こんにちは。
アメブロ 「真の聖書福音と預言」の記事「神に砕かれるか、神に逆ろうて滅びるか」を拝読しました感想などをこちらで綴らせて頂きます。
記事冒頭のミカエルさんによる正しい底本原語からの聖書日本語訳を以下に引用いたします。
こんにちは。
今回は、神に砕かれるか、神に逆ろうて滅びるかについて述べます。
新約聖書 マタイによる福音書 二十一章三十三節〜四十六節(拙訳)
「別の例えを聞きなはれ。ある人、家主が居って、ぶどう園を建設し、それに垣根を付け、その中に搾り場を掘り、櫓を建て、それを農夫たちに貸して旅に出た。しかし、実の時(実を結ぶ時)が近付いた時、その実を取るために、彼の僕たちを農夫のところに遣った。すると、農夫たちは彼の僕たちを捕まえ、一人を打ちのめし、一人を殺し、一人を石で打った。 再度、最初のよりも多くの別の僕たちを遣ったら、農夫たちは彼らに同様にした。 しかし、最後に、彼の息子を遣って言う、
『(彼らは)我が息子に恥じ入らされるだろう。』
だが、農夫たちはその息子を見て彼らの内で話し合った。
『これは相続人だ。さあ、彼を殺して、彼の相続財産を取ろう。』
そして、彼を捕まえ、ぶどう園の外に追い出して殺した。 それ故、ぶどう園の主人が来たら、この農夫たちに何をするやろか。」
(彼らは)彼(イエス)に言う。
「それらの悪人どもを酷く滅ぼし、それらの時(実を結ぶ時)に実を彼(主人)に納める別の農夫たちにぶどう園を貸すだろう。」
イエスは彼らに言わはる。
「聖書にあるのを一度も読んだことがあらへんのか。『建設者たちが拒絶した石を、これが隅の頭とされた。これは主から生じ、我等の目には驚くべきことや。』 これにより、神の国はあんた方から取り上げられ、王国の実を結ぶ民族に与えられるだろうと、あんた方に言うとく。 そして、この石の上に落ちる者は打ち砕かれるだろう。しかし、(その石が)落ちる者を、その者を粉砕するだろう。」
そして、祭司長たちとファリサイ派は、彼の例えを聞いて、(イエスが)彼らについて言うてると理解した。 また、彼(イエス)を捕らえようとするが、群衆を恐れた。群衆は彼(イエス)を預言者のように思てたからや。
本文の各見出しは以下の通りです。
一、この世の指導者は神に逆らう者ばかり
二、神の預言者は迫害される
三、主イエスは指導者(ファリサイ派等)を恥じ入らせる
四、世の指導者は大いなる罪人
五、世の権威の外に主イエスは居てはる
六、ユダヤ人はもはや選民ではない
七、すべての人間は二種類に分かれる
八、権力者は多数の庶民の支え無くしては存続し得ない
番外、終末に備えよ
聖書に記された終末の兆候が顕著に見られますが、どれ程の方がそのことに気付かれておりますでしょうか。手前の記事がミカエルさんのブログをお読み頂く切っ掛けとなり、一人でも多くの方が聖書をご自分で確認し「悔い改め」の必要性を御理解いただき唯一真の神で救い主であられる主イエス・キリストへ立ち返る切っ掛けとなることを切に願っております。
一、この世の指導者は神に逆らう者ばかり
今回の主イエスの例え話の登場人物は家主、農夫たち、家主の僕たち、家主の息子です。ぶどう園を建設し諸々の整備をしたのが父なる神、農夫たちは為政者や指導者たちで一世紀当時に於いては、ユダヤ教の祭司長、長老、ファリサイ派等のこの世の指導者を指し、僕たちは神が遣わされた預言者たち、息子が主イエスと御説明下さってます。「この世の指導者は神から良い収穫をすることを期待されて貸し付けられてる分際に過ぎひん。せやのに、この世の指導者どもは、その分際を弁えず、使命を忘れ、あたかも自分たちが所有者であるかのように傲岸不遜に振る舞い、権威と支配権を持ってるかのように装い、この天地と世にある人や物等すべてが自分らの支配下にあると酷い勘違いをしてる。(記事より引用)」とミカエルさんは御指摘され、このことについて皆さまはどう思われるでしょうか。支配者の振る舞いについてはなるほどとは思っても、聖書をご存知ない方、義務教育や世から教え込まれた単なる仮説のビッグバン理論を事実と思い込んでいる日本人は「この天地と世にある人や物等すべて」については誰の所有でもないとお考えになる方も多いのではないかと思いました。しかしながら、論理的矛盾のない、首尾一貫した、唯一の真理である神の御言葉が収められた聖書には以下のように記されております。
