ったぞ!既に免状もなくなったけど。。。
10代の成果
私が中学生当時、理系の男の子の憧れの趣味とは”ハム”即ち「アマチュア無線」であった。
「BCL」もメジャーな趣味ではあったが、そこに技術的な高尚さはなく、趣味の中の趣味は”キングオブホビー”たるアマチュア無線が長年に渡って燦然たる輝きを誇っていたのだ。
当時は電子工作に走り、真空管ラジオやトランジスタラジオその他の工作に明け暮れていたが、免許を取った友人が薦めるので遂に免許を取ることにした。
当時父親は私が電気を趣味にすることに反対していたので叔父に無理を頼み、滋賀県の片田舎から大阪は天満にある「テレビ電気専門学校」まで連れて行ってもらった。
「これで落ちたら申し訳が立たない、是が非でも合格しなくては…」という気合とは裏腹に、実は全然勉強していなくて、片道2時間の電車の中で情けない程の”朝漬け”で試験に臨んだのである。
結果辛くも合格し、ここに「資格」第一号を取得したのである。
中坊で、冬に証明写真を撮ったのでジャンパー着てますね。
田舎者丸出しで、今でもこの写真を見るとホノボノしてしまう。。。
当時は見開き式の紙製ですな。その昔は表紙に毛が生えてたらしいけど、当時は既に近畿圏でも”Fコール”となり、アマチュア無線人口も増えてきたこともあって、かなり簡素化されていた。
当時は見開き式の紙製ですな。その昔は表紙に毛が生えてたらしいけど、当時は既に近畿圏でも”Fコール”となり、アマチュア無線人口も増えてきたこともあって、かなり簡素化されていた。
この後父親に、実家をおん出されることになる。
某企業が中卒集めて職業訓練している所があり、そこに放り込まれる…うーん、人生こんなはずではなかった…
元々は電気が好きなのだが、色弱なので将来は建築士になって、脚光を浴び始めた「ソーラーシステムハウス」を建てるのが当時の将来の”夢”だったのに。。。
某企業が中卒集めて職業訓練している所があり、そこに放り込まれる…うーん、人生こんなはずではなかった…
元々は電気が好きなのだが、色弱なので将来は建築士になって、脚光を浴び始めた「ソーラーシステムハウス」を建てるのが当時の将来の”夢”だったのに。。。
…とは思うが、実は憧れの「日本橋」が近くにあり、その気になれば毎日でも通える環境になることが楽しみでもあり、事実この辺りから二十歳位までは別段他の用事がない限り週末は必ず日本橋に行くというスタイルを通す。
そんな訳で、電子工作とアマチュア無線に明け暮れる。ここでこっそり入れてもらった社団のアマチュア無線クラブで「Comp80BS」(キット式のNEC製パソコン)に遭遇したのは別のところで書いた通り。
ここのクラブで”1アマ”免許を取得した人が居た。年は私より10歳程上で、20代半ばであったと思う。
当時は”2アマ”であったが、社の100W機+4階建てのビルの上に立てたトライバンダーの4エレ八木アンテナに電信というスタイルで、世界中とQSOしていたのは憧れだった。
「とりあえず電信級を取ろう」ということになった。
また一発で試験を取ろうかとも思ったが、年2回の試験では気の短い私はとても待てない。
色々調べると流石大都会の大阪!JARL(日本アマチュア無線連盟)の大阪支部で「電信級移行コース」なるものがあるではないか…
これは電話級からのステップアップのプログラムで、電話級ライセンス保持者に限り三日通うだけで電信級のライセンスを貰えるという大変お得な企画。
おまけに受講費用は¥1,500!こりゃ安い!!電車賃出してもまだ安い!(笑)
ということで、訓練が終わってから大阪支部までカッ飛んで行くこと三日(講義は夜だった)
ということで、訓練が終わってから大阪支部までカッ飛んで行くこと三日(講義は夜だった)
最後の試験も難なく受かり、晴れて「電信級アマチュア無線技士」免許、ゲット!
