こんにちは。

アメブロ 「真の聖書福音と預言」の記事「神の王国に相応しいように準備せよ」を拝読しました感想などをこちらで綴らせて頂きます。

記事冒頭のミカエルさんによる正しい底本原語からの聖書日本語訳を以下に引用いたします。

 

こんにちは。

今回は、神の王国に相応しいように準備することについて述べます。



新約聖書 マタイによる福音書 二十二章一節〜十四節(拙訳)
また、イエスは再び話し始めはり、彼らに例えで語りはり、言わはる。
「天の王国は、その息子に婚宴を催したある王のように例えられた。さて、(王は)彼の僕たちを、婚宴に招待されてた者たちを呼ぶために遣ったが、来ることを望まへんかった。
再び別の僕たちを遣って、言う。『招待されてた者たちに語りなはれ。「見よ、我が食事は我が用意し、我が雄牛や肥えたものは屠られ、すべてが用意されてます。婚宴に来なはれ。」』

しかし、人々は無視して、出掛けた。ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に。
更に、残りの者どもは、彼の僕たちを捕まえて恥ずべき扱いをした上、殺した。そこで、王は(その事を)知った時、怒り、軍隊を送って、それらの人殺しどもを滅ぼし、それらの都市を焼き尽くした。その時、(王は)彼の僕たちに言う。
『確かに、婚宴の用意は出来てるが、招かれた者たちは相応しくなかった。
それ故、各道路の出口に行って、見かけた者たちを婚宴に招きなはれ。』

そして、それらの僕たちは各道路に行って、見かけた人は誰でも悪人も善人も皆集めた。それで、食卓で横たわる人たちの婚宴は一杯にされた。しかし、王が食卓で横たわる人たちを見るために来て、そこに婚礼の衣服を着てへんかった者を見付けた。

そして、(王は)その者に『友よ、どうして婚礼の衣服を着ずにここに来たのか。』と言う。
しかし、(その者は)口を利けなくされた。
その時、王は側近たちに指示した。
『その者の足と手を縛って、連れて行き、外の暗闇に追い出せ。そこで慟哭と歯ぎしりがあるだろう。』
招かれた者は多いが、選ばれた者は少ないさかい。」

 

翻訳に続く記事の内容は以下の通りです。

一、天の王国は主イエスと真のキリスト者との婚宴のよう

二、選民は神に従うことを拒んで滅んできた
三、信仰よりも世俗を取る者は救われへん
四、預言者への迫害の報いは破滅
五、古代ユダヤ人が見捨てられ、異邦人にも救いの機会が巡ってきた
六、招かれたというだけで選ばれたと勘違いすな
七、神に逆らう者は地獄行き

 

聖書に記された終末の兆候が顕著です。手前の記事がミカエルさんのブログをお読み頂く切っ掛けとなり、一人でも多くの方が(新約聖書パウロ書簡を除く)聖書をご自分で確認し「悔い改め」の必要性を御理解いただき唯一真の神で救い主であられる主イエス・キリストへ立ち返る切っ掛けとなることを切に願っております(新約聖書パウロ書簡を除く理由はこちらの動画をご確認下さい)。

 

一、天の王国は主イエスと真のキリスト者との婚宴のよう

聖書を読んでみると結婚を例えに用いられることがあることに気付きますが、今回の例えは「王は父なる神、その息子は主イエスを指し、他の聖句からも明らかなとおり、主イエスと真のキリスト者が結ばれることを結婚と例えており、これは性別は関係無い。(記事より引用)」です。神と人との関係性に於いては性別は関係ありませんが、この世に於いての男女の性別と言う区別は完全なる神が万物を創造された時に定められた完全なる秩序です。秩序とは「その社会・集団などが、望ましい状態を保つための順序やきまり。」(引用https://kotobank.jp/word/秩序-96298)と説明されてます。順序やきまりなどがなければ望ましい状態を保つことはむつかしく、順序やきまりがあっても構成員全員がそれらを遵守しなければやはり望ましい状態を維持することは不可能です。男女の区別は、この世の秩序を保つ上で当たり前に遵守すべき最重要項目の一つとも言え、同性婚などの性的倒錯をたとえ人間の法律で正当化して人間社会で許したとしても神から赦されることでは決してありません。昨今同性の結婚が許されないことは現憲法に違反すると言う判決が徐々に増やされてきていますが「『人を判断する基準 』八、神の民は天の父なる神の御意志を行う者のみ」の記事で「同性婚なんか認めへんことは合憲です。」とミカエルさんが仰る通りです。太陽暦二千二十四年十月三十日、東京高裁で「法の下の平等」を定めた憲法十四条一項(すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。)と、「婚姻や家族の法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定すべき」と定めた憲法二十四条の二項( 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。)に違反するという判決を谷口園恵裁判長が言い渡しました(参照記事https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_66fba476e4b029b6b7a733cf)。この裁判長についてはツイッターで検索したところ以下のような投稿がありました。

