こんにちは。

前回は「多くの人が気付かない最も身近な悪人 〜禍いをもたらす悪と縁を切るために〜」と題して記事を書いてみました。

 

私の拙い文章ですが、特に以下のような方々に宜しければ記事をお読みいただきたく思います。前回の続きのような内容になりますので、偶然こちらの記事に辿り着かれた方にはそちらから先にお付き合いいただけましたら嬉しく思います。

 

・嫌われる勇気に共感する

・筋が通らないこと、曲がったことは嫌いだ

・どうすれば長生きできるのかよりもどのように生きるのかが自分にとっては大事

・自分のためよりも他者のために自己犠牲できるような人を尊敬し自身もそうありたい

・既に聖書を信じて主イエス・キリストを信仰し教会へ通われるキリスト者(クリスチャン)


さて、前回は多くの方が気付いていない最も身近な悪人が誰かということについて述べさせていただきました。私たち一人ひとりがこの世で唯一の存在であるように、世には神々と呼ばれるものが沢山ありますが、慈愛と義の聖であられるお方、私たちを含めたこの世全ての万物を創造された唯一真の生ける神様がおられるということを、その存在を忘れ無視している現代人は先ずその状態をきちんと改めなくてはなりません。私たちが今ここにいることは偶然の産物ではなく、父なる神様の御計画、御意志により存在しているのであり、このお方により今を生かされているからです。万物創造時にこのお方により定められた「神の律法」は被造物である人間のために制定してくださった慈愛と義の聖なる法であり全員が遵守すべき法で、これに照らせば全ての方は何かしらにおいて必ずこの律法に違反している罪人(悪人)の状態にあり、その罪人のままでは後の世の行き先はこの真の神様のおられない永遠の地獄行きが決まっていることが聖書からわかる真実です。そしてその地獄行きの状態から罪人である私たちを救い出してくださるのが唯一真の神様、救い主であられる主イエス・キリストであって、この方へ速やかに立ち返っていただきたいと願い前回の記事を作成いたしました。

 

さて、自分の生き方、心のあり方を振り返り、聖書と照らして或いは前回やそれ以前の記事でご紹介しましたミカエルさんのアメブロ「真の聖書福音と預言」の各記事などから、ご自身の状態がいかに罪深い状態であったのかを認識させられて、このままではいけない、真の神様に立ち返ろうと思われた方へさらにお伝えしたいことを今回は綴らせていただきます。

 

前回記事と重なりますが、主イエスが公生涯に入られて先ず真っ先に説かれたことは「そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。」(新約聖書 マタイによる福音書 四章十七節 新共同訳)の通り「悔い改め」るということでした。世の諸教会では主イエスの慈愛ばかり強調して、この悔い改めることについては聖書に依拠して正しく熱心に教えているところは皆無なのが実情だろうと思います。世の「キリスト教」として括られる宗教は、その大元が悪魔的数字十三番目の使徒を自称している偽使徒パウロの教え、新約聖書の大部分を占める、反キリスト教義が真実とともに織り込まれているパウロ書簡を礎とする「パウロ教」が真実なのです。既に聖書や主イエスを信じて毎週教会へ通われている方などはこのことに驚かれそんなことはありえない、間違っているのではないのかなどと思われるかもしれませんが、ミカエルさんが「パウロは偽使徒」の記事を始めとしてこれに続き「偽使徒パウロの反キリスト教義 一」から全七回の連載記事やこちら「「パウロは偽使徒」の動画」の記事でご紹介されているこちらもまたミカエルさんが全ての方のために作成公開してくださった当該動画の御確認を強く推奨いたします。ミカエルさんは九年も前から貴重なお時間と労力を割き数々の記事や動画などを作成、全ての人へ向けて歩むべき道を間違えることがないようにと全て無償で公開してくださってます。しっかりと御確認いただき滅びへ至る広い門、広い道から速やかに引返してそこから離れることを強く推奨させていただきます。

さて、ヘブライ人への手紙には以下の聖句があります。

 

 