ここに来るとカッターシャツ着てますな…うーん、またまた当時を思い出すなぁ。
当時JARLの大阪支部は天王寺の赤道というところにあったと記憶しているが…現在は住所も変わったようだ。
さて、やはり無理やり放り込まれた機械の勉強は性に合わず、ここは雌伏の時と我慢しても必ずや建築士になると心に決める。
まあ今から思えば甘々の計画なんだけど、当時としては無い頭振り絞って考え、入るつもりの建築専門学校の下見に京都まで行く。
既に親を当てには出来ないので自分で生計を立てる必要があり、特殊技能として強み伝いで「電気工事士」を取って生計の糧とし、足はやはり確保する必要があるかと思い、「原付免許」くらいは手に入れようと計画する。
今もあるのかは知らないが、当時全国で「3ない運動」なる馬鹿げたものがあり、高校生にはバイクの免許を「取らせない」、バイクを「買わない」、バイクに「乗せない」というのが基本であった。
子供は賢しいものなので、表面から圧力をかけても水面下に潜って余計に性質の悪いことになると何故気が付かないのだろうか?
まあ今から思えば甘々の計画なんだけど、当時としては無い頭振り絞って考え、入るつもりの建築専門学校の下見に京都まで行く。
既に親を当てには出来ないので自分で生計を立てる必要があり、特殊技能として強み伝いで「電気工事士」を取って生計の糧とし、足はやはり確保する必要があるかと思い、「原付免許」くらいは手に入れようと計画する。
今もあるのかは知らないが、当時全国で「3ない運動」なる馬鹿げたものがあり、高校生にはバイクの免許を「取らせない」、バイクを「買わない」、バイクに「乗せない」というのが基本であった。
子供は賢しいものなので、表面から圧力をかけても水面下に潜って余計に性質の悪いことになると何故気が付かないのだろうか?
私の居た訓練校も同様で、寮に教科書を置いて見つかるとマズいことになるので近くの本屋でこれという教科書に目をつけた。
訓練終了後毎日立ち読みに出かけて勉強すること1週間、盆休みの初日に友達を誘い「原付免許」を取りに行く。
場所は京阪電車「古川橋」下車後徒歩15分程度にある試験場である。
確か「門真運転免許試験場」だったと記憶している。
が、私は色弱故、最初の「信号機テスト」で落とされる。
皆が試験会場に入った後、かなり年配…というか、退職目前のような試験管が私を呼び止めた。
試験官「君、色盲かい?」
私 「いえ、色弱です」
試験官「そうか、、、なら判れば通るよ。おじさんと一緒に練習しよう!」
私 「はいっ!宜しくお願いしますっっ!!」
「これは?」「赤」「違う!黄色!これは?」「赤!」「違う!黄色!これは?」「黄色!」「そうだ!これは?」「赤!」「そうだ!」…
試験官「どうだ!判ったか?」
私 「はいっ!明るいのが黄色で暗いのが赤ですっ!!」
試験官「…うーん、ま、また来週来なさい。」
ってなわけで、友人の試験終了を待っていると、同い年くらいのセーラー服を着たポッチャリ型で私好みの美人に声を掛けられる。
「眼鏡を忘れたので、良ければ貸して下さい!」ということだったので、快く貸してあげたが、どうやら度が合わずに視力試験で落とされたようだった。
「検査で落とされたので暇なんです。姉たちもいるので一緒に遊びに行きませんか?」と誘われ、ノコノコと付いていったら、めっちゃヤンキーの怖い兄ちゃん達がうんこ座りしてガン飛ばしてたので、一目散に逃げたのも良い(?)思い出である。。。
ま、この話はまた機会があればどこかで(笑)
