皆さま

 

今回の一連の記事では、便宜上「邪馬台国」という漢字を、2-3世紀頃の日本の国号として使っています。

 

この漢字を「ヤマト」と読むのが正しいとする説が提唱されています。

 

 

簡単にまとめると

 

1.ヤマト(最上層)…日本列島の統一王朝、国号としての「ヤマト」

2.ヤマト(中間層)…律令制の「大和国」

3.ヤマト(最下層)…律令制の行政区分で言う磯城郡と十市郡の領域。その中心部は大和国の城下郡に属する「大和郷」(おおやまとごう)の地名

 

というように、ヤマトの範囲も階層性をもっており、その最小単位に目を向けると、「邪馬台」の地は今の巻向山・纏向と結論できるという話です。

 

参考文献:桃崎有一郎 邪馬台国畿内説の新証左─「倭」「ヤマト」地名の相互転移と王業・諸侯国─ 2023 武蔵大学人文学会 第55巻 第1号,Pp.37-76.

 

筆者の専門外なのですが、要するに邪馬台国=ヤマト国の最小単位は纏向であり、ここが邪馬台国発祥の地ということです。

 

本当にそうなのでしょうか?

 

今回は、引き続きマクモニーグルの透視結果と私たちの把握している情報を照合しながら、邪馬台国と卑弥呼について巫師の視点から述べたいと思います。

 

よろしくお付き合いくださいませ。

 

 

卑弥呼が魏へ送った使者

 

私たちが興味を持ったポイントに沿いながら話を進めます。

 

その1つが、邪馬台国(ヤマト連合)が魏へどのような使いを送っていたのか?ということです。

 

卑弥呼の時代、内政が安定し、米を中心とする食料生産、労働人口も増加し、経済的にも裕福になったことは述べたとおりです。

 

ヤマト連合は朝鮮半島南部にも勢力圏を持っていたわけですから、交易と並行して、朝鮮半島情勢はもとより、中国の動きにもアンテナを張っていたことは想像に難くないでしょう。

 

中国の史書、魏志倭人伝にも卑弥呼が魏へ使いを送ったことが記録されています。

 

 

景初2年6月(238年)に女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣して天子に拝謁することを願い出た。

 

帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、それに班布(綿布)2匹2丈を献じた。

 

12月、皇帝はこれを歓び、女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与え、難升米を率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為した。

 

 

ここで、ヤマト連合から魏へ派遣された難升米(なしめ;なしみ)という人物について、マクモニーグルが行った遠隔透視の結果から見ていくことにしましょう。

 

 

ターゲットの中身は“Himiko’s ambassador to China:中国への卑弥呼の特使”で、質問は「Describe the target:ターゲットを記述せよ」


結果

 

身体的特徴

 

・22~25歳ぐらいの若い女性。

・身長5フィート2インチ(157.5センチ)、体重90ポンド(41キロ)。
・髪の毛は、ウエストラインまで届く長い黒髪で、肌の色は非常に淡いトウモロコシの毛の色。

・目は、暗闇のように暗く、瞳を読むことが困難。

 

権藤正勝 2013 邪馬台国発見 Kindle 版より

 

さらに……職務内容、役割については

 

・ 彼女は、卑弥呼の個人的な相談相手
・ 彼女は、個人の指輪か印を携えている
・ 彼女は、卑弥呼の法の代理人である。彼女は卑弥呼の法律家
・ 彼女は多くの旅をした
・ 彼女は、厳重な武力による警護の元で旅をした
・ 彼女は、多くの高級娼婦(夫)(courtesans)及び兵士と共に旅をした
・ 彼女は、卑弥呼の代弁者としての権限を持っていた
・ 彼女は卑弥呼を先導した


という結果が得られました。

 

追加情報

1.難升米は、幼いころから卑弥呼の居館内で、卑弥呼を母のように慕い育った。この事で、彼女は卑弥呼に対して絶対的な忠誠心を抱いていた。卑弥呼の後継者として選ばれた一人。

 

2.卑弥呼が長生きだったために、難升米は後継者ではなく、「右腕」として活躍した。
 

3.彼女は、卑弥呼の居館内で中国語を学び、日本、韓国そして中国の文化を理解するように教育を受けた。

 

4.彼女はスパイとしての知識も身につけていた。暗号や隠し文章のテクニック、毒と解毒の知識など。薬草に関する知識もあり、「夜の教養」も身につけた。


5.難升米は、卑弥呼の個人的スパイであり相談相手であり、卑弥呼の代理も務めていた。卑弥呼が交渉ごと等を行う時には、難升米も必ず付き添った。交渉相手は、卑弥呼に先立って、難升米との事前協議が必要だった。難升米は、交渉相手の性格や真意を見極め交渉前に卑弥呼に報告した。

