皆さま

 

日本人はよく無宗教だと言われることがあります。ですが、無宗教=無神論というわけではありません。

 

無神論と無宗教は、しばしば混同されることがありますが、それぞれ異なる意味を持ちます。

無神論(atheism)は、神の存在を信じない立場や信念を指します。無神論者は、神が存在しないと考えます。これは、神が存在しないという立場であり、神や宗教の概念を信じないという意味です。

一方、無宗教(non-religious)は、特定の宗教に属していない状態や立場を指します。無宗教者は、特定の宗教の信念や教義を持たないか、あるいは宗教的な実践や儀式を行わないかもしれませんが、神や神秘的な存在の可能性を完全に否定するわけではありません。

ただ、日本人の言う無宗教というのは、むしろシンクレティズムではないかという見方もあります。

 

これは、起源の異なる複数の宗教的要素が習合して信仰されていること、諸教混淆をさします。たとえば、神道と仏教の習合、道教と仏教の習合、ヒンドゥ教と仏教の習合など、日本以外にもさまざまな形態があります。

 

日本人の場合、たとえば正月に神社で初詣をし、お盆やお彼岸にはご先祖様の墓参り。クリスマスにはケーキやチキンを食べるなど、本来は異なる宗教の行事が混ざり合いながら、それでいてそれらが宗教的なものだという自覚も薄く、なんとなく受け入れてしまっている人も見受けられます。

 

個人の宗教に対する態度や考えはさまざまですし、それでいいと思いますけれど、霊性は宗教の枠組みを超えて広がっている概念であり、人によっては普段は自覚されていない内面的な支柱のようなものです。

 

今回は、霊性の研究者としての立場から、広い意味での宗教意識である霊性の概念について考えてみたいと思います。

 

よろしくお付き合いくださいませ。

 

 

はじめに

 

生きる意味と人生の目的の探求、そして死に対する恐怖心を超えることは霊性意識のコアとなる要素です。

 

このことは当ブログで再三述べてきたことです。

 

最近読んだ記事の中で、こうした霊性に関わるテーマについて独自の見解を述べている生物学者の言説がありました。

 

 

まずは、その言説について紹介しますので、ご覧ください。

 

 

 

 

上の記事の内容を精読してみると、霊性概念に真っ向から対立するような言説も展開されているようで、これは霊性を専門にしている立場としては見過ごせないと思いました。

 

以下に、記事中で目についた、霊性概念に関係すると思われる言説について見ていきます。

 

 

1.人生に生きる意味などない

 

霊性は、内面的な成長、自己超越、日常生活における意味の探求など、広範な経験や価値観を含むものであり、いわば自己成長のプロセスに関するテーマを扱っています。

「人生に生きる意味はない」という見解は、意味の探求や個人の価値観を無視しているといえます。

 

なぜなら、多くの人々は、個人的な経験や関係、達成感から生きる意味を見出します。

 

人生の意味を否定することは、こうした個人的な意味や価値を軽視することになりはしませんか?

つぎに、この見解は、人生に意味がないことがポジティブだと主張していますが、その根拠は何でしょう。

 

確かに、意味を見出せないことがポジティブであると感じる人もいるかもしれませんが、多くの人にとっては、意味を見つけることが精神的な安定や幸福感に繋がります。

 

意味を否定することが必ずしも全員にとってポジティブであるとは限りません。

また、「生きる意味がない」と考えることで「他人と比較する」ことを避けられると言いますが、他の対処法もあります。

 

個人の成長や内面的な満足感を重視する心理療法や哲学的アプローチを通じて、他者との比較のストレスを軽減することができます。

 

人生の意味を否定することが唯一の解決策なのでしょうか?