新約聖書 ヘブライ人への手紙 六章一節から三節 新共同訳

だからわたしたちは、死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教えを学び直すようなことはせず、キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。神がお許しになるなら、そうすることにしましょう。

 

 

悔い改めの必要性を理解したら、日々悔い改めながらも、そこだけにとどまっている場合ではありません。何故ならば主イエスが「天に御座すあんた方の父が完全であらはるように、あんた方も完全になりなはれ。」(新約聖書 マタイによる福音書 五章四十八節「受け身をやめよ、行動せよ」)このようにも仰せになられたからです。既に教会などへ通われる方、聖書に関心を持たれていろいろ調べている方などは、そんなこと初耳とか、この聖句を目にされたことはあってもそれは所謂当時の使徒たちへ向けられた言葉ではないのかと疑問に思われるかもしれませんが「あんた方(十二使徒)に言うことは、すべての人に言うてるんや。」(新約聖書 マルコによる福音書 十三章三十七節 引用「成功するためには」)の通り主イエスが仰せのことです。それ故の先にご紹介したヘブライ人への手紙の聖句であると思います。さて、天の父なる神様とはどのようなお方でしょうか。

 

 

旧約聖書 出エジプト記 三十四章六節、七節 新共同訳

主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。

 

旧約聖書 詩編 百三章六節から十節、十三節 新共同訳

主はすべて虐げられている人のために恵みの御業と裁きを行われる。主は御自分の道をモーセに御業をイスラエルの子らに示された。主は憐れみ深く、恵みに富み忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることはなくとこしえに怒り続けられることはない。主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなくわたしたちの悪に従って報いられることもない。

(十一節、十二節省略)

父がその子を憐れむように主は主を畏れる人を憐れんでくださる。

 

旧約聖書 詩編 百六章 新共同訳

ハレルヤ。恵み深い主に感謝せよ、慈しみはとこしえに。(中略)

わたしたちは先祖と同じく罪を犯し不正を行い、主に逆らった。わたしたちの先祖は、エジプトで驚くべき御業に目覚めず豊かな慈しみに心を留めず海辺で、葦の海のほとりで反抗した。主は、御名のために彼らを救い力強い御業を示された。(中略)

主は憎む者の手から彼らを救い敵の手から贖われた。(中略)

彼らはたちまち御業を忘れ去り神の計らいを待たず荒れ野で欲望を燃やし砂漠で神を試みた。(中略)

彼らはホレブで子牛の像を造り鋳た像に向かってひれ伏した。彼らは自分たちの栄光を草をはむ牛の像と取り替えた。彼らは自分たちを救ってくださる神を忘れた。エジプトで大いなる御業を行いハムの地で驚くべき御業を葦の海で恐るべき御業を成し遂げられた方を忘れた。主は彼らを滅ぼすと言われたが主に選ばれた人モーセは破れを担って御前に立ち彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。彼らは愛すべき地を拒み御言葉を信じなかった。それぞれの天幕でつぶやき主の御声に聞き従わなかった。主は彼らに対して御手を上げ荒れ野で彼らを倒された。子孫は諸国の民に倒され国々の間に散らされることになった。彼らはバアル・ペオルを慕い死者にささげた供え物を食べた。この行いは主の怒りを招き疫病が彼らの間に広がった。ピネハスが立って祈ると疫病はとどめられた。これは代々に、そしてとこしえにピネハスの正しい業と見なされるであろう。(中略)

主が命じられたにもかかわらず彼らは諸国の民を滅ぼさず諸国の民と混じり合いその行いに倣いその偶像に仕え自分自身を罠に落とした。彼らは息子や娘を悪霊に対するいけにえとし無実なものの血を流した。カナンの偶像のいけにえとなった息子や娘の血はこの地を汚した。彼らは自分たちの行いによって汚れ自分たちの業によって淫行に落ちた。主の怒りは民に向かって燃え上がり御自分の嗣業の民を忌むべきものと見なし彼らを諸国の民の手に渡された。彼らを憎む者らが彼らを支配し敵が彼らを虐げその手によって彼らは征服された。主は幾度も彼らを助け出そうとされた彼らは反抗し、思うままにふるまい自分たちの罪によって堕落した。主はなお、災いにある彼らを顧みその叫びを聞き彼らに対する契約を思い起こし豊かな慈しみに従って思いなおし彼らをとりこにしたすべての者が彼らを憐れむように計らわれた。

