皆さま

 

丑の刻参りというと呪詛の手順の一つですが、もともと呪い=「まじなひ」と読むこともあり、願掛けもその中に含まれます。

 

 「のろい」と読む場合は、他人に対して悪いことが起こるように祈ったり、呪ったりすることを指します。これは、敵意や恨み、嫉妬などから生じるもので、相手に災いをもたらすことを目的としています。


これに対し、 「まじない」と読む場合は、悪いことを防いだり、幸運を招いたりするための儀式や言葉、行為を指します。これは、護身や病気治癒、恋愛成就など、前向きな目的で行われることが多いです。


今回は、丑の刻参り発祥の地、または最凶心霊スポットと噂されている神社を参拝したときの記録を公開いたします。

 

よろしくお付き合いくださいませ。

 

 

貴船神社


所在地:京都市左京区鞍馬貴船町180 
祭神:本宮は高靇神(たかおかみのかみ)、奥宮は闇靇神(くらおかみのかみ)社記には「呼び名は違っても同じ神なり」と記されている。





鞍馬山の向かいに貴船川を隔てて貴船山があります。この山は禁足地であり、鏡岩(かがみいわ)と呼ばれる貴船山の中腹にある太古の伝説を秘めた岩が古代からの祭祀場があります。

 

磐座(いわくら)といって、神社ができる以前の古代の祭祀場です。

 

貴船神社の神様が「丑の年の丑の月の丑の刻」にこの鏡岩に天から降臨されたとの伝説が残っています。

 

それゆえに神聖な岩であり、現在は禁足地になっていて一般の人の目に触れることはありません。
 

ご祭神を見れば分かるように、この神社では水を司る神様を祀っています。降雨、止雨を司り、降った雨を地中に蓄えて適量湧き出させる働きを司る神様です。

 

水は万物の命の源であり、水がなければあらゆる生物は命を維持することができません。片時もおろそかにすることができない大切な水を供給する水源の神さまという位置づけになります。

 


貴船神社本宮(昼の参拝)

 

神社に参ると、「水五訓」の看板がまず目につきました。

一.自ら活動して他を動かしむるは水なり
一.常に自ら進路を求めて止まらざるは水なり
一.自ら清くして他の汚水を洗い清濁併せ容るるの量あるは水なり
一.障害に遭い激しくその勢力を百倍するは水なり
一.洋々として大洋を充たし、発して蒸気となり雲となり雪と変し霧と化し凝っては玲ろうたる鏡となる、而もその性を失わざるは水なり


言い得て妙なりの五訓ですね。

 

水こそありとあらゆる生命の源であることい異論はないでしょう。

 

 

さて、私たちは「丑の刻参り」の原点とも言われるこの神社が、どのような経緯を持って、「呪いの神社」という不名誉なレッテルを貼られるようになったのかを知りたくて、現地を訪れたわけです。

 

もちろん、これは依頼者からの代参の仕事も兼ねての旅だったので、肝心の仕事を終えてから、私たちの興味に従って行動した次第です。

 

貴船神社奥宮の楼門(昼の参拝)


昼間の貴船神社は大勢の参拝客、観光客で賑わっていましたが、いわゆる「クレクレ参拝」と邪心を持ってこの地に訪れた人が多いようで、人々の悪想念、邪心が奥宮へ向かう参道まで充満していました。

 

こんな状況ではノイズが多すぎて、他人の生霊を受けるリスクもあったため、私たちは宿泊した旅館の女将さんに夜遅く参拝してもいいかどうかを尋ねてみました。

 

そうしたら、一発回答で「お好きな時間にお参りに行ってらっしゃいませ」とのことだったので、意を決して真夜中に夜参りを決行したのです。

 

本当にここが「最凶心霊スポット」なのか?私たちは人の噂は一切信じないので、自分の身体で確かめるようにしています。

 


まず、本宮で静かに参拝してあたりの景色を撮影していたら、おみくじを池に浮かべて流す場所で本宮の提灯の明かりが映り込んだとは思えない「光の滝」のようなものが写っていました。

 

本宮でとれた光のシャワー(周囲には強い光源はなかった)

 

人々のさまざまな願いや想念を祓い、清める場所になっているのだろうと私たちは解釈しました。

 

貴船神社は身禊の神社でもあり、まさに罪穢れを「水に流す」場所であることがよく理解できます。


そこから、私たちは奥宮まで500メートルの移動を開始しました。

 

奥宮の入り口までの参道は、やはり人の邪心、悪想念、生霊の飛び交う場所でした。


ところが、奥宮境内に入ったとたんにガラリと空気が変化し、非常に清浄な気が充満しているのが体感的に分かりました。

 

現場に行ってみて感じたことは

 

1.霊的には浄化作用の強い土地に奥宮があり、人々の呪い、邪心、邪念が渦巻いているというのはまったくの根も葉もない噂。

 