閑話休題…ということで、翌週盆休みの終わりにリベンジに挑む。件の「信号機テスト」の試験官はまた同じ人であったが、今回は楽勝で合格。
結局後年取った「普通自動車免許」も「中型自動二輪免許」も、信号機テストは全てこの方式で通っている。
とまれこの試験官、既に顔も忘れてしまった(私は人の顔を覚えるのが苦手だ)が、通りすがりにも拘らず私の人生を変えてくれた恩人だと今でも感謝している。
今は色覚検査は無くなったようだね。
日本人男性の約5%は色覚以上だけど車の運転には支障ないから、これで免許与えないのは良くないね。
でも検査自体を無くしたのは良い事だとは思えない。
ところで免許は結局発行してもらう暇が無く、有効期限ぎりぎりの年末年始休暇に取りに行ったっけ。
運転免許はその後「普通自動車」「中型自動二輪」を取得。現在も活用しているが、青春時代を飾ってくれたことにも感謝している。
息子たちにも高校生になったら是非中型二輪くらいは取って欲しいと思っている。
実は単に一緒にツーリングに行きたいだけなのだが…駄目なら娘でも良いぞ。
さて、もう一つの難関が「電気工事士」である。
これがないと屋内の電気配線工事はしてはいけない決まりなのだ。
地元の普通科に通っている同級生から「先輩がこの資格を取ってアルバイトをして、沢山稼いでいる」という話を聞いて、ターゲットにしたものである。
学生のバイトがどの程度の稼ぎか判らず、自分の生計を賄えるものかは不明であるが、当時の自分の技量で取れるのはこの程度だろうというのが調査の結論である…なんとかしよう。
電子工作を趣味にしていたこともあり、また授業で「電気一般」という教科もあったのでペーパーテストにはなんらの不安も無かったが、何分実技などはやったこともない。。。
これがないと屋内の電気配線工事はしてはいけない決まりなのだ。
地元の普通科に通っている同級生から「先輩がこの資格を取ってアルバイトをして、沢山稼いでいる」という話を聞いて、ターゲットにしたものである。
学生のバイトがどの程度の稼ぎか判らず、自分の生計を賄えるものかは不明であるが、当時の自分の技量で取れるのはこの程度だろうというのが調査の結論である…なんとかしよう。
電子工作を趣味にしていたこともあり、また授業で「電気一般」という教科もあったのでペーパーテストにはなんらの不安も無かったが、何分実技などはやったこともない。。。
色々調べて「電気書院」社の「工事と受験」がメジャーな雑誌と判り、これを購入。
ペーパー試験は念のため「電気書院」社が実施する公開勉強会に出かける。
これは会場で同社発行の教科書を買えば無料で講習会を視聴させてくれるという、非常に気前の良い(?)企画で、試験の勘所も教えてもらえる重宝なものであった。
今でもやってくれているのかは定かではないが、後年の上位資格についても大変お世話になった。
当然ペーパーテストは難なく合格である。試験会場は確か大阪府守口市にある「大阪工業大学付属工業高校」だった。
…さて、問題は実技である。
訓練校の先生から「10年ほど前は電気工事士の実習もしていたが、取れるやつが居なかったのでやめた」という話を聞き、残っていた練習用のボード(1.5m角程度の板)を借りる。
…が、寮内で練習しようと夜中に端の空き部屋で一発釘を打つと、反対側の部屋にまで届こうかという轟音が。。。
しょうがないので「工事と受験」に宣伝していた¥3,000の「実技セット」を購入して、机の上で細々と練習をする。
