この木を見よ


この木は何によって生かされているか分かるか

天を見よ

日の光が木に降り注いで木は枝葉を伸ばし、すくすくと育っている

大地を見よ

木は大きく根を張って大地からの恵みも糧にしている

水の匂いをかぐがよい

水は生きとし生けるものを養うもの

風を感じよ

木の葉を揺らす風、大気はこの木が呼吸して作り出しているもの


この世界は、火、水、土、気の要素が合わさってできている

いずれか一つが欠けたり、汚れたりしても生きることはできない

この木はそれがすべて備わっている場所に生えている

清浄なる大地、日の光、水、風

神はこのような場所に宿る

この木には神が宿る条件がそろっている


【写真】四国霊場八十八カ所第七十五番札所:善通寺の楠 地主神を祀る

 

 

昨年、私たちは新たにこのブログを立ち上げました。このブログのテーマは日本人の霊性です。

 

その理論的な枠組みとして、このブログでは東洋の霊的な叡智と西洋の心理学的な知見を統合するアプローチを採用しました。

 

霊性そのものは、洋の東西を問わずに人類が古代から育み、受け継いできた宗教意識であり、およそ全ての宗教の背景にある原始的な心性を含んでいるものです。

 

宗教とは、霊や神のような不合理な(非科学的な)存在の働きを前提とする文化の様式です。信仰についての考え方や、信仰のしかたをまとめたものとも言えます。宗教の本来的な役割は、マイナス思考、苦悩、際限のない欲望などの悪循環から人間を救済し、精神を安定化するための仕組みを提供することです。宗教は、その役割を教義への信仰という形で実現しようとします。



宗教は精神文化の中核をなす文化の1つです。人類の誕生とともに始まった宗教文化を学ぶことで、現代日本の文化的状況を理解し、私たちの生き方や社会のあり方を考えることができます。



宗教は、信仰(教え、教義)、実践(儀礼)、所属(組織)という3つの要素を兼ね備えたものが理想型と捉えられます。しかし、その反面、硬直した教条主義、形式主義に陥り、個人の自由な信念(信仰)を抑圧する側面もあります。

 

宗教の持っている制度的な硬直、融通性のなさ、独断主義、 権威主義であるのに対し、霊性=スピリチュアリティは活動的、生き生きした、経験的で個人的なものというイメージがあるといいます。

ここで、霊性=スピリチュアリティは、個人の内面的な探求や精神的な成長を重視することが特徴です。これはしばしば宗教を超える概念です。

1.個々の信念や体験に焦点を当て、個人の意識拡大や内面的な平和、幸福を追求することを目指す。

2.スピリチュアルな探求者は、伝統的な宗教的な構造や教えに拘束されることなく、多様な宗教や信念からインスピレーションを得ることがある。

 

3.個人の内なる自己や宇宙的なつながり、意識の探求、自己啓発、慈愛、平和、善意などがスピリチュアリティの中心的なテーマ。

要するに、制度化された宗教は通常、特定の教義や構造に基づいて組織された信仰体系を持ち、伝統的な儀式や教えに従います。一方、霊性(スピリチュアリティ)は個人の内面的な成長や探求を中心に据え、宗教的な構造にとらわれず、多様な信念や体験からインスピレーションを得ることができます。

 

個人の内面的な成長や内的探求については、心理学の分野で古くから研究されてきたテーマでもあります。とりわけ、深層心理学

、人間性心理学、トランスパーソナル心理学等の分野での取り組まれてきました。

 

 

霊性の心理学的定義

 

ここで心理学的な研究では、霊性=スピリチュアリティをどのように捉えているのかについてポイントを挙げておきます。

 

参考文献:Elkins D.N. Hedstrom L.J. Leaf J.A. et al. 1988 Toward a humanistic phenomenological spirituality; Definition,description, and measurement. Journal of Humanistic Psychology 28,5-18.

