皆さま

呪術がもっている光の側面は、個人や集団、社会、国家の安泰、利益を祈祷によって実現しようとする試みに認められます。

 

古代からの精霊信仰は、自然、祖先、動植物に霊魂を認め、これを巫師=シャーマンが操作調節することによって、人々の生活満足度を高め、幸福に導こうというものでした。

 

やがて、仏教が伝来し、密教が導入されるようになり、陰陽道や修験道もそれに加わることで、皇室、貴族向けの呪術と、民間向けのそれという風に多くの枝分かれ、分派ができていったのです。


呪術の闇の側面とはいうまでもなく、厭魅呪詛です。個人的な怨恨から政敵を呪ったり、天皇の外戚の座をかけて皇子誕生を阻止するために呪詛合戦が行われました。

8世紀末の平安遷都から10世紀にかけての摂関政治の時代には、政変、不安と猜疑心、不遇に対する恨み、重用されるライバルに対するジェラシーを背景として、貴族たちが密教僧や陰陽師を雇って呪詛をかけることが横行しました。


同時に自分が呪詛をかけて葬った相手の霊魂が祟り、復讐しに戻って来るのではないか、という恐れに基づく怨霊信仰も出現しました。また、自分に恨みを持つ相手の邪気、邪念をエネルギー源にする精霊が自分に攻撃を加えてきているのではないかという生霊の概念。自分に死、病気、災難をもたらす眼には見えない物の怪が集団で町中を練り歩いているとする「百鬼夜行」という言葉もあります。


それに呼応して、こうした怨霊、生霊、死霊、物の怪のたぐいを調伏したり、また逆にそれらを操作して利用しようとする密教、陰陽道に対する需要も増大したわけです。
 

しかし、ここで言いたいことは、呪術的世界が1000年も昔の前近代的な世界でのみ通用した過去の出来事ではなく、科学的な世界観や合理主義が発達している現代日本においても生き残っている、ということです。


目には見えないさまざまな霊が人に取り憑いて、その人を病や災難、そして死に至らしめるという考え方は、確かに現代では非科学的な捉え方だと言えます。

 

しかし、着眼点を変えるならば、私たちの心の中に、人をねたみ、嫉妬し、恨み、憎いと思う気持ちがある限り、それが一種の感情的なエネルギーとなって、他者の身体や精神状態に否定的な影響を及ぼす可能性があるということです。

 

人間の意識や精神は個人的な領域だけではなく、脳という物理的装置を超えて広がる集合的な領域、超個的な意識領域もあるとする意識拡張のプロセスを想定すると、個人の精神が深い部分でリンクして直接交流し、同調すると考えられるわけです。

 

 

 

憑き物信仰とは?


憑き物信仰について歴史を振り返っておきたいと思います。四国は、もともと動物霊が憑依するという信仰の根強い地域でした。四国はかつて犬神、蛇、狐、狸などの動物憑霊信仰の強い地域であり、山陰地方と並んで動物霊の「大繁殖地帯」でした。

 

中でも犬神憑きについてはさまざまな歴史的文献もあり、15世紀の「犬神下知状」には阿波の国(徳島県)に犬神使いがいるので早くこれを探し出して捕まえ、処罰するように命ずる書状が残っています。


また、日本民俗学辞典に所収の「土佐国淵岳誌」には犬神の起源について述べられています。

 

それによれば、讃岐国(香川県)に住む人が飼い犬を首だけ出して地中に埋め、犬の好物の肉を与えて「汝の魂を我に与えよ」と告げて刀を抜き、犬の首を打ち落として憑依状態になり、犬の念力を得て仇敵をかみ殺し本懐を遂げたとあります。

 

これ以降、この人の家に犬神が憑くようになり、婚姻関係を結ぶことによって相手方の家にも犬神が伝播するようになったといいます。

17世紀の「伽婢子」によれば、犬神憑きの症状として

1.高熱が続く。
2.錐で刺されたり刀で切られるように胸が痛む
3.この病を癒すには、犬神を飛ばした相手を捜し求めて相手のほしがるものを何でもよいから与える必要がある。
4.さもなくば、病は続き最後には死に至る。


とあります。

 

また、前出の「土佐国淵岳誌」には

1.痛風のように関節痛がひどくなる。
2.高熱が出る。
3.うわごとを口走る。


との記述も残っています。


さらに憑き物のパターンについて詳しく分析してみましょう。

 

「霊が憑く」というのは

1.生霊憑き…生者が生者に憑く
2.死霊憑き…死者が生者に憑く
3.動物憑き…生者が動物霊を動かして生者に憑く


の3パターンに大きく分類できます。

 