 

旧約聖書 マラキ書 三章十九節 新共同訳

見よ、その日が来る炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。

 

 

父なる神様は大変憐れみ深く忍耐強い慈愛のお方であると同時に悪を決して容赦しない義にとても厳しいお方であることはおわかりいただけるでしょうか。また詩編からは古代イスラエルが父なる神様が民へしてくださったことを忘れて繰り返し反抗していることがわかり、その末裔である私たち現代日本人が同じ大罪を犯していることも御理解いただけるのではないでしょうか。

以下のミカ書からは完全であられる神様は被造物である人間に対しても慈愛と義の聖なるご自身と同じ品性であるようにそして悪ではなく唯一の善であられる父なる神様と共に歩まれることを求めておられることがおわかりいただけるかと思います。

 

 

旧約聖書 ミカ書 六章八節 新共同訳

人よ、何が善であり主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛しへりくだって神と共に歩むこと、これである。

 

 

先の通り主イエスは「天に御座すあんた方の父が完全であらはるように、あんた方も完全になりなはれ。」と仰せになり、父なる神様がお求めになられていること、私たちが悪から離れて慈愛と義の品性を持つ完全な者即ち聖なる者へなることを御命令されてます。

 

 

旧約聖書 レビ記 十一章四十四節、四十五節 新共同訳

わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである。(中略)わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。

 

新約聖書 ペトロの手紙一 一章十四節から

無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。

 

 

マタイによる福音書十九章には主イエスと金持ちの青年のやり取りの記録があります。永遠の命を得るにはどうすればよいのかと尋ねた青年に対して主イエスは掟を守るようにお答えになり、さらにすべての掟を守れていなかった青年に対して、完全になりたいのであれば遵守できていない欠けている掟をも守るように仰せであることから、完全になるためには神の律法を全て遵守することが必要であることがわかります。主イエスのこれらのような「完全であるように」「神の律法を全て遵守するように」という御命令と「まことに、主であるわたしは変わることがない。」(旧約聖書 マラキ書 三章六節 新共同訳)「御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。」(新約聖書 ヤコブの手紙 一章十七節 新共同訳)などの聖句から父なる神様とは決して変わることがないお方であることなどを踏まえれば、神様が被造物である人間へお求めになられることも旧約時代から新約時代を通して一貫して同じこと、変わることなど一切ないこと、このような理解こそが素直に考えれば筋が通るのであり、どなたでもおわかりいただけるのではないでしょうか。それにも関わらず現代に広まっている聖書の教え、福音の内容とは主イエスを信じるだけで救われるとか、旧約時代の律法は主イエスの十字架により廃止されている、偽使徒パウロの書簡を根拠とする福音の三要素などの偽教義、偽福音の蔓延状態がその実体で「今や多くの反キリストたちが現れてる。」(新約聖書 ヨハネの手紙一 二章十八節 引用「パウロを偽使徒と認めない反キリストの有様」)のまさに聖句通りの状況、つまりこれらの偽福音、偽教義を信じ込んでいる者(即ち反キリスト状態にある方)が多数派を占めているのが現実です。

 

 

画像引用 https://x.com/nagoyan2gou/status/2043921279817036127

 

画像引用 https://x.com/puhmin07101/status/2039970149076500873

 

 

画像引用 https://christiancommons.or.jp/why-do-the-three-elements-of-the-gospel-save/

 

画像引用 https://www.youtube.com/watch?v=PX2NB_qHOnw

 

画像引用 https://x.com/ys__bible/status/2016474239981986108

 