 

 

1.超越的な次元に関する信念:霊的な人は、超越的な次元が人生にはあるという、経験に基づいた信念を持っている。この信念の実際の内容は、人格的な神の伝統的な見方から、「超越している次元」が無意識または「より大いなる自己」の領域の中への、単に意識的な自己の自然な拡張であるという心理学的な見解にまで及んでいるかもしれない。彼らは、肉眼では見えない世界と、この不可視の次元への調和的な接触と適応が有益であると信じている。このように、霊的な人は、マズローが「至高体験」と呼んだものを通じて超越的な意識次元を経験した人であり、彼らはこの次元との接触を通して個人的なパワーを引きだしていく。

2.人生の意味と目的:霊的な人は意味と目的の探求を知っており、この探求から人生は深く有意義なものであり、その人自身の存在が目的を持っているという確信が現れてくる。この意味の実際の背景と内容は、人によって異なるが、共通の因子は、個々の人々が、人生が意味と目的を持っているという確実な意識によって「実存的虚無」を満たしていることである。

3.人生における使命:霊的な人は一種の「職業意識」を持っている。彼らは与えられた生、応えるべき呼びかけ、達成すべき任務、全うすべき運命に対する「責任感」を持っている。

4.生の神聖さ:霊的な人は、生が神聖さで満たされており、無宗教的な場面設定においてもしばしば畏敬、尊敬、および不思議な感覚を経験していると信じる。彼らは、聖と俗を区分するのではなく、生活のすべてが神聖なものであり、聖なるものは平凡さの中にあると信じている。霊的な人は、生活のすべてを神聖化するか、または宗教化することができる。

5.物質主義からの解放:霊的な人はお金や所有物などの物質的なモノの真価を認めることができるが、挫折した霊的な欲求の代償的な満足としてそれらを使うことに究極の満足を求めようとはしない。強欲に対して無心、足るを知る、精神性の重視

6.利他性:霊的な人は、他者の痛みや苦悩に共感しやすい。彼らは、社会的な公平性に関する強い感覚を持ち、利他的に振る舞おうとする。

7.理想主義:霊的な人は、世界の改善に関与しようと試みる。彼らは、生活のすべての面において崇高な理想およびポジティブな可能性を実現しようとする。

8.悲劇性への気づき:霊的な人は人間が直面する悲劇の真実に気づいている。彼らは、人の苦痛、苦しみ、および死に深く気づいている。この自覚は奥行きを霊的な人に与えて、生に対する実存的な真摯さをもたらす。しかし、多少逆説的にいえば、悲劇性を自覚することにより、霊的な人は生きる喜び、生きることへ深い理解、価値づけが強化される。

9.霊性の結実:霊的な人は、霊性が各自の人生において実を結んだ人のことである。真実の霊性は、その人自身、他者、自然、人生、そして「究極のもの」と考えられるものすべてとの関係に対して目に見える結果をもたらす。



このような霊性の定義は現代心理学で、主として西洋の思想、文化のフィルターを経て認められている霊性の概念を表したものです。しかし、私たち日本に暮らしている人であっても、霊的なライフスタイルを探求している人の目から見ても、上記の定義は人類にある程度普遍的な要素を含んでいるといえます。

 

 

鈴木大拙の唱えた日本的霊性とは?



次に日本人の霊性論について見てみます。

 

 

 

 


仏教学者である鈴木大拙(1870〜1966)は、禅宗ではなく禅を、真宗ではなく浄土そのものを、既成の宗派のドクマ、教義から自由な立場から論じています。

鈴木の主張によれば、

 

1.   精神と霊性は区別して使われるべきである。精神とは意志や注意力であり、心、魂、物質の中核にある言葉だが、これまで物質に対抗するものとして精神というものを対比させてきた。これに対し、霊性は精神と物質の両者を包み込んで1つであり、1つでありながらも2つでもあるもので、精神と物質の背後に開けてくる世界を言い表す言葉である。


2.   霊性は宗教意識と言い換えることができる。しかし、日本人は宗教と聞くと迷信や信仰といったものを連想し、宗教に対して誤解を生じさせやすいため、あえて霊性という言葉を使用する。


3.   宗教は霊性に目覚めることによってはじめて<わかる>ものである。宗教意識は霊性経験に基づいているためである。しかし、一般の宗教は制度化されたものであり、個人的な宗教経験を土台にして、その上に集団意識的工作を加えたものである。宗教(団体)にも霊性は発現しうるが、多くの場合単なる形式だけに堕落してしまう。


4.   霊性は精神の奥に潜在しているはたらきであり、これが目覚めると精神の物質に対する二元性は解消し、精神はその本体の上において感覚し、思惟し、意志し、行為することができるようになる。