さらに、動物憑きについては2つのタイプがあります。

1.憑き物「使い」……憑き物行者こそが憑き物筋であり、憑き物落としはすなわち憑き物使いであると信じられていた。東北、九州に多い信仰である。行者は動物霊を召喚し、これを操作して相手に憑けたり、落としたりする。

狐の憑いた女官を祓う僧侶の図


 

2.憑き物「持ち」……動物霊が代々家に憑いており、その家に所属する人に憑くと信じられていた。したがって、その家の人から恨まれたり、妬まれたりすると、自動的に動物霊が飛んでいって相手にも憑いて害をなすという信仰。中国、四国地方はこのパターンが多い。社会的差別の源泉となった。

これらの憑き物の種類を以下にまとめておきます。

 

憑き物信仰の種類

1.キツネ系

(1)オサキ(江戸時代中期以降,1850年頃より記録あり)・・・埼玉県秩父地方を中心に,東は群馬県,栃木県の一帯から茨城県の一部,西は関東山脈を越えて長野県諏訪地方・伊那谷地方まで。 

(2)クダ(江戸時代以降,1789年頃より記録あり)・・・長野県が本場。愛知県(三河地方),静岡県を中心として,山梨県も勢力圏。三浦半島,房総半島にも流れていた。

(3)イズナ(室町時代より)・・・修験行者の専売特許。青森県,岩手県,山形県に残る。岐阜県,和歌山県にも伝承あり。

(4)人狐=ヒトギツネ(江戸期時代以降,1747年頃より記録あり)・・・島根県(出雲地方;隠岐地方),鳥取県(伯耆地方)にほぼ限定される。

(5)ゲドウ(江戸時代以降,1790年より記録あり)・・・広島県,山口県,島根県(石見地方)が中心。厳密には「キツネ」と「イヌガミ」の総称か? 

(6)ヤコ(野狐は平安時代より,憑き物としては不明)・・・英彦山,阿蘇山の修験道と関係か?九州の肥前半島,熊本平野,天草諸島,薩摩・大隅,宮崎県の一部,壱岐など広範囲。


 

2.イヌガミ系(室町時代より,1472年頃記録あり)・・・四国が中心。特に徳島県&高知県。大分県,広島県,島根県も。


犬神の想像図

3.ヘビ系(室町時代より,1675年頃,1757年記録あり)・・・四国全域。特に香川県&愛媛県。山陽,山陰。「トウビョウ」と称す。


4.タヌキ系・・・四国,特に徳島県。阿波の金長狸と六右衛門狸が全国の狸の総大将となり二派に分かれて戦ったが,讃岐屋島の狸の仲介によって和睦したという「狸合戦」の逸話が知られている。


 

5.ネコ系・・・愛媛(東予地方)。徳島県には祟り神としての猫神伝承あり。
 

 

 

 

 

このように、キツネ系の種類が多いのですが、その背景には民間の巫師(行者・祈祷師)などが重要な役割を果たしました。とりわけ、巫師には稲荷神を守護神としてお祀りし、稲荷降ろしなど憑依状態になってご神託をいただくことが多いです。

 

イヌガミ系とヘビ系は文献記録上は室町時代なので古い部類に属しています。興味深いのは、近畿地方にはこうした動物憑き、動物筋に関する信仰がなかったということで、憑き物の空白地帯になっているのです。

ここで問題にしたいのは憑き物使いです。たとえば、民俗学者の石塚尊俊氏の文献には、大分県の事例として、ある村の老女(祈祷師)のエピソードが出てきます。

 

この祈祷師は、動物霊を憑けたり落としたりする一方で、通常の祈祷にも応じていたようですが、伝説にある犬神の製造法を実施していたというのです。

 

これは20世紀の話です。つまり犬を地中に埋めて首だけ出して飢えさせ、飢えきったところでその首を切り、こうして得た犬の首に湧いたウジを金運向上のお守りと称して1匹千円で売っていたのです。

 

文献記録上は1666年-1747年にかけて、出雲地方の狐使いが藩によって徹底的に弾圧され、大量に処刑されたという記録もあります。四国でも土佐の長曽我部氏が領内の犬神「使い」と「持ち」を徹底的に調べ上げ、これを死刑に処したばかりか、一家までも根絶するという大弾圧政策をとっています。


こうしてみると、どうもおどろおどろしさばかりが先走ってしまう憑き物信仰です。

 

しかし、狐にしても、蛇にしても、一方ではこれを神として祀り、稲荷、荒神、龍蛇として、敬う側にとっては恩恵を受けることになったわけです。

 