でも当時の試験は現在のような机上での実技試験スタイルではなく、電工ドライバーでネジ釘はドツく、電線管のネジは切る、ついでに碍子まであるというハードなもので、当然一回目の実技試験は敗北。
因みに試験会場は「大阪見本市会場」であった。現在の所に移る前の場所だ。
電線管のネジ切り機が二人に一個で、最初の取り合い合戦で負けたというのも精神的なプレッシャーだった。
…が、寮内で練習しようと夜中に端の空き部屋で一発釘を打つと、反対側の部屋にまで届こうかという轟音が。。。
しょうがないので「工事と受験」に宣伝していた¥3,000の「実技セット」を購入して、机の上で細々と練習をする。
でも当時の試験は現在のような机上での実技試験スタイルではなく、電工ドライバーでネジ釘はドツく、電線管のネジは切る、ついでに碍子まであるというハードなもので、当然一回目の実技試験は敗北。
因みに試験会場は「大阪見本市会場」であった。現在の所に移る前の場所だ。
電線管のネジ切り機が二人に一個で、最初の取り合い合戦で負けたというのも精神的なプレッシャーだった。
二年目はまた先生に頼み込み、会社の社員相手の勉強会に参加させてもらう…ガキんちょ一人だけ目立ってるぞ(笑)
ペーパーテストは昨年受かっているので、実技だけに集中すれば良いのだ。
取り合えずここで何度か練習したが、何分経験不足で自信が無い。。。がそのまま試験に突入する。
試験会場で隣に居たのが30過ぎ程度の如何にも「本職」の人。
その紺色の作業着、充実した工具群。。。
時間があったので話をすると、やはり「本職」らしい。
時間があったので話をすると、やはり「本職」らしい。
その人「君、初めて?学生さん?皆で来てるの?」
私 「いえ、私は機械科ですから。独学だから自信ないんです。。。」
その人「じゃ、僕の見てると良いよ、コツはね、最初に板にドライバーで傷付けて回路を書いちゃうんだ。」
私 「あっっ!そうなんですか!?その手があったんですね!凄い!!」
その人「ははは、こういうの、試験の常識だよ」
私 「へぇぇ~、傷付けても良いんだ。。。」
その人「ま、見えるようにやってあげるから、真似したら大丈夫!私は半分くらいで終わっちゃうから、時間も余裕あると思うよ」
…ということで、試験に突入。
二人で一個のベンダー(電線管を曲げる工具で、会場準備)も「良いよ良いよ、君先に使いなっ」てな訳でお先に拝借をし、結線で悩んでると「君、こうだよっ!こうっ!!」とドライバーで自分の結線を指して教えてくれ、本人は余裕で終了。
この時は確か20分の実技試験で、本人は15分は掛かっていなかったはずだ。
しかも私が見る限り完璧な出来栄え!なんで今まで受験しなかったの?
私はこの方のお陰で数分を残して完成することが出来た。
実技試験は直後に採点をして、バラして屑となり、ボードは次の受験者が使うことになるので、合否はその時点(7月の暑い日)でハッキリするのであるが、発表はかなり後(10月)になる。
私のも試験官が採点するのを見ていたが、明らかに昨年とは違う手ごたえを感じて「多分行けたんじゃないの?」という予感を抱いて帰る。
作業服着たまま工具箱を下げて電車乗り継いでね!
1970年代末の当時でも梅田辺りを作業服でウロつくのは明らかに怪しい奴だったが(笑)、着る物や格好には頓着しなかったので気にもしなかった。
結果、2年越しで「電気工事士」取得。
当時は一種、二種と分かれていなかったので、「電気工事士」と言えばこれ一つ!