2.たとえ、邪心をもってやって来たとしても、その想いはすぐに浄化されていく特性を、貴船神社はもっている。

 


奥宮本殿(夜参り)
 

奥宮の境内に入ると、先ほどとはうって変わって、清浄な「気」が満ちています。

 

人々の悪しき想念もこの場所ではどんどん浄化されてしまい、跡形も残らなくなってしまうようです。

 

そもそも神道は祓い、清めの信仰です。

 

己の罪、穢れをすべて祓い落とし、自然・天然の精霊と溶け合い、身も心も幼子のように天真爛漫になることが神道の精神であると私たちは理解しています。

 

古代人はこうした魂の浄化作用を促進する特異なエネルギー・スポットの在処を知っており、そこを祭祀の拠点としました。

 

それが神社の原型です。

 

そのような場所に行けば、恨み辛みの想いも消えてなくなり、自分がいかに些末なことで心に波風を立たせていたのか分かるはずなのです。


貴船神社は万物を生かすエネルギーが生じる根元「気生根」であり、その神気に心を素直に開けばだれでも元気が甦る神社です。

 

元気が回復すれば、運も開かれるということで運気発祥の信仰に根ざした神社でもあります。

 

だから、ここは心を鬼にして赴く場所ではないと思うのです。


さらに、奥宮で参拝を済ませた後、巫師が透視状態に入りました。

 

奥宮には監視カメラが設置されていました。確かに、周囲の木々に呪い釘の跡が残っていました。

 

それを見張るためにカメラがつけられているようです。

 

旅館の女将さんからも「今でも呪い釘を打ちに行く人が夜中に外出しているようです」と聞いていました。

 

 

サイコメトリー

貴船神社は人形呪詛(厭魅呪詛)の発祥地とか誤解されている面があるけど、感じたことは、恋しい人の身を思う女心がいつ頃からか曲解されていった結果。


奥宮で、かなり古い時代の姿をした女の人の霊体が出てきた。その女性がとても悲しがっていた。「かなしや、かなしや……」と繰り返しささやいてくる。

 

その霊体が語るには、そもそもこの場所は祓い清めの場で、魂を浄化するのに最適な場所として、人々の信仰を集めていた所だった。

 

昔から、願掛け、病気治し、人々の気持ちをきれいにする場所だったのに、いつのまにやら、恨み、嫉妬に狂った人が呪うためにやってくるようになってしまった。

 

自分のことも誤解されて伝えられている。

 

本当は好きな男性、でも添い遂げることのできない恋人の身の安全を祈願するために、願をかけていただけなのに……というようなメッセージを残して去っていった。


後日、帰宅してから日本の古典文学を調べてみると、『平家物語』の読み本系異本の『源平盛衰記』・『屋台本』などに収録されている「剣巻」が橋姫の物語の多くの原型となっていることを知りました。

 

橋姫に関する部分を現代語に訳して紹介しておくと、このような物語になっています。

 

橋姫の物語

嵯峨天皇の御世(809年-825年)、とある公卿の娘が、深い妬みにとらわれ、貴船神社に7日間籠って「貴船大明神よ、私を生きながら鬼神に変えてください。妬ましい女を取り殺したいのです」と祈った。明神は哀れに思い「本当に鬼になりたければ、姿を変えて宇治川に21日間ひたれ」と告げた。

女は都に帰ると、髪を5つに分け5本の角にし、顔には朱をさし体には丹を塗って全身を赤くし、鉄輪(てつわ、鉄の輪に三本脚が付いた台)を逆さに頭に載せ、3本の脚には松明を燃やし、さらに両端を燃やした松明を口にくわえ、計5つの火を灯した。夜が更けると大和大路を南へ走り、それを見た人はその鬼のような姿を見たショックで倒れて死んでしまった。そのようにして宇治川に21日間ひたると、貴船大明神の言ったとおり生きながら鬼になった。これが「宇治の橋姫」である。


橋姫は、妬んでいた女、その縁者、相手の男のほうの親類、しまいには誰彼かまわず、次々と殺した。男を殺すときは女の姿、女を殺すときは男の姿になって殺していった。京中の者が、申の時(15~17時ごろ)を過ぎると家に人を入れることも外出することもなくなった。


そうしたころ、源頼光の四天王の1人源綱が一条大宮に遣わされた。夜は(橋姫のせいで)危険なので、名刀「鬚切(ひげきり)」をあずかり、馬で向かった。
その帰り道、一条堀川の戻橋を渡るとき、女性を見つけた。見たところ20歳余で、肌は雪のように白く、紅梅柄の打衣を着て、お経を持って、一人で南へ向かっていた。


綱は「夜は危ないので、五条まで送りましょう」と言って、自分は馬から降りて女を乗せ、堀川東岸を南に向かった。正親町の近くで女が「実は家は都の外なのですが、送ってくださらないでしょうか」と頼んだので、綱は「わかりました。お送りします」とこたえた。すると女は鬼の姿に変わり、「愛宕山へ行きましょう」と言って綱の髪をつかんで北西へ飛びたった。