少なくとも昔の人々は、動物霊に対しては「カミ」として畏敬の念ももって接していたのです。自然や動植物にも霊魂が宿っているとする原始の精霊信仰から憑き物信仰は生じています。動物の霊も正しく祀れば家の守護神になるし、邪心を以て使役すれば呪いの手段ともなります。

 

要は人間の心の状態でどのようにでも変幻してしまうのが、動物霊がもっている性質だといえるでしょう。



憑き物筋はなぜできたのか

つぎに、憑き物筋に関する心理学的な考察を加えます。

 

憑き物現象は「妖術」の一種であり、憑き物筋の人々が存在するということは、その地域共同体に生活する人々の攻撃的な衝動を中和したり、緩和するという生け贄の山羊(スケープゴート)としての機能があると考えられています。


これに加えて、集団のメンバーがさまざまな原因からストレスや不満を募らせていくと、それは何らかの形で特定の相手を傷つける攻撃行動として発散されるという考え方が心理学にはあります。

 

これを欲求不満-攻撃仮説といいます。

 

この説によれば、自分が欲求不満になったとき、それを解消するためには

1.欲求不満の直接的原因となった他者を攻撃する
2.欲求不満とは直接関係のない他者やモノに攻撃の矛先を向ける
3.自分自身を攻撃する


の3つの方法があります。


問題は2番のケースです。

 

欲求不満の直接の原因となった相手を攻撃すると、反撃され、社会的制裁が予想されるときには、その矛先を自分より立場の弱い相手に切り替えて攻撃するという形態が生じます。

 

この最たる例が「いじめ」です。


また、ある集団のまとまり(集団凝集性)が強い場合、その集団内の社会的地位の低いメンバーなどを特定して攻撃することで、強い一体感や連帯感を維持する機能が働くことが明らかにされています。


このようなことから、伝統的なムラ型社会の中で憑き物筋の人々は、共同体のメンバーから迫害され、蔑視されてきたわけです。今でこそそのような偏見や差別はなくなりましたが、かつてのムラ型社会の暗部として高齢者の中には否定的なイメージをもっている人もいます。


精神医学者の稲田浩氏はこの犬神信仰のケース研究を行っています。

 

精神医学的な見地からは、犬神憑きとは犬神筋の人に対する「同一化」の自己防衛メカニズムに基づく人格変換現象であり、攻撃的な感情が原因となって起こる一種のヒステリー反応であると説明されます。

 

また、このような形態の憑依現象は1960年頃(高度経済成長期の始まり)を境として日常的現象としては姿を消していることを報告しています。
 
稲田氏の論文からある50歳の女性のケースをあげてみます。

『高橋聡子(仮名)は四国のある地域で助産婦をしている女性である。性格は素朴で実直。4人の子どももいる。夫はすでに死亡している。以前、子どもの一人が突然不登校になり、ものもいわず、食事も口にしない状態になった。そこで近所の祈祷師に相談を持ちかけると「犬神の霊に取り憑かれている」と言われ、拝んでもらったらすぐによくなったという。聡子はそれまで犬神筋の人間で近所に住んでいる山本浩太朗の噂を聞いていた。しかし、まさか犬神の霊が取り憑くなどということは本気で信用はしていなかった。


やがて、彼女は生計を立てるために助産師として働き始めた。夫が死亡した直後のことであり、相当な心理的ストレスが蓄積している状況下にあった。ある日のこと、突然腹が痛くなり、胸が苦しいと言って転げ回って暴れ出し、周囲にいた人たちに取り押さえられた。それでもなお、1時間くらいパニック状態が持続した。
 

このときの状態を彼女は、何者かが自分に食いついている、手や足や肩にかみついている、背中にのしかかっているという感覚を覚えたという。聡子は「これは犬神にやられている」と思い、必死で「放してくれ、やめてくれ」と叫んだ。このような発作がその後3回あった。
 

やがて、聡子に人格変換現象が発生した。突然人が変わったように荒々しい態度になり、誰彼かまわず「おかゆが食べたい」と要求したため、周囲の人は「これは犬神が来ている」と考えて、おかゆを作って与えた。すると聡子は立て続けに4杯もおかゆを平らげ、「もっと食べたい」と要求し、しまいにはご飯を手づかみでむさぼり食べ始めた。


彼女は本来おかゆが大嫌いであり、病気になったときも決して口にはしない。また、顔の形相が変化し始め、鏡で見ると紫色のあざができて、犬神筋の山本浩太朗とそっくりの特徴を持つようになってしまった。
 