原付免許の時の試験官に続き、ここでも通りすがりに助けてもらったのだ。
因みに仕事では大して役には立っていないが、現在住んでいる我が家の電気・電話・TVその他の配線は全て自前であり、それもこれもこの免許から始まったと考えると非常に感慨深いものがある。
確か一年目の試験では電工ナイフを使わずにオルファ式のカッターナイフを使って大怪我をした人がいて救急車が来たし、二年目の試験では近くに居た小柄な女性がパイプベンダーの上に乗っかって体重掛けても電線管が曲がらずにリタイアしていた。
現在は机上の試験に変わっていて、ハンディは無いようだが、当時はまさしく体格もモノを言うような試験であった。
確か一年目の試験では電工ナイフを使わずにオルファ式のカッターナイフを使って大怪我をした人がいて救急車が来たし、二年目の試験では近くに居た小柄な女性がパイプベンダーの上に乗っかって体重掛けても電線管が曲がらずにリタイアしていた。
現在は机上の試験に変わっていて、ハンディは無いようだが、当時はまさしく体格もモノを言うような試験であった。
更にこの後計算尺3級の試験に合格している。
2級と1級は惜敗した。
当時の免状はどこかに行ってしまって見つからない。
今会社で計算尺と言っても「なんすか?それ!?」と言われるのがオチであり、私が受験した当時ですら時代遅れ。
私自身も無理して買った関数電卓(当時は高かった)を使用していたが、「事務屋に算盤」と同様「技術屋に計算尺」の時代があったのである。
2級と1級は惜敗した。
当時の免状はどこかに行ってしまって見つからない。
今会社で計算尺と言っても「なんすか?それ!?」と言われるのがオチであり、私が受験した当時ですら時代遅れ。
私自身も無理して買った関数電卓(当時は高かった)を使用していたが、「事務屋に算盤」と同様「技術屋に計算尺」の時代があったのである。
さて、結局その後色々あって、結局建築士の夢は諦めることになる。
就いた仕事は「この三年間勉強した(たいしてしてないけど…)ことは一体なんだったの?」と言いたくなるような電気関係の仕事である。
当時一般化しつつあった、マイクロコンピュータやプログラマブルコントローラを使った生産設備制御だ。
(リレー制御は少なくなりつつあった)
なんてこたないそのテの人員が不足しており、そちら方面を趣味としていた私がそちらに振り分けられただけである。
なんてこたないそのテの人員が不足しており、そちら方面を趣味としていた私がそちらに振り分けられただけである。
私はこの当時から「資格」と「認定」はハッキリと区別しており、「認定」には一切の触手が動かなかったが、会社側はなぜか「認定」(技能士免状)の取得を奨励しており、しょーがないのでこちらも人並みには取得をする。
訓練校の丁稚奉公の卒業試験は二級技能士免状を取ることなので、「普通フライス盤」にした。
18歳になっていなかったので、免状貰ったのは誕生日の後だっけか?
真面目ではなかったが三年間毎日何時間も練習したので、仕事で触らなくなっても身体が覚えてる。
「お前、電気の仕事とちゃうんかい!」なんて皆に言われつつも、二年目は少し要素練習したら「普通旋盤」の二級が取れた。
で、就いた仕事が電気関係だったこともあり、当然電気関係の「認定」も要求される。
だが初年兵では残念ながら電気関係の技能士試験を受けることが出来ない筈なんだけど、何故か取ってるね…エエ加減な時代やったんかなぁ。。。
個人的に資格で次に目指すのは当然!、「高圧電気工事技術者」である。
仕事とは関係ないけど当時の上司や先輩社員は元施設動力を担当していた人たちで、「おお電気工事士持ってるか!なら次は高圧やな!!」とか、ノリはもう完全に強電屋さんだったのだ(笑)
これを取ると、低圧(直流750V、交流600V以下…だったと思う)を越えた電圧の工事を行えるのである!!