 

 

 

 

調べてみれば日本ではこのような不当判決が出されているのが実情ですが、どれだけの日本人がその現実に気付いているでしょうか。報道機関が頻繁に取り上げる情報は目眩しのためのどうでもよい内容、くだらない芸能人の不祥事等をしつこく大袈裟に連日取り上げたり、娯楽番組などばかりで、現実を知らない日本人が多いと思いますが、日本の司法は本当に腐っています。私がそのようなことを知ることができたのもミカエルさんがブログ記事に於いて聖書論述以外にも、時事問題、改憲問題、日本の本当の歴史など多岐にわたり執筆して下さってきたおかげに他なりません。何故このような不当な判決を出すのか、その原因についてもミカエルさんがアメーバオウンド「キリスト道」の「改憲問題」にてその問題点を御指摘されてます。憲法改正の問題は無知、無関心でも無関係ではいられない私たちの生活が根底から覆される大問題です。主権者である国民はきちんと把握するべき事柄です。こ存じない方は必ず、ご存知の方も把握されていないかもしれない弁護士などの法の専門家でも指摘されていない非常に重要な有益な情報も含まれてますので必ずご確認いただけますようお願い申し上げます。そして国民の義務が記された憲法第十二条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」に基づいて、知っただけで終わらずに、この大問題について周知拡散をお願い申し上げます。

 

二、選民は神に従うことを拒んで滅んできた

神は過去から預言者を通じて、選民古代イスラエル、古代ユダヤが神と結んだ契約に違反(神の定められた完全なる秩序に従わない、言い換えると、神の定められた「人が従うべき慈愛と義からなる律法」を遵守しない)状態にあること、その契約違反状態を悔いて改めるべきこと、そうでなければ滅びに至ることを伝えてきましたが、いつの時代も殆どの民が預言者の言葉に耳を傾けることがなく結果として滅びに至る(神の憐れみから完全には滅ぼされることがなく僅かな民は残されてきて)ことを繰り返してきました。そしてその古代イスラエル、古代ユダヤの子孫が現代の日本に一部残っている日本人です。日本を俯瞰すれば年末年始の神社や寺への参拝、お盆と言う仏教由来の習慣、秋は悪魔崇拝由来のハロウィン、冬も悪魔崇拝である太陽神バアル崇拝に由来するクリスマスを楽しむなど偶像崇拝大国と化して正に古代イスラエル、古代ユダヤと同じ数々の過ち、契約違反を犯している状態にあり、そのために契約違反の懲罰が下されるような状態にある、祖先の例で言えばアッシリア襲撃、バビロン捕囚のような同じ流れの中にあるのが現実です。

 

画像引用 https://x.com/Kemal_Bourguiba/status/2006910660165382340

 

画像引用 https://x.com/OdceLVE1MpR1JmL/status/1996442179305341297

市議会の様子、議員の姿勢も当該投稿の動画でご確認推奨します。

 

画像引用 https://x.com/S10408978/status/1964135945906630930

 

また多くの日本人が偶像崇拝以外の違反も犯している状態にあること、具体的にどのようなことか当事者の私たちが自覚して向き合わなければ、それは結局自分たちの今の生活を脅かすことにつながる、首を締めていることに他ならない状態ですから、同記事でご確認お願い申し上げます。

 

三、信仰よりも世俗を取る者は救われへん

主イエスの「再び別の僕たちを遣って、言う。『招待されてた者たちに語りなはれ。「見よ、我が食事は我が用意し、我が雄牛や肥えたものは屠られ、すべてが用意されてます。婚宴に来なはれ。」』しかし、人々は無視して、出掛けた。ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に。」と言う例えについて「神は、この世に遣わしはった僕に伝道をさせるが、多くの人間がそれに耳を貸すこともなく、無視し、各自の世俗の仕事やその他の用事を優先させてるという、神に逆らう行いや有様を暗に非難してはる。」と記事にて御説明下さってます。