このような耳触りの良い、偽使徒パウロの書簡に依拠した偽福音や偽教義に引っ掛かり足を突っ込んで深みに嵌ってしまうと、後から真の福音や正しい聖書解釈を目にしたり耳にしてそれらから抜け出す機会を得ても多くの方は抜け出すことが困難になってしまうようです。そしてこれら聖書の偽福音、偽教義の虜になってしまっている多数派パウロ教信者や世の大部分を占めるそもそも聖書に無知、無関心な状態の不信仰の方々、また仏教、神道、その他異教の信者やカルトなどの真の聖書福音と預言に関心を持たず、知るきっかけがあったとしても耳を傾けることもなく、信じて受け入れることのない全ての人から、この状態を聖書では「この世全体が悪い者の中にある」(新約聖書 ヨハネの手紙一 五章十九節 引用「天地の隔たり」)とハッキリと教えているわけですが、悪の対極であられる主イエスに従順に従い、天の父なる神様の御心を行う真のキリスト者となれば、同じ信仰を持たない彼ら全員からは疎まれる、嫌われる、それだけにとどまらず虐げられる、迫害されるようになるのが論理的に考えて得られる結論かと思います。故に「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。」(新約聖書 ヘブライ人への手紙 十章三十六節 新共同訳)と書かれている通りです。

 

ご自分のこれまでの生き方、行いと心の中を改めて、真の神様へ立ち返ること、主イエスに従う道を選ばれた方には、悔い改めだけにとどまらずそこから更なる向上を目指す必要があることをお伝えしました。この道が最善の道であることを理解はできても、もしかすると戸惑っている方もおられるかもしれません。

 

 

新約聖書 マタイによる福音書 三章九節 新共同訳

言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。

 

新約聖書 マタイによる福音書 十九章二十六節 新共同訳

イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。

 

新約聖書 マタイによる福音書 十章二十八節から三十一節 新共同訳

体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。

 

 

私たちは上記聖句にある通り自分の髪の毛の数すら自分のことにも関わらず把握できませんが神様は当然にご存知であり、神様という存在は私たち人間の理解を遥かに超えた存在です。例えると、平面図という二次元では三次元の立体図を表現することは不可能ですが、三次元せは二次元の平面図を簡単に表現できる、二次元では絶対にできない(立体図を描くことはできない)ことを上位である三次元であれば二次元のことはいとも簡単にできる(平面図を簡単に描ける)と言うことです。ですから、言うまでもないことなのですが、神様とはこの世を創造されたお方で最上位の存在なのですから、主イエスが仰せの通りなんでもおできになりますが、神様がなにをなさるか、なさらないのかということを論理的に考えれば人間は一切口出しできる立場などにないことは簡単にわかることではないでしょうか。

 

 

旧約聖書 イザヤ書 四十五章九節から十二節 新共同訳

災いだ、土の器のかけらにすぎないのに自分の造り主と争う者は。粘土が陶工に言うだろうか「何をしているのかあなたの作ったものに取っ手がない」などと。災いだ、なぜ子供をもうけるのか、と父親に言いなぜ産みの苦しみをするのか、と女に問う者は。イスラエルの聖なる神、その造り主主はこう言われる。あなたたちはしるしを求めるのか。わたしの子ら、わたしの手の業についてわたしに命ずるのか。大地を造り、その上に人間を創造したのはわたし。自分の手で天を広げその万象を指揮するもの。

 

 

神様について人間が理解できる事柄は多少ありますが、乳幼児が親の考えや想いがほぼわからないように、その殆どは人間ごときには理解できないと私は思います。人間が理解可能な範囲というのは聖書に記してくださったことのみですから、聖書の理解に自ら努めて、神様の憐みによりそこに記されていることを正しく理解させていただいて、その範囲のことをきちんと把握できたのであればそれで十分であり、その次は書かれていることをきちんと実践することが大事と思います。そして神様というお方のみが唯一の立派な存在であること、全てこの世俗で起こることは、人間の視点から判断すると時に辛く悲しく苦しくよくないと思われることでも(それらの原因を作ってしまっているのはそもそも不信仰の人間なのですが)、慈愛と義の聖なる神様は悪を考えることなどは決してあり得ないので神様の御計画なさること、御意志というものは絶対的に完全なよきことであり、この神様のよきことの範囲の中で残念ながら起こってしまっている悪ということで、永遠の神様と共に生きるのだという視点からみればそれらはいずれ必ず終わりがくる極限られた期間の事柄という理解へ至るわけです。