因みにそのような仕事はしていないので、当然不要であるが…
内容としては「電気工事士」の延長線上であり、ペーパーテストは特に問題は無かったが、「鑑別試験」という名の実技試験があった。
と言っても、写真を見て何に使う物かを答える、「実技試験」は名ばかりの「筆記試験」である。
とは言え、見たことも無いような物の用途を答えるのは至難の業!(笑)
ペーパー試験は前述の「電気書院」社のお世話になったが、講習会だけでは心もとないので、休日には教科書片手に大阪市内のビルの工事現場に無断で潜り込み(見つかったら怒られる…)、教科書片手に写真と実物の照合をしながら物の用途を懸命に暗記した。
因みにそのような仕事はしていないので、当然不要であるが…
内容としては「電気工事士」の延長線上であり、ペーパーテストは特に問題は無かったが、「鑑別試験」という名の実技試験があった。
と言っても、写真を見て何に使う物かを答える、「実技試験」は名ばかりの「筆記試験」である。
とは言え、見たことも無いような物の用途を答えるのは至難の業!(笑)
ペーパー試験は前述の「電気書院」社のお世話になったが、講習会だけでは心もとないので、休日には教科書片手に大阪市内のビルの工事現場に無断で潜り込み(見つかったら怒られる…)、教科書片手に写真と実物の照合をしながら物の用途を懸命に暗記した。
試験会場は電気工事士と同じ、大阪工業大学付属工業高校である。
確か当日は寮の行事があり、新参者の私は当然参加する義務があった訳だが、入寮半年で既に「変わり者」の烙印を押されており、あまり相手にはされていなかったので気持ち良く試験に臨む。
試験の難易度もあまり高くなく試験勉強も真面目にやり、寮の人間関係も一切無視した万全の体制で望んだ甲斐あり、見事一発で合格する。
因みに現在この試験は廃止され、類似の「第一種電気工事士」試験が実施されている。
既になくなった免許を持っているのは気持ちが良いものであるが、法律下で保護してくれているのかなぁ。
ここまで来れば次の目標は当然電験三種こと「第三種電気主任技術者」である。
もう既に仕事とはなんの関りもない(笑)
現在のパソコン一色の時代では見る影もないが、当時は電気科出た人間なら当たり前のコースであり一つの目標でもあった。
私は電気科じゃないけど。
もう既に仕事とはなんの関りもない(笑)
現在のパソコン一色の時代では見る影もないが、当時は電気科出た人間なら当たり前のコースであり一つの目標でもあった。
私は電気科じゃないけど。
翌1982年(昭和57年)には試験も筆記式から選択式となり、「易しくなるのではないか?」との淡い期待で受験したが不合格だった。
特に言い訳をするつもりではないが、通信制の工業高校(4年制の機械科)を卒業して春から夜学の短大(電子工学科)に通っており十分に勉強が出来なかった。
結局これから2年は仕事と夜学に追われることになる。
それほど当時は一日が貴重で忙しかった。
現在のように日々仕事だけに追われて、毎日になんの向上もないような時代が来るとは思っても見なかった頃である。
それほど当時は一日が貴重で忙しかった。
現在のように日々仕事だけに追われて、毎日になんの向上もないような時代が来るとは思っても見なかった頃である。
当時「夜学に来るような物好きなら、きっと話が合うに違いない!」と思っていたがなんのことはない、一浪したけど二浪は出来ないからとここに来た人間が大半で、期待したような”熱血オタク”は一握りであった。(一握りは居た)
そんな中でも「ApplⅡオタク」や「アニメオタク」が少数ながら居て多少なりとも楽しい日々であったのと、やはり歳を取ってから来ている方々はその姿勢と勤勉さに己の身の引き締まる思いがあり、非常に有益な期間であった。
2年半の課程であったが日中仕事で教員実習をする時間がなく、これを取らなかったので2年で単位を取得。
半年経って忘れた頃に卒業式の案内が来る。
会社は夜学を学歴と認めなかったので、現在この学歴は眠ったままである。
閑話休題、そういうわけで2年の学校が終わった頃(…まだ終わってないって、、、)、夏の試験に向かって勉強を開始。