では真の神への信仰よりも世俗のことを選ぶ、現代人の大多数がその状態にあるわけですが、何故そのような選択を至極当たり前のこととしてしまうのでしょうか。それは現代人が何の疑いもなく信じている前提条件が間違っていることにも大きな要因があると私は思います。正しい前提条件とは今を生きるこの世は仮の世であること、後に来る世こそが真の世であること、そしてこの仮の世に於いての生き方が後にやって来る真の世での行き先を決定してしまうと言うことです。これを前提条件となさって以下ミカエルさんの過去記事からの引用をお読みいただきよくお考えいただければと思います。

 

なお、主イエスはこうも教えられました。

 

新約聖書 マタイによる福音書 16章26節

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 

 

本当に主イエスの教えが心に響かない人が多過ぎます。クリスチャンと自称する者たちもです。地上の富どころか、全世界を手に入れたとしても命を失う、即ち、第二の死で滅びたならば何の得になるのかということです。短い地上の人生で自分の思い通り生き、贅沢の限りを尽くしたところで何になるのでしょうか。高級レストランで食事したり、高級ホテルに泊まったり、世界中を飛び回ったり、欲しい物は何でも手に入れて、快楽の限りを尽くしても、それが何になるというのでしょうか。このような行いをする者、またはそれらを欲する者は、サタンに仕えており、罪を重ねているだけで、後で滅びるだけです。私が何度もこれまで述べたように、神を愛し、神の律法、掟、戒めを守って生活し、神の御心を行い、兄弟で愛し合い、キリストに近い品性を形成することがこの世でなすべきことです。その過程での行いが天に富を積むことになるのです。自然にそうなるのです。これは永遠の命欲しさに主イエスを信仰するという利益信仰ではありません。利益信仰をしている人は真のクリスチャンではありません。神からの一方的な憐れみと恵みを受ければ、神に立ち返り、神を愛し、神の律法、掟、戒めを喜んで守ります。そして、神の御心を行うことで神の栄光を現すことになります。人々はこの真のクリスチャンの信仰から来る行いを通して、主イエス・キリストの真の姿を知るようになるのです。世に出回る偶像(絵画、彫刻等)のことではなく、品性です。キリストに近い品性は、誰の手によっても変えたり、奪ったりすることはできませんし、他人に分け与えることもできません。完全に不可侵で不可分であり、個人に属する性質のものです。

引用 真の聖書福音と預言 天に富を蓄えよ

 

いかがでしょうか。今を生きる私たちが後の世に持っていくことができるものについて今真剣にお考えになってみて下さい。「出エジプト記を読めば分かるとおり、かつて古代イスラエル人は古代エジプトで奴隷扱いされ、重労働を課されて、日々の労働で手一杯になり、信仰どころではなくなり(不信仰になり)、神から離れた。神は古代イスラエル人たちを救おうとモーセを導き、彼らをエジプトから出るように導いて解放しはった。現代日本人も過去の古代イスラエル人と同じ状況に重なって拙者には見える。拙者はあんたらに世俗の労働ばかりに縛られて欲しくないし、そのせいで不信仰で在り続けて滅んで欲しくないから言うてるんや。拙者が長いこと伝道してるんは慈愛からであると、それを理解して欲しい。(記事より引用)」私からも一人でも多くの方にミカエルさんの伝道内容に素直な心で耳を傾けていただきたく存じます。それは誰のためでもない、この記事を読むに至ったあなたの未来のためです。

 

四、預言者への迫害の報いは破滅

迫害行為には積極的行為と消極的行為の二種類あることに注意が必要です。この二つの違いが具体的にわからないならば、自分の行いが迫害に該当するのか否か判断が付きませんから当該記事の同箇所のご確認を推奨します。主イエスの例え話しの「更に、残りの者どもは、彼の僕たちを捕まえて恥ずべき扱いをした上、殺した。」について「歴史は繰り返す故、再び起こることだろう。黙示録にもこの世の権力者が真のキリスト者を迫害するという預言があるからや。」とミカエルさんが御指摘されてますが、聖書を通読してわかったことはいつの時代も人は歴史から学ぶことなく同じ過ちを繰り返してきたのだと言う事実でミカエルさんの御指摘通りに、それは肉の思いからでは非常に辛いことですが、ことが起こるのだろうと私も思います。

 

