皆さま

 

いつもご訪問くださりありがとうございます。

 

当ブログで投稿してきた記事をベースにして、これを書籍化するプロジェクトが始動しました。

 

私たちは、これまで日々ブログを書き綴ってきましたが、その記事内容に興味・関心を持たれた出版社様よりオファーがあり、交渉を重ねて出版契約を正式に交わしました。

 

当ブログではさまざまなテーマを扱っていますが、これまでに麗月相談室で取り組んできた活動内容も反映させる形で、これを1冊の本にまとめることになります。

タイトル(仮):「生きづらさを超えて – 日本的霊性に基づく自己超越の道しるべ」
 

副題(仮):心理学と日本的霊性で解き明かすあなたが自分らしく生きるためのヒント
 

 

現時点での著書構成(案)

________________________________________
序章:「生きづらさ」とは何か? – 現代社会の課題
第1節:「生きづらさ」という現象
1.1 生きづらさを感じる人が増えている理由
1.2 社会・心理・霊性の視点から見る「生きづらさ」
1.3 本書の目的 – 生きづらさをどう乗り越えるか?
第2節:生きづらさの背景
2.1 日本社会の変化と「個人」の生きづらさ
2.2 物質主義・競争社会がもたらす精神的圧迫
2.3 日本的霊性が薄れた社会で起こる「精神的空白」
________________________________________
 

第1章:「生きづらさ」の本質を探る
第1節:生きづらさの心理学的側面
1.1 自尊感情の低さがもたらす生きづらさ
1.2 トラウマと生きづらさの関係
1.3 完璧主義と自己批判の罠
第2節:社会的な生きづらさ
2.1 孤独と人間関係のストレス
2.2 家族の問題 – 毒親・過干渉・親離れの難しさ
2.3 仕事・社会的プレッシャーによる精神的負担
第3節:霊性の視点から見た「生きづらさ」
3.1 霊性の欠如がもたらす空虚感
3.2 先祖・自然とのつながりの喪失
3.3 物質主義に支配された社会の問題点
________________________________________
 

第2章:日本的霊性が示す「生きること」の本質
第1節:日本的霊性の核心
1.1 日本人が持つ「霊性」の特徴
1.2 「つながりの霊性」– 先祖・自然・社会との結びつき
1.3 「畏敬の念」と「死を超えた希望」
第2節:「あるがまま」に生きること – 日本的霊性と幸福論
2.1 老子の「無為自然」とは何か?
2.2 仏教の「自然法爾(じねんほうに)」と神道の「かむながら」
2.3 「あるがまま」が幸福をもたらす理由
第3節:霊性を失った現代社会の影響
3.1 なぜ人々はスピリチュアルに傾倒するのか?
3.2 霊能者・占い依存の問題 – 霊性の誤用と危険性
3.3 本来の霊性を取り戻すために
________________________________________
 

第3章:自己実現と自己超越 – 生きる意味を見出す
第1節:自己実現とは何か?
1.1 マズローの欲求階層説と日本的霊性の関係
1.2 「本当の自分」を知るとはどういうことか?
1.3 日本的霊性に基づく自己実現のプロセス
第2節:自己超越と「あるがまま」
2.1 「あるがまま」は自己超越の第一歩
2.2 あるがままの実践と至高体験
2.3 霊性的視点からの「死生観」と「道」
________________________________________
 

第4章:実践編 – 「あるがままに生きる」ための方法
第1節:心理的アプローチ
1.1 認知の歪みを修正するトレーニング
1.2 「自尊感情を高める」実践法
1.3 過去のトラウマを和らげる方法
第2節:日本的霊性の視点を日常に取り入れる
2.1 先祖とのつながりを意識する(供養・家系の理解)
2.2 自然と対話する(森林浴・神社仏閣巡り)
2.3 陰陽道の秘教的知識に基づく自己浄化の実践(入門編)
•    陰陽五行による簡単な「身心の調整」
•    「日々の祓い」としての浄化法
•    五行を意識した生活習慣のヒント
•    陰陽道の呼吸法と「気の巡り」の整え方
•    「簡易的な唱え言葉(呪詞)」で心を落ち着ける
•    月の満ち欠けを活かした簡単なリズム調整
第3節:物質主義からの解放
3.1 「足るを知る」生き方とは?
3.2 消費社会から離れ、精神的豊かさを得るには?
3.3 「手放す」ことで生まれる自由
________________________________________
 