 

 

新約聖書 ヘブライ人への手紙 十二章二節から四節 口語訳

信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。

 

新約聖書 ペトロの手紙二 三章八節、九節 新共同訳

愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。

 

 

前回の記事で、私はこの道の存在を知ってから、歩むと決意するまでに多くの時間を費やしてしまったことに少し触れました。この道に気付かされた時点で、神様のことは絶対であり、間違いなく神様の御計画御意志がなされると思いましたが、自分という人間が本当に最後まで貫けるのだろうかという私自身の問題ですぐには決断できなかったということもありました。母は他者と私を比較して何故できないのかと、私は言われながら育った面がありました。また子どもを叱るという点において、勿論子どものためということはあるのですが、自分のストレスの捌け口的な面から執拗に怒ることを子どもながらに感じることも多かったです。その場に時折居合わせてそんな様子をみかねた父はそんなにガミガミいうことないじゃないかと止めに入ってくれました。母は他人からどう思われるのかということにこだわりが強く、父は真逆の「十人十色」という考え方の人でした。そのような父の他者から自分がどのように思われるのかを殆んど気にしないような考え方を、自分の考え方に間違いなどないと考える母はいつも私へ父の考え方はおかしい、間違っているとよく言っていたものでした。

ミカエルさんのブログを拝読するようになり、記事や返信欄での投稿者へのご返信などを拝見して、裏表なく率直で時に厳しい物言いは、相手を思う気持ちからの御指摘、正当な批判、正当な非難であってもそのように受け取れず、理解できず、悪口や誹謗と取り違えたり、感情的になり敵対する感情を持つようになる人も少なくないだろうと思いました。私がそうならずに済んだのは子どものころの経験故だと思いました。この世界には大勢の人間がいるわけですが、人が生きる中でいろいろな形での接点があり、その接点をもつことになる人数は極々限られていると思いますが、私は私が生きてきた中でミカエルさんはとても言葉を大事になさる最も誠実で信実なお方だと思いました。日本語訳聖書のに「神の聖なる方」という表現が出てくるのですが、まさにこの表現に当てはまるのが私の中ではミカエルさんだと思いました。そして今から三年前ある方から話の流れから「ミカエル氏は預言者エリヤなどではない」という旨のことを言われたことがあり、既に私の中ではミカエルさんは「神の聖なる方」という認識であったにも関わらず、その時は何故かその人の仰ったことがすぐには理解できず、後になってからそれは「預言者と偽預言者の違い」の記事を踏まえた発言だったのだろうということに気付きました。そして今「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」(旧約聖書 マラキ書三章二十三節 新共同訳)に記されている預言者エリヤの働きをなさっておられるのは確かにミカエルさんであると私は確信してます。

 

 

旧約聖書 コヘレトの言葉 三章一節から八節 新共同訳

何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある。

 

 

神様はご自身の御計画を進められるに当たり上記聖句からわかるように時を定められておられることがわかります。殆どの方は今がどのような時であるのか、ノアの方舟の時代に多くの滅んだ人々同様に、全く気付くことがない、知るきっかけがあっても関心を持つことがない、関心を持っても間違った選択肢を選び取ってしまうなどがあるのだろうと思いますが、偶然にも私の記事に辿り着き、私の拙い記事にここまでお付き合いいただきました方には、前回の記事でも少し私自身のことを綴りましたが、そのようなことがないように、速やかに決断されて行動へ移されていただきたいと願います。唯一真の神様、真の救い主であられる主イエスへ立ち返るために、神の律法と主イエスの新たに加えられた御命令を遵守するためには、ミカエルさんが監督されておられる教会への門を叩く必要があり、この教会以外に真の選択肢はありません。以下のミカエルさんのアメブロ「大事な告知」の記事をよくご確認お願い申し上げます。今回の私の記事が皆様の速やかな決断の後押しとなりますことを切に願っております。

 

 

 

最後までお読みいただきましてありがとうございました。