皆さま
新著出版企画のキーワードの一つ、自己実現と自己超越に関するドラフトをさらに書き進めました。
過去記事では過激なことを書いていますが、日常生活における「超越」とは何かを論点に書き直しています。
前回の記事と合わせてお読みいただくとより理解が進むかと存じます。
よろしくお付き合いくださいませ。
自己実現と自己超越(2):日常にひらく自己超越の扉
サブタイトル:「あるがまま」に生きるという静かな革命
現代社会において、個人の生きづらさはますます深刻化している。
特に、人生の午後──おおむね四〇代後半から五〇代以降にかけて──において、多くの人が、かつて拠り所にしてきた「役割」や「社会的承認」の意味が揺らぎ始める。
心理学者カール・グスタフ・ユングは、この時期を「人生の正午」と呼び、外的達成を目指す人生の前半と、内面的成熟を志向する後半との間に、質的転換が訪れることを指摘した。
また、アブラハム・マズローも、晩年において、従来の「自己実現モデル」(欲求階層理論)を超える成長段階──「自己超越」──の存在を認めるに至った。
本稿では以下の点について考察を行う。
• 自己実現を超えた先に現れる「自己超越」という意識変容
• それが日常生活の中にどのように芽生え、育まれていくのか
• 「あるがまま」に生きるという実践が、いかにしてこの変容を支えるのか
自己超越とは、特別な修行や劇的な体験の果てに得られるものではない。
むしろ、日常生活の中での小さな気づき、静かな自己受容によって育まれていく側面もある。
人生の午後を迎えた私たちが、社会的役割や承認に頼ることなく、
いかにして「存在そのものへの信頼」に到達することができるのか──。
今回はこの点について詳しく見ていきたい。
自己超越とは何か ― 日常に根ざす超越の意味
人間性の成長モデルにおいて、「自己実現」は長らく最高の発達段階とみなされてきた。
アブラハム・マズローは1940年代から60年代にかけて、自己実現への欲求を、人間が持つ最も高次の動機づけであると位置づけた。
すなわち、自らの潜在能力を最大限に発揮し、内的可能性を開花させることが、成長の究極目標であると考えたのである。
しかし、マズロー自身は晩年、このモデルに限界を見いだした。
自己実現の先に、さらに深い意識の変容──「自己超越(Self-Transcendence)」──が存在することに気づいたのである。
自己超越とは、単に自己の目標達成や満足にとどまることなく、「自己そのものを超えて、より大きな存在や普遍的価値との一体感を得る意識状態」である。
それは、個人の利益や成功を超えたところで、存在の意味を見いだし、
自分を超えた「何か」のために生きる在り方を指す。
人生の前半において、私たちは自己実現を目指して生きる。
社会的役割を果たし、家庭を築き、キャリアを積み上げることに努力を傾ける。
しかし、人生の午後に差しかかると、これまでの達成に対する意味づけが変化し始める。
昇進、財産、名声──それらがかつてのようには、自己の存在価値を支えてくれなくなる。
「これだけ手にしても、なぜ満たされないのか」という違和感が、静かに心に差し込んでくるのである。
この違和感は、心理的成長の必然的プロセスでもある。
自己実現の段階では、個人の欲求充足が中心テーマであった。
だが、自己超越段階では、個人中心の意識そのものが緩やかに溶解し、
より広い存在の流れ──自然、社会、宇宙、あるいは「大いなるもの」──との一体感へと開かれていく。
しかしこの変容は、劇的なものであるとは限らない。
日常のなかの何気ない瞬間に、静かに芽生えることに注目してほしい。
たとえば、
• 朝、カーテン越しに差し込む柔らかな光を見上げるとき、
• 道端の小さな花に、ふと心を寄せるとき、
• 何気ない会話の中で、人の温かさに胸を打たれるとき。
そうした瞬間、人は、自己中心的な思考から離れ、
自分を超えた何かに、そっと触れているのである。
自己超越とは、「何者かになろうとする」努力を手放し、「いまここに在る」ことそのものを肯定する意識状態にほかならない。
この「静かな一体感」こそが、人生の午後における、魂の成熟のしるしである。
プラトー体験 ― 静かに持続する超越感覚
アブラハム・マズローは晩年、人間性の成長の最終段階として、「自己超越(Self-Transcendence)」の概念とともに、「プラトー体験(plateau experience)」という新たな概念を提唱した。
それは、従来彼が重視してきた「ピーク体験(peak experience)」、すなわち一時的な陶酔や高揚とは、性質を異にするものである。
ピーク体験は、成功や達成、宗教的高揚などの一瞬の頂点的体験である。