旧約聖書 出エジプト記 九章二十七節〜二十九節(新共同訳)
ファラオは人を遣わし、モーセとアロンを呼び寄せて言った。「今度ばかりはわたしが間違っていた。正しいのは主であり、悪いのはわたしとわたしの民である。主に祈願してくれ。恐ろしい雷と雹はもうたくさんだ。あなたたちを去らせよう。これ以上ここにとどまることはない。」モーセは言った。「町を出たら、早速両手を広げて主に祈りましょう。雷はやみ、雹はもう降らないでしょう。あなたはこうして、大地が主のものであることを知るでしょう。
旧約聖書 出エジプト記 二十章十一節(新共同訳)
六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
旧約聖書 申命記十章十四節(新共同訳)
見よ、天とその天の天も、地と地にあるすべてのものも、あなたの神、主のものである。
旧約聖書 詩編 二十四編一節、二節(新共同訳)
地とそこに満ちるもの世界とそこに住むものは、主のもの。主は、大海の上に地の基を置き潮の流れの上に世界を築かれた。
この世でも作られたものが作った人の所有物であるように、上記聖句から、この世は偶然発生したのではなく、万物の創造主がおられてこの唯一真の神が全てのものをお造りになられましたから、造られたものすべてはそれらを創造された方のもの、所有であることをお分かり頂けると思います。理屈は理解してもそもそも聖書が信頼出来るかどうかに疑問をお持ちの方はミカエルさんの「動画七回目投稿 何故聖書を信じるか」の動画をご覧下さい。先の指導者と同様に大きな勘違いをしていた古代のある支配者が、神こそがこの世の全ての支配者であられると気付かされた出来事が旧約聖書ダニエル書四章に記録されてます。以下同章から抜粋でご紹介しますが、短いですから是非四章を最初の一節から最後まで読んでみて下さい。
旧約聖書 ダニエル書 四章三十一節〜三十三節(新共同訳)
その時が過ぎて、わたしネブカドネツァルは目を上げて天を仰ぐと、理性が戻って来た。わたしはいと高き神をたたえ、永遠に生きるお方をほめたたえた。その支配は永遠に続きその国は代々に及ぶ。すべて地に住む者は無に等しい。天の軍勢をも地に住む者をも御旨のままにされる。その手を押さえて何をするのかと言いうる者はだれもいない。言い終わると、理性がわたしに戻った。栄光と輝きは再びわたしに与えられて、王国の威光となった。貴族や側近もわたしのもとに戻って来た。こうしてわたしは王国に復帰し、わたしの威光は増し加わった。それゆえ、わたしネブカドネツァルは天の王をほめたたえ、あがめ、賛美する。その御業はまこと、その道は正しく、驕る者を倒される。
全文はこちら 旧約聖書 ダニエル書四章 新共同訳
これら数々の旧約聖書に記された聖句、聖書に記録された出来事を一世紀当時の指導者であるユダヤ教の祭司長、長老、ファリサイ派は当然知っている筈ですが、聖書を知っていることと記された聖句を理解出来るかどうか、これは全く別であることがわかります。現代に生きる私たちも、全ての人間は神による被造物と言う事実を知り、この世全てが万物の創造主のものであると理解し直すこと、これまでの誤っているこの世についての認識を改める必要があります。
二、神の預言者は迫害される
「この世の指導者は、神の僕たる預言者を捕まえ、暴行したり、殺す。(記事より引用)」と御指摘されてます。聖書をご存知ない方、特に性善説を肯定している日本人に於いては、神の僕たる預言者が良いこと、正しいことを伝えて何故に暴行されたり、殺されたりするのかと、このご指摘について疑問に思ったり驚かれるかもしれません。史実でもある聖書を確認すれば繰り返されてきた歴史的事実で明白ですが、これは論理的に考えてもそうならざるを得ないと言う結論が得られると思います。新約聖書ヨハネの手紙一 五章十九節「この世全体が悪い者の中にある(引用「正しい者はこの世から排斥される」)」のがこの世の現実でこの構造をミカエルさんがわかりやすく絵図で示して下さったのが下記の画像(元画像に手前の加工有り)です。パッと見て終えるのではなく、一つひとつ丁寧に読んでご確認いただけますように。
画像引用 エリヤを信じひんのなら滅びる