五、古代ユダヤ人が見捨てられ、異邦人にも救いの機会が巡ってきた

一世紀から異邦人に向けて広く伝道が開始された。それにより、主イエスの御名や聖書の存在がローマという西洋にも伝わって広まり、四世紀にローマ皇帝コンスタンティヌスにより国教化され、ローマ・カトリック教会が出来、後に東西に分裂して東方に正教会が出来、中世時代にカトリック司祭やったマルティン・ルターからプロテスタントというの分派も出来て、今に至る。」このような流れにより今日では日本でも、日本人の中で占める割合はさほど多くはないですが、教会へ通われている方もおられると思います。その巷の教会へ通う日本人は彼らカトリック、プロテスタントなどの間違った教義から自分たちの立場を聖書で言うところの「異邦人」と思い込んでいると思いますが、事実は先にも触れました通り古代イスラエル、古代ユダヤの末裔は日本人になります。ですから教会へ通われる方には日本人の祖先の歴史と意識して旧約聖書から今一度読み直していただきたいです。また読み返される時に神の律法の記された箇所では、ミカエルさんが同記事で御指摘されている以下の事項を念頭に読み返してみて下さい。

 

カトリックがその反キリストの筆頭や。偶像礼拝(石や金属等の偶像、マリア崇拝、罪人を聖人列聖して崇拝等)をし、暦をグレゴリオ暦という反聖書的なものに変更し、日曜日という週の第一日目の平日を安息日として休日にし、律法で定められてる現在でも有効である祝祭日(過越祭や除酵祭等)を守らず、復活祭やクリスマスやミサ等といった聖書に書かれてへん異教行事をあたかもキリストと関係あるかのように嘘をついて大々的に長年吹聴し続け、教会に階級制度を導入して権威付けたり、信者から金銭(欧州の一部では教会税がある)を巻き上げて金儲けやしょうもない建物や備品等の維持をしており、かように反聖書的な行いばかりしてるのに、庶民は彼らが悪しき存在と思わずに彼らの信者になって盲従する者が多い。その分派である正教会やプロテスタント等も同じであり、本質的にカトリックと大差無い。

 

日本人の一部が古代イスラエル人の末裔であることについてはミカエルさんの過去記事「

動画八回目投稿 日本はイスラエルである」をご確認お願いします。

 

六、招かれたというだけで選ばれたと勘違いすな

当該聖句「そして、それらの僕たちは各道路に行って、見かけた人は誰でも悪人も善人も皆集めた。それで、食卓で横たわる人たちの婚宴は一杯にされた。」にある通り招かれた者には悪人、善人が混ざってますから、主イエスへの信仰にお招きいただいただけで安心してはいけないことを詳しくご説明下さってます。また「しかし、王が食卓で横たわる人たちを見るために来て、そこに婚礼の衣服を着てへんかった者を見付けた。」の聖句にある衣服の重要性についてもミカエルさんは過去記事にて繰り返し警告して下さってますが、今回の記事でもわかりやすくご説明下さってますからご確認いただき、私たち日本人は日頃何を着用するべきかについても当該記事を切っ掛けに一度真剣にお考えいただければと思います。

さて私は今回の記事から当該聖句「婚礼の衣服」について、日頃私たちが着用する物理的衣服について律法の規定に従わなければ神から追い出されることになると言う警告を意味する聖句であることが学びとなりました。この箇所についての私の理解は、着用する衣服以外、裏の意味が込められた表現ではないかと思っておりました。どの聖句からそのように考えたのかを以下に記します。

 

 

新約聖書 ヨハネの黙示録十九章八節 新共同訳

花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。

 

 

私はこの黙示録の聖句花嫁が着せられた「麻の衣」を「(聖なる者たちの)正しい行い」と説明している点、このことから先の「婚礼の衣服」には裏の意味として「正しい行い」を含ませているように思ってました。王はこの人が「『婚礼の衣服』を着用していない」こと、言い換えますと「『正しい行い』をしていない」ことにより外へ追い出すように御命令されたのではないかと考えてました。マタイで「衣服」と日本語に翻訳されたギリシア語、黙示録で「麻の衣」と新共同訳で日本語翻訳されたギリシア語について今回それぞれ調べてみました。以下の通りでした。

 

黙示録「麻の衣

βύσσινος

ギリシア語の英語訳 fine linen

英語訳の日本語訳 上質な亜麻布

 