 

 

――――コメント

 

このように、難升米は事実上の「女王代理」として外交の場に出向いていったわけです。

 

中国側から見れば、日本から女性の特使が朝貢に訪れたというのは驚きをもって受け止められたはずです。

 

それに、貢ぎ物は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、それに班布(綿布)となっていますが、マクモニーグルの透視結果では、生口=「courtesans」となっていて、その意味は高級娼婦や宮廷の情婦という意味になります。一般の奴隷とは意味が違います。

 

また、難升米は同性と異性の両方に対して、性的な喜びを与えることもできたとも透視されていました。

これも計略の一つと考えられ、中国の皇帝を喜ばせるためにハニートラップを仕掛けたとも考えられます。

 

このように、難升米は、諜報活動、計略的な動きを得意としていました。相手の心の内を読み取り、こちらの出方を変えることは、シャーマニックな能力を持っている人物にとってはたやすいことです。

呪術に長けたものが情報戦、諜報活動にも強いことは「陰陽道の表と裏」シリーズにも書いているので、ご覧下さい。

 

 

 

 

狗奴国という「宿敵」

卑弥呼の晩年には、邪馬台国と狗奴国の戦争が激化し、激しい戦闘が行われていたようです。

 

西暦245年には、魏の皇帝は卑弥呼を唯一の倭王と認め、皇帝の軍旗である黄幢(黄色の軍旗)を難升米に授ける詔書を出しています。


さらに、西暦247年には、黄幢を難升米に授けて、張政を長とする魏の援軍も送られました。


西暦248年頃に卑弥呼は肺炎のため没しました。

 

 

ターゲットは“Kingdom of Kuna? in 247 AD:AD247年における狗奴国”、質問は「Please describe the target in detail:ターゲットの詳細を記述せよ」


狗奴国に関する透視結果
 

1.狗奴国は卑弥呼と反目していた初期畿内連合からの離脱組。

 

2.ヤマト連合に反対して、幾内から東九州、特に宮崎へ移住した者が狗奴国を興した。

 

3.狗奴国を構成していた部族は、ルーツが海南島にあり、ヤマト族とは地理的に近い地域出身だった。南西諸島にいたときにもヤマト族と争っていた。


4.狗奴国の人々も単一の部族で構成されていたわけではない。5~6人の有力な武将が狗奴国の中に存在した。

 

5.卑弥呼の時代には、一人の武将が他を圧倒していた。そして、卑弥呼とその同盟国の支配領域を侵略するように、他の武将たちを扇動していた。


6.この武将が、「魏志倭人伝」に出てくる狗奴国の男王・卑弥弓呼(ひみここ;ひこみこ)のこと。

 

7.透視では、この敵対する武将との戦いは、卑弥呼が生きている時に始まったという。卑弥呼の周りには、戦争を望まない声もあったが、彼女自身が強い意志で戦争を遂行した。戦いは10~12年の間続いた。これにより、卑弥呼は体調を崩し、死に至った。

 

 


権藤正勝 2013 邪馬台国発見 Kindle 版より

――コメント

上の図は、卑弥呼の晩年頃の狗奴国の勢力図になります。

 

狗奴国の勢力圏は、九州南東部、四国南部、瀬戸内海に面した中国地方の一部

 

これらの場所は、卑弥呼が生まれる直前の勢力図、九州南端を除くと、ヤマト部族の勢力が及んでいなかった場所とほぼ重なります。

 

つまり、邪馬台国になっても勢力基盤が弱かった地域に、狗奴国が成立したものと考えられます。

 

権藤正勝 2013 邪馬台国発見 Kindle 版より
 

 

ここまでの話の流れを整理しておきます。

 

1.卑弥呼の統治前、初期畿内連合は、初期ヤマト連合に戦争を仕掛けた。しかし戦闘は激化を極め、やがて双方疲弊しきって休戦状態になった。

 

2.出雲にいた卑弥呼の大伯父が、卑弥呼を双方の指導者として擁立するという和解策を提示した。

3.この和解策の受け入れを拒んだ初期畿内連合内の勢力がいた。


4.邪馬台国連合が始まると、国々は平和を取り戻し、中心国家である邪馬台国は勢力を拡大していった。

 

5.卑弥呼を認めない勢力は、邪馬台国のあった畿内を追われる事になった。

 