嘘は嘘であり事実は事実であり、時を経たところで両者が一致に至ることも決してありません。同様にこの世のあらゆる悪と唯一真の神の義とは決して相容れないもの、身近なもので例えるならば水と油のような関係で、撹拌して一時的に混ざったように見えても必ず分離するものです。この絵図のような悪のピラミッド構造の中に神の預言者が起こされて神の義を述べ伝えるのですから、悪で支配する者も、その悪に騙され悪の支配下にあることを知らずに当たり前に受け入れ従い自らその悪に染まっている者も(悪に染まっている意識はなくても従っているならば論理的に悪という結論となり神の視点からはそれが事実)、預言者が神の義の御言葉を伝えることにより自分が悪の状態であることを気付かされるわけです。これにより自分の悪を素直に認めて悔やみ、これまでの悪い心と悪い行いを改めよう思う者以外にとっては彼ら預言者はまことに都合の悪い存在故に疎まれるようになり、嫌われ、迫害、最悪殺されると言うことになります。そしてこれは神の御言葉を伝えた預言者のみならず、預言者の諭しを聞き入れて従う者も同じ境遇にならざるを得ないと言う結論へ至ります。また主イエスの以下の御言葉からもそのようになることがわかります。
新約聖書 ヨハネによる福音書 十五章十八節〜二十一節(新共同訳)
「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。
手前の記事を切っ掛けにミカエルさんのブログをお読み頂き心に響いた方は、以下の聖句も踏まえて、速やかに聖書(新約聖書パウロ書簡を除く)をご確認頂きたく存じます。
旧約聖書 出エジプト記 七章三節、四節(新共同訳)
しかし、わたしはファラオの心をかたくなにするので、わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、ファラオはあなたたちの言うことを聞かない。わたしはエジプトに手を下し、大いなる審判によって、わたしの部隊、わたしの民イスラエルの人々をエジプトの国から導き出す。
初めのうちはファラオの意思によりモーセ、アロンに聞き従うことを拒否していました。しかし最終的にはファラオは神によって聞き従うことが出来ない状態にされてしまったことがこの聖句とここに関わる箇所全体を読むと確認することができます。同じようなことがあなたに起こらないとも限りません。また聖書には以下の記述もあります。聖書の御言葉は全て大事ですが特に大事で人へ意識させたい事柄については繰り返される特徴があります。
新約聖書 ヘブライ人への手紙 三章七節〜八節、十五節(新共同訳)
だから、聖霊がこう言われるとおりです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。
「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。」
また、世の諸教会に関わってしまい、その耳障りの良い数々の嘘偽りの教義に触れてそれを信じてしまった方は、私の経験上、そこ(パウロ教)から抜け出すことが非常に困難となる印象がとても強いです。抜け出せないばかりでなく酷い場合はミカエルさんに対して根も葉もなく、正当な根拠もなく、嘘偽りをでっち上げて誹謗中傷するようにさえなってしまいます。第三者的立場の方も誹謗中傷について以下の画像通り「パウロ教信者が悪どい誹謗中傷をしている」と証言されてます。
画像引用 https://x.com/o_kuro_riku/status/1996654089154056612
ミカエルさんは真の聖書真理を伝道されておられる故、そのような誹謗中傷行為は、主なる神、主イエスへ敵対することになってしまうと言い換えることができます。
三、主イエスは指導者(ファリサイ派等)を恥じ入らせる
マタイによる福音書二十一章三十七節の聖句を新共同訳では「そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。」と翻訳されてますがこれに対してミカエルさんは「しかし、最後に、彼の息子を遣って言う、『(彼らは)我が息子に恥じ入らされるだろう。』」と全く異なる翻訳をされてます。その根拠についてもミカエルさんが記事本文でわかりやすく説明して下さってます。なお市販の日本語訳聖書は底本選択がそもそも誤っていることもミカエルさんが過去記事にてご指摘済み。