マタイ(婚礼の)「衣服

ἔνδυμα

ギリシア語の英語訳 garment

英語訳の日本語訳 衣

 

黙示録の「麻の衣」と日本語訳されているギリシア語は新共同訳の同章十四節では「麻の布」とも翻訳されてました。これらのことから日本語に意訳された「衣」や「布」に「正しい行い」の裏の意味があるのではなく「麻」で織った「亜麻布」に「正しい行い」と言う裏の意味が込められていると理解しました。新約聖書で「linen」と英語翻訳されている箇所、亜麻布に相当するギリシア語が用いられている箇所は限られているようです。旧約聖書では「linen」と英語翻訳されているヘブライ語の単語を記した聖句箇所が沢山見受けられました。それらの中で例えば祭司の衣装に亜麻布を用いられていることが旧約聖書から判りますが、これが世界中で日本にしか存在しない神社、この神社に携わる神官の衣装などにも伝統的に麻が用いられてきた(参考記事「古文献に見られるアサ(おお麻)、神聖なる植物と布=アサの側面」)理由であるのだろう、旧約聖書の名残なのだろうと思いました。次にこの「正しい行い」に相当するギリシア語についても調べてみました。

 

黙示録「正しい行い

δικαίωμα

ギリシア語の英語訳 righteousness

英語訳の日本語訳 正義

 

このギリシア語には単純に正義を意味するだけにとどまらず「法律によって確立されたもの、定められたもの」をも意味することが今回判り、聖書に於いての正当な法とは当然神の律法を意味してますから、「聖なる者たちの正しい行いである。」とは即ち「聖なる者たちの律法遵守の心から出る行いである。」と私は理解します。ここでマタイの「婚礼の衣服」には黙示録で用いられた亜麻布を意味するギリシア語が、何故婚礼の場面にも関わらず同じように用いられなかったのかと疑問に思いましたが、当該聖句からわかるように招かれた者には悪人と善人の区別がないわけですから、悪人の場合は神が御命令されている婚礼の衣服を規定通りに物理的に身に付けていたとしてもそれはあくまでも外側だけ整った状態、見た目だけを満たしている状態で肝心要の中身の行い(品性)は伴っていない状態の者ですから、この「婚礼の衣服」では亜麻布に相当するギリシア語が用いられていないのかなと思いました。また「花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。」の聖句通り「着せられた」わけですから、婚宴の場に招かれた者の中で、服装の規定を遵守していること、かつ、その者の「律法遵守の心から出る行い」の両方、外側と内側が整ったと招かれた者の中で神により認められた者だけに婚宴の場で花嫁の亜麻布をまとわせていただけるのではないかなとも思いました。さてこのことは外観のみを敬虔に見せかけ中身の伴わないファリサイ派について、ミカエルさんが御指摘されている以下の五年前に公開して下さった記事を思い起こさせます。

 

パウロが所属してたファリサイ派とは、福音書から分かるとおり、一世紀当時存在したユダヤ教の一派、かつ主流派であり、エルサレム神殿や祭事等を司った祭司長や長老らもファリサイ派やった。主イエスと激しく対立した人たちの教派でもあり、ヘロデ派も主イエスに敵対心を持ち、ファリサイ派と手を組んだ。ファリサイ派は権力欲や金銭欲等が強く、神から選ばれてへん「世から出た人間」が多く、人間の教えを信奉し、神の掟を捨ててる人たちであったことは明らかや。重ねて言うが、ファリサイ派は律法を擁護することを言いながら、その実は律法を遵守してへんかったし、そのくせ自分たちが神に仕えてると自惚れてる惨めな宗教集団であった。こないなファリサイ派に対する正しい認識が現代のキリスト者には欠けており、ファリサイ派について間違った思い込みを持ち、律法主義という意味も勘違いし、律法を遵守することが律法主義やと間違うた認識を持ち、ファリサイ派が律法を聖書どおりに、主の御意志に沿うように遵守してたと勘違いしてる愚か者が多い。ファリサイ派は律法遵守を周囲に呼び掛けたが、彼ら自身は律法を守ってへんかった。律法を完璧に遵守する主イエスは、そないなファリサイ派の外観のみで中身が伴ってへん事実を指摘し、非難しはったんや。ファリサイ派の人々の心は、神ではなく世俗社会に向いており、生活様式も実に世俗的にも拘らず、外観のみ敬虔に見せることで満足し、金銭欲が強くて社会的地位を保持することに執着し、主イエスの戒めを受け入れずに対立し、主イエスから「白く塗られた墓」(マタイ二十三章二十七節拙訳)と形容された。もっとも、現代のにわかキリスト者どもは、かつてのファリサイ派にも劣り、律法を完全無視するが故に外観すら疎かにし、中身も醜悪やけどな。