6.彼らが移り住んだ場所が、昔から邪馬台国連合の勢力の及んでいなかった九州東部だった。初期畿内連合の残党勢力は、邪馬台国の勢力が及んでいなかった宮崎に入植した。

 

 

以上をまとめると、狗奴国は、卑弥呼の晩年には邪馬台国連合の支配地域に、大きく食い込んでいたわけです。

 

いわば、狗奴国はヤマト族とは宿敵のような存在です。


邪馬台国の終焉

マクモニーグルの透視によると魏から援軍が来た西暦247年頃には、広島県一帯も狗奴国の手中に落ちていたようです。

卑弥呼の墓は、「冬の居城」のすぐ横に築造されたと透視されています。

 

それは帆立貝型の墳墓で、内部には立派な石室を持ち、数々の副葬品とともに埋葬されました。

マクモニーグルによれば、卑弥呼の後の女王=台与(とよ)も奈良の「夏の居城」に住んだと透視しています。

 

中国の史書によれば、台与が、西晋王朝成立の翌年である266年、中国に使者を送ったという記録が残っています。台与は、卑弥呼の弟の娘であり、卑弥呼からみれば姪でした。

透視によると、卑弥呼亡き後の邪馬台国連合は、風前の灯状態にあったようです。


そこに、別の渡来集団が九州に上陸したというのが、マクモニーグルの見立てです。
そのグループのリーダーが、「神武天皇」のモデルになった人物というわけです。

 

透視結果

 

1.マクモニーグルはターゲットがアジア人の男性だと透視した。そして、その人物は中国内陸北部の生まれで、常に旅を繰り返していたという。この人物は騎馬遊牧民の出身。

2.その人物の名前はムイジン(Muijin)。ムイジンは日本移住後、間もなく権力の座を息子に譲り引退してしまう。一族は息子のジュジモ(Jujimo)に引き継がれた。



3.ムイジン一族が日本に渡ってきたのは、卑弥呼の治世のすぐ後、西暦259~269年ごろ、おそらく台与の時代だと思われる。正確な上陸地点は、現在の長崎市田中町という橘湾に面した小さな港町。

4.ムイジン上陸当時、すでに邪馬台国連合は弱体化していた。彼らは、周囲の勢力との戦闘を繰り返しながらも、邪馬台国連合の領域にはなかなか進出することができなかった。

 

5.ムイジン一族を攻撃した武装勢力には、狗奴国に属する者もいた。

 

6.周囲の勢力と頻繁に闘いながらも、ムイジン一族は徐々に勢力を拡大し、長崎に確固たる基盤を築いた。
 

7.ジュジモの統治のもとムイジン一族は、熊本から大分、北部宮崎あたりにかけて勢力を伸ばしていった。

 

 

8.ジュジモ統治の二年目、自分たちを苦しめていた盗賊たちの本体勢力を討伐するために、四国に侵攻することを決めた。当時の四国は、狗奴国連合の支配地域。


9.勢力は衰えていたとはいえ、邪馬台国連合の領域には容易には侵攻できなかった。ムイジン一族は、狗奴国の領域へと深く入っていった。

 

透視によると、ムイジン一族は在地勢力を一掃することはなかった。降伏した敵は、速やかに自分たちの勢力に取り込んでいった。

 

ジュジモ率いる一族は、四国の太平洋側から行われた。現在の高知市あたりに上陸したジュジモは、瞬く間に狗奴国勢力を一掃し、四国の南半分を完全に制圧した。

 

――――コメント

 

3世紀後半に発生したと思われるこの出来事は、ムイジン一族が、狗奴国の勢力を取り込んでいったと考えられます。

 

ムイジン一族が狗奴国の吸収していったことにより、今度は邪馬台国連合の勢力と対峙することになったようです。

 

マクモニーグルによると当時の邪馬台国連合を支配していたのは、卑弥呼の弟の娘だとされています。

 

「魏志倭人伝」に言う宗女=台与とは、卑弥呼の姪でした。


しかし、台与の支配は名目的なもので実権はありませんでした。奈良盆地から南にかけては、五つの大きな武装勢力の支配下にあり、常に内部争いが起こっていたと言います。


奈良南部を支配した勢力の一つが、ムイジン一族の領域に侵攻を開始し軍事衝突に発展しました。

 

この出来事は、ジュジモが四国の支配権を確立した3年後と透視されています。その場所は、鳴門海峡付近でした。

 

マクモニーグルによる詳細な透視はここまでとなります。

 

 

ムイジン一族に関するまとめ

 

記紀神話に出てくる神武東征の物語は、神武天皇が日向を発ち、奈良盆地とその周辺を統治していた長髄彦を滅ぼした後に、初代天皇(神武天皇)の位についたという一連の説話をさしています。