第5章:具体的な事例から学ぶ – 生きづらさの現実
第1節:心理的な生きづらさのケース
1.1 自己否定の罠 – 「私なんてダメだ」から抜け出す
1.2 トラウマが人生を支配する – どうすれば過去を癒せるのか?
1.3 完璧主義が生む苦しみ – 「できない自分」を許す方法
第2節:社会的な生きづらさのケース
2.1 親の期待とコントロールに苦しむ人 – 毒親・過干渉・親離れの難しさ
2.2 孤独と人間関係の葛藤 – 他者との距離感を見直す
2.3 仕事・社会的プレッシャーに押し潰される人 – 「働くこと」の意味を再考する
第3節:「あるがままに生きられない」人々の苦しみ
3.1 頑張りすぎて燃え尽きる人
3.2 社会の枠組みの中で無理に適応しようとする人
3.3 「すべき」「ねばならない」思考から抜け出せない人
________________________________________
 

終章:生きづらさと共に生きる – 「あるがまま」を受け入れる
•    生きづらさはゼロにならない – それでも生きていく方法
•    「あるがまま」に生きることで得られる幸福
•    本書を閉じたあとにできること – 最初の一歩を踏み出す
________________________________________


今回は、リアルタイムで書き進めている著書の執筆状況(ドラフト)を記事化します。


執筆に半年間、構成と編集に半年間、1年間の長い道のりになりますので、ファイナルバージョン=完成版の内容は大きく変化することが予測されます。

 

そのことはあらかじめお含み置きくださいませ。

 

なお、この本が想定している読者のイメージですが、

 

  • 40代-60代の層。
  • 「人生の午後」にいる様々な苦悩を抱えている人。
  • 主に女性を対象にしている

です。

 

なぜ、このような読者層を念頭に置いているのか?

その理論的な枠組みを説明します。

 

 

人生の正午と午後 ― 魂の成熟へ向かう旅
 

私たちは人生の中で、目には見えない何かに導かれるように、段階を経て成長していきます。
 

40代から始まる「人生の正午」、そして50代以降の「人生の午後」は、単なる年齢の区切りではありません。
 

それは、魂の成熟と再誕生を促す、霊的通過儀礼(イニシエーション)でもあります。

人生の正午 ― 霊的問いへの目覚め
 

40代から50代前半にかけて、人は人生の折り返し地点に立ちます。
社会的な成功や役割をある程度果たしてきたこの時期に、多くの人が次のような内的問いに直面します。

「私はこのまま老いていくのだろうか?」

「これが本当に望んだ生き方だったのか?」

「人生に意味はあるのか?」


ユングはこの時期を、外的世界から内的世界へと意識の重心が移行する重要な節目と位置づけました。


それまで抑圧していた感情や欲望、未統合の自己(シャドウ)との対面も起こりやすく、神話で言う“冥界下り”にたとえられることもあります。

宗教的に言えば、これは魂の目覚めの時。


仏教で言う「無常」の自覚、神道で言う「禊(みそぎ)」、キリスト教で言う「内なる声との対話」が始まるのがこの段階です。

人生の午後 ― 魂の統合と再誕生
 

50代以降、人生の後半に入ると、喪失と受容のプロセスが始まります。
身体の衰え、親の死、子の独立、退職――
そうした現実の中で、「今、ここにある自分」と向き合わざるを得なくなります。

この時期の発達課題は、エリクソンの言う「統合 vs 絶望」、すなわち過去を物語として統合する力が試される段階です。
 

同時に、東洋思想では「老年期は智慧を宿すとき」とされ、自我を超えて自己を生きるスピリチュアルな成熟段階へと進んでいく時でもあります。

ユングはこの時期を「人生の午後」と呼び、「太陽が天頂を越えて沈みゆくように、精神もまた次の領域に入る」と語りました。


外に向かって築いてきた人生が、内に向かって凝縮されていくのです。

宗教的にはこれは「帰依」の時期にあたります。
神道で言えば「鎮魂」、仏教で言えば「涅槃への歩み」、キリスト教では「魂の救済」とも重なります。
 

 統合のとき ― 内なる神仏との再会
 

人生の午後をどう生きるか。それは単に「老後をどう過ごすか」ではありません。
むしろ、それは“誰かのために何ができるか”という祈りの時間であり、
“生かされている意味”に気づき、魂を他者と分かち合う道でもあります。

この時期に人は、自己の小さな欲望から解き放たれ、
「私を超えた何か」――神、仏、宇宙、自然、祖霊――とのつながりを再発見します。


それは、巫師の言葉で言えば、「魂が静まり天と響き合うとき」です。

まとめると……
 

人生の正午は、変容の入口。
人生の午後は、霊性の実践。


どちらも、ただ年齢を重ねるだけではたどりつけません。
必要なのは、内なる声に耳を澄ませる勇気と、過去を受け入れる寛容さ。
そして、自分という存在が誰かに届く祈りのような生き方です。