確か2月頃から毎日2~3時間勉強して7月の試験だった。
自分の感覚では「なんとかなったんじゃない?」
試験終了後に近畿大学の門を出ると、訓練校時代に電気を教えてもらった先生にぱったり会う。
私の好きな先生の一人だった。
今はどうしておられるのだろう。。。
…結果は合格だった。
通商産業大臣の認定であり、戸籍抄本が必要だった。
故に当時の住所の大阪ではなく、滋賀県となっている。
この後工事担任者を取ったのは第6夜にあるので省く。
平成に入ってから、「情報処理技術物二種」と「危険物取扱者乙種四類」を取れと会社に言われるので、これを取りに行く。
情報処理技術者試験は当時脚光を浴びだした試験であるが、結局「認定」なのであまり気が乗らず、適当に教科書だけ読んで取得した。
平成に入ってから、「情報処理技術物二種」と「危険物取扱者乙種四類」を取れと会社に言われるので、これを取りに行く。
情報処理技術者試験は当時脚光を浴びだした試験であるが、結局「認定」なのであまり気が乗らず、適当に教科書だけ読んで取得した。
当時C言語が流行りかけた頃だったけど、それはオモろ無いと言う天邪鬼なのでFORTRANで受験。
当時は二種程度は実力でなんとかなったのだ。
当時は二種程度は実力でなんとかなったのだ。
危険物の方は、畑違いながらも「資格」試験なのでやる気十分であったが、実は前年に受験票を忘れて受けさせてもらえず、リベンジに行った。
新婚旅行から帰った翌々日が試験日で、取り合えず旅行先で勉強でもしようと教科書を持って行ったが嫁さんに顰蹙を買い、結局勉強できず。
受験場に向かう短い時間の電車の中で必死に朝漬けをしてクリアした(笑)
一般常識の範疇であり、ガソリン等の気化温度や発火点を押えておけばなんとかなった試験だと記憶している。
一般常識の範疇であり、ガソリン等の気化温度や発火点を押えておけばなんとかなった試験だと記憶している。
この頃、電気工事士の免許制度が変更になる。
「第一種電気工事士」が新設され、従来の「電気工事士」が「第二種電気工事士」になった。
これに伴い、「第一種電気工事士」とほぼ同範囲をカバーする「高圧電気工事技術者」試験は廃止される。
既に「高圧電気工事技術者」を持っているので必要性を感じなかった(実務やってないしね…)が、官公庁の資料を見ると移行期の特典が多数あり、
1.電気工事士免許を持ち一定期間実務経験のある者は、講習を受けることにより交付
2.高圧電気工事技術者免許を持ち一定期間実務経験のあるものは、申請により交付
3.第三種電気主任技術者免許を持つものは、申請により交付
2.高圧電気工事技術者免許を持ち一定期間実務経験のあるものは、申請により交付
3.第三種電気主任技術者免許を持つものは、申請により交付
とあった。
私は3に該当し1と2に該当する人が職場にいたので皆さんを誘い、大阪府庁に申請して職場の4人で貰った。
顔パスで免許まで貰える身分になったかと思うと気分が良かった(笑)
私は3に該当し1と2に該当する人が職場にいたので皆さんを誘い、大阪府庁に申請して職場の4人で貰った。
顔パスで免許まで貰える身分になったかと思うと気分が良かった(笑)
この辺りで流石に自分のオツムで取れる資格も底を付き始める。
実は「簿記三級」でも取ろうかと考えるが、どうにも理解できないので諦める。。。180度方向が違う。
暫く何の勉強もせず、薄らボーッとしている時、「来年から第一級アマチュア無線技士免許の和文電信が無くなる」と聞く。
おお、これなら昔取った杵柄、ムクムクと懐かしさがこみ上げる。
子供の頃は高嶺の花でも今ならたかがこの程度、和文電信さえなければ目を瞑ってても受かるぞ(笑)
電話級(第四級)、電信級(第三級)とあるので、ここはやはりフルセットで揃えるべきか…ということでとりあえずその年に二級を取る。
実は「簿記三級」でも取ろうかと考えるが、どうにも理解できないので諦める。。。180度方向が違う。
暫く何の勉強もせず、薄らボーッとしている時、「来年から第一級アマチュア無線技士免許の和文電信が無くなる」と聞く。
おお、これなら昔取った杵柄、ムクムクと懐かしさがこみ上げる。