そこで祈祷師の所へ行って、お祓いをしてもらうことにした。祈祷が始まると、やがて祈祷師に浩太朗の生霊が取り憑いてしゃべり始めた。聡子は憑依状態の祈祷師に向かって「おどれ、卑怯者、何でこんな事までして苦しめるのか。そんなことをするのなら娘が嫁にいけないように皆に言いふらしてやる(浩太朗の家には4人の娘がいたが、皆独身であった)」と怒鳴った。すると浩太朗の生霊は「すまん、すまん」と謝り、その後しばらくは憑けられることもなくなった。
 

それからは道で浩太朗に出くわしても気をしっかり持たなければいけないと思い、「おどれ、あっちへ行け。お前に食いつかれてたまるものか」と念じている。』

このような体験が憑霊現象の典型例です。

 

精神医学的には憑き物は生活共同体が個人に用意した自己防衛のための装置にすぎないと解釈されます。つまり、これは自分自身の心に存在する不満やねたみの気持ち、相手に対する憎しみや敵意などの否定的な感情が原因となって起こる「自作自演」の芝居ということになるのです。


こうした感情を意識したり、自分の中にあることを認めることは大変な不都合を来たし、自己嫌悪など苦痛を伴います。

 

そこで、マイナスの感情を自分自身が持っているのではなく、他人の心の中にあるものだと外へ持ち出して考えるならば、自分を守り、正当化することができるのです。

 

これを精神分析学では投影(projection)といいます。


昔ながらの生活共同体の中では、諸悪の根源は犬神筋の家の者のせいであると考えることで、村人たちの日頃の欲求不満を解消することができました。

 

しかも、それが唯一許された差別という形の自己防衛の手段でした。そして、この自己防衛に失敗した結果、犬神の霊に取り憑かれたような身体の症状や精神症状が発生するのだと解釈されます。


ただし、自己防衛に失敗して症状が出てきても、そのような人々をサポートし、癒すための仕組みも村落共同体には用意されていました。

 

それが巫師(祈祷師、呪術師)の役割です。

 

犬神信仰を共通の記号として巫師は自分を頼って相談に訪れる人々の「憑き物」を落とす仕事をします。巫師は相談者の自覚できないでいる不安、緊張、敵意とその現れである身体の症状を「犬神の霊」の仕業であると置き換え、お祓いや除霊という儀式を用いて「暗示」を与え、癒しを試みるのです。これがカウンセラー、セラピストとしての巫師の社会的な機能だというわけです。


要するに、憑かれた側も憑けたとされる側も共通の信仰と生活共同体の基盤がないと、憑き物現象は起こらなくなります。

 

したがって、現代のように地域住民同士の結びつきが弱く、都市化してしまった社会では、憑依、あるいは憑霊的な現象は発生しにくいということになります。


社会人類学者の吉田禎吾氏によれば、精神的・身体的な病気が「憑き物」によって起こったのかどうかを占うのは祈祷師であるが、その占いを信じる人々がいなければ祈祷師は存在し得ないと論じています。巫師に占いやお祓いを頼み、その効果を信じる人々がいるからこそ職業として成立しているという理屈です。


こうした信仰はつまるところ、心の非合理的な機能、深層意識の原始的衝動に根ざしていると考えることができます。

 

時代や社会的背景を超えて、「憑き物のイメージ」は私たちの心の奥底に綿々と受け継がれているものと思われます。とするなら、現代においても憑き物信仰は形やスタイルを変えて人々の感性に訴えるものがあると言えるでしょう。


そうでなければ、昨今のように物の怪や妖怪、陰陽道関係のマンガ、アニメ、映画、ライトノベルなどが一定の人気を博している理由が説明できません。

 

それが科学的な基準から見て俗信や迷信と呼ばれる範疇のものであったとしても、大衆は「異界」に強力に惹きつけられているという「社会的現実」があります。

 

むしろ合理性や効率性を優先させる社会の抑圧が強まるほど、逆にわたしたちの心の奥底に眠っている原始的心性が揺さぶられるようになっているのではないでしょうか。

 

憑き物の現象学

確かに「日常的な現象」として憑き物は世間の表舞台から姿を消してしまったかのように見えます。

 

ですが、巫師の世界では憑霊はいまだに健在なのです。今では少数になっていますが、伝統的な憑き物を使役するスキルを持っている巫師もいます。


従来、巫師はムラ型社会の中のシャーマンとして、憑いた側と憑けた側の仲を取り持ったり、生活共同体の中での緊張を緩和する役割を担っていたわけです。憑いた側に悪影響を及ぼす「動物霊」を祈祷によって祓い、憑けた側をいさめて、バランスをとっていました。