「人生の午後をいかに生きるか」――
それは、魂の成熟と自己超越への道を歩み始めるということなのです。

 

 

では、新著の構成案から序章のドラフト部分を書き起こしてみたので、どのような本を私たちが紡ぎ出そうとしているのかをご覧いただければと存じます。

 

コメント等いただけましたら、再構成の参考にさせていただきますし、皆さまの要望などを反映させた内容にブラッシュアップいたします。

 

どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

序章:「生きづらさ」とは何か?

第1節:「生きづらさ」という現象

1.1 「生きづらい」という声が聞こえる社会

「しんどい」「もう無理」。
そんな言葉が、日常にあふれている。
家族の中で、職場で、あるいはSNSで。

誰かがいつも疲れている。
誰かが口を閉ざしたまま、何かに耐えている。

カウンセリングの現場でも、同じ声を聞く。

「朝が怖い」「理由もなく不安になる」「とにかく生きづらい」

こうした訴えは何も特別なものではない。

誰にでも起こりうる、時代の病である。

心理学では、不安、抑うつ、孤独といった言葉で語られる。

だが、その内実はもっと複雑である。

「生きづらさ」とは、単なる気分ではない。

それは、生きるという営み自体が重く感じられる状態である。

言い換えれば、「存在の重さに押しつぶされそうな感覚」である。

これは現代人だけの問題ではない。

だが、今の社会は、その声を拾いにくい構造になっている。

競争、効率、成果、自己責任。

そうした言葉に支配された社会は、弱音を封じ込める。

誰かに相談しても、「それくらい我慢しなさい」と返ってくる。

だからこそ、誰にも言えず、黙って飲み込む人が増えている。

「生きづらい」という言葉は、その沈黙の末に生まれた。

それは、時代の底から立ち上がる、見えない叫びでもある。

1.2 「生きづらさ」は病気ではない

病院に行っても、はっきりとした診断はつかない。
それでも、本人の苦しみは確かに存在している。
身体は動く。仕事もできる。家事もこなす。
でも、心のどこかにぽっかりと穴が空いている。