 

この神話の元になっていた、歴史的事実があったものと考えられ、マクモニーグルの透視結果を踏まえて「推測」するなら、以下のようなポイントを想定できます。


1.背景と準備……ムイジン一族はルーツが騎馬遊牧民であり、狗奴国の兵を騎馬軍団として訓練する必要がありました。馬の繁殖から始め、騎馬軍団の準備に時間をかけました。当時の日本には馬がいましたが、騎馬軍団としての運用はされていませんでした。

2.攻略戦略……ムイジン一族は当初、大阪から強襲をかけましたが、物部氏の祖神・饒速日命(にぎはやひのみこと)の義理の兄、長髄彦によって一度は撃退されています。そこで、今度は和歌山の熊野方面から迂回して、「夏の居城」に背後から奇襲攻撃を行いました。

 

この時期、卑弥呼の時代は終わっており、細々と台与かその後の王が権威を保っていました。宇陀一帯は奈良平野から名張平野へと続く谷の途中にあり、重要な施設が集まっていましたが、熊野からの攻撃は想定外でした。

3.神話と実際の勢力……記紀神話によると、神武が大和に攻め込んだ時、大和の地は饒速日命が支配していました。台与が存在していたとしても名目上の権威であり、奈良の有力勢力の一人が実際に邪馬台国を支配していたと考えられます。

 

それが物部氏の始祖、饒速日命でした。しかし、饒速日命は精神的な支柱だった「夏の居城」が陥落したことで、あっけなくムイジン一族に降伏し、その子孫とされる物部氏は後の大和王権で強い権勢を誇りました。物部氏は旧邪馬台国連合の残党勢力の可能性があります。

4.物部氏の役割……物部氏とその同族は九州から畿内まで広い地域で勢力を誇り、邪馬台国連合の重要拠点とも重なります。物部氏は邪馬台国の終焉を語る上で興味深い一族です。

5.マクモニーグルの透視……マクモニーグルの透視によると、「ヤマト」には二つの部族が含まれています。一つは南の島から日本に定住農法と米の生産方法を持ち込んだ卑弥呼の出身部族。海の民、海洋民族としての性質を持った部族です。

 

もう一つはモンゴル高原から日本に武士道の元となる考えを持ち込んだ騎馬民族です。彼の透視では、ムイジン一族(神武勢力)による邪馬台国連合の征服後の「ヤマト」を見ていた可能性があります。

6.神武東征の意義……ムイジン一族の東征が事実を反映しているとすれば、邪馬台国連合から大和王権への政権移行があった可能性があります。邪馬台国は全国規模の連合を形成しており、ムイジン一族がその体制を引き継いだに過ぎません。これは、邪馬台国が大陸の中央集権的な政治形態を取り入れ、大和王権へと変貌を遂げたプロセスを反映しています。

 

 

結論

 

中国の史書からは、卑弥呼の死後、壱与を女王として国が平穏を取り戻したとあります。しかし、この記録を最後に、中国の歴史書には150年以上日本に関する記述がなく、邪馬台国のその後は依然として不明のままです。

3世紀訪販から4世紀にかけて、邪馬台国(ヤマト国)から大和王権への移行を象徴する出来事が起こったことが推察されます。騎馬遊牧民と日本の農耕民の融合が新しい政治形態を生み出したことを示しています。物部氏の存在やマクモニーグルの透視が示すように、複雑な部族の融合と権力の移行が日本最初の統一国家の形成に寄与したといえるでしょう。

 

ヤマトという言葉は、南方系渡来人の部族の名称でしたが、それが部族間連合という形になったとき、邪馬台国(ヤマト国)を意味するものに変わりました。

 

そのヤマト国も、狗奴国との戦いや、ヤマト族に対する狗奴国の敵がい心を巧みに利用したムイジン一族によって制圧され、大和王権誕生への道を辿ったわけです。

 

ただ、こうした一連の部族間の衝突と確執によって、一方が他方を制圧しても絶滅させたというのではなく、既にあった文化を上書きするような形で別のものを創造していく形をとったのが、日本の成り立ちに関する特徴だと言えます。

 

ヤマトという言葉が、その後もずっと使われ続けたのも、その象徴的な意味を私たちの先祖が理解し、受け継いできたためであり、一部族の名称⇒特定の地名⇒特定地域の名称⇒国家の名称というように拡がりをもっていることからも推察されます。

 

私たちのもっている伝承との関係については、またまた話が長くなるので、機会を改めてお話ししたいと思います。

 

(完)

 

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