これに対し、プラトー体験は、日常生活のなかに静かに持続する「深い満足感」と「存在への信頼」として特徴づけられる。
そこにはドラマチックな高まりはない。
むしろ、穏やかで、持続的な超越感が、背景として存在し続けるのである。
マズローは、プラトー体験を重ねることによって、
人間は世界を異なるまなざしで見るようになると述べた。
彼はこの認知の変化を、次のように区別している。
• D-cognition(Deficiency-cognition)・・・欠乏を満たすために、世界を「利用すべき対象」として見る視点。
• B-cognition(Being-cognition)・・・存在するものすべてを「そのまま価値あるもの」として愛で、畏敬する視点。
たとえば、道端に咲く花を見たとき、
「この花は何の役に立つのか」と考えるのが、D-cognition的な見方である。
一方、「この花が咲いていること自体が美しく、いとおしい」と感じるのが、B-cognition的な見方である。
プラトー体験を重ねるにつれて、人は世界を、利害や目的を超えた「ありのままの存在」として見るようになっていく。
この変容は、単なる思考の切り替えではない。
自己中心的な動機(成功、承認、支配)を超え、存在そのものと静かに一体化するような、意識の成熟を伴う。
たとえば──
• 休日の朝、カーテン越しに差し込む柔らかな光を浴びながら、ふと「生きていてよかった」と思うとき。
• 食卓に並ぶささやかな食事に、言葉にならない感謝が湧き、静かに涙ぐむとき。
• 夕暮れの空を眺め、何の意味づけもなく、ただ「美しい」と感じるとき。
こうした瞬間には、何かを成し遂げる必要も、誰かに認められる必要もない。
存在していることそのものが、喜びとなる。
プラトー体験を経験する人は、世界を征服すべき対象でも、利用すべき資源でもなく、「ただそこに在るもの」として、深い敬意をもって眺めるようになる。
この意識変容は、人生の午後における真の心理的成熟への第一歩である。
「あるがまま」を受け入れる力
自己超越への歩みの中で、最大の転換点の一つは、
「あるがまま」を受け入れる力を育むことである。
現代社会は、達成と変革をよしとする文化を基盤にしている。
私たちは、常に目標を掲げ、未来を変えようと努力し、
現状を不十分なものと見なし、改善を目指すことを美徳としてきた。
たしかに、成長や向上は人間存在にとって重要な要素である。
しかしこの前提は、裏を返せば、「今この瞬間の自己は不完全であり、何かが不足している」という隠れた自己否定を温存し続けることにもなる。
マズローが指摘した「欠乏動機(deficiency motivation)」は、まさにこの心理に根差している。
すなわち、何かが足りない、何かを得なければならないという感覚が、私たちの行動を絶えず駆り立てるのである。
しかし、人生の午後に差しかかり、
自己実現をある程度達成したあとに訪れるのは、
さらなる努力による解決ではない。
むしろ必要なのは、「今ここにある自己」──すべての欠点、限界、不確実性を含めた自己をそのまま引き受ける力である。
「あるがまま」とは、無批判な肯定でも、受動的な諦めでもない。
それは、評価や抵抗を超えて、
現にあるものをあるがままに見つめ、
自らの内面をも、世界のありようをも、
裁くことなく受け止める態度である。
たとえば──
• 予定していた計画が失敗に終わったとき、
それを自己否定や焦りに結びつけるのではなく、
「この結果もまた、いまの私の一部である」と静かに受け入れること。
• 年齢を重ね、身体能力や記憶力が衰えてきた自分に対して、
若い頃の基準で裁くのではなく、
「これが私の現在地であり、これを生きる」と尊重すること。
こうした態度は単なる精神論ではない。
心理学的に見れば、これは「自己受容(self-acceptance)」の深化過程であり、
また、存在そのものへの信頼(Being-trust)を基盤とした認知転換でもある。
自己受容とは、自分を改善することを放棄することではない。
むしろ、自己変革への本当の出発点である。
なぜなら、自己を無条件に受け入れたとき初めて、
人は、変わるべきものと、変える必要のないものとを、
静かに、そして確かに見極めることができるからである。
あるがままを受け入れるとは、
コントロールへの執着を手放すことであり、
未来や他者を思い通りにしようとする衝動を、そっと降ろすことである。
この態度が育まれるとき、
私たちは、世界を敵視することなく、
また自己を無理に矯正しようとすることもなく、
静かに「いまここ」に根ざして生きることができるようになる。
この「あるがまま」の受容こそが、