その空白に名前はない。

だからこそ、誰にも理解されない。

「気のせいでしょう」「甘えじゃないの」

そんな言葉が、さらに傷を深くする。

筆者のもとを訪れた女性はこう語った。

「家族の前では笑えるけれど、一人になると崩れ落ちるんです」

外では「元気そうだね」と言われる。

でも、家に帰ると、ベッドの中で泣いている。
その涙に、医学は答えられない。

診断や病名のラベリングでは、癒しにはならない。

必要なのは、魂に触れるまなざしである。

そして、その苦しみを「あなたのせいではない」と言える言葉である。

「生きづらさ」は、心の奥に宿る痛みである。

それは、真剣に生きようとする人ほど抱えやすい。

だからこそ、「治す」ものではない。

むしろ、「向き合う」ことで道がひらけていくのだ。

1.3 この本が目指すこと

この本は、「生きづらさは乗り越えられる」と語る本である。

が、それはポジティブ思考で元気を出しましょう、という話ではない。

「がんばっていればいつか報われる」

「前向きに生きればきっと道が開ける」


そんな言葉に読者はもう飽き飽きしているはずである。
この本が目指すのは表面的な解決ではない。

もっと深いところにある、「魂の声」に耳をすませることである。

本書は、心理学と日本的霊性という二つの視点を交差させる。

それは、「こころ」と「いのち」の両面から、生きづらさを見つめる作業である。

心理学は、過去の傷や心の傾向を理解するための手助けになる。

日本的霊性は、自分を超えた存在とのつながりを思い出させてくれる。

この二つを組み合わせることで、「生きづらさ」を、生きる力へと変えていく。

それが、本書の目指す道である。

第2節:生きづらさの背景

2.1 「個人の時代」の苦しみ

自由は、確かに手に入った。
だが、その代償として、何か大切なものが失われた。

昭和の時代、私たちは「空気」を読んで生きていた。
それは窮屈で、息苦しくもあった。

しかし同時に、「ここにいていい」という安心感もあった。

今もなお、「空気を読むこと」は求められている。
だが、その性質は大きく変わった。

かつての空気は、顔の見える共同体のもとにあった。

地域、家族、職場など、狭い人間関係の中で形成された。

いまの空気は、もっと曖昧で、もっと広く、そしてもっと怖い。

誰が見ているかわからない他者の視線が、「空気」をつくる。

SNSでの発言、服装、働き方、子育て、親の介護……
すべてが「正しさ」に照らされ、評価の対象になる。

しかも、それらの選択はすべて「あなたの自由」だとされる。

好きにしていいが、失敗すれば自己責任―それが現代である。

選択の自由は、責任の重さをも同時に背負わせる。

誰かに頼ることも、弱音を吐くことも簡単ではない。

かつては「村」や「ご近所」が支えになった。

今はそれすらない。つながりは希薄で、孤立は日常に溶け込んでいる。

自由になったはずの私たちは、空気に気を遣いながら、なおかつ一人で生きるよう求められている。

この二重のプレッシャーが、「生きづらさ」の正体である。

仕事を続けるのか、家庭に入るのか。親の介護を背負うのか、施設に任せるのか。

どれを選んでも、正解はない。

だが、選択を間違ったときには、すべて自分のせいにされる。

自由は時に残酷である。

その自由の中で誰もが不安になっている。しかも常に誰かと比較されている。

SNSでは「幸せそうな他人」があふれている。リアルなつながりは減ったのに、評価だけが増えている。

これが「個人の時代」の正体である。

孤独は、静かに心を蝕む。
そして、誰にも気づかれないまま、日常の中に沈んでいく。

2.2 物質主義の落とし穴

多くの人が、こう思ってきたはずである。

「学歴を手に入れれば安定した人生が手に入る」
「お金があれば、苦労は減る」
「成功すれば、自信が持てる」


だから、がんばってきた。
家族のために、子どものために、自分を削ってきた。

その結果、どうなったか。
家は建ち、子は巣立ち、老後資金も少しはある。

でも、心は空っぽのままである。

「このために、私は生きてきたのか?」

そんな疑問がふと湧いてくる。成功しても、「何かが足りない」と感じるのはなぜか。

その正体は魂の飢えである。

物質は心を満たしてはくれない。

むしろ数字や肩書にしがみつくほど、不安になる。
目に見えるものを追ううちに、目に見えない自分を見失った。

こうして豊かになったはずの社会で、私たちはかつてないほど心をすり減らしている。

2.3 「魂の居場所」が消えた時代

昔の日本には、目に見えない世界があった。

それは、神さまであり、仏さまであり、先祖の霊でもあった。

人は祈った。

花を供え、手を合わせ、静かに語りかけた。

それは、誰かに見せるためのものではなかった。


見えないものと、心を通わせる時間だった。

だが今はどうか。

神社はあっても、そこに祈る人の姿は減った。

お寺もまた、法事のときだけ立ち寄る場所になった。

神棚や仏壇もいつしか家から消えた。

信じるものがなくなった社会は、強く見えて脆い。

支えとなる「心柱」がない分、ひとつのつまづきで心が折れる。

拠りどころがない時代に人は不安になる。

そしてスピリチュアルや占いに飛びつくようになる。

だが、そこで本当の癒しが得られる保証などない。

見せかけの言葉では、魂の痛みは癒えない。

今、求められているのは「魂の居場所」である。

誰かの教えではなく、自分の中にある祈りの空間である。
 

それがなければ、どんなに情報があっても、心は空っぽになる。

生きづらさは、その空洞の中から生まれる。


第3節:なぜ霊性が必要なのか

3.1 「自分探し」の限界

「もっと自分らしく生きたい」

そう願って、自分を探しはじめる人が多い。だがその道は、思った以上に険しい。

本を読んでもセミナーに出ても、何かが足りない。

自分と向き合えば向き合うほど、空しさが増す。

深く掘っていっても、そこには「自分」がいない気がする。

カウンセリングも、その壁を越えることは難しい。

心の整理はできるが、魂の空白までは届かない。


ある女性はこう言った。

「何年もセラピーを受けたけれど虚しさは消えなかった」

自分を知れば、自由になれると思っていた。

でも、そこにあったのは、むしろ「限界」だった。

なぜか。

人間は、ただの“個人”=孤人では生きられないからである。

自分の内面だけを見つめていても、答えは出てこない。
人には、「自分を超える何か」とのつながりが必要である。

それは神でも、自然でも、先祖でもよい。

大きなものとつながることで、自分の小ささを引き受けられる。

それは「弱さ」ではない。
それがあって初めて、人は本当に立ち上がることができる。


3.2 日本的霊性とは何か

霊性と聞くと、宗教やスピリチュアルを連想する人が多い。

だが、日本的霊性は、そのどちらとも異なる。

 