綱はあわてず、鬚切で鬼の腕を断ち斬った。綱は北野の社に落ち、鬼は手を斬られたまま愛宕へ飛んでいった。綱が、髪をつかんでいた鬼の腕を手に取って見ると、雪のように白かったはずが、真っ黒で、銀の針を立てたように白い毛がびっしり生えていた。


鬼の腕を頼光に見せると頼光は大いに驚き、安倍晴明を呼んでどうすればいいか問うた。晴明が「綱は7日間休暇を取って謹慎してください。鬼の腕は私が仁王経を読んで封印します」と言ったので、そのとおりにさせた。

 

(J-TEXTS 日本文学電子図書館: 平家物語 剣巻より)

 

 

ちなみに関連する事項として、能の演目『鉄輪(かなわ)』に橋姫伝説が出てきます。橋姫が頭にかぶった鉄輪から名が取られています。

 

要約しておくと

 

1.『鉄輪』では、橋姫は後妻に夫を奪われた女性となっている。元夫と後妻は、呪い殺される寸前で怪異に気づき、安倍晴明に相談すると、このままでは今夜までの命と告げられた。
 

2.晴明は夫婦に頼まれ、形代(身代わりの人形)を使った呪い代えを試みると、鬼女が姿を現した。その姿は、川での儀式のときと同じ、鉄輪や松明をつけた姿であった。舞台では、嫉妬と復讐心に顔を歪める女性の能面「橋姫」が使われる。


3.橋姫は夫婦に襲い掛かるが、晴明と三十番神に撃退され、「時期を待つ」と言い残して消えていった。

 

 

こうして考えてみると、源頼光、源綱、安倍晴明の生きていた時代は「嵯峨天皇の御宇」の200年近く後の話です。

 

物語や謡曲として伝えられている内容と時代が一致しない点もあり、元ネタの「剣巻」にしても、時代考証に矛盾をきたしているので、これはあくまでも1つの「物語」として捉えておいた方がいいでしょう。

 

それに、「陰陽道の表と裏」関連の記事でもしばしば触れていますけれど、安倍晴明は天文・暦学が専門で、呪術的な側面は「おまけ」みたいなものです。すっかり伝説化されてしまい、今では「超人」扱いされているだけです。
 

 

私たちの場合、こした物語の内容も全く知らないまま、貴船神社で女性の霊体と交信しているので、「自分のことが後世になって誤解され伝わっている」というメッセージを尊重したいです。

 

 

私たちは、その女性の嘆きを受けとめて、鎮魂の祈りを捧げました。

貴船神社は、今でも非常に強い水のエネルギーに満ちた場所であり、純粋な気持ちで祈れば、心願は成就します。水神、龍神系の人には相性もいいと思います。


縁結びに関する美談も貴船神社には伝わっています。それは中宮(結社;ゆいのやしろ)にまつわる伝説です。中宮のご祭神は磐長姫命。

 

中社(結社)

 

神話によれば、神武天皇の曾祖父にあたる瓊々杵命が木花咲耶姫命を娶ろうとするとき、父の大山祇命が磐長姫命も共に娶るように勧めたが、瓊々杵命は木花咲耶姫だけを望んだために、磐長姫命はこれを大いに恥じ、「吾ここにとどまりて人々に良縁を授けようと」と言って、鎮座したと伝えられています。
 

 

古くから縁結びの神、恋を祈る神として篤い信仰を集めており、平安歌人の一人である和泉式部もここで恋の歌を詠んで神に祈願したという話が有名です。

「ものおもへば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞみる」


(あれこれと思い悩んでここまで来ると、蛍が貴船川一面に飛んでいます。そのはかない光は、まるで自分の魂が体から抜け出て飛んでいるようにございます)

すると、どこからともなく男の声で歌が和泉式部の耳に届きました。

「おく山にたぎりて落つる滝つ瀬の玉ちるばかりものな思ひそ」


(しぶきをあげて飛び散る奥山の滝の水玉のように(死にたいくらい切なく)そんなに深く考えなさるなよ)

貴船の神さまからの返歌でした。和泉式部は夫との不仲を案じて貴船神社に参拝したわけですが、貴船の神さまから慰められ、この参拝を機に夫との関係は修復され、彼女の願いは神さまに聞き届けられたようです。

 

結論として、貴船神社が最凶心霊スポットなどという言説は間違いです。神さまに祈るにしてもどのような心持ちで神霊と向き合うのかによります。自分の邪心をむき出しにしても「水の力」で清められます。

 

それ以前に、邪気、邪心を持ってここへ訪れること自体、「霊的汚染」「荒らし行為」にもつながります。何のための参拝なのかをよく考えていただきたいものです。


 

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