子供の頃は高嶺の花でも今ならたかがこの程度、和文電信さえなければ目を瞑ってても受かるぞ(笑)
電話級(第四級)、電信級(第三級)とあるので、ここはやはりフルセットで揃えるべきか…ということでとりあえずその年に二級を取る。
翌年確かに和文電信が無くなっていたので、一級を取る。
実はこの頃既に滋賀県の実家にUターンしていたので、たまには大義名分を付けて大阪に遊びに行きたかっただけなのだ。
実家に帰った頃はアマチュア無線を再開しようと思いアンテナも立てたのだが、結局時間がなくてそのまま。
少年の頃の憧れを具現化して遂に取得した上級免許は、使うアテもないままお蔵入りなのである。
紙製の見開きからパウチになっているところも時代の流れを感じさせるね。
実家に帰った頃はアマチュア無線を再開しようと思いアンテナも立てたのだが、結局時間がなくてそのまま。
少年の頃の憧れを具現化して遂に取得した上級免許は、使うアテもないままお蔵入りなのである。
紙製の見開きからパウチになっているところも時代の流れを感じさせるね。
さて、こんなところであろうか。
後技能士免状がある。
実技試験と学科試験の両方に受からないと貰えない。
実技試験と学科試験の両方に受からないと貰えない。
が、学科試験は特に勉強する程のこともなく、実技も課題は決まっているので何度か練習すれば十分、という程度である。
私の場合は機械の技能士補があるので学科は免除。
前述の通り訓練校卒業時にフライス盤の二級を取得、翌年普通旋盤二級を取得。
流石に2年も機械を触らないと段々使えなくなるので、機械関係の技能士免状はこの二つだけ。
何故か初年度に配電盤の二級を受けさせて貰えたので取得。
経験年数が足りてきた頃電子機器組立の二級を取得。
その後経験年数が経つと一級を受験できるが、配電盤は体力勝負なので身体が付いていかず受験を断念(軟弱者)
電子機器組立は一級、その後電子部品接続の単一級を取得。
この二つは子供の頃からラジオや無線機、パソコン(当時はマイコンと呼んでいたが)の自作をしていたので、これに比べれば大した内容でもなく殆ど練習なしに取得できた。
二級技能士は大阪府知事、一級技能士は労働大臣が発行している。
それぞれ銀と金の襟章を貰え、これがあると「技能士」を名乗ることができる。
当時は一級、二級しかなかったが、その後特級と三級(種目による)が出来たようだ。
特に特級は実技試験がなくペーパー試験だけなので取れそうなものだが、その頃は仕事も電気設計やマイクロコンピュータ制御、システム開発が主となり遠ざかってしまい、結局受ける機会もなくしてしまった。
当時は一級、二級しかなかったが、その後特級と三級(種目による)が出来たようだ。
特に特級は実技試験がなくペーパー試験だけなので取れそうなものだが、その頃は仕事も電気設計やマイクロコンピュータ制御、システム開発が主となり遠ざかってしまい、結局受ける機会もなくしてしまった。
まだ他にも「計算尺三級」とか「玉掛け技能講習」とかあったのだが…結局役に立っていない。
少年時代に確信したことが、25年以上経ってやはり正しかったと再認識している。
今更この実力で「技能士」免状(認定)で飯が食えるハズもない…あれは厳しい世界なんだ。
役に立ってくれているのはやはり自動車やバイク、アマチュア無線、電気工事士やアナログ工事担任者等の免許(家の屋内配線や電話配線も自分でやっているので)である。
段々と頭が固くなり気力もなくなってきているのでこれから新しい免許をとる気は出ないだろうが、老後は電気主任技術者の免許を活かして再就職できれば良いのだが…
少年時代に確信したことが、25年以上経ってやはり正しかったと再認識している。
今更この実力で「技能士」免状(認定)で飯が食えるハズもない…あれは厳しい世界なんだ。
役に立ってくれているのはやはり自動車やバイク、アマチュア無線、電気工事士やアナログ工事担任者等の免許(家の屋内配線や電話配線も自分でやっているので)である。
段々と頭が固くなり気力もなくなってきているのでこれから新しい免許をとる気は出ないだろうが、老後は電気主任技術者の免許を活かして再就職できれば良いのだが…