また聖書の正しい底本を選択している英語訳の欽定訳聖書でも同箇所でどのように英語へ翻訳されているのか確認したところ「But last of all he sent unto them his son, saying, They will reverence my son.(「しかし最後に、彼は彼らに自分の息子を送って言った。『彼らは私の息子を敬うだろう。』」DeepL自動翻訳より)」と言う、日本語訳同様に間違った英語訳と言う有様でした。これらのようなことから、この終わりの時代に於いて、正しい底本を選ばれて聖書研究されてらっしゃること、底本原語に忠実で文脈も考慮して正しく日本語へ翻訳され、世の物事(出来事)も踏まえて、聖書真理を正しく伝道しておられる方は太陽暦二千十七年から福音伝道を開始されて今日に至るまでその内容が首尾一貫しておられるミカエルさん以外にいらっしゃらないです。またそれらを証しされておられるのがミカエルさんの教会に所属される兄弟方です。以下の画像、私が赤枠で囲った記述、パウロ教の方の御投稿をご覧ください。
画像引用 https://x.com/tadaima_group/status/1950544640282894561
真理は一つです。故にミカエルさんとミカエルさんの兄弟方の足並みが揃う、一致なさることは至極当然のことです。この一致こそはあかしです。むしろバラバラの状態で揃っていないのであれば、その集まり(教会)には真理などあろう筈がありません。そのことは以下の聖句からもわかることです。
新約聖書 ヨハネによる福音書 十七章二十一節〜二十三節(新共同訳)
父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。
新約聖書 ヨハネによる福音書 十五章二十六節〜二十七節(新共同訳)
わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。
聖書の翻訳については「動画四回目投稿 現代語訳聖書の翻訳は間違いが多い 前編」と続く後編のご確認も推奨します。
四、世の指導者は大いなる罪人
世の指導者としてウィキペディアでは「世界各国の指導者一覧」にて各国の元首と政府の長を一覧にして紹介してますが、先に引用のミカエルさんが作成された世界のピラミッド構造の絵図が世の現実で各国の元首や政府の長よりも更に上位が存在しその頂点が教皇になります。この詳細についてはミカエルさんの記事をご確認下さい。また、世界のピラミッド構造の頂点が誰であるのかを考えるように記しているのが新約聖書ヨハネの黙示録十三章十八節「ここに知恵がある。悟りある者に獣の数字を計算させよ。それは人間の数字だからである。そして、その数字は六百六十六である。(引用「マイナンバー制度は国民家畜化計画の始まり、そして今後のこと」)」ですが、この六百六十六のことは既に七年も前の過去記事「神の刻印、獣の刻印と黙示録の獣」にて解説して下さってます。
さてミカエルさんが記事にて御指摘の通り、世間では「ペトロ (ヘブライ語: שִׁמְעוֹן בַּר־יוֹנָה[1]、古代ギリシア語: Πέτρος[2]、古典ラテン語:Petrus)(生年不明 - 67年?)は、新約聖書に登場する人物で、イエス・キリストに従った使徒の一人。初代ローマ教皇とされる。(https://w.wiki/GQpiより)」の下線の箇所の嘘が真実かのように広められ受け入れられてます。またペトロはローマ皇帝ネロにより殺されたと言う俗説やペトロの逆さ十字架刑の理由についてカトリックが伝える俗説いずれもが嘘であることをミカエルさんが外典をもとに今回ご説明して下さり、以下はペトロが逆さ十字架刑に至る御説明の部分を記事からの引用になります。ペトロが言い掛かりによる処刑から免れるためにローマを去ろうとしたところの場面です。