とまとめることができます。

霊性そのものは人類に普遍的な意識経験であり、どの民族にも認められる魂の自覚です。しかし、その自覚のされ方や経験内容が時代、社会状況、文化、民族性によって異なるわけであって、日本には日本人の霊性経験が生じることになります。

 

 

より根源的な「神への道」



鈴木自身は神道の流れには霊性の目覚めは認められないと述べています。

 


しかし、これについては異論を唱えたいと思います。


神道にも神道的な霊性の発現はあります。神道は数千年の日本人の営みを通じて、縄文、弥生時代以来の宗教的経験が上書きされながら、次第に系統化されてきた経緯を持っています。そのもっともコアな経験とは「自然との一体感」、「精霊との意識交流」、「自然で素朴な生の営み」といった要素に見いだすことができます。

それは、今の日本人が忘れてしまった<生の実感>を今に伝えてくれる貴重な<霊的財産>であると思います。

人間がまだ自然の一部だった頃に思いをはせてみましょう。雨、風、雷、日照、海、山、森……モノや食料も乏しく毎日自然の驚異に脅かされながら私たちの祖先は細々と暮らしていました。

海の幸、山の幸、狩猟採集、漁労、焼畑農耕、そして水稲稲作によってもたらされた恵みは、まさに神々の魂が宿った恵みであり、それを口にしながら祖先は海の神、山の神に感謝を捧げていたのです。

自然とはカミそのものであり、その自然の中で人間も生まれ、育ち、老い、病み、そして死んでいきました。

常に自然=カミとともある生活。

カミをそばに自覚しながら暮らすこと。

そして身近なモノにもカミは宿り、人間たちの作り出したモノにもカミの力は宿ると信じられた。

そこには物質と精神、自然と人間といった対立はなく、すべてが<本体>とつながっているという感覚があったに違いありません。こうした素朴で自然な感性こそが霊性の発現とはいえるのではありませんか?

【写真】高野山の森

 

日本列島に渡ってきた人々は自分たちの部族のカミを祀り、カミとの交信をする人々を中心に共同体が形成されていきました。シャーマンが族長であり、共同体の運命を占う存在として重要な位置にありました。彼らは自然の精霊との意識交信を通じて、自然の意向=神意を知り、ときには天候調節など自然との折り合いをつけようと試みたのです。

シャーマニズムに見られるエクスタシー、踊り、音楽、祭は人間が自然=カミとの対話と交流を果たすために必要不可欠の生活の営みでした。

自然と共に生きること。

生活の中で<聖なるもの>を感じること。

喜び、笑い、歌い、踊り、生を謳歌すること。


これが<自然にできていた>のが古代人です。

自然に生きて、自然に死ぬ。死んだ者の魂は海や山に還っていき、祖霊化してカミとなり生者を守護する。そして、黄泉の国から再び生まれ変わり、女性の身体の中に新しい命の息吹を宿す。

すべて物事は自然に繰り返す。

こういう感覚を持っていた人々が果たして霊性に目覚めていなかったと言えるのでしょうか?

原始の時代に生きていた人が現代人より劣っていると考えてしまうのは、現代人の傲慢というものです。彼らは私たちが想像する以上に高度な<霊性文化>をもっていたのではありませんか?

霊性は激しい修行や鍛錬によってのみ獲得できる超越経験ではありません。もちろん、そういう宗教的な流れの中で生きていく人には、その人の発達課題や試練があります。でも、<悟り>や<霊的覚醒>というものは難行、苦行によって達成されるかというと、そうでもありません。瞑想や、エクササイズをしたら達成されるものとも限りません。



当たり前のことを当たり前にしている。

自然に素直に率直に生きること。

幼子が見せるような天真爛漫、純真無垢さ。

 

 

こうした自然とのバランスを重視するライフスタイルを確立していくことができれば、誰でも霊性を自覚することができるのです。

誰でも生まれてこの方一度は悟りを得ています。それは「この世に生まれてきて良かった」「生きてこられて良かった」と心底から実感できる瞬間のことだと思います。

 

 

残念なことに、令和6年(2024年)の日本はいきなり大きな自然災害に見舞われることになりました。災害に直面している人々が味わっている辛さ、悲しみ、苦しみを他人事のように見ているのではなく、慈悲のこころ、共感的態度を強く抱きつつ、各人ができることを行動として示すことが今必要なことではありませんか?

 

霊性への気づきにとどまらず、これを具体的な実践にどう結びつけるのかが問われているのです。
 

 

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