さらに、宇宙の歴史の中で人類の存在が小さく見えるという考えは、科学的には一理あるかもしれません。

 

しかし、それが人生に意味がないという結論に直結する理由が分かりません。

 

多くの哲学者や科学者は、人類の小ささと人生の意味を両立して考えることができると主張しています。科学的な視点から見ても、人間の経験や感情、意識の存在は重要です。

宗教的な信仰、哲学的探求、文化的価値観、個人の使命感など、人生の意味に関する考え方は多岐にわたります。

 

そういう多様な見解を知った上で、自分自身のこれまでの人生を振り返りつつ、「無意味」だと「意味づける」のなら、それはそれでOKです。

 

ですが、多くの人々にとって、人生の意味を探求することは、内的な成長を助け、人生に希望を見いだすことにつながっていることもまた事実です。

 

それを見つけられないとき、人は人生に絶望し、自暴自棄な行動を取ることもあります。

 

 

2.宗教を信じる人は死ぬのが怖いのだ

 

この見解に対して、霊性の概念との関係で考えました。

 

霊性(スピリチュアリティ)は、宗教の一部である場合もありますが、必ずしも宗教と同じではなく、個人の内面的な経験や価値観に根ざしているものです。
 

まず、霊性は、自己認識、内面的な成長、宇宙や自然とのつながり、他者との共感といった多様な側面を持ちます。

 

多くの人々は、死の恐怖とは関係なく、これらの霊的な側面を追求しています。

 

霊性の探求とは、生きる意味や人生の目的を見つけるためのものであり、単に死後の安心を求めるものではありません。
 

多くの宗教的儀式や霊的実践は、死後の世界や死の恐怖とは無関係です。

 

例えば、禅、瞑想、祈り、ヨーガの実践は、内面的な平和、心の静寂、そして現在の瞬間に集中することを目的としています。

 

これらの実践は、精神的な充実感や深い内面的な喜びをもたらします。

霊的な体験は、自己超越の感覚をもたらすことが多く、個人が自分を超えた大きな存在や力と一体化する感覚をもたらすことがあります。

 

これらの体験は、死の恐怖を超えたところにあり、生命の本質や宇宙との一体感を強調します。

 

自己超越は、個人の成長や自己実現の延長線上にあるもので、死への恐怖から生じるものではありません。

 

 

 


霊性は、宗教に限らず、哲学、芸術、自然体験など、多様な形で表現されます。

 

自然の美しさや雄大さに対する畏敬の念や、芸術作品を創作する過程で感じる霊的な充実感などがあります。

 

これらの経験は、死の恐怖から生じるものではなく、生命の本質や存在の意味を深く感じることから生じます。
 

霊性は、内面的な成長、自己超越、日常生活における意味の探求など、死の恐怖を超えた広範な経験や価値観を含むものであり、宗教や霊的実践は必ずしも死の恐怖から生じるものではありません。

 

 

自然科学は基本的に物質主義科学ですから、意識=脳という前提にたって述べられているわけですが、宗教や霊性に対する嫌悪感といいますか、何か宗教的なものに対する否定的な態度を持つようになったきっかけがあったのかもしれません。

 

そこは、世界観の違いということで、それ以上は何も申し上げることはありません。

 

 

3.自我は唯一無二の実在

 

自我が「唯一無二の実在」として他の存在と拮抗する存在であるという見方は、自己中心的な視点に偏っているように感じます。

 

心理学的な見解としては、人間は社会的動物であり、他者との関係や社会生活の中で自我同一性(アイデンティティ)が形成されるという見方が重視されます。

 

自我が全ての存在と対立するものであるという考え方は、他者との交流や協力の重要性を軽視しています。

 

死を自我の喪失として恐れることは自然なことですが、それが唯一の見方ではありません。

 

多くの哲学や宗教的な考え方では、死は変化や転生の一部として捉えられ、自我の喪失だけでなく、新たな存在や次の段階への移行として理解されることもあります。

 

死によって、個人のアイデンティティも失われるという見解は、物質主義的科学における前提でしょうが、その前提が正しいと証明されたのでしょうか。

 

 

 

 

人は発達の過程でアイデンティティを確立していきますが、それをさらに超越することもできる可能性も持っています。

 

物事を現実的に、合理的に判断することは実生活において重要なことですが、自我が失われたり、また増長しすぎることも、全体としてのパーソナリティのバランスを欠くことになります。

 

とりわけ、自我に固執することはアンチスピリチュアルな要素として指摘できます。

 

年輪を重ねることによって、人は我欲や我執にとらわれなくなるのが望ましいという仏教の教えもあります。

 

しかし、実際には「枯れた境地」に行くどころか、亡くなる間際まで自我にこだわる人もいることもまた事実です。

 

自分の往生の仕方についてそれでいいというなら、それも選択肢の一つとなります。

 

 

びゃっこ 拝

 

 

 

 

 

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