ペトロは諫言を聞き入れて一人でローマから去ろうとした。しかし、その途上、ペトロは、ローマから出る門を通り過ぎようとした時、すれ違うように、主イエスがローマへと向かって行くのを見た。これは有名な「主よ、何処へ行きはるんか。」と問うた話や。主イエスは、「再び十字架に架けられるためにローマへ。」と言わはって天に昇って行きはったという。それから、ペトロは我に帰り、人間的な思いに囚われて主の御意志を問おうとしなかったことを反省し、先の事は自分がそうなるんやと悟り、ローマに戻った。戻って来たペトロを見た信仰の兄弟たちは、ペトロが捕まって処刑されると思い、悲しみ、「我等のような信仰に入って日が浅い者らのことも考えてください。」と言うて、ペトロが亡命することを望んだ。ペトロは、彼らに「たとえ我等が望まなくても、それが主の御意志ならそれは起こる。主が我を肉を持って生かしておこうとお思いの間は、それに逆らわへん。せやけど、もし我を取り去ろうというおつもりなら、我には大いなる喜びや。」と言うて理解を促した。そして、間も無く兵士たちが来てペトロは逮捕され、逆さ十字架刑で処刑された。これもカトリックによる俗説では、「ペトロは、主と同じ体勢では畏れ多いから逆にした」、「謙虚さの象徴」等と誤った理由を言うてるが、そうやなかった。ペトロは、この世の有様や人間の在り方や考え方等が世の創始の頃とはまったく真逆のように悪くなった事(それ故に、世俗から脱却して改めるべき事)、それらを身を以て示すために逆さの格好にするようにペトロが刑の執行者に頼んだという。
私は上記を拝読して以下のペトロの思いが綴られた手紙の箇所を思い出しました。
新約聖書 ペテロの手紙二 一章十四節、十五節(新共同訳)
わたしたちの主イエス・キリストが示してくださったように、自分がこの仮の宿を間もなく離れなければならないことを、わたしはよく承知しているからです。自分が世を去った後もあなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます。
下線部の十四節はローマの門で主イエスとすれ違った時のこと、我に返り主の御意志を問わなかったことを反省して悟った時のことを指して、それらを思い出しながら綴られているように私には思われました。そして逆さ十字架刑を執行者へ頼んだ時の思いは、ミカエルさんが記事で御説明下さっている思いと共に、赤字の十五節「絶えず思い出してもらうように、わたしは努めます。」の思い、ペトロと同じように自分の命をかけて主イエスに従う道を選んだ者たちへのとても深い思いも込められているのではと私には感じられ、語彙力に乏しい私には適切な言葉を選んで表現できないのですが、ただとても泣けてきて仕方ありません。ペトロの「あなたがたにこれらのことを絶えず思い出してもらう」のこれらのこととは以下の内容を思い出すように伝えていると考えます。
新約聖書 ペテロの手紙二 一章五節〜八節(新共同訳)
だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、わたしたちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。
上記赤字の聖句についてはアメブロ「真理は聖書にある」の記事「心に言葉が根付くには」にて著者の栄助さんがとても丁寧に考察して下さってますので是非ご覧下さい。
記事からの先の引用の後に「この世で超少数派で苦しい思いをしてる神の律法を守る真のキリスト者のみが後で逆転する。ペトロも主イエスから教えを受け、この世と後の世での有様は逆転すると知ってた。(記事より引用)」とミカエルさんが書かれており、私は主イエスの以下の御言葉を思い出します。
新約聖書 ヨハネによる福音書 十六章三十三節(新共同訳)
あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。
神の御計画、御意志は必ずなされます。ミカエルさんのこの度の記事から、主イエスから初代イスラエル教会の礎とされた使徒ペトロのような方でさえも世を去ることになる少し前に於いても「人間的な思いに囚われて主の御意志を問おうとしなかった」と反省されるような場面があったことを知ることができました。また主イエスの十字架の贖いには、人がその人にとって最も過酷な状況の中においても自分を捨てて主なる神の御心に従順に従うことが可能であることをもお示し下さったのだと、ミカエルさんの過去記事「ゲツセマネの祈り」から学ばせて頂いた次第です。ヘブライ人への手紙には以下のような聖句が記されてます。
新約聖書 ヘブライ人への手紙十二章一節〜四節(新共同訳)
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。
新約聖書 マタイによる福音書十章二十二節(「日本人の問題点 五」より引用)
我が名の故に、あんた方はすべての人に嫌われるだろうが、最期まで耐え忍ぶ者は救われるだろう。