日常のなかに自己超越への扉をひらくために不可欠な鍵なのである。
日常に宿る至高体験の兆しを育てる
自己超越は、特別な瞬間や奇跡的な出来事によってのみ達成されるものではない。
むしろ、それは日常生活というごくありふれた場の中で、ひそやかに芽生え、育まれていく。
アブラハム・マズローが語った「至高体験(peak experience)」は、劇的な感情の爆発として語られることが多い。
しかし、彼の後期理論においては、こうした体験が日常の中に頻繁に、しかもささやかに起こり得ることが強調されている。
それが先述したプラトー体験である。
至高体験とは、世界や自己に対して、一時的にではあれ完全な一体感と充足を覚える瞬間である。
それは、自己中心的な欲求や不安、分離感が一時的に消え、
存在することそのものに対する深い愛と敬意が胸に満ちる感覚である。
しかし、日常のなかでこの感覚を育むためには、
一定の心理的態度──つまり、世界に対して開かれた心が不可欠である。
それは以下の三つの基本的態度に要約できる。
1. 感謝(Gratitude)
ごく普通の出来事、ありふれた環境に対して、
「当然」と思わず、改めて感謝する心を持つこと。
たとえば──
• 朝、コーヒーの湯気を見つめながら、ただその温かさに感謝する。
• 子どもや友人の笑顔を、奇跡のように受け取る。
小さな恵みを「恵み」として意識的に受け取ることが、至高体験の芽を育む。
2. 畏敬(Reverence)
自分を超えた存在や自然、宇宙に対して、
畏れと敬意をもって接する態度を育むこと。
たとえば──
• 夕焼け空を見上げ、そのあまりの美しさに言葉を失う。
• 森の静寂に包まれ、無言で立ち尽くす。
自分の小さな枠組みを超えた存在への「畏敬」の感覚が、自己超越への感受性を開く。
3. 無私(Selflessness)
見返りや自己利益を求めず、
ただ存在に仕えるように、静かに行動すること。
たとえば──
• 誰かに小さな親切をしても、見返りを期待しない。
• ただ静かに、必要な助けを差し出す。
無私の行為は、自己を越えた「存在そのもの」との一体感を促進する。
こうした態度を日常生活の中で少しずつ育んでいくとき、
人はもはや劇的な至高体験だけを求めることはない。
代わりに、日々のなかにひそやかに息づく、
プラトー体験の「兆し」を繊細に感じ取るようになる。
それは──
朝、差し込む光にただ見とれる瞬間かもしれない。
家族と囲む食卓に、深い幸福を感じるひとときかもしれない。
静かな道を歩きながら、なぜか世界すべてが愛おしくなるような、言葉にならない気配かもしれない。
こうした「兆し」を見逃さず、大切に抱きしめること。
それが、自己超越へと向かう、確かな道標となる。
至高体験は、雷のように突然降ってくるものではない。
むしろ、静かな雨がじわじわと地面を潤すように、
日常のなかにそっと滲みわたり、私たちを深く変えていく。
そして気づけば、自己中心的な枠組みを超え、
存在することそのものに、静かな感謝と畏敬を捧げる生き方へと、私たちは自然に導かれていくのである。
まとめ
本稿では、自己実現を超えた先にひらかれる「自己超越」という意識変容について、
日常生活に根ざした視点から論じてきた。
自己超越とは、単なる目標達成や外的成功の延長線上には存在しない。
それは、自己中心的な欲求や防衛反応を超え、存在するものすべてを「そのまま」受け入れる意識状態への転換である。
人生の午後において、私たちは社会的役割や外的承認に依存してきた生き方の限界を知る。
そこから先に進むためには、「あるがままに生きる」という静かな革命を受け容れることが求められる。
プラトー体験は、この意識変容を象徴するものである。
それは、劇的な瞬間を求めるのではなく、日常の中に静かに持続する満足感と存在への信頼を育むものである。
そしてこの体験を可能にするのは、感謝、畏敬、無私という三つの態度であり、
これらを意識的に日常生活に根づかせていくことによって、プラトー体験の「兆し」が、私たちの内面にしみわたっていく。
自己超越は、修行や奇跡によって訪れるものではない。
それは、今日の小さな感謝から始まり、
誰にも見られない静かな誠実の積み重ねによって、
気づかぬうちに形作られていく。
たとえ社会的な成果がなかったとしても、
たとえ誰にも評価されなかったとしても、
「私は、私である」という確かな感覚を抱きながら、
今この瞬間を生きること。
その静かな在り方こそが、
人生の午後において私たちが手にすることのできる、
もっとも深い心の成熟なのである。
(続く)
文責:はたの びゃっこ
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