しかし、現代のように共同体が崩壊した状況にあっても、巫師の中には先祖代々受け継いできた秘法によって、ある種の「意識エネルギー」を行使して、犬神、蛇などの憑霊を、単なる信仰のレベルを超えて自在に操っています。

 

もちろん、これは実体としての動物霊を彼らが操作していると言っているのではなく、私たちの心の中で生じる夢や幻覚といったイメージ世界での出来事になります。

 

しかし、この「イメージ世界」も個人の中でのみ広がっているものではなく、集合的な意識という宇宙規模のネットワークとして相互にリンクされている部分もあるというのが、「魂の心理学」から導かれる推論なのです。


私たちの意識は個人を超えた情報の集積されたシステムであり、一種の心理的なエネルギーではないかという図式で考えてみましょう。

 

当ブログでは、意識とは、必ずしも物理的な身体や脳の特定の場所に限局されないという立場を取ります。

 

しかも、意識は時空を越えてある人物と他の人物との間で同調する性質をもっており、集団の意識が共有された領域で普段は自覚されにくい情報の交換が起こっていると考えるのです。

 

それがテレパシーだったり、虫の知らせという形で起こる場合があります。

 

また、物理的に離れている人間同士の間で起こる呪詛、逆に相手の姿を見ず、身体にも触れない状態で遠隔地から行うヒーリングも集合的な意識を媒介して生じていることになります。

 

憑き物のイメージは、個人的な意識のレベルでは自覚されにくくなっているかもしれませんが、これが文化的な意識として共有される「元型」の一つになっているとすれば、今の時代に生きる人々の「こころ」に影響を及ぼすことはできるのです。

 

巫師の場合、激烈な憑き物体験をすることは珍しくありません。

 

私たちがもっている経験データの中から、ある女性巫師の体験を紹介しておくことにしましょう。


20××年1月のこと。杉田千鶴さん(仮名)は突然,38度後半から39度台の高熱に襲われた。何日間も発熱が続く。激しい悪寒。息苦しい。身動きができない。胸や腹に激痛が走り苦しむ。このような状態が4-5日続いたあとに、夜、金縛りになって「黒いモノ」が身体から出たり入ったりする感覚を得た。5日目から室内に悪臭が漂い始める。生臭くすえたような臭いがする。生ゴミの悪臭かと思い、部屋の中をくまなく探したが悪臭源を特定することはできなかった。


この時点で杉田さんは呪詛をかけられたと確信する。身体が衰弱していき起きあがることも困難になっていた。しかし、このまま放置していても確実に「なぶり殺し」になるだけである。


自力でこの窮地から脱出するためには、ひたすら拝み返すしかない。そこで、杉田さんが拝んでいたときに、奇怪なビジョンが現れた。自分の腹から犬の首が出てきた。種類は犬とオオカミの中間に見えた。黒に近いまだら模様のある犬の首。口を開け牙をむいて、よだれを垂らしているような形相。腹から顔と顔が向き合う格好でニョキニョキと現れた。

自力での回復が困難であると判断した杉田さんは、別の巫師の所へ行って祓ってもらうことにした。7日目のことである。ベテランの巫師は杉田さんの様子を見て、即座に「これは犬神に食いつかれておる。命を取りに来ている。」と述べ、早速に祓いに入った。祓ってもらって約10分後、体温を測ると即時に熱も下がり、通常の体調に戻っていた。

 


このケースでは、当時の杉田さんは「犬神」という憑霊の存在さえ知識としてはもっていませんでした。自分の身体で初めて犬神の「幻魔」を経験したわけです。しかも、投薬治療なども一切行わず、他の巫師による呪詛解除の祈祷によって一気に症状が消失しているわけです。


呪術戦においては念や気を飛ばして、相手の身体や精神にダメージを与えるやり方もあるのですが、夢や幻覚を媒介して相手の精神を錯乱に追い込むという「幻魔飛ばし」の術も存在します。

 

最初は夢や幻覚をコントロールして遠隔暗示にかけ、最終的に行動を支配するようにもって行く方法のことです。


夢・幻覚などのイマジナルな体験は自己意識の特性を考える上で重要な鍵になってきますが、巫師の中はこうした自覚されない深層意識の性質を経験的によく心得ている者がいるのです。

 

 

参考文献

 

石塚尊俊 1999 日本の憑きもの(復刻版):俗信は今も生きている 未來社
 

吉田禎吾 1999 日本の憑きもの(復刻版): 社会人類学的考察 中公新書 299

 

稲田浩 1980 伊予の犬神、蛇憑きの精神病理学的研究 社会精神医学,3,Pp.57-64.


 

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