五、世の権威の外に主イエスは居てはる
こちらでは聖句にある「隅の頭」についての解説があります。この「隅」と言う日本語訳について私の理解はなんとなくはわかるけれどハッキリとはしないと言う状態にありました。しかしミカエルさんの御説明で「世の真ん中」に対して注目を集めることがないことからの「隅」と言う表現であることが今回分かった次第です。このような私の聖書理解の中でなんとなくわかるけれど上手く自分で説明するところまでできない、ぼんやりしている理解の箇所を、ミカエルさんの記事がいつも明確にして下さって聖書の真理を正しく理解することができてます。
この「隅」と言う聖句から新約聖書マタイによる福音書六章に記された主イエスの教えを私は思い出す次第です。どんな内容かなと思われた方は是非同章をお読みになってみて下さい。
六、ユダヤ人はもはや選民ではない
「ユダヤ人に見込み無しと主イエスが見限り、異邦人に機会を与えはった。一世紀以後は、神は、特定の民族に拘るのをやめてるのであり、きちんと聖書にある教えを守り、きちんとそれに従って生きて、実を結ぶという結果や成果を出す人を神の王国に採用しはる。(記事より引用)」この救いの機会が異邦人にも与えられるという点については、世の諸教会、今日キリスト教と呼ばれ正しくはその中身がパウロ教ですが、彼らも同様の認識で、彼らパウロ教の間で支持されている偽福音の一つに「艱難期前携挙」があります。その内容を簡単に書くと終末期には凄まじい艱難がやって来ますが主イエスを信じさえすればこの艱難に遭う前に天へ引き上げられ艱難から逃れることが出来る、艱難をくぐり抜けなければならないならないのがこの艱難期にやっと目を覚ますかつての選民の子孫という内容です。仮に百歩譲って艱難期前に主イエスの御名だけを信じた異邦人が携挙されるにしても、日本人はこの異邦人には該当しません。このかつての選民の子孫とは、世界中で間違って認識されている白人の自称ユダヤ人ではありません。旧約聖書の古代イスラエル、古代ユダヤは白人ではなく亜細亜人であって、日本人の一部にこそ古代イスラエル、古代ユダヤの子孫が残っています。そのことをミカエルさんの今回の記事や過去記事「動画八回目投稿 日本はイスラエルである」などでご確認下さい。また、携挙については正しい理解のためにミカエルさんの「携挙の真実」を確認なさることを強く推奨します。
七、すべての人間は二種類に分かれる
世間では二元論が短絡的、浅はか、危険な考え方だなど、あたかも愚かな考え方であるかのように思い込まされていると感じます。しかしながら物事について判断を下す必要がある場合はその物事が自分にとって重要なことであればあるほど判断を下すにあたり、それに関わる事柄からは曖昧さを排除して白黒ハッキリさせてから判断を下すものではないかと思います。ここで言う「すべての人間は二種類に分かれる」とはどんな基準で分かれるのか、全ての方に関わること、決して無関係ではいられないことなので記事をご確認なさってみて下さい。
八、権力者は多数の庶民の支え無くしては存続し得ない
同記事をご確認頂ければ権力者に権力があるのは庶民が支持して従うが故であることを理解出来ます。権力者が善人であることは殆どなく歴史も振り返れば腐敗しているのが世の常であり、この権力の座にいる悪人に特権を与えてしまえばナチスのような世界を招くことになってしまいます。多数派の庶民が支持せず、従うことも一切しなければ権力者は支配することは出来なくなります。周囲の様子を伺い周囲が従っているからと調子を合わせ続ける、周囲が従う態度をやめたら自分もやめると言うようでは、いつまで経っても世の中は好転しようがありません。腐敗している権力者へ従うことを止める不服従が如何に重要であるかをミカエルさんが教えて下さってます。
番外、終末に備えよ
番外をご確認いただいて日本の危機的状況についてよくよくお考えいただきたく思います。ミカエルさんの記事を最初から最後までご確認いただければ滅びには「二種類」あることもお分かりいただけるものと思います。備え方が全く異なる二種類の滅び。一人でも多くの方が現実逃避することなく真剣に向き合われて適切な備え、選ぶべき選択肢、滅びからまぬかれる唯一真の道を選ばれることを切に願っております。
貴重なお時間を割いて拙い記事に最後までお付き合い頂きましてありがとうございます。