それは神道でも仏教でも、キリスト教でもない。

教義や信条ではなく、「生き方そのもの」に宿る。

たとえば、祖先の墓前に花を手向ける。

神社で手を合わせ、静かに祈る。

自然の中で、風や光に語りかけるような気持ちになる。

これが日本的霊性の原風景である。

山や川に神が宿ると信じた人々。

火や水に手を合わせ、目に見えぬ存在を敬ってきた。

そこには「祈り」「感謝」「畏れ」があった。

誰かに見せるための行為ではなく、心の深いところから湧き出るものだった。

こうした霊性は、儀式でも知識でもない。

人が人として、生きようとする時に自然に湧き上がる

「あなたのおかげで生かされている」という実感。

そう感じるとき、すでに霊性は自分の内側から顕れているのだ。

3.3 現代に霊性を取り戻す意義

現代社会には「意味」がない。あるのは、数値と効率と結果ばかりである。

だからこそ、苦しみは「無意味」に感じられる。

痛みを感じても、「なぜ私だけが」と思ってしまう。

だが、霊性はそこに意味を与える。

たとえば、「これは先祖からの試練かもしれない」と考える。

あるいは、「いま学ぶべき時が来たのだ」と受け止める。

すると、同じ出来事でも、心の捉え方が変わる。

霊性は、見えない支えになる。ひとりではないと、感じられるようになる。

それは他人ではなく、「見えない誰か」かもしれない。

祖霊、神仏、自然……。

その存在が、人を根底から支える。そして霊性は、自己超越への扉でもある。

「自分さえよければいい」という視点から抜け出す。

「自分は何のために生きているのか」を考えるようになる。

この視点の転換こそが、生きづらさを変える鍵である。

人間は、ただ満たされて生きたいわけではない。

意味ある生を、生き抜きたいのである。

 

その意味は、霊性なしには見つからない。


第4節:本書の読み方とお約束

4.1 「答え」は提示しない

人生にマニュアルは存在しない。

あるのは、無数の問いと、答えのない道だけである。

 

この本は、正解を教えるためのものではない。

「こうすればうまくいく」などとは安易に言わない。

代わりに、この本は「問い」を差し出す。

そして、「見方」を変えるためのまなざしをそっと添える。

答えは、あなた自身の中にある。

その答えは、他人の正解とは違っていてもよい。

本書は、その答えを探す道のりをともに歩む。

読者にとっての「道しるべ」として寄り添う。

4.2 誰に向けた本か

この本は、「生きづらい」と感じている人に向けた本である。

特に、「人生の正午」を過ぎた中高年世代の人々に共通する発達課題を取り上げていく。

年齢を重ねる中で、心にぽっかりと穴が空いた人。

表面上は問題がなくても、なぜか満たされない人。

心の奥に、“闇”を抱えているすべての人へ。

それは悲しみかもしれない。
怒りかもしれない。あるいは、言葉にならない空白かもしれない。

この本は、そんな思いを抱えながらも、「それでも私は生きたい」と願う人のためにある。

心理学は何の助けにならないという人。

お花畑のようなスピリチュアルに飽きた人にも開いてほしい。

本書はそのあいだに立つ。

こころと魂のあいだ。
科学と祈りのあいだ。

そこからしか見えない風景を、共に眺めたい。


4.3 ルールと構成について

本書は、4つの章から成る。
それぞれの章で、心理学と霊性の交差点を探っていく。

第1章では「生きづらさ」の本質を掘り下げる。

第2章では日本的霊性の知恵を解き明かす。

第3章では自己実現と超越のプロセスを描く。

第4章では日々の暮らしに活かす実践法を紹介する。

難しい理論だけではなく、具体例も豊富に盛り込んだ。

ときに物語を通して、読者の心に語りかけていく。

この本は、知識を得るための書ではない。

読むたびに、少しずつ自分と向き合える本である。

疲れた夜、ふと手に取りたくなるような本であること。
それが、筆者の願いである。

あなた自身の「魂の手帳」として、この本を使ってほしい。
この本に書き込みながら、破りながら、自分の道を描いてほしい。

(了)

文責:はたの びゃっこ

 

©麗月相談室2025 本ページの内容は著作権法により保護されています。

 

 

巫師麗月チャンネル

 

 

麗月相談室はこちらへ

 

よろしければ下のバナークリックお願いします

巫師 麗月のブログ - にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへ
にほんブログ村


夜道を照らす月明かり
迷える人の道しるべ
声なき声に耳を寄せ
夢と現のあわいまで
静かに祈る言の葉よ