引用 真の聖書福音と預言「パウロは偽使徒

 

 

新約聖書 マタイによる福音書 二十三章二十七節二十八節 新共同訳

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている

 

 

婚宴に招かれた者の中で、律法の規定通りに日常の服装を整え、神への愛から律法遵守の心から出る行いにより外側と内側の両方が整った者に対して、主イエスの花嫁として正しい行いの象徴である亜麻布をまとわせていただける、正に「選ばれた者」ということだと思いました。

 

 

七、神に逆らう者は地獄行き

ミカエルさんが最初のブログ記事を書かれたのが九年前の太陽暦二千十七年四月十九日ですが、それから今日に至るまでに当該記事を含め百七十六本ものブログ記事、この他にも公式サイト、動画などを通じて古代イスラエルの末裔である日本人へ向けて「悔い改め」の呼び掛けをしてきて下さいました。もしかしたら今回偶然に手前の記事が目に入りここまでお読みいただきミカエルさんのブログの存在を初めて知った方もおられるかもしれません。この切っ掛けをやり過ごすことなく、ミカエルさんの過去の記事をご確認なさりそこに記されていることと今の日本の状況を照らし合わせてみて、一人でも多くの方が真剣にミカエルさんの呼びかけに向き合ってお考えいただければと切に願います。拙者が何遍も手遅れになる前に悔い改めい、後回しにするな等と言うてるんは聖書にそう書かれてるからや。旧約聖書にも神に聞き従うべきやという警告が幾度も書かれ、ヘブライ三章にも詩編九十五章を引用しながら心を頑なにして反抗するなという旨が書かれてる。更に「今日(当日)」とも書かれ、罪に惑わされて頑なにならないように、神の声(聖書の御言葉)を聞くなら、その当日に受け入れるべきであり、心を頑なにして拒絶したらあかんと書かれてるやろ。「明日からでいい」、「今は忙しいから、後でいい」等と後回しにしてる人は、心を頑なにして拒絶してるのであり、そう言い続けて一向に悔い改めへんであろう。(記事より引用)」

 

 

旧約聖書 詩編 九十五編七節〜十一節 新共同訳

主はわたしたちの神、わたしたちは主の民主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように心を頑にしてはならない。あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。四十年の間、わたしはその世代をいとい心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。わたしは怒り彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。

 

新約聖書 ヘブライ人への手紙 三章七節〜十六節 新共同訳

だから、聖霊がこう言われるとおりです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。荒れ野であなたたちの先祖はわたしを試み、験し、四十年の間わたしの業を見た。だから、わたしは、その時代の者たちに対して憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、わたしの道を認めなかった。』そのため、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』と。」兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。ーーわたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。ーーそれについては、次のように言われています。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」いったいだれが、神の声を聞いたのに、反抗したのか。モーセを指導者としてエジプトを出たすべての者ではなかったか。いったいだれに対して、神は四十年間憤られたのか。罪を犯して、死骸を荒れ野にさらした者に対してではなかったか。いったいだれに対して、御自分の安息にあずからせはしないと、誓われたのか。従わなかった者に対してではなかったか。このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。

 

 

以下の画像はミカエルさんの当該記事投稿欄へ今回初めて御投稿された方へのミカエルさんのご返信です。残された時は非常に限られてますが「遅すぎるというのは今のところ無いからや。」と仰っておられます。

 

 

さて、上記のヘブライ人への手紙に「「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。」の記述があります。主イエスは信仰の一致した兄弟と互いに愛し合うように御命令されました。ブログ記事の無償作成のみならず、ミカエルさんは二千十八年に教会設立、今日に至るまでこちらの教会も無償で管理運営までして下さってます。そちらの詳細も予めよくご確認なさることをお勧めいたします。

 

 

ここまで読んで下さった方、あなたの永遠に関わることです。お勤めされている方は有給を使って、自営業の方や学生、他の方は時間をやりくりされて、真っ先に取り組むべき最優先事項かと思います。

神から与えられた貴重なお時間を割き拙い記事を最後までご確認下